8話 少年は柴犬の出産を見届ける
赤柴に変化が現れたのは、翌日の早朝だった。
美月から電話を受けてケンジが羽鳥家を訪ねると、昨日のメンバーがそろっていた。
「姫路翔子だっけ? なんで今日もいるんだ?」
「美月さんに連絡もらったから。東原くんも連絡先を交換する? 私のことは姫路でいいよ!」
ケンジは朝から疲れるのを感じながら、赤柴に視線を移した。寝床として提供された押し入れの中を、落ち着きなくウロウロとまわっていた。
「体がすこし出てきてるよ!」
翔子の指摘に股間のあたりを注視すると、羊膜に包まれた赤ん坊がわずかに姿を見せている。
「なんかウンチみたいだな」
「ちょっと何言ってるの!?」
思わず口に出してしまったケンジに、信じられないという表情で翔子がツッコむ。
出産は尊いものというイメージがあったが、股間からはみ出したそれは丸っこくてテラテラと光り、犬には見えなかったし、立ったまま排出場所を探す母犬の様子は、ウンチをする前にくるくると方向を変える犬のそれに似ていた。そう感じてしまったのだから仕方ない。
痛みもあるのだろうか、母犬は苦しげに小さな声を漏らし続けている。痛々しさと生々しさをこそ強く感じるのだった。
「ばあちゃん、なにかしてやらなくていいの?」
「離れて見ててやろう。大勢で囲んでいたら、この子も落ち着かないだろうからね」
それでも何かできないかと、ケンジが言葉を続けようとしたところ、美月が口を挟んだ。
「子供を産むのは母親だけの仕事だからね。せめて栄養のあるご飯を用意してあげよう」
この場で唯一の母親で、女手一つで四歳になる娘を育てている美月の言葉は重かった。
母犬の餌は黒柴マロと同じドッグフードを使っていた。特別な日に与えるため買い置きしておいた『七百円の犬用高級缶詰』を、この母犬にあけてやろうとケンジは思った。
そうしているちに、母犬は腰を下ろすと、甲高い声をあげはじめた。座ったまま力んでいるのがわかる。
「わんちゃん、がんばれー」
風花が応援をはじめると、美月もその肩を抱いて娘に声を重ねた。風花の空いている手がケンジの手を握ってきた。ケンジも優しく握り返すとささやくような声で母犬にエールを送った。
ひときわ大きく母犬が鳴いた後、にゅるんっと赤ん坊の全身が出てきた。
「あかちゃん、でてきた!」
「出てきたねぇ。頑張ったねぇ」
「動いてる! ちゃんと赤ちゃん、動いてるよ」
風花・美月・翔子が手を握り合って、喜びの声をあげる。
膜に包まれたままの赤ん坊は、しきりにその中で体を伸縮させていた。本当に生きたまま生まれてくるのか、不安を拭えずにいたケンジは大きく息をはいた。ここまではうまくいったようだ。けれどここからは……?
まだ赤ん坊は羊膜に包まれたままだったし、へその緒も繋がっている。出産と同時にあふれた液体が母犬のすわるスーツをぐっしょりと濡らしていた。
ケンジたちが不安そうな視線を向け続ける中、母犬は赤ん坊と自分をつなぐ『へその緒』を苦労しながら噛み切った。そして赤ん坊を包む膜を引っ張るようにはぎ取っていくと、そのまま飲み込んでしまった。
「あれ、食べるんだ…」
翔子のつぶやく声が聞こえた。ケンジも同じことを思っていた。
膜がとれると、赤ん坊の濡れた体が姿を現した。毛がべったりと体に貼りつき、ムゥムゥとくぐもった鳴き声を出している。ひどくか弱いその姿は、すぐに呼吸を止めてしまうんじゃないかとハラハラした。
そんな人間たちの心配など気にする様子もなく、母犬は子犬だけを見つめ、甲斐甲斐しくその体を舐めていた。やがて子犬の声に変化が現れた。最初はただ空気の漏れる物音にしか聞こえなかった声が、甲高い犬の鳴き声に変わり始めたのである。
目の前で、赤ん坊は新しい世界に順応しつつあり、そのフォローすべてを母犬一匹が行っていた。
ケンジはただただ圧倒された。これが出産か。
「ウンチじゃなかった…」
ようやく安心して見ていられるとケンジが思ったのも束の間、母犬は再び出産の態勢に入っていた。母犬のお腹には、まだ子供が残っているらしい。
その時、背後から「ワン!」と犬の鳴く声がした。振り向けば羽鳥家のベランダ、網戸の向こうに黒柴マロと白柴フジがちょこんと座って、ケンジたちを見つめていた。それぞれの部屋のベランダから侵入してきたらしい。
各家庭のベランダは避難用の扉で仕切られていたが、二十センチメートルほどの隙間が下にあいていて、柴犬たちはその気になれば行き来可能だった。板でふさごうと話にあがったが、隣家の犬たちが訪ねてくるのを羽鳥親子が楽しんでいることもあり中止となった。以来、犬たちは三家のベランダを遊び場所に加えていた。
時計を見れば、午前九時。いつもなら犬の散歩も、朝ごはんもとうに済ませている時間だ。マロは部屋を出たまま帰ってこない主人を、フジは迎えに来ない隣人を呼びにきたのである。
赤柴親子をこのまま観察していたかったが、これ以上、飼い犬たちを待たせるわけにもいかない。ケンジは美月たちに親子を任せて、散歩に出かけることにした。
「あとで出産シーンの録画を見せてあげるよ。カメラ、役に立つでしょう?」
翔子が笑いながらそう言った。他意はないのかもしれないが、「だから犬の散歩も撮影させろ」という心の声が聞こえてくるようで、ケンジは辟易するのだった。
9話 少年は柴犬会議をはじめる …に続く。