湿気
雨上がりの少し湿っぽい空気が辺りに漂っている。何処からともなく流れ込んだ風が、ひび割れから生えた植物の葉を揺らし、足音だけの空間に新しい音を響かせた。
階段を降り一階へ向う。薄暗く少し肌寒いが、決して嫌なものではない。壁を這い回る蔦や、窓から飛び出した木々は、私の好奇心のようなものを刺激する。探検家になった気分だ。
所々に出来た水溜りを避けながら廊下を散策していると、川のせせらぎがかすかに聞こえてきた。せせらぎと言っても、ここは決して青々とした森の中でも、草花が広がる河川敷でもない。ひび割れたコンクリートばかりが目につく、とても居心地の良い朽ち果てた廃校舎だった。
先に進むと直ぐに川を見つけた。人のいない教室から廊下の壁があった場所を通り抜け、中庭を横切るように向かいの校舎へと流れている。頭にぽたりと水滴を感じ上を見上げると、教室の天井にポッカリと穴が空いていた。昨晩から降り続いた雨が、穴の縁からポタポタと下の階へ落ち、いつしか一階には小さな川が出来ていたようだ。穴のはるか先に広がる灰の混じった斑な青空は、この薄暗くじめっとした教室には少し釣り合わない。ただ、それも今日までだろう。
「ようやく晴れたわねー」
川の音に混じって、透き通った綺麗な声が話しかけてきた。そよ風のような、木々のざわめきのような、視界の端で揺れる雑草のような、意識しないと耳を通り過ぎてしまう無色透明の声は、窓辺から外を眺めながら辟易とした口調でつぶやいた。
「暑くなりそう」
「今年は冷夏らしい」
「そりゃうれしいこった」
彼女はわざとらしく喜ぶと、ふわりと宙を舞って私の頭の上に座った。人の頭の上だというのに彼女は足をぶらつかせ、そのたびに額に踵が当たり、痛くはないがとても鬱陶しい。言ってもやめることはないだろう。彼女も、私が諦めることを承知の上でぶらつかせているのだ。今からでもこの図々しい妖精様を取り替えたいが、生憎彼女は見た目だけはお美しい。とてもじゃないが、羽を毟り取って川へ投げ捨てるなんて愚かな行為は、私には出来ない。
「ねえねえ。湖見に行くわよ」
「嫌だ」
「ずっと屋内にいると体がなまっちゃうわ〜。ほら!しゅっぱーつ!」
「らじゃー」
まあ、悪くはないから良しとしよう。
妖精様を頭の上に乗せたまま、廃墟の隙間を縫うように進む。長く降り続いた雨は街を雨水で満たし、見ようによっては水の都、いや水の廃都市とも言えなくはない。見慣れた灰と緑ばかりだった景色が、少しだけ真新しいものに感じ、頭の上の妖精様も大変うれしそうだ。
「もうそろそろね」
「分かるのか?」
「妖精だもの」
その素晴らしい妖精様が言うには、この先に大きな湖があるらしい。どうしても見たいとのことで、私は普段なら絶対に歩かないであろう壁に囲まれた窮屈な路地を、嫌々仕方なく進んでいた。道の脇には無数の瓦礫が積み重なり、ただでさえ狭いにも関わらず、挙句の果てに妖精様が顔の周りを、夏夜の蚊のように飛び回る。内心苛立ってはいたが、足元をひんやり冷たい雨水が流れていたせいか、叩き落とすようなことはことはしなかった。
ちょうど昼頃だろうか。路地から見上げた空は、雨の気配など遠の昔に風に流され、青に浮かぶ白い雲だけが右から左へと漂っている。少し気温も上がったようで、たまに通り抜ける風がいつにも増して心地よい。立ち止まって少し休憩をしていると、前を飛んでいた彼女がうれしそうに戻ってきた。湖はすぐそこだ。
「すっごいわよ」
「走ろう」
瓦礫の上を駆ける。全身に風を受け、汗が重量に逆らって後ろへ飛ばされる。路地の先に見える光が、私の体を握りしめ力強く引っ張っている。一歩進むたびに体が軽くなり、苦しさを置き去りにして走り続ける。たまにする全力疾走は、どうしてこうも気持ちいいのか。あっという間に路地を抜け、私は眩しさで足を止めた。
頭の中で心臓が鼓動している。呼吸が徐々に落ち着き、目が光に慣れてきた。同時に温気が体の芯から迫り上がり、今まで忘れていたかのように汗が吹き出している。
「ふう……あっつ」
「そこはわーとかすげーとか言うとこでしょ」
目の前に広がる湖はどうでもいい。穴に水が溜まっているだけだ。そう、冷たくて気持ちいい水が溜まっているだけなのだ。
私は重くなった服を脱ぎ捨てる。スボンもパンツも靴も靴下も、殺す勢いで放り投げた。とにかく暑い。足元のアスファルトからじんわりと熱気を感じ、額や首元を伝う汗が思わず私の足を湖に向かって歩かせる。が、その前に準備体操を忘れてはいけない。
「足は念入りにね。私も羽を外してっと」
「私が預かっておこう」
「ありがとう助かるわ」
手の指の先から足の指の先までしっかりとストレッチを行う。筋肉が刺激されて体温が上がり、肌に汗が浮かんでは滴り落ちる。今すぐにでも飛び込みたい気持ちを寸前のとこで抑え、最後に深呼吸をゆっくりと、一旦気持ちを落ち着かせるように行う。
「先に向こう岸に着いたほうが勝ちね」
「私は幼少期、人力ジェットスキーと呼ばれていた」
「森のカジキマグロとは私のことよ!」
「それは少し違うのでは?」
「はいよーいどん!」
妖精が飛び込んだ。私も後を追おうとして、寸前で足を止めた。
大きな湖だ。鏡のように空を映している。本当にもう一つの世界があるような、いやそんなわけがない。
私は息止める。頭から入るか?足から入るか?足付くか?鼻に水入らないか?溺れないか?そんな不安が一斉に頭を駆け巡るがもう遅い。
私はすでにとん―――