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遣らずの雨

作者: 深町 曾子


 小学生の頃、先生が雨の降る仕組みについて話してくれたことがあった。


 あれは、確か国語の授業中だったと思うけれど、当時、僕を含めた数人の男子にとって国語の授業というのは学校にいる時間の中で最も退屈な時間だった。友達と騒げる掃除の時間の方が断然楽しいし、トイレに行っている五分間の方がよっぽどユウイギだと感じていた。


 いかにして退屈を凌ぐかは常に僕らにとって重大な課題だったので、銘々が幼いなりに頭を悩ませて色んな方法を試していた。教科書に落書きをしたり、すごろくを作って遊んだり、消しゴムのかすを集めて固めたり。普段はさして面白くないことでも、授業中にやるだけで別物みたいに感じるから不思議だ。


 大人の目を盗んで何かをするスリルは、小学生が日常で味わえるスリルの中ではかなり上等なものだと思う。たとえそれが授業中の手遊びだとしてもだ。だからばれそうでばれないギリギリの方法で暇を潰すと、まるで何か偉業を成し遂げたかのような気分を味わうことができる。そして授業が終わった後で何をしていたかを教えあい、誰かが突拍子もないことをしてのけると皆で腹を抱えて笑う。そんな、頭を悩ますところから、腹を抱えて笑うまでの全部を引っ括めた稚拙な遊びが僕は好きだった。


 改めて考えてみると先生があんな話をしたのは、全部気づいていたからかもしれない。その上で、叱らずに雑談で興味を引こうとしたのだろうか。あるいは、ただ雨の気配でその話を思い出したのか。はたまた別の理由があったのか。いずれにせよ知る術はもうないのだけれど。


 あのとき僕は何をしていただろうか。下らないことには違いないが、記憶に残っていないということは、輪を掛けて下らないことをしていたのだろう。授業を聴くよりは増し程度の気持ちで何かをしていて、楽しめてはいなかったのかもしれない。きっとそうだ。だから先生の話が教科書の中身から別のものに変わったことに気がついた。気まぐれで、耳を貸した。


「皆知ってる? 雨っていうのはね――」


 そんな前置きをしてハスキー気味の声で語ってくれたのは特段面白い話でもなかった。放課後、昇降口から駆け出す頃には忘れている。その程度の内容だった。


 その晩、夢の中で僕は氷の一粒だった。


 鈍色の世界には同じような姿をした奴らが無数にいて、皆が一様に怯えている。


「嫌だ嫌だ嫌だ」


「誰か。怖い、怖いよ」


「ううぅぁああああああ」


 意味のある言葉から奇声まがいの悲鳴まで様々な声がそこかしこで飛び交っている。聴いているだけで気が狂いそうになる、悲痛な声だ。


 眼下には自分の住む街が広がっている。間もなくあそこに向かって落ちていくのだと、僕は直感していた。どう足掻いてもその運命は覆らないということも、同じように知っていた。おそらく全員がそうなのだろう。落ちれば終わる。とても単純な話だが、それが分かっていて冷静でいられるはずもない。


 しかし、その瞬間は唐突に、無慈悲にやってきた。


「ぁ――――」


 消え入りそうな声がいやにはっきりと耳に刺さった。皆が一斉に声の方を見ると、雲から離れていく一粒が目に入る。とうとう始まったんだ。


 目の前で落ちていく様を見てしまい、驚きのあまり雲から離れるもの。不幸にもそれらにまきこまれて落ちていくもの。覚悟を決めて自ら離れていくもの。


 もう止まらない。皆、連鎖するように雨になっていく。


 すぐ隣にいた奴も落ちていった。恐怖と諦めが綯い交ぜになって体を駆け巡る。


「た、助けて」


 情けない声を残して、僕は雨になった。遠ざかる雲。速度を増す僕。徐々に近づくアスファルト。


 ああ、死ぬんだな。


 不思議なくらい冴えた頭でもう一度空を見たのを最期に、暗転が訪れた。


「うわああっ!」


 第二場、もとい、そこは自室。


「え、え?」


 現状を上手く掴めないまま視線を巡らせる。カーテン、壁紙、机、本棚、そして震える自分の体。一つ一つが、さっきまでの出来事が夢であったことを教えてくれる。


 大丈夫だ、僕は人間で、そして生きている。


 今まで意識したこともなかった当たり前のことを頭の中で何度も唱えると、激しく脈打っていた心臓も落ち着き、徐々に冷静さを取り戻していく。怖い夢を見た経験は一度や二度じゃないが、あんなに現実感のある夢は初めてだった。夢から覚めた今もはっきりと内容を、鮮明に思い出せる。


