月並みな比翼の鳥
いつかの休日。夏の昼下がり。そのとき僕らの前のテレビが言ったその言葉がきっかけだった。
僕は隣からの言外の催促を感じて、手探りでリモコンを掴んで、テレビを消した。
「比翼の鳥、かぁ。私、この言葉嫌いなんだ」
そう、隣の彼女がふと言った。いつものような、気だるげな、少し低い自然な声で。だからそれはいつも通りの飾らない言葉だろうと僕は思う。
彼女と言うのは、三人称女性を指す彼女ではなく、カノジョという意味の彼女、恋人のことだ。
「僕は逆に好きだけれども。理由は、響き、かな。現実にそんな鳥がいたら酷く歪だろうけれど、この表現そのものはそれだけだと、とても素敵な揶揄に見えるから」
すらりと長く、服が似合う彼女。どうして僕の隣にこういるのかが分からない彼女。そんな彼女はくすり、と微笑む。僕に顔を近づけて。
「君と根本は同じと思う。けれど、持った感想は正反対だね。違和を持った場所の違いだろうね」
彼女の匂いは不思議だ。よく言う、女の子の匂いと言われるような甘さと汗が混じった匂いとは違う。いい匂いであることは間違いない。甘いことは甘いけど、甘ったるさがない。だからといって、軽い甘さという訳でもない。彼女の匂いは、有り難いことに、彼女が帰って一日経ったくらいではいつも残っている。それも酸化せずに。香水なのか、それとも、彼女の雰囲気と同じように、彼女の躰自体が不思議な匂いを持っているのか。
すん。
やはり、分からない。けれど、別にいいような気がする。
「君、聞いているかい?」
いつ見ても、現実味がない。彼女が僕のカノジョであることが。何処ぞのパリコレのモデルのような、すらりと長く、細く、薄い躰。まるで人形のような、小さく左右対称な顔。鼻筋がくっきりしていて、短い猫っ毛だけど、青みがかった黒髪の彼女。大きな黒い目をした、吊り目二重の彼女。僕の白シャツだけをその身に纏った彼女。僕の部屋だからこそ、室内だからこそ、の、彼女を感じるひととき。
だから、そう賢くなんてない僕だけれど、こんな小難しい会話ですら楽しいもので――
「――、君ったら! ねぇ、君っ、ねぇ!」
僕は思わず我にかえった。
「聞いてるよ。えっと、ちょっと待ってね」
そう。とても平静に。
ぱさり、ピッ、スッ。
それは穏やかでありつつも並みの楽しさじゃないから、前のめりにもなる。僕は、その辺の裏紙とその辺のペンを掴んだ。ペン先をさっと走らせて、
ぴらり。
「こんな感じ、かな?」
描いたのは、半身を継ぎ合せた雌雄一組の鳥の絵。そう。比翼の鳥の現実だ。僕は続けて言葉を紡ぐ。
「どっちもが助け合うことで生きていられる。それは高い精度、次元を要求する。だから、そうやって生きていられることは奇跡で、尊い。重ねたくなるさ。現実を見ずに、重ねたロマン。その空虚は、優しい嘘で。だから、いいんじゃないか」
ちょっと考えに耽っていたとはいえ、ちゃんと彼女の言うことは聞いていた。だから、こんな風に応えられる。……。尤も、前に一度、こんなことを考えたことがあるからだけれども。というのも、
「折角現実を描いたのに、言うのは素敵な、詩人染みた理想。君らしいよ、ふふ。好き、だけどさ」
そう。以前考えたきっかけも彼女だった。
彼女はそうやって、僕に微笑みかけてくれる。とても素敵に。だから僕は、彼女のそれが、真に僕だけに向けられたものなのか、本物なのか、そんな、彼女を疑うような疑問を浮かべてしまう。
だって彼女は――僕のことを名前でどころか、苗字ですら、呼んでくれないから。僕のことを普段から平然と、人目があっても憚らず口にするというのに。
「私に言わせてみれば、比翼の鳥なんて情緒の一つもないよ。だって、彼らには、離れるという選択肢が最初から廃されているんだから。なにもかも共有させられる。運命すら。したくてそうしてるんしゃなくて、そうさせられている。本当は今すぐにでも離れたいのかも知れない。けれど、それは死と同義だから、諦めて妥協してそうしているだけなのかも知れない」
彼女は頑なだ。見ての通り。何事にも、こんな風に考えを持っていて、それを訳もなく曲げてくれることなんかない。呼ばないことにも理由があるに違いない。でも、聞いても彼女は教えてくれないと、もうそう短くない付き合いから何となく分かるから。
「……。僕は、臆病、なのかな……」
だから、僕はそうやって、情けなく弱音を吐く他なかった。
