25話 少年は大切なものと再会する
遠くから呼ぶ声がした。
目を覚ましたケンジはあたりを見回した。学生服を着たまま、いつの間にか眠ってしまったらしい。扉をあけてキッチンに進むと、父と母がいた。
「ゆっくり寝ていたのね。今日は母さんたち出ちゃうから、早くご飯を食べちゃって」
「お前は本当に行かないのか? 鈴木のおじいちゃんが寂しがるだろう」
父と母が交互に話しかけてくる。ケンジはテーブルに置かれた卵焼きをつまみながら席についた。
「試合が近いから、今は部活に集中したいな」
「それじゃあ、試合見学に四郎さんと多恵さんも誘おうか」
「いいけど、鈴木のじいちゃんが来たら騒がしくなりそうだなぁ」
母親が茶碗にご飯をよそってくれた。おかずは味噌汁に焼き鮭、卵焼きに白菜の漬物。いつもの朝ごはんだった。
「潮干狩りはどこにいくんだっけ?」
「お台場。温泉も堪能してくるわ」
「羽鳥さんの家は?」
「家族そろって参加されるって。多恵さんは足が悪くてお留守番だけど」
「そっか。部活帰りに顔見せにいこうかな」
中学に入ってからは忙しく、小学の時ほど鈴木家を訪ねていなかった。久しぶりに白柴フジに会うのも楽しみだ。散歩に連れて行ってやろうか。きっと尻尾をふって喜ぶはずだ。
ケンジはふと味噌汁をすする手を止めた。
「あ、今朝の散歩がまだだった! マロは?」
ケンジは愛犬の姿を探した。
いつも目が覚めれば、見える位置にマロがいた。
寒い季節には布団に入って一緒に寝たし、暑い季節でも日が昇る頃には、布団の傍でケンジの目覚めを待っている。寝坊しようものなら、ぺろぺろと実力行使をはじめるのだ。
しかし、今朝はマロを見ていない。
「マロを知らない? フジやサクラも早く散歩に連れて行かないと……」
そこまで口にして「あれ?」と思った。何かおかしい。
ざわつく胸を押さえて、今朝の出来事を振り返ってみる。学生服で目が覚めて、両親と朝ごはんを食べはじめた。いつもなら散歩が先だと思い当たる。
マロを連れて鈴木家を訪ね、フジを預かる。続いて羽鳥家に寄って、子犬たちを撫でまわし、サクラとゴマッチの親子も預かるのだ。そこでケンジは気がついた。
「サクラたちに出会ったのは一か月前……。父さんも母さんも、鈴木のじいちゃんも、美月さんの旦那さんも、みんな死んでしまった後だ……。ああ、そうか。これは夢か。怪獣が現れたあの日の夢だ」
それは明晰夢。自分の夢だと自覚しながらみる夢だった。
ケンジは両親の顔を見直した。
こんな顔をしていたんだっけとしみじみ思う。まだ死に別れて二年だというのに、ずいぶん古い記憶のように感じる。
事故の日、体験したどうしようもない悲しみも、日常の記憶もすっかり薄れていた。自分は冷たい人間だと感じるくらい忘れていたのだ。それなのに、たった一回の夢が、忘れていた懐かしさを沸き立たせた。
鈴木家を訪ねれば、じいちゃんにも会えるのだろうか。羽鳥家を訪ねれば、美月の旦那さんも元気なのだろうか。
「……やっぱり潮干狩りいこうかな」
「なんだ、留守番は寂しくなったのか?」
「別に、そうじゃないけど」
「一人増えたって言わないとね」
両親はなんだかんだ言いながら、嬉しそうに動き出した。
ケンジは思った。現実では怪獣出現に巻き込まれ、たくさんの命が失われるこの旅行も、夢ならば、自分がついていくならば、最後まで災いなく進むのではないか?
それならばステキな夢だった。マロやフジ、サクラたちも連れていけたら、さらに楽しい旅行になるんじゃないだろうか。
例え怪獣が出てきたって退治できるかもしれない。夢なんだから都合よく展開してくれるんじゃないか。
「バスが来たぞー」
玄関のチャイムが鳴って懐かしい声がした。多恵の夫、四郎だ。母親がケンジを呼ぶ声も重なった。
「ケンジ、今から参加するの大丈夫だって。早く用意しちゃいなさい」
「あ、でも……」
ケンジはふと思い出した。
「まだ犬の散歩、行ってない」
母親と父親が顔を曇らせた。呆れたように言う。
「もうバスが出ちゃうわよ」
「一日くらい我慢できるだろう」
ケンジは迷った。いつもなら迷うことはない。人間の都合で犬の楽しみを奪うのは、絶対にしたくないケンジだった。けれどこれは夢だ。貴重な夢だった。
それにしても、マロはどこに行ってしまったのか?家の中を見渡してもどこにも姿が見当たらない。
その時、遠くからケンジを呼ぶ声がした
その声は犬の鳴き声のようで、しかしケンジの名前を呼んでいるようにも聞こえた。
どうしてだろう。両親たちに感じるのと同じくらい、その声が懐かしく感じられた。
「マロが呼んでるのか?」
根拠はなかった。ただ、そうかもしれないとケンジは思った。そして、そうであったなら答えは決まっていた。ケンジは両親に向き直って頭を下げた。
「ごめん。やっぱり一緒にいけない。散歩があるから」
「どうしてそんなに犬を気にするの?」
「ちょっと気にかけすぎじゃないか?」
二人の声が重なった。
面と向かって聞かれるのは、二度目だなとケンジは思った。怪獣の出現後、危険な散歩を続けるケンジを止めようと、美月と多恵が同じことを尋ねたのだ。
気持ちというものは、正しく言葉にするのが難しい。口に出した途端、まったく別のものに変わってしまうこともある。あの時もうまく伝えることができず、それは長く問答をつづけたものだ。けれど最終的に伝わった。二人は自分たちの想いを飲み込んで、ケンジの意思を尊重してくれたのだ。
だから、ケンジは口を開いた。伝わるまで何度でも言葉にすると決めて。
「簡単に人は死ぬと実感したんだ。犬の寿命はもっと短い。だから元気な間は、犬たちの楽しい時間を守ってやりたい。一日二回、ささやかな楽しみだから」
「散歩に限らなくたって、あの子はあなたといれば、楽しいんじゃないの?」
「そうだと嬉しい。ほんとそう思う」
ケンジは小さく微笑んだ。
「もう親孝行はできないけど、最後に残った家族は大切にしたい。良い飼い主でいたいと思ってる」
「お前は良い飼い主だろう? これまでだってずっと……」
両親の言葉に、ケンジは首を振った。
「これからどれだけ、あの無垢な瞳に答えてやれるか。それが大事なんだ。だから、今日も、明日も、明後日も、あいつと散歩にいくんだよ」
言いたいことは言い切った。伝わらなければ何度でも言葉を重ねるつもりだった。けれど、急速に周囲の世界が広がってゆくような感覚に襲われ、自分が夢から覚めつつあるのだと、ケンジは自覚した。この心地よい空間はおしまいなのだ。
最後にもう一度両親の顔を見た。
ふたりは寂しそうに笑っていた。




