7話 少年はひとり誓いをたてる
白柴フジを多恵の家に帰すと、ケンジはようやく一息ついて布団に横になった。
ケンジの家に大人はいない。二年前ケンジの両親は、多恵や美月の夫と同じ日に死んでしまった。
亡くなった多恵の夫、鈴木四郎はイベント好きの男性だった。春には花見、夏にはバーベキューと店子たちを誘って企画した。二年前のあの日も、地下鉄に乗って潮干狩りに出かけたのだ。本当に、それは本当に運の悪い事故だった。
その日、東京都心に姿を現した怪獣が無軌道に暴れまわった末、地下鉄構内に侵入。地下鉄と衝突したのだ。不運な地下鉄の先頭車両には、鈴木四郎の他、ケンジの両親、羽鳥一家が乗っていた。
ケンジが事故について知ったのは、剣道部の活動中だった。はじめての他校試合を目前に控え、稽古を優先した結果だった。
足の悪い多恵もマンションで留守番をしていた。ケンジが部活帰りに甘いものでも買って顔を出そうと考えていた矢先、血相を変えた顧問の先生が飛び込んできて、凶報を伝えたのだ。
病院まで先生が車で運んでくれたが、車内の会話は何も覚えていない。ただラジオから怪獣のニュースが流れていて、どこか遠くの世界のように感じたことだけ覚えている。
病院につくと、包帯を巻いた痛々しい姿の羽鳥美月が子供のように泣きじゃくっていた。すぐそばでは鈴木多恵がハンカチで顔を覆い、ごめんなさい、ごめんなさいとくり返している。そしてまだ二歳の風花が、母親を不安そうに見つめながら、慰めるようにその頭を撫でていた。
そして混乱した頭が回復しないまま、ケンジは物言わぬ両親と再会した。逃れるスペースもない地中深くで発生した事故は多くの犠牲者を出した。両親もその例外ではなかったのだ。
ケンジは自分を取り巻く世界が壊れてしまったことを知った。
これからどうなってしまうのか?
それを考えると、重苦しい何かが胸の中に広がっていくのを感じた。その不快なものは吐き出したくても叶わず、全身に広がる毒のように、ケンジの体を急速に蝕んでいった。
誰かに助けを求めることはできなかった。
両親を失ったケンジは天涯孤独となった。
美月は夫を亡くし、幼い娘を一人で抱えることになった。多恵も同じく夫を亡くし、支えてくれる家族もいない。
ケンジは頭を抱えて叫び出したい衝動に駆られた。しかし近しい大人たちの慟哭を目の当たりにしたケンジは、泣き叫んだ結果、何も状況が変わらないという現実を見てしまっていた。
中学一年生になったばかりのケンジが、状況を誰よりも客観的にとらえることができていたのだ。
胸に広がる『重苦しいもの』の正体は、過酷な世界に取り残された者にだけ襲いかかる、悲しみであり後悔であり、未来への不安だった。
自分を苦しめるものの正体に気がついたケンジは、どうすればそれに屈せずにいられるか考えた。
過去を振り返れば、悲しくなる。
未来に想いをはせれば、不安でいっぱいになる。
だったら、過去も未来も考えるのはやめてしまおう。
ただ目の前だけを見て、全力で生きるのだ。
それでもふとした瞬間、にじみ出る『負の感情』は、その都度、心の奥底に押し込めよう。
悲しむ姿も怒る姿も、皆の前では決して見せない。
ケンジはそうルールを決めた。
ケンジは美月のことが好きだった。
多恵のことを大切に思っていた。
風花を泣かせてはいけないと信じていた。
自分が彼女たちを支えると心に決めたのだ。
二年前の決意を、ケンジは今も覚えている。
大家の多恵の好意で、ケンジはそのまま部屋を使わせてもらっていた。多恵はお金など気にせず、いつまでもいていいと言ってくれる。
それでもケンジは、少しずつでも家賃が払いたいと、アルバイトをはじめた。
ケンジの選んだアルバイトは『買い物代行』
怪獣出現以後、外出が危険になったため生まれた仕事だ。本来は車やバイクを使って行うが、ケンジはカートを押しながら徒歩で働いている。年齢も誤魔化して登録した。
最初は犬の散歩をしながらお金が稼げると考えたが、荷物は思ったより邪魔で、よそ様の玄関前で愛犬がおしっこをはじめると、これは無理だと思いなおした。結局、散歩とは別に、週に三日ほど家々をまわることになった。
顧客は近隣の老人が中心だった。何人かはケンジがまだ中学生だと気づいていたが、家庭の事情も知っていたため、黙認して仕事を任せてくれた。
――そこでふと、ケンジは『考えないと決めた』これまでを振り返っていることに気がついた。無造作にテレビのチャンネルを変えながら、思考を現在に戻す。
今日の散歩はいろいろなことがあった。
自警団と怪獣の対決を目撃し、姫路翔子が現れ、公園で赤柴を保護した。しかも出産間近という。
犬を捨てた飼い主は、妊娠を知っていたのだろうか。もしそうなら憤りを感じずにはいられない。もしケンジたちが保護しなければ、ベンチに結ばれたまま出産することになったのだろうか。餌や水が近くにあった様子もない。屋根すらなかった。空腹から、風雨から、怪獣から、あの犬は身を守ることができない状態だったのだ。
やり場のない怒りに沸々としていると、黒柴マロがテケテケと足音を立てながら寄ってきた。無遠慮に布団に登ると、ケンジにピタリ寄り添うように伏せる。
餌や散歩を催促する時、この犬は顔をこちらに向けて伏せ、特に要求がない時はお尻を向けて伏せる。べたべたと甘えてくる犬ではないが、これも親愛の仕草なんだろうと、ケンジは解釈している。
ケンジは寝ころんだまま、愛犬の背中からお尻にかけてを撫でてやった。しばらくすると、犬はそのままコロンと横になり、前肢をあげて体を開いてみせる。お腹を撫でてほしいと催促しているのだ。ケンジは要請に応じてお腹を撫でてやる。そうしていると、不快な感情も薄まっていく気がした。
「犬を捨てるとか理解できないし、したくもない」
愛犬の親愛に愛撫で答えながら、ケンジは誰ともなくつぶやいた。