4話 大人たちも怪獣と戦う
「さ・ん・ぽ」
ケンジがつぶやくと、ごろんと横になっていた黒柴マロが飛び起きた。耳をピッとあげて、期待に満ちた目を飼い主に向ける。
「ん~? 外は危ないのに行きたいの? さ・ん・ぽ。本当に行きたいのかな~?」
にやけ顔の飼い主がもったいぶると、フンッと鼻を鳴らしてパタパタと足踏みする。
『バカ言ってないで、早くいくワン!』
「…とでも言ってるみたいだな。よし、いくか。さんぽ!」
三度言葉に出して愛犬の反応を堪能すると、ようやくケンジは玄関に向かった。マロもスキップするように後に続く。玄関では首輪をマロに装着する。犬用の衣装や合羽は嫌がって断固として抵抗するマロだったが、首輪だけは大人しくつけさせる。散歩にいく前に必要なことと理解しているのだ。
愛犬を連れ出すと、そのまま階下には降りず、二つ隣の鈴木家を訪ねる。呼び鈴を鳴らすと、ワンワンと犬の声が室内から聞こえ、ゆっくりとドアが開いた。白柴フジが飛び出してきて、マロと顔をあわせて挨拶する。
「おはよう、ケンちゃん。今日もフジをよろしくね」
言葉にして挨拶したのは、白柴フジの飼い主・鈴木多恵だった。多恵はこのマンション『コーポ光が丘』の大家である。今年六十五歳になる多恵に代わり、フジを散歩に連れ出すのもケンジの日課だった。
多恵と二年前に亡くなった夫は、ケンジのことを自分の孫のように可愛がってくれた。ケンジがはじめて接した犬も鈴木家のフジだった。小学校に通い、友達ができるまでは、毎日のように鈴木家を訪ねて、フジと遊んだものだ。
「うちも柴犬が欲しい!」
何年も繰り返し言い続けて、両親がようやく迎えてくれたのが黒柴マロだった。もっとも、初顔合わせは酷いものだった。ケンジは子犬を欲しがっていたのに、他家から引き取る形でやってきたマロは既に成犬だったのだ。幼いケンジは泣いて嫌がった。今では思い出す度、愛犬への罪悪感と恥ずかしさで悶絶する黒歴史である。
「怪獣には気を付けるんだよ? 見かけたらすぐに逃げるの。わかった?」
「わかってるよ、ばあちゃん。それじゃあ行ってくる」
いつもと変わらぬ会話。本心では散歩を止めたい多恵の気持ちはわかっていたが、何度も話し合って今がある。ケンジはあえて素っ気なく答えると、フジのリードを受け取り、マンションを出た。黒白二匹の柴犬がケンジを引っ張り進んでいく。
『お散歩日和ですワン!』
『気持ちいいですね!』
「…とでも言ってるみたいだな」
心地よい春の日の散歩を、犬たちは心ゆくまで楽しんでいた。そんな姿を見ているだけで、ケンジもほっこりしてくる。しかし、温かい気持ちは長続きしなかった。前方から騒がしい声が聞こえてきたのだ。
「自警団と… 怪獣だ!」
黒色の体に朱色の刺青を彫り込んだような怪獣。両生類の『イモリ』を連想させる奇怪なその生き物を、同じ制服を着た五人の大人たちが槍を構えて囲んでいた。
背後に立つ大人が槍で怪獣の背を攻撃し、怪獣が怒って振り向けば、また背後になった大人が槍で突く。どうやらそんな作戦で怪獣に挑んでいるらしい。
しかし怪獣が向きを変えるたび、正面に立った大人は慌てふためき、必要以上に離れてしまうため、包囲網はどんどん遠巻きになっていた。
しかしそれも仕方ないのかもしれない。怪獣は成人男性五人以上の質量をもっていたから、なりふり構わず突進されては、防ぐ術もなかったろう。それでも逃げ出さないのは、自警団としての矜持だろうか。
怪獣から身を守るため、大人たちが武器を手にすることが増えていた。地方自治体がそういった大人を集め、組織したのが彼ら自警団である。武器携帯の許可を取り、パトロールしてまわっているのだ。