 ああ、止めよう。眠れなくなりそうだ。


 勝手に再生される映像を振り払うようにベッドから降りる。寝汗が染みた服を、時間を掛けて着替え、大して喉は渇いていないが水を飲むため階下に向かう。決して寝るのが怖いというわけではない、と自分に言い訳をしながら。




 絵にならないな。


 窓に映る自分と目が合って頬杖を止める。しかし顔も関心も窓の方を向いたままだ。別に反抗的な意志を表明中というわけではない。ただ、今にも降りだしそうな空の具合が心配なだけだ。予報では午後から雨だったので、もう何時降り出したっておかしくない。


 頼むからあと少しだけ持ってくれ。


 祈りを込めて鞄の中の折りたたみ傘に触れる。


 連絡事項を伝え終わり、後はチャイムを待つばかりのホームルームは、僕らからすれば無意味の一言に尽きる。運動部も文化部も帰宅部も、この時ばかりは融通の利かない担任を恨めしく思う。行事以外でクラスが一丸となる数少ない瞬間だ。僕も帰宅部の一員として、時計に怨嗟の視線を送る作業に余念がない。特に、今日みたいな天候の怪しい日にはクラスの誰よりもホームルームからの解放を望んでいる。それでも時間は、三十九名の想いなど意に介さず公平であり続けるから手強い。


 談笑でもしていられたら五分だろうが十分だろうが一瞬も同然なのだが、我らが担任の先生はホームルーム中のお喋りを酷く嫌っている。どれほど無意味な待ち時間でもチャイムが鳴るまでは一応ホームルームということで、雑談は決して許されない。


 断っておくが、教卓で厳めしい顔をしている堅物が嫌いなわけではない。好きか嫌いかで言えばクラスの大半は好きに傾くはずだ。だから僕たちは一応納得した上で大人しく放課後を待ち望んでいる。


 それでも、隣のクラスから賑やかな声が聞こえてきたりすると都合よく人を嫌ってしまう。それを身勝手だとはまだ思えない。


 視線を戻し、二つ前の席で気持ちよさそうに上下する背中に目を呉れる。吹き込んだ湿り気の強い風が髪を柔らかく梳くと、僅かにその身をよじった。さぞ良い夢を見ているところだろう。


 四十人の中でこの時間をありがたいと思っているのはきっとこいつだけだ。そして、そのまま寝ていられると困るのは僕だ。


 一つ前に座るクラスメイトの肩を叩く。無言で振り返った彼女に手を合わせてから、クロを指差して、「ごめん、そいつ起こして」と口パクとジェスチャーで伝える。ほとんど毎日のことなので意志の疎通に苦労はないが、ほとんど毎日のことなので、頼まれる方はうんざりとした様子だ。それでもチャイムが鳴るまで毎度律儀に、かつ乱暴にクロを起こそうとしてくれる彼女には感謝しなければいけない。


 断続的に聞こえる椅子を蹴る音が、しんとした教室に木霊する。実にシュールだ。先生は渋い顔を作って嘆息している。おそらく「またか」とでも思っているのだろう。悪意あっての行いではなく居眠りを決め込む不埒な輩を起こすための行動なので、先生も止めるに止められないのだ。もっとも、雑談を禁じる先生がこのグレーな行為を黙認する。それはつまり、クロの爆睡がよっぽど目に余る、というわけなのだが。


 頼みごとをしている身ではありながら、二人の静かな戦いを見続けるのにも飽きて、僕の関心はまた窓の外に移っていった。


 しばらくして、三十九人待望の鐘が鳴ると教室は途端に活気付く。物音や話し声が充満するが、その喧騒の中でもクロは平然と眠りこけていた。見事なまでの寝起きの悪さだ。


 その寝起きの悪さに敗れ、徒労感が漂っている背中に話しかける。


「毎度ごめん」


「いいけどさぁ、別に。なんで起きないかな。あれだけやって」


「ほんと、なんでだろうな」


「毎回起こす身にもなって欲しいよ。次からは、ギャラ請求しようかな」


「ジュースくらいならいいよ」


「えー、安くない? まったく……。じゃ、後は保護者に任せるから」


「保護者はやめてくれ」


「あはは。ま、頑張ってね」


 彼女は僕の肩を叩いてそう言うと、廊下で待つ友人の下へ向かっていった。


 教室の活気は既に大半が廊下へと流れており、残っている人は数える程しかいない。僕も早く帰りたいところだけど、クロを起こす仕事がまだ残っている。


 今日はすぐに起きてくれるだろうか。


 深く息を吐き、肩を回してから席を立った。




「おい起きろ」


「んー」


 手始めに声を掛けてみるが、身動ぎするだけで起きる気配はない。流石に、何度椅子を蹴られても起きない奴がこの程度で起きるはずがなかった。めげることなく、次は肩を掴み突っ伏した体を無理やり起こしてみる。


「なにー」


 全く力が入っていない。覇気もない。脱力の極み。手足投げ出して椅子にもたれる様は軟体動物を髣髴とさせる。なんにせよ起きる気配は毛程もない。


「…………」


 馬鹿正直に挑んでも通用しそうにない。少し手を変えよう。


「朝よ。起きなさい」


 精一杯女声を作って、耳元で囁く。クロの母親の声はよく覚えていないが、多分こんな感じだったはずだ。というか親に起こしてもらっている前提でこんなことをしているが、こいつは毎朝どうやって起きているのだろう。居眠りでここまで熟睡するのだから、目覚まし如きが役に立つとは考えられない。やはり親か、あるいは兄弟姉妹が手を焼いているのだろうか。実情はさておき、クロの家族に勝手に同情する。


「あとで」


「後でじゃない。今起きなさい。遅刻するわよ」


「は? 放課後に遅刻もクソもないでしょ」


「なんだとコラ。お前、本当は起きてんだろ」


「ぐーぐー」


 仕方がない。気は進まないが手荒な手段を取らせてもらおう。


 クロの髪を掻き上げ、露になった白い頬をぺちぺちと叩く。


「んん、おきるおきる」


 すっかり静かになった教室に、柔らかな肌を打つ音が響く。見る人が見ればいじめを疑われかねない光景だ。


「そうだ、起きろ。じゃないと、どんどん威力上げていくぞ」


 そう言っている間にも少しずつ力を強めていく。できれば罪悪感が湧く威力になる前に本当に起きてもらいたい。


「……やっぱむり」


 そう言い残してクロは再び机に倒れ伏した。


 そういう態度をとるなら止むを得ない。不本意だが、温いことは止めよう。


 深く息を吸い、右手を大きく振りかぶる。


 発射用意完了。


「ふん!」


 無情の一撃。


 快音。 




「いったいなあ。もうちょい優しく起こせないわけ」


 赤くなった頬をこれ見よがしに擦るクロを無視して隣の席に座る。


「ここまでしないと起きないお前が悪い」


「なにその暴論。出るとこ出ようか?」


「勝手に出てろ。というか文句は後から聞くから、早く帰るぞ」


「なに? なんかあんの?」


 その言葉に、僕は鞄から折り畳み傘を取り出して答えた。ちらりと窓を見るクロ。


「ああ、なるほどね」


「分かったなら早く」


「ハイハイ」


「ハイは一回!」


「イエス、サー!」


 教室にはもう僕たちしか残っていなかった。今更帰り支度をしているクロを急かす意味も込めて先に教室を出ると、賑やかだった廊下はすっかり寂れている。それなのに、いくつもの部活が奏でる放課後の音は、曖昧な距離感でずっと鳴っていて、どっちが場違いなのか分かったものじゃない。


 ただ、名前も知らない誰かの青春が詰まった音は、無音よりも物悲しくて体に毒だ。天気のことがなくても、なるべく放課後の学校には残っていたくない。


「あちゃー」


 気が抜けるような声が教室から聞こえた。どうも嫌な予感がする。


「なんだよ」


 教室には戻らずに廊下からぼけた調子で反応すると、しばらくしてクロが何かを手に持って出てきた。


「ごっめーん、数学のワーク忘れてた。今日までのやつ」


 爽やかさを絵に描いたような笑顔が眩しい。ああ、頭が痛くなってきた。


「大丈夫。あれだ。宿題とか、そんなもの、えー、存在しないから」


「でも見てこれ。先生からのお達し。最終警告って書いてあるよ」


 無機質な印字が並ぶ白い紙をヒラヒラ揺らしながらへらへらとするクロ。


 宿題を滞納し続けるとそんなものが渡されるのか。今、初めて知った。というか、何故そんなものを渡されるまで放置していたのだろうか。


「その紙さ、見なかったことにして帰らないか?」


「うっわー、悪い奴発見。そんな悪いこと、どこで覚えてくるのやら。悲しいな、友達として」


 呆れた顔で肩を竦めると、クロは鼻歌交じりで教室に戻っていく。


「勘弁してよ……」


 嫌な予感ほど良く当たるというが、その俗説は、たった今僕の中で真実となった。


 ごねていても埒が明かないのでしぶしぶ教室に戻った。多少は申し訳ないと思っているのだろうか、先ほどはおどけていたクロだが、今は黙々と課題に取り組んでいる。


 僕は僕で他にやることもないし、今日出された宿題を片付けるべく自分の席に座った。


 机を一つ挟んで聞こえる、二本のシャーペンが走る音が心地いい。時折ページをめくる音。軋む椅子。がたがたと不安定な机。黙っていても案外賑やかなものだ、と思う。掻き消されることなく耳に届いているこれらも放課後の音なのだと思うと、締め切った扉の向こうに対する居心地の悪さは、いつの間にかどこかへ行ってしまった。


 一足先にシャーペンを置いたのは僕だった。携帯を弄るか、音楽を聴くか、本でも読むか。エトセトラ。時間を潰す道具は幾つか持ち合わせているけど、どれも気が乗らない。かといって教室から出て行くのも憚られて、結局また、窓に向き直った。


 ああ、と漏れそうになった声を強引にため息に換える。小雨。僕たちに気取られないように、雲は、ガラスの向こうで静かに線を描いていた。窓に触れるときでさえ音を立てないから、まるで雨だけが無声映画のものみたいな気がしてくる。こうなることは覚悟していたが、それでもいざ降ると多少気分が沈む。勢いを変えることも止むこともなく続く雨を漫然と眺めながら、諦めや後悔とは違うもやもやした思いを胸に感じた。


 かたり、と音。宿題が終わった。シャーペンを置いた。椅子に凭れ掛かった。深く息を吐いた。肩を回した。こうも静かだと視線を向けずとも様子が分かる。


「お疲れ様」


「あー、うん。ほんとに疲れた」


「今度からは毎回やれよ」


「それはそれで疲れるしヤダなぁ」


 僕を気遣ってか、話しながら慌しく筆記具をしまうクロ。


「いいよ、ゆっくりで」


「え、でも」


 その反応から余程集中していたことが伺えたので、何てことはないという感じで窓を指差す。


「あっ」


 それ以上の言葉を紡ぐ前に、肩に手を置く。


「傘はあるけど、最終下校まで粘るから、付き合ってよ」


 不敵な笑みを意識したのだが、上手く出来ただろうか。


 分からないけれど、クロの表情を見るに、きっと大丈夫だろう。




 先生が雨の降る仕組みについて話してくれたあの日の晩から、僕は雨が苦手になった。より正確に言うと、怖くなってしまった。所詮は夢なのに、落ちていく皆の姿が、地面が迫る恐怖がずっと忘れられない。今も外で鳴っているであろう夥しい雨音は、別の痛々しいものに聞こえるし、雨が肌に触れる度に自分の最期がフラッシュバックして気分が悪くなる。これが例えば、雨水に含まれる何々という成分がアレルギーを引き起こす。だから雨が駄目。とかだったらもっと解ってもらいやすいのだろうけど、こんな仕様もない理由だと上手く理解してもらうのは大変だ。実際、この話をして理解してくれたのは今まで一人しかいなかった。