「そうだね。君はとても臆病だ。何故躊躇するんだい? 聞けばいいじゃないか。相手はここにいるんだから。答えてくれない? 無理やりにでも聞けばいいじゃないか! 何故、そうしない! どうしてだ! どうして、君は……、君……は……私を、蹂躙して、くれない……ん……だ……」
驚きは抱かなかった。焦りもなかった。ただ、ただ……僕は、臆病なんかじゃなくて、愚かで卑怯だったんたって、彼女に言われてやっと気付いたんだ……。
僕は、未だ嘗て彼女を抱いたことがない。
もう、12年だ。始まりは、未だ小学校の最後の学年の頃のこと。周りから浮いていた彼女と、周りに違和感を感じていた僕。共に日番になって、それがきっかけ。ちょっと話しただけで互いに分かった。一見違うようで、僕らの中身はとてもよく似ていた。
そうして、互いに、互いといることが、この世で最も心安らぐ場所となった。彼女があるとき僕に言った。そう、確か、共にいるようになって3年目。中学校の最後の学年の頃のこと。進路。彼女と僕の成績の乖離。彼女が上で僕が下。だから、この心地良い場所は終わるのだろうと僕は思っていた。最初から諦めていた。彼女というまるで降って沸いた幸運。だからいつか終わりが来る。それが高校進学。そう思っていた。けれど、彼女は違っていた。さも当然のように、僕に言ったんだ。
『さて。次の三年の安寧の為、君にはこの一年励んで貰わなくては、ね』
そう、さも当然のように、僕を信じて、そう言ったんだ。だって、その満面の笑みには微塵の嘘も無かったから。
僕は当然のように彼女の要求を満たして、その次の四年の安寧を掴んだとき、互いに互いを恋人とすることを決めて、今もこうして、共にいる。彼女と共にを享受している。いる、つもり、だった……。
けれど、この年にもなって、気付いた。僕たちの関係は、恋人でありながら、隣合わせでいても胸の高鳴りは微塵もなく、余りに当然になり過ぎていた。長年寄り添った夫婦のような。大体互いの考えていること、次にしそうなこと、言いそうなこと。大概は一字一句間違えず分かる。けれど、一つ。おかしかった。
僕たちは、互いに互いの名前を、呼ばない。恋人になるときですら、互いの名を呼んでいな――彼女が迫ってきていた。僕に絡みつくように乗っかり、体は触れ合い、ところどころ密着する。熱は、無い。彼女が未だ、これでも僕の傍にいるんだってことに、見捨てられていないんだなってことに、安堵している。そんな自分をどうにも、できない。
「私じゃあ、駄目なのかな……。私じゃあ、欲しがって、貰えないのかな……。君が為に、生きる番だと認めて貰えない……のかな……。そうでないと、意味がない……。無為、だ……。何も、かも、……辛いだけだ……。悲しいだけだ……。駄目なんだよ……。あって当然じゃあ、駄目なんだ。互いに欲しくてほしくて欲しくて、互いに互いだけで、だけで、だけで、全て。全てができないと、いけないんだ……」
震える声で、彼女は喋る。普段よりも少し早口に、しかし途切れ途切れに。涙声で。普段であれば問いかけばかりの彼女が、一方的に言葉をぶつけてくる。
「終わりだよ……、このまま、だと……。君は、鈍感だ。だから、……お願いするよ、媚びるように、へり下るように、お願いするよ……。君とは……さ、ずっと、ずっと……対等に、いたかった……のに……。けれど、ここで終わりになるよりも、……ましだ」
彼女は僕の上に馬乗りに乗っかっていた。布団は剥ぎ取られ、フローリングの上の僕。その上の彼女。これで、どうやって、遜るというのだろう。
……。こんなときでも疑問が先に来る自分が、僕はどうしようもなく、嫌いだ……。彼女は、言った。口にした。僕がこれまで避けてきたものだそれは。無意識に。けれど、つまりそれは、分かっていたということでもある。無意識に。僕は、それが、変化を起こす行為であると、知っているから。僕たちの関係性を変える行為だからだ。彼女が今まで言わなかったのは、僕を、待ってくれていたから。けれどもう、それも限界なんだろう。
彼女はそれを口にするのが怖くて怖くて仕方無かったのに、それでも口にした。なら、大切にしているものは一緒だ。なら、僕も、彼女に、倣おう。どう転ぶにしても、それが礼儀だ。
「なら、僕から、お願いだ。君のどうしてもを一つ、曲げて貰う」
僕はそう、口にした。未だ彼女は僕の上に跨っている。肝心要の箇所は、僕自身が下着を身に付けているから直接に触れることはない。けれど、彼女の手は、依然僕の両手首を、両手を上げたかのような姿勢に固めるように抑え込んだままだ。彼女は変わらず、僕の白シャツを袖を通さず肩に羽織っているだけだ。
「……」