必要が生んだ存在ではあったが、彼らの仕事はしばしば問題を引き起こした。警察や自衛隊と異なり、彼らが守るのは雇用主のテリトリー、つまり自治区内に限られる。怪獣を追い立て、別の区に放り出す事例がたびたび発生したのだ。自治体同士の連携が模索されていたが、遅々として進んでいないと聞いたことがある。
「そこの子供、こんなところで何してる!」
車道に止めてあった軽トラックの荷台から、銃を持った男がにらみつけてきた。二十代前半くらいの男性は、ケンジの犬たちに視線を這わせた後、ますます目を厳しくして怒鳴りつけてきた。
「怪獣が歩き回ってる時に犬の散歩か!? さっさと家に帰れ!」
無遠慮な大声に犬たちがビクッと体を震わせる。ケンジが言い返そうとした時、怪獣と対峙する男たちのほうから悲鳴があがった。
突っ込んでくる怪獣をよけきれず、ひとりの男性が転倒したのだ。慌てて逃げようとする男性を、怪獣は片足を口にくわえて持ち上げた。なすがままの男性は、散々振り回されたのち、怪獣の口をすっぽ抜けて、生け垣の中に突っ込んでしまった。
怪獣はそのまま包囲の穴を抜けて逃げ出した。
ケンジや銃を持った若者も呆気にとられる中、軽トラの運転席にいた男性が声をはりあげた。
「逃がしてんじぇねーよ! ひとり残って負傷者を救出。本部に迎えに来てもらえ。他は車に乗れ。追うぞ!」
運転手の指示に従って、慌ただしく槍装備の男たちが荷台に乗り込んでいく。銃を持った若者も「くそっ」と短く言葉を残すと、車に運ばれ去っていった。
投げ飛ばされた男のほうを見れば、幸い大した怪我もなく同僚に助け起こされると、救助が来るまでの避難だろうか、びっこを引きながら、近所のマンションに入っていった。
怪獣と自警団の戦いを目にするのは初めてだったが、まさか槍で立ち向かっているとは思わなかった。まるで原始時代の狩りではないか。これなら猟犬を連れた猟師のほうが戦えるんじゃないかと思えるほど、泥臭い狩りだった。
武器戦闘に関して、ケンジは一家言を持っていた。
小学五年生から卒業までの間、多恵の亡き夫・四郎の紹介で、剣道場に通っていたことがあるのだ。年配の剣士たちを見てきた経験から言えば、自警団の動きは素人丸出しだった。
「偉そうなこと言って、逃げられてるじゃないか」
若い隊員の罵声を思い出し、ケンジは悪態をついた。
「怪獣がすべて退治されるまで、外に出るなってか? 二年経っても変わらないのに!」
ケンジは大人たちが戦っていた跡に目を向けた。怪獣のものと思われる血痕や肉片がところどころ落ちていた。柴犬たち、特に黒柴マロがそちらに向かうのを、リードを引っ張ってケンジは阻止しなければならなかった。
悪食・拾い食いはマロの悪癖である。さすがに怪獣の肉片は食べないと思いたいが、確信は持てない。
マロが食事をはじめると、本来お行儀のよいフジまで影響を受けて食欲に動かされるのが、散歩中の悩みの種だった。
困った話だが、犬たちにとっては拾い食いも散歩の楽しみなのかもしれない。長く待たされた犬たちは、ソワソワしながら先に進みたいと目で訴えてくる。
「わかった、わかった。散歩とご飯が楽しみだもんな。やめるわけないよな」
自警団の発言を頭の隅に追いやると、ケンジは散歩を再開することにした。しかし――
「これが日本犬… これが柴犬なんだぁ!」
少女の声がケンジの足を止めた。
いつの間に現れたのか、見知らぬ少女が犬たちの前で腰を下ろし、その顔を覗き込んでいた。
【5】少女はカメラを持って現れる …に続く。