「とりあえず課題出しに行っていい?」


「ああ、うん、行くか」


 机に広げていた筆記具等をしまい、薄暗くなった教室を出る。数時間前とは違い、廊下にはいよいよ人の気配というものがなかった。


「なんかワクワクしない?」


 隣に並んだクロが覗き込むようにこちらを見てくる。薄暗がりの影響か、悪戯っぽい表情がやけに妖しく見えた。


「ワクワクって、なにが?」


「この雰囲気が。放課後の学校の空気っていうかさ。あんまこんな時間まで残らないじゃん」


 確かに文化祭の準備などの例外を除けば放課後、学校に居残ることは滅多にない。しかしそれは、僕が何れの部活動にも所属していないからであって、


「お前が普通に部活出てれば毎日ワクワクできるのにな」


 一応とはいえ部活に入っているクロが放課後の学校を珍しがるとは、全くもっておかしな話だ。


「部活、部活か。行く気しないんだよねー」


「だったら潔く止めればいいじゃん。その方が後腐れもないだろ」


「でも一度始めたことを途中で投げ出すのはポリシーに反するから」


 そんなことを幽霊部員が言ってもギャグにしかならないのだが、何故こうも誇らしげなのだろうか。


「それにさ、部活に出たら帰り一人なんだよね。結構寂しいんだよ」


「部活のメンバーと帰ればいいじゃん」


「ダメダメ。皆帰る方向違うから」


「全員?」


「全員」


「ふーん。じゃあ一人で帰れば?」


「だから! それが嫌だって言ってんの。あ、でもハナコが毎日待っててくれるなら部活出てもいいかなー」


 冗談か本気か判りづらい。


 別にどっちでも答えは変わらないけれど。


「……やっぱり出なくていい」


「――そう言うと思った」


 三白眼を、猫みたいに細めてクロが笑う。そうして、左肩で持っていた学生鞄を反対の肩に掛け変えると、そのままするりと腕を絡めてきた。


「ちょ――――」


 動揺が足を、板張りの廊下に打ちつけた。クロも並んで立ち止まったが、別に何をするでもなく、何かを言うでもなく、本当にただ、じっとしている。


 平静を取り戻すのに、いや、装うのにたっぷり数秒かかった。それから、ぎりぎりと音がしそうなくらいゆっくり首を回してクロの方を見れば、消火栓の赤い灯りが、くしゃっとした幼い笑顔を照らしていた。


 僕はこいつの、この表情に弱い。それは、たぶん、泣いているように見えるから。


「暑い」


「じゃあ、雨に濡れて帰ろっか」


「死ね」


「うん、いいよ」


 僕は言葉に詰まって、再び歩き出さざるを得なかった。


 歩きにくさを押して、階段を一段、二段、と下りていく。全く力が入っていない、引っ掛かっただけの腕を、どうしてか僕は、職員室に着くまで解けずにいた。




 職員室の戸を引く。古い木製の引き戸は湿気のせいか滑りが悪く、派手な音を立てながら何とか開くことができた。中にはまだ多くの教師が残っていたが、目当ての人物は見当たらない。入り口から近いところにデスクを構えている教師に所在を尋ねると、既に帰ってしまったとのことだ。


「あらま、ちょっと遅かったみたいだね」


「みたいだな」


「まぁ、明日出せばいいよね」


「あー、うーん」


 別に明日改めて提出してもよいが、それだと居残りに付き合った身としては何となく癪で、


「すみません」


 先程と同じ教師にもう一度声をかけた。


「なにかな」


「このノート、机に置いておいてもらえますか?」


 クロが持つノートを示して言う。


「藤島先生のかい」


「あ、はい。そうです」


 教師は作業の手を止めると、面倒臭がる素振りも見せず、白いビニールテープで区切られた境界までやってきた。


 良い人かもしれない。


 名前も知らない教師に好感を持つ。我ながら単純だ。


 ノートが細い手から、皺が刻まれた脂気のない手へと渡る。それを見ていると不思議な気持ちが胸を満たした。


「ところで君達、雨降ってきたけど傘はあるのかい」


 教師が窓の方を見遣りながら言った。視線を追って振り替える。短い間に雨足は少し強くなったようで、刻々と増えていく水滴が、ガラスに映り込んだ僕たちを滲ませていく。


「大丈夫です」


 まだ帰るつもりはありませんので。


「そうか。なら気をつけて帰りなさい」


「はい。失礼します」


「さようなら。ノートよろしくお願いします」


 適当な挨拶を残し、入室時と同じように、また扉をがたがたやって職員室を後にした。教室に戻るか、それともどこか別のところに行くか。踊り場に立ち、この後どう時間を潰すかを考える。


「どうするの」


「うーん、図書室、はもう閉まってるよな」


 携帯を取り出し時間を確認する。画面の隅に表示された十七時二十分。予想とは違い、閉まるにはまだ十分ほど時間があった。しかし、今から向かってもすぐに追い出されるだけなので、時間潰しの方策その一はめでたく廃案となる。最終下校時刻は十九時。まだ一時間四十分も先だ。短いようだが、授業二時間分程度と考えると案外長い。何もすることがないと尚更だ。


