9話 少年は柴犬会議をはじめる
その日の散歩は、前日のような事件もなく、つつがなく進んだ。怪獣も、自警団も、捨て犬も、カメラを持った変わり者も現れなかったのである。
愛犬たちが用を足すのを見ながら、やはり出産とウンチは別物だとケンジは改めて思った。子供はウンチほど簡単に出てこない。
早く親子のところに戻りたい逸る気持ちを抑えて、四十分の散歩を完遂し、犬たちに朝のご飯を与えて羽鳥家に戻ると、二頭目の子犬が産まれていた。
結局、最初の一頭から五時間かけて、計四頭の子犬が生まれた。毛色は白・黒・明るい茶色に暗い茶色と、実に見分けのつきやすい子犬たちだった。
母犬のおっぱいを吸ったり、眠ったり、ファンファンと甲高い声をあげながら這ってみたり、子犬たちの様子はずっと見ていても飽きないものだったが、静かに過ごさせてやろうと、一堂は隣室へ引っ込んだ。
美月の用意してくれた紅茶とクッキーを口にしながら、思い思いに感想を口にする。柴犬親子の出産劇に朝から一喜一憂していた風花は、さすがに疲れてしまったのか、クッキーを片手に持ったまま、船をこぎ始めた。
そんな風花が布団に運ばれると、今後のことについて話が始まった。成り行きで保護し、羽鳥家に預けられた柴犬親子をどうするかである。
最初にこの母犬を『サクラ』と呼ぶことに決まった。名前がないと話題にもしづらいという理由からだ。
サクラ親子は引き続き、羽鳥家が預かることになった。
一日経っていくらか警戒心が薄れたとはいえ、サクラが周囲の人間や犬たちに心を許したわけではなかった。特にケンジに対しては、過敏に反応して近づけば唸り声をあげる始末だ。サクラは男性を嫌っているらしい。
しかし、いつまでも親子を預かり続けるのは現実的ではなかった。犬を飼うには手間もお金も必要なのだ。働きながら幼い風花を一人で育てている美月に、五頭もの柴犬たちを養育するのは酷な話であり、一時の感情だけで飼うというのは無責任といえた。
そこでサクラの飼い主を探す話が出た。
これにはケンジが反対した。犬を捨てた人間に再び親子を託すなどあり得ないと考えたのだ。とても幸せになるとは思えない。しかし――
「ケンジ君、飼い主さんは今頃、後悔しているかもしれないよ? どうして手放してしまったんだろうって。サクラはこんなに綺麗でいい子なんだから、捨てられる直前まできっと大事にされていたんだよ」
「ケンちゃん。サクラは捨てられたんじゃなくて迷子だったのかもしれないよ。公園につないだのが飼い主さんとは限らないじゃない」
「んー。どっかの誰かにサクラや子犬を引き取ってもらうにしてもさ、勝手に進めるのはどうかと思うよー。後でその飼い主だっけ? それが見つかったら問題になるんじゃない?」
美月・多恵・翔子それぞれの考えを聞いて、ケンジは『飼い主を探すこと』に渋々同意した。
まず警察と保健所にサクラを保護していることを伝え、飼い主から問い合わせがあれば、羽鳥家に連絡をもらえるようにした。さらに迷い犬を保護していると書いたポスターを作成して、サクラを発見した公園などいくつかの場所に貼って回ることになった。
もしも自分が大人だったら、柴犬親子を手放すことなくすべて引き取ることができたんだろうか? ポスターを作りながらケンジは考えた。
しかし美月のようにしっかりした大人でも、状況がそれを許さないこともある。年齢だけで解決する問題ではなかった。
夕方になり、ベランダにやってきたマロたちの散歩催促がはじまった。
「わかった、わかった。さ・ん・ぽに行くか!」
ケンジの言葉にマロは嬉しそうに反応すると、羽鳥家のベランダの隙間を通って自室に帰っていった。散歩用のリードは玄関に置いたままのため、散歩は必ず自室から始まるものだと理解しているのだ。白柴フジもわきまえたもので、自室に戻るとケンジが迎えに来るのを待つ態勢に入った。
そこまではいつも通り。見慣れた柴犬たちの反応だった。しかしもう一匹、赤柴サクラが「さんぽ」という言葉を聞いてから、急にそわそわし始めたのだ。
「サクラも行きたいみたいだね。そういえばこの子、昨日からトイレを使ってないのよね」
美月の言葉通り、急きょつくられた簡易トイレは未使用のままだった。どこかでこっそり済ませた様子もない。
「こいつもマロたちと同じで、家の中じゃおしっこもウンチもしたくないのかな?」
寝床やその近くを汚そうとしない犬はいる。日本犬はその傾向が強かった。
「ずっと我慢してたなら可哀想なことをしたな。一緒に連れていくか」
「でも、他の犬と一緒でだいじょうぶ? ケンカしない?」
美月の疑問はもっともである。それに元気よく答えたのは翔子だった。
「私がサクラのリードを持つよ! それなら解決でしょ?」
ケンジは顔を曇らせた。姫路翔子は嫌な提案を効果的にしてくる。美月と多恵も外出を心配したが、もともと帰宅するためにはマンションを出るしかない翔子だったから、強く止めることができなかった。
こうしてその日から毎日朝晩、ケンジと翔子、三匹の柴犬たちの散歩が始まったのである。
10話 少女は散歩動画を公開する …に続く。