続縄文文化
おいしいそばを食べられる店がなかなかありません。黒姫の物産館のそばは確かにおいしいですが、それ以外だと支那そばになってしまう。やっぱりそばは家で食べるものなのかもしれません。難しいものです。
稗・粟・そばなどの十二穀にも文化があります。食文化というやつです。だいたい十二穀にそばを入れるかどうかでひと悶着ある。やっぱり、文化とは生死をかけて争うだけの趣味の問題なのです。
稗に歴史で、稗史と読みます。稗を栽培するような人びとの歴史、広く民衆の歴史のことです。世界の正統や王権の歴史は、米作・大麦・小麦を「神の穀物」としてきました。でもそうじゃないでしょ、ほんとうの歴史は稗・粟・そばにあるし、ほんとうの神もどこかそのへんにいるはずだよ、というのが稗史なのです。
今回の続縄文文化も、北海道に生まれて、やがて東北の稗・粟栽培にむすびつきました。これって、じつは社稷というものなのです。
まず、縄文時代が終わるころ、北海道南西部に恵山文化が生まれて恵山式土器がつくられます。恵山式土器にはカップやボールが形どられ、高杯・かわらけの形状の弥生式土器とは区別されます。熊をキャラクタリゼーションしたのが画期的でした。骨角器では、銛やヤスがイルカ漁に都合よい仕組みになっています。
恵山文化は、物質文化は交換によって獲得される、という大きな教訓を教えてくれます。弥生文化の影響を受けた管玉や首飾りなどが発見されているのです。しかし、交換によって得たものに意味づけをするのはあくまでエンドユーザーである受け手の文化です。わたしたちがホーキングのビッグバン主義を拒否する、とひとこと言いさえすれば、ビッグバンに依存しない新たな物質文化が形成されるのではないでしょうか?ぎもんふです。
そうするうちに、3世紀に北海道中央部で江別文化が形成されます。江別文化の土器は、後期北海道式薄手縄文土器、を略して後北式土器、とか言われたりします。この後北式土器は広く東北北部に南下して新潟県の柏崎にも痕跡を残しています。北陸道と東山道の「北のつながり」はもっともっと注目されてよいと思います。
南西部の恵山文化と中央部の江別文化がつながって、5世紀ごろ北大式文化が成立します。北大式土器には、続縄文文化の要素と東北地方を北上してきた古墳文化の土師器の要素の混合がみられます。とくに底面には木葉痕がみられました。タケの葉を湿った土に押しつけて模様をつける、シリコン形成技法です。物質文化の融合の煌めきです。
7世紀、北大式文化の終わりごろ、オホーツク海沿岸で古コリヤーク文化の影響が新たに文化発展をもたらします。擦文文化とオホーツク文化の混合が、ひとつの大きな「北海道科学」の高まりへと至っていくのです。文化評論ぱちこーんでした!
城山でおこじょ見ちゃった!