「いいんじゃない。特に何かしなくても」


 そう言うとクロは、手すりに腰掛けて、両足をぶらつかせ始めた。


「暇じゃん」


「でも苦痛じゃないよ。あ、」


 振り子のように揺れていた足から上履きがすっぽ抜け、転がる。もう少し勢いがついていれば、廊下に設置してあるショーケースに直撃していただろう。


「あっぶな」


「ごめんごめん。取って」


 何で僕が、と思わないでもなかったが、黙って拾い上げる。


「ありがとう。はい」


 どういう意図なのか、クロは手ではなく、太ももの付け根からつま先までを真っ直ぐ伸ばし、右足をこちらへ差し出す。


「つまり?」


「ついでに履かせて」


 今すぐこいつに雷が直撃すればいいのに。


 馬鹿なお願いに、馬鹿な考えが浮かぶ。当然、上履きは投げて返した。


「薄情な人」


「勝手に言ってろ」


 謂れのないレッテルを一蹴すると、クロはぶつくさ言いながら上履きを履き直した。その様子を見届けてから、手を掴み、手すりから引っ張り下ろす。華奢な体躯がふわりと一瞬だけ宙に浮かんで、それから着地する音が踊り場に響いた。クロは大きく目を見開いて、無言の問いかけをしてくる。その問いに僕は、階段を一段下りてから、


「喉渇いた。自販機」


 と答えた。




「なぁ、クロ」


「なに?」


「さっきのさ……教師の名前なんだっけ」


「袴田先生だよ。三年の担任の」


「よく知ってんな」


「ごめん、嘘」


「嘘かよ」


「三年の担任ってのは合ってるけどね」


「そうなのか」


「うん。だからほぼ接点ないし知らなくて普通かも」


「正直、存在すら知らなかったんだけど」


「それはハナコが馬鹿なだけ」


 上履きの件でへそを曲げたのか、言葉に若干棘がある。


「いいんだよ。同じ学年にさえ顔も名前も知らない人がいるんだから。別に教師の一人や二人を知らなくても変じゃないだろ」


「薄情な人。傘の心配までしてくれた先生なのに」


「それとこれとは別の話。というかお前だって名前知らないんだろ」


「え、知ってるけど」


「なんだよ、じゃあ――」


「だって、別に知りたくはないんでしょ?」


「……まあ、あんまり興味なかったけどさ」


 後が続かなくて会話が途切れると、足音がにわかに鮮明になった。気まずさを恐れて話の種を探すけれど、十秒も経たないうちに馬鹿らしくなってやめる。階段が長くなったようだ。頭の中で自分の足音をなぞりながら黙々と足を動かすけれど、味気なくて欠伸が出そうになった。あるいはこの味気なさが、話の種になるかもしれない。そんなことを考えたが、結局口には出さなかった。


 一階に着いてもまだ言葉はなく、無言のまま廊下を行く。クロは、窓ガラスに指先を滑らせながら、少し前を歩いている。とてもつまらなそうに。


 一階にある家庭科室では調理部が今日も何かを作っているようで、甘い香りと、高い声が外に漏れている。それらは雨音と混じりあって僕まで届く。また少し、自分が放課後の学校にいることに対して、場違いさを感じてしまった。だからといって耳を塞いで、鼻も摘まんで歩く、というわけにはいかないので、せめて家庭科室から遠ざかろうと、足早に前を通り過ぎる。


 長い廊下を抜け、ようやく自販機まで辿り着く。二階からこの場所までの距離なんて知れているが、やけに長く感じる道のりだった。そのせいか渇いた喉が一層水分を欲している。


 二台並んだうち紙パックを扱っているものは無視して、缶やペットボトルを扱っている方の前に立つ。五百円硬貨を入れ、迷うことなく灯りの点ったボタンを押すと、乱暴で無機的な音と共にペットボトルが排出された。続いてスイカの種を吐き出すようにお釣りが吐き出される。しゃがみこんで取り出し口に手を突っ込むが、ふとそこでクロの姿がないことに気がつく。きょろきょろと左右を見回すと、隣の自販機の影から足が伸びていた。


「汚れるぞ」


 商品とつり銭を取りながら声を掛けると、


「いいのいいの」


と短い言葉が返ってくる。


「あっそ」


 こちらも短く返し、今しがた買った飲み物を小脇に挟み立ち上がった。シャツ越しに冷たさを感じながら、お釣りの一部を自販機に食べさせ、今度は別のボタンを迷いなく押す。


 ペットボトルが、代わり映えしない音と共に出てくる。それを手に取って、床に座るクロの前に、伸ばした足を跨ぐ形で立つ。見上げる視線と見下ろす視線がぶつかった。困惑した表情を湛えていたクロの唇が動いて、何かを言おうとするが、それを遮るように買いたての炭酸飲料を手から放す。重力に引かれるそれは、束の間の落下の果てにクロの太ももに着地した。


「うわっ、冷たっ、なに」


 騒ぎ立てるクロを流し目で見つつ、右隣に腰を下ろす。


「あげる」


「はぁ?」


「ミスって買ったんだよ」


 それだけ言うとキャップを開いて、三分の二ほどを一気に流し込んだ。よく冷えた水が沁み渡る。


 クロは太ももに乗ったペットボトルをまじまじと見つめた後で、ようやく手に取り、封を切った。


「ぷはぁ、いやー、ありがと。やっぱ喉渇いたときは炭酸に限るね」


「炭酸の何が美味いんだか解らん」


「お金払ってまで水買う方が解んないよ。ウォータークーラーだってあるのに」


「ウォータークーラーよりこっちの方が美味い、気がするんだよ」


「味の違いが分かるってやつ?」


「味の違いが分かりたいってやつ」


「へえ」


「……なんだよ」


「ううん、何でも。あのさ、」


 言葉の続きを待っていると、クロは体ごと横を向いて僕の肩に後頭部を預けてきた。それからジュースを、白くて起伏のない喉を鳴らして飲み始める。首を傾げるとその音が、少しだけ大きく鼓膜を震わした。


 嚥下音が止まって、しばらくしてからクロは話を再開する。


「ハナコはさ、今日みたく放課後に残るの好きじゃないよね。なんで?」


「なんでって」


 まるで予期していなかった質問に面食らう。


「帰宅部なのに残ってたら変だろ」


「でも残って喋ったり、勉強したりしてる人はいっぱいいるよ」


「それはそうかもしれないけど、普通は授業終わったら帰るもんだろ」


「普通?」


「ああ、普通」


 都合の良い一般論に、クロはしばし考え込んで、


「じゃあ、特別なことしようよ。偶にでいいからさ」


「具体的には?」


「下らない話」


「そんなのどこでだってできるだろ。別に、学校じゃなくったって」


「学校で話すのは学校じゃないとできないよ」


「それは……」


 その通りかもしれないが、屁理屈じみていて、素直に納得できない。


 部活に所属していない生徒が大勢いることは知っている。自分が放課後の学校にいても変ではないことは解っている。ただ自意識過剰なだけ。時折感じる居心地の悪さなんて、瑣末な理由が一つでもあれば消えうせる程度のものなのだ。


 それでも、紛い物じゃない蟠りを易々と笑い飛ばすことが、僕には出来ない。


「ならさ、雨の日の放課後だけでいいから。今日みたいな感じでさ」


「今日はお前の課題があったから残っただけで、雨の日だって、別に無理すれば帰れるから」


「強情だなー。そんなこと言うなら、雨降ったとき一緒に帰ってあげないよ」


「なんでそうなるんだよ。いいよ、じゃあそんときは一人で帰るから」


「無理しちゃって」


「無理じゃない」


「へえ、じゃあ、試してみよっか」


 言うが早いか、クロはいきなり立ち上がり、昇降口の方へ歩き出した。


「おい、クロ」


 呼びかけには応えず、そのままずんずん歩を進め、上履きのまま外へ繋がる扉を開く。


 良からぬ予感がするが、無視するわけにもいかず渋々後を追いかけた。


 クロに次いで扉を抜け外へ出ると、コンクリートを叩く雨音が直に耳を汚す。夢の光景が脳裏にちらついて、脂汗が滲む。


「おい! なにをする気だ」


 余裕を欠いているせいで語気が強くなる。クロはちらりと振り返ったが、それ以上の反応は示さず、庇の下から降りしきる雨の中へと飛び出していった。


「馬鹿っ、なにやってんだよ」


 クロは雨に打たれて見る間に濡れそぼったが、微動だにせず、ただこちらに向き直って静かに笑っている。


「こっちに来て」


「はあ? なに言ってんだ」


「傘差しながらでいいから。ここまで来て」


「だから、意味分からないって」


「一人で帰れるって言うなら、一人で雨の中歩いても、平気なんだよね」


「それは…………」


「ほらほら、早くしないと部活終わりの人たちにすっごい変な目で見られるよ」


「知るか。早く戻って――」


「ハナコ」


 静かな声が、僕の綽名を呼んだ。


 この状況で、おかしなことをやっているのはクロのはずなのに、どうしてか、自分が間違っているような気がしてくる。


「お願いだから」


 僕が苦手な、泣き顔みたいな笑顔で呼ばれるだけで。


「わかったよ、クソッ」


 踵を返し、下駄箱の横にある傘置きから自分の傘を抜き取る。


 呼吸を整え庇から出ると、傘地に雨滴が降り注ぐ。ここ数年、雨中を歩くときは音楽を聴いたりして耳を塞いでいたので、こんなに近くで生々しい雨音を聞くのは久しぶりだ。おかげでとても気分が悪い。脂汗に加えて、踏み出す足が微かに震え始めた。出来ることなら今すぐ引き返したい。だが、それでは眼前の馬鹿は納得してくれない。最前に折れなかった自分を恨みながら、仕方なく歩み寄っていく。せめてもの意地で、足の震えに気付かれないようにしながら。


 目算で十メートルにも満たない距離。


 歩数にしてたったの十一歩。


 それに何十秒もかけて、やっとクロの前に立つ。


 重たげな黒髪や顎からは雫が止め処なく垂れ、足元で溶けて消えていく。その姿に罪悪感のようなものを感じて、もうとっくに手遅れだが、一応クロを傘に入れた。


「早く戻るぞ」


 ぐしょ濡れの右腕を掴んで、有無を言わせず引っ張る。けれどクロの足は動かない。それどころか、僕の手を振りほどいて、逆に掴み返してくる。


「クロ」


「すごく苦しそうだね」


「分かってるなら、少しは労わってくれ」


 冗談めかして言ってみるが、正直なところ、余裕なんてこれっぽっちもない。


「ずっとこうやってれば、雨のこと、余計に嫌いになるかな」


「なるだろうな」


「なら、このままここに居たいな。それでもっと、もっともっともっと雨のこと嫌いになってよ。今日みたいな日に、放課後の学校に残る理由になるくらい。帰る気もなくすくらい」


 腕にかかる力がぐっと強くなって、クロの掌が食い込む。張り付いた髪の隙間から覗く目は、見ていると飲み込まれそうなほど、力なく見開かれている。


「痛い」


「うん、痛くしてる」


「雨より先にお前が嫌いになりそうだ」


「それができるなら、もうとっくに嫌いになってるでしょ」


 言いながら、可笑しそうに笑う。


 否定も肯定もできない。かといって、上手くごまかすこともできなかった。


 ああ、僕の負けだ。


「雨の日だけな」


「え?」


「雨の日だけなら、放課後、残ってもいい」


「本当に? 言質、とったからね」


「ハイハイ」


「あれ、ハイは一回なんじゃないの?」


「うるせーよ」


 傘の柄で頭を小突くと、ぱらぱらと雫が落ちる。


「ふふ、いったいなあ」


 僕の腕から、クロの感触がいなくなる。


 軽やかな足取りで校舎に戻っていく背中の後を追いかけて、僕も歩き出した。




 校舎内に戻ったはいいが、依然クロは濡れしょぼたれたままなので、置きっぱなしになっていた鞄からタオルを引っ張り出す。


「用意いいね」


 髪を拭きながらクロは暢気そうに言った。


「こういうときの為に持ち歩いてるんだよ」


「なら、持ち腐れにならないでよかった」


「なったほうがいいって分かってんのか」


「分かってる分かってる」


 まるで分かっていなさそうな口ぶりが、いっそ清清しい。


「なあ」


「んー、なに?」


「なんで、放課後の学校ってのにこだわるんだ?」


「えー、うーん、どう言えばいいんだろ」


「気まぐれ?」


「いや、なんていうかさ、そういう思い出が欲しくなっちゃったんだよ」


「なんだそれ」


「僕もわかんないや」


 困ったように笑うクロを横目に、結局止まなかった雨のことを思う。


 今は止む気配を見せないこの雨もいつかは必ず止み、そして遠からず次の雨が降る。


 もし運良く、いや運悪くタイミングが合えば、そのときは放課後の学校で下らない話をするのだろう。そんな機会が何度あるのかは、今は知りようがないけれど、クロが欲しがる「そういう思い出」は、僕にとっても思い出となるのだろうか。


 大嫌いな雨が降る思い出を、いつか振り返るときがくるのだろうか。


 そんなときが来るなら、クロに感謝しなければいけない。


 だって、その「いつか」で、僕は雨を好きになる。


 予感ではなく、これは、約束。




 最終下校時刻を告げるチャイムが鳴った。



お読みいただきありがとうございました。

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