後編
「結石ができてる、ってお医者様が言ってたわ」
チワワが赤茶けた尿を放出した日の夜、母は夕飯の後でテーブル越しにそう報告してきた。
「超音波で検査してね、4ミリくらいなんだけどね、尿路結石ができてて、ちゃんと治療が必要だって」
4ミリの結石。
一見小さいようだが、片腕で抱き抱えられるくらいのチワワの内蔵にある異物としては、決して油断できない大きさだ。幸いなのは、早期に発見できた事だろうか。
朝に尿の違和感に気づいてから、チワワをすぐにペット病院に連れて行く事を主張したのは母だった。「気のせいかも知れない、もう少し様子を見てもいいかも」と思った俺より、随分と的確な判断をしてくれた。
というか、本当にチワワを大切に思っているなら、どれだけ些細な違和感でも医者を頼るべきというのは当然の事だ。取り越し苦労ならそれで良し、異常があるなら早い内に看てもらうに越した事はない。
俺がチワワを扱う気持ちが雑だった事実を突きつけられ、微妙にダウナーな気分になるが……しかし、今はそれより優先すべき事がある。
「それで、治療って何なのさ?」
「えっと……まず、専用の餌を食べさせるみたい。ほら、病院で貰ってきたの」
そう言って、母は小分けになったビニールパックを取り出す。見た目は今までの粒餌とそこまで変わらないように見えるが、外装に『尿結石の犬の食事管理を目的に~』と書いてある。どうやら、歴とした犬用医療食のようだ。
「それじゃあ、ちょうど人間のご飯の後だからチワワもご飯にしようか。ほら、おいで」
母がそう言ってから名前を呼ぶと、バタバタバタと音を響かせつつチワワが走り寄ってきた。「遊ぶ? ねぇ、遊ぶの!?」と目が主張しているようで、なんとも微笑ましくなる。
「はーい、チワワちゃーん、新しいご飯よ~?」
母はそう言いつつ、床に置いた専用の餌皿にザラザラと医療食を入れる。チワワも、遊ぶために呼ばれたのではないと気づいたようで、皿に盛られた新しい餌をクンクンと嗅ぐが……。
「あー、お気に召さなかったみたい」
と、俺はボヤく。
ある程度だけ餌の匂いを嗅いだチワワは、興味をなくしたようにそっぽを向き、今では俺の足指を舐めたりしている。
「こーら、これはチワワちゃんのお薬でもあるのよ? ほら、ちゃんと食べなさい」
母は言い聞かせるようにして、椅子に座ったままチワワを抱き抱えた。そして、餌皿もテーブルの上に乗せて、その中から数粒を自分の手に取る。
「はい、あーんして、あーん」
一粒、チワワの口元に医療食を持っていく。
果たしてどんな効果があったのか、渋々といった体ではあるものの、チワワは餌を徐々に食べ始めた。ふやかした柔らかい物しか食べられなかった頃と比べると、カリカリの粒餌を食べられるようになった今は随分と感慨深い。
「よーしよしよし、よく食べられましたねー!」
そして、チワワがちゃんと餌を食べ終わると、母は語尾にハートマークが付きそうなレベルでこの元気一杯なお姫様を撫でまくる。
お婆ちゃんが孫を甘やかすが如き光景だが、ちゃんと目的を達成してから褒める辺り、理にかなっている。チワワだって満更ではなさそうだ。
「後は、お水と……それからお散歩も大事みたい」
「うーん、やっぱり家の中だけじゃ限界があるか」
事が尿に関係するので、水分を沢山摂らせた上で運動の量も増やした方が良いらしい。座敷犬とは言っても、永久に屋内で過ごす訳にはいかないのだ。
「じゃあ、明日は休日だし、早速表に出してあげようか」
最後に父がそう締めくくり、とりあえず車で近くの自然公園まで連れて行く事となった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
8月、俺は日課となったチワワの散歩の準備をしていた。
「チワワー、散歩だぞー」
呼びかけてみると、チワワは露骨に不満そうな顔つきになる。普段なら、俺が近寄ると遊ぶために玩具を咥えて来るのだが、『さんぽ』という単語を聞いた瞬間に態度が急変する。
テーブルの下に潜り込み、耳はペタンと垂れ下がる。それを半ば無理やり引きずり出して、胴と前足を囲むリールを着けてやる。その間も、嫌そうな表情は保ったままだ。俺もあまり良い気分はしないが、運動のためには仕方ない。
後は、散歩用のスコップやらペーパーのような諸々が入った手提げ鞄を持って準備完了だ。チワワを抱き抱えて、玄関から出してやる。
「今日の地面は……っと。うん、大丈夫かな」
そして、俺は手の平をアスファルトの上に乗せて何秒か待つ。時刻は夕方、地面は熱を持っているが、大してキツくはない。
「まぁ、当然っちゃ当然だよな。人間が素肌で熱いと感じるなら、犬の素足でだって熱いんだ」
だから、真夏の迂闊な散歩は、犬が足を火傷する原因になったりするらしい。そのために、犬用の靴も存在するらしいが……いかんせん、我が家のチワワは自分の体に何かがまとわりつくのを異常に嫌がる。
犬用の服もすぐに脱ぐし、首輪も大暴れして着けられない。散歩が嫌いな理由の一つに、リードを胴と前足に巻かれるというのもあるのだろう。
「じゃあ、行こうか……って、急ぎ過ぎ! こっちのペースに合わせろ!」
「ハッ! ハッ! ハッ!」
そして、いざ散歩が始まると全力で走ろうとする。実は散歩が大好きで、家から出るのが億劫なだけのモノグサ犬……という訳ではない。むしろ逆だ。
さっさと散歩を終わらせて、散歩の後に『ご褒美』として貰えるオヤツを期待しているだけだ。要するに、少しでも早く家に戻りたいのである。
「ハッ! ハッ! ハッ!」
「だーめ、ちゃんと人間のペースに合わせるんだ」
だが、ここで犬に引きずられてはいけない。人間が主導権を握らないと、犬は自分が上位だと思って言う事を聞かなくなってしまうのだとか。
小型犬なのに、結構なパワーでリードを引っ張るチワワをなだめつつ、俺は始めての外出の時を思い出す。
「やっぱり、最初で『外』に苦手意識がついちゃったかなぁ……?」
最初に近所の自然公園に連れ出した時、チワワは明らかにