6話 少年は保護した柴犬を連れ帰る
この犬をどうするべきか?
衰弱した姿が痛々しい赤柴を見ながら、ケンジは考え込んだ。
近くに動物病院はない。怪獣の出現でペット事情も大きく変わり、最寄りの動物病院は潰れてしまったのだ。一番近い病院でも歩けば一時間はかかるだろう。身近に車を出せる大人もおらず、大きく値上がりしたタクシーを呼ぶ他、いい考えも浮かばない。
治療費と合わせていくらかかるだろう? 保険も使えないため一万円を超えるかもしれない。アルバイト代がどれだけ消えるのか試算して、ケンジは暗い気持ちになった。見捨てる選択肢はなかったが、お金に絡むことが目下一番の問題だった。
十五分ほど歩いて、『コーポ光が丘』に戻ってきた。
最初に白柴フジを家に返そうと、鈴木家のチャイムを鳴らすが返事がない。ケンジはわずかに思案して、隣家のチャイムを押してみた。扉が開き顔を見せたのは若い女性だった。
「ケンジ君、おかえり。多恵さんならうちに来てるよ」
彼女は羽鳥美月。ケンジと多恵のちょうど間の部屋に住む、ヒマワリのように快活な印象の女性だ。ケンジの八つ年上の二十二歳である。
「おかえりー!」
続けて小さな女の子が顔を出した。美月の一人娘・風花である。こちらはタンポポのように愛らしい笑顔で迎えてくれた。
「あれ? そちらの子はお友だち? 抱っこしてる犬はどうしたの?」
翔子と彼女の抱えている赤柴を見ながら美月が首を傾げると、翔子が進み出て挨拶した。
「はじめまして。東原くんの友達で姫路翔子です。具合の悪そうな犬を見つけて、東原くんをお手伝いして運んできたんです」
いつ友達になったのか? ケンジはツッコミたかったが、犬を優先する場面だと思いとどまった。
「この犬、ばあちゃんに見てほしいんだ。呼んでもらえる?」
「弱っているんでしょ? いいからそのまま入って」
美月に促され、赤柴を抱えたまま羽鳥家にお邪魔する。マロとフジ、二匹の犬たちはリードをドアノブに引っ掛けて、玄関に待機させた。
キッチンに入ると、鈴木多恵は椅子に座って、風花の塗り絵ノートを見ているところだった。翔子が挨拶するのを待って、ケンジは本題を切り出した。
「ばあちゃん、こいつを見てほしいんだけど」
「あら、かわいい。一匹増えちゃってどうしたの?」
「公園のベンチに繋がれてたんだ。捨て犬だと思う。なんか具合が悪そうでさ」
「ふむ」
多恵は不自由そうに腰をあげると、翔子の抱く赤柴に近づいた。多恵は白柴フジの他にも、昔から複数の柴犬を飼ってきた。その経験をケンジは全面的に信じていて、犬のことでわからないことがあると、最初に彼女を頼っていた。
「良い子だねぇ。だいじょうぶ、だいじょうぶ」
見慣れない人間の接近に、赤柴は唸り声で拒絶を示した。そんな犬の態度にひるむことなく、多恵は落ち着いた声をかけ続けた。そして唸り声が止まるのを待って、優しくその体に触れた。
赤柴は体を強張らせたが抵抗はせず、じっと耐えるようにしていた。もう抵抗するのもつらいのかもしれない。多恵は体のあちこちに触れ、しばらくお腹に手を当てていたかと思うと、顔をあげて言った。
「この子、妊娠してる。すぐに産まれそうよ」
予想外の言葉に、皆が顔を見合わせた。ケンジも柴犬との生活は長かったが、出産に関わったことはない。多恵以外、この場にいる他の人間も同じだった。
「ばあちゃんどうすればいい? 動物病院か?」
「なに言ってるの。人間じゃないんだ。寝床を用意してやれば、ぽんぽんと産んじまうよ」
多恵は軽く言ってのけると「どこに寝床を作ろうかね」と思案をはじめた。
「すごい… なんだかすごいことになってきたね! これ撮影せずにはいられないよ!」
「あかちゃん、うまれるの? なんにん、うまれるの?」
「う~ん、何匹だろうねぇ。一匹かな? 二匹かな? 楽しみだねぇ」