彼女は答えない。つまり、彼女は逃げない。僕が逃げることは許さない。答えは何でも。そういうことだ。彼女の無言はこの場合、肯定する、ということ。
「僕の名前を、呼ばない理由は一体、何なんだい? 教えて、欲しい」
名前を呼んで欲しいだなんて言わない。それでは強要だ。僕は彼女を曲げてまで、彼女といたくはない。それでは意味がない。折り目がついてしまう。そうなればそれは二度と、消えはしない。だから僕はそう、先に頼んだ訳だ。
「……」
彼女は、答えない……。
「お願いだ。お願い、だ。麻花。どうか、どうか、お願いだ。何だってする。君が、僕を名で呼んでくれるように、なるのなら」
「く……ん……」
そう、途切れた声で彼女は言った。
「それじゃあ、いつもの呼び方の訓読みでしかないよ」
半端では、不完全では、どうしても嫌だった。満足できなかった。
「意味が、無い……の…………ぅぅ……ぁぁ……」
彼女は何とかそう口にして、そしてとうとう、言葉を話すこともできないくらい、喉を震わせ、声を殺して、ぽろぽろと涙を流し、僕の頬にそれは、ぽつり、ぽつり、と熱く、伝う。
それでやっと、分かった。彼女の拘る意味が。彼女はこの遣り取りの始めにもう、答えを口にしていたんだって。これまでもずっとずっと、言い続けていたんだって。けれど、なら、何も問題はないんだ。
「久遠・麻花。永遠の、運命。そうなることが、厭、なの? 久遠・連理。永遠の、睦び。和睦、親睦、仲睦ましい。そんな、夫婦。つまり、ここには、接合という意味も入っている」
こういった台詞は本来彼女の役目だ。知に劣る僕がそれを口にするのは滑稽で愚かしいけれども、それでもやるんだ。
愚かであることは変えられなくても、愚かであった故の過ちは、正すことができる。今なら、未だ。そしてこれは、崖っぷちで。
「でも、その両方が成立するには、僕たちが最初から結ばれていなければならない。けれど、違うよね。僕たちは互いに、選ぶ権利がある。名は体を現す。それは、生まれおちて名をつけられる時と、結婚のとき。変動はその二回だけだ。最初は無から有へ。そして次は、変化。半分を残しての、変化。つまり、最初から決まってなんか、全然いない」
次の一言が、怖い。口にするのが、怖くて、怖くて、仕方が無い。僕は自分が愚かと知っている。なら、今から口にするこれが、間違って、いたら……?
「……」
彼女は、何も言わない。僕の両手首を握ったその手は、震えていた。今にも力無く、僕の胸に崩れ落ちそうだった。けれど、そうしないのは、そうしたら、結局のなあなあで、先延ばしになるだけと分かっているからだろう。
生唾を飲み込み、
「だから、君の願いは、矛盾している」
言った。言ったはいいが、込み上げてくる。このままでは、止まってしまう。なら、止まる前に、最後まで――
「だから、僕の答えは、こうだ。いつものように、決めるのは、君だ。僕は、その答えをどうであっても、受け入れるさ。他ならぬ君の決定だ。僕はこれまでそうやって、生きてきた。だからこの先も願わくば、そう生きさせて欲しい」
未……だ、未だ……だぁぁぁ……。
「それは、僕一人だけでは決して、できないから。そして、僕はそうできなければ、きっと、枯れるように死ぬんだろうと、思うんだ、っぅ、ゲホゲホっ、ゲホゲホゲホッ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、――……」
…………。まるで、脅すように、そう〆て、もしもの未来を想像して、本当に死を感じて、僕は、咽せた。彼女に首を絞められた訳でもないのに。でも、まるでそうされたかのように、それはとても絶望的で、死に臨むかのような命の危機だった。
僕がそう言い終えたと共に、
「連理……。連理、連理連理連理連理、れん……り……、うぁぁあああああ、あぁああああああああああ――」
彼女は僕の名前をこれでもかと連呼して、これまで一度も見せたことのない、知性のカケラも無い、繕わない涙を見せた。
僕が今日穿いていたのはトランクスで、そのボタンは空いていて、僕はさっきまで死を色濃く想像していて、それが無かったにせよ、こうなったことが嫌だとは微塵も思えない。
それに、彼女が今こうやって見せてくれている、まだ見せてくれたことのなかった表情が、仕草が、弱さが、欲が、みっともなさが、美しく確固たる自意識を持った彼女の崩れたそれが、どうしてか、たまらなく――野暮だ、これ以上は。
そうして、僕と彼女の願いは、形となり。僕たちは大人になり、夫婦に、月並みな比翼の鳥と互いになることを選んだのだった。