赤ワインと白ワイン
「Iさんの異動が決定致しました。関東を離れて来年新設予定の関西エリアに配属になります。」
思わずメモを取る手を止める。
嘘でしょ、関西に異動だなんて。
「「「お疲れ様でした。」」」
ボーッとしていたら会議が一通り終わっていた。ゾロゾロと会議室の外を歩く群れの中で他部署の人達が話している声が聞こえてくる。
「こう言っちゃなんだけどさ、清々するよな。」
「本当!やっと異動ですね。しかも関西!大変そうー。」
「確かになぁ。まぁ表向きは期待されてるって事でいいんじゃないの?頑張れ頑張れ!笑」
「なぁ、一応送別会やるんだろう?面倒くさいなぁ。送別品とか何かあげる?」
周りから紡ぎ出される言葉はどれも醜い。
なんなんだよ、こいつら。
皆、自分の事ばっかりで。
Iさんは、部長の下にあたる地位の人である。
とても仕事に厳しい人であり、細かい。
まだ入社して三年そこらの私が見ても思うのだから間違いない。
私なんかはまだまだ相手にもされていないのだろうが、先程グチグチ言っていた奴らはきっとIさんと日々仕事をしてきた人達で。きつい事を言われたり、無理難題を押し付けられたりしたのだろう。
また無表情で冷徹な眼差しのIさんは、社内の人と親しげに話している様子も見かけないし、笑っているところも見た事がない人がほとんどであろう。それ故に勘違いされてしまう事が多いのだと思う。
だけど、私は知っている。
Iさんの笑顔も、笑い声も、優しい眼差しも。
これは誰にも言えない、秘密。
それ故に、私はIさんの異動がショックでならないのだ。
女同士の派閥。
私が一番嫌いな状況。
入社して1年が経った頃、部署内に派閥が出来た。
派閥と言ってもAさんとBさんが対立していてそれぞれの仲良しグループが日々、バチバチ火花を散らしていたというだけなのだけど。
私はどちらにも所属せずに、またどちらにも同じ態度で接し続けた。半年程はそれで上手くやっていたのだが、ある日、堰を切ったようにBさんが退職した事をきっかけに全てが崩れる。
派閥がある事を知らなかったと喚き出す上司や他部署の者たち。本当は皆知っていた癖に。業務に直接の支障はないからと目を瞑っていた癖に。
そんな中、どちらの味方にもならなかった私を見て直属の上司が言い放ったのだ。
「お前は何をしていたんだ。報告もしてくれなかったじゃないか。それにどちらとも仲良く出来ていたなら何故上手く間を繋げないんだ。」
私は絶望した。こんな事を言われる筋合いはない。
悔しくて悔しくて言い返せない自分が本当に情けなくって。
こっそりと外に出て一人ベンチに座って泣いていた。
その時に声をかけてくれたのがIさんだった。
Iさんに言うべきか迷ったけどあの時の私はいっぱいいっぱいで、ついついIさんに頼ってしまった。Iさんはずっと黙って話を聞いてくれた。それは辛かったね、君のせいじゃないよ、俺から言ってあげるよ、一人で抱えるなよ、頑張ったね、その言葉と共に向けられた優しい眼差しと笑顔に私の心は癒されたんだ。
Iさんが異動するまで後、数日。
送別会には出席する事になっているが仕事があるから恐らくちょっと顔出す位だろうなぁ、なんて思っていた時、Iさんにばったり出会った。
「今帰り?」「はい!」「被るの珍しいね」「そうですね」
二人で話すのはあの時以来だ。
なんとなく一緒に並んで歩きながら駅へ向かう。
「異動なんですね。寂しいです。」
「ついに来ちゃったねー。送別会来てよ。」
「もちろんです!でも仕事の都合で少ししか参加出来ないかもしれないです。必ず顔は出すので!」
「そっか、残念だなぁ。」
沈黙が続く。
「・・・・今日さ、これから二人で送別会しようよ。」
突然の誘いに、戸惑いを隠しきれない。
けれどいい機会なのかもしれない。
あの時のお礼、ちゃんと言いたいし。
ひょっとしたらもうこの人とはこれから先、二度と会えないかもしれないんだ....。
「はい。行きましょう!」
あれから、私は定期的にIさんに会っている。
初めて帰りに二人で食事に行って。
数日後に、送別会があって。
その二週間後にもう一度二人で食事に行った。
そして今日、二人で会う三回目の食事。
彼はもうすぐ関西へ引っ越してしまう。
その前にもう一度だけ、とどちらともなく食事に誘った。
イタリアンのお店でワインを飲み、たわいのない話をする。
今だから言えるぶっちゃけ話や実は社内恋愛をしている人達の情報や巷で話題の有名店の話、話題は尽きなかった。
優しい眼差しで見つめ合う。とびっきりの笑顔を添えて。私だけが知っている、彼の姿。そう思う度にあぁ、こうして会うのもいよいよ最後か、と思っと寂しい気持ちになる。
お店を出て駅へ向かう。
名残惜しいけどそんな事は感じさせないように明るく振る舞う。
その時、ふと髪に触れてくる温かい手のぬくもり。
駅とは反対方向へ手を繋ぎながら歩く。
彼の左手の薬指には聖なる誓いのリングがはめられていて、握り締められる度に痛い位にその事実とリングの冷たさが伝わってきて。
だから私は気付かないふりをしていたんだ。
自分の気持ちにも、彼の思惑にも。
気付かないふりを、ずっと、していたのにな。
END