翔子・風花・美月が表情を明るくして、それぞれが感想を述べあう。男女の違いであろうか、男のケンジより早くリアルなイメージを持ち始めているのかもしれない。
「この部屋に寝床を作ってはダメですかね?」
美月が大家である多恵に提案した。
「多恵さんの家はフジがいるし、ケンジ君の家はマロがいる。この子も落ち着かないと思うんですよ」
「私は構わないけど、いいのかい?」
幼い風花を気にするように、多恵が幼児に目を向けた。まだ四歳。目を離せないお年頃だ。
「風花はどう? うちで赤ちゃんたちの世話をしていい?」
「さんせーい!」
元気いっぱいの返事で決定となった。
多恵と美月がさっそく具体的な話をはじめる。
「それじゃあ寝床をつくろうか。押入れを使うのはどうかしら? 暗くて狭いところのほうが、犬も落ち着くと思うのね」
「いいですね。それじゃあ押入れの荷物を出しちゃいます。男の子のケンジ君は見ちゃダメよ」
「見ちゃメェよー」
「あ、私が手伝いますよ! 女子ですから!」
「古くなった布なんかを敷いてあげましょう」
ケンジの目の前でどんどん作業が分担されていく。翔子まで当然のように参加していて、ケンジをあきれさせた。
自分は何をすればいいんだろう?
どうにも手持無沙汰なケンジの耳に、玄関から愛犬の声が聞こえてきた。
「ああ、散歩後のご飯がまだだったな。ばあちゃん、フジの餌もやっとくよ?」
「ええ。ケンちゃん、お願いね」
二頭を連れて自室に戻ったケンジは、さっそく餌の準備をはじめた。取り出したのは柴犬専用ドッグフード。しかしフジとマロで包装が異なる。
十三歳のフジにはシニア犬用の餌で、六歳のマロには若い犬用の餌を与える。さらにフジには鳥のササミ肉でつくられたフリカケをかけてやる。しばしば食事を残すフジだったが、フリカケのかかった部分はしっかりと食べるのだ。
フジは鈴木家の犬だが、ときどき預かることもあったので、餌は常備している。
餌の準備ができた。目を輝かせ舌なめずりして待つ二頭の前に皿を置いてやる。そしてすかさず「待て!」の合図を送った。
フジは素直に座り直し、マロは立ったままその場で足踏みする。
『早く食べたいワン! 待ってなんかいられないワン!』
「……とでも言ってるみたいだな。やれやれ」
再び「待て!」の合図を送ると、渋々といった様子で、マロもその場に座ってみせる。
『これでいいんでしょ? 早く早く!』
誰が見ても彼の気持ちはわかっただろう。よだれをひとつ垂らして、餌に目が釘づけになっている。
「よし!」ケンジの合図で食事が始まった。
マロはかき込むように、フジはゆっくりと食事をはじめる。
「男同士、俺たちは仲良くしようか」
ケンジはそんなことを呟きながら食事中の背中を撫でてやる。二頭は迷惑そうに体を揺らすだけだった。
食後、お気に入りのクッションで、だらだらし始めた犬たちを残し、ケンジが羽鳥家に戻ると、寝床は完成していた。
翔子が赤柴を床に降ろし寝床に促すと、匂いをかぎながらグルグル回ったのち、腰を落ち着けた。
「気に入ってくれた!」
嬉しそうに翔子と風花がハイタッチする。今日初めて会ったばかりだというのに、もう意気投合しているようだった。
「ばあちゃん、この後はどうすればいいんだ?」
美月の用意してくれた容器に、マロと同じドッグフードを入れながらケンジが聞いた。出産が始まったらやはり近くで見守っていたほうがいいのだろうか。多恵の指示によっては、寝ずの番も辞さないつもりだった。しかし――
「静かに放っておいてやるのが一番だね」
返事は拍子抜けするものだった。
赤柴に変化があれば、美月が知らせてくれることになり、その日は解散となった。カメラをまわし続けていた謎の少女・姫路翔子も、後ろ髪をひかれる様子で帰っていった。
7話 少年はひとり誓いをたてる …に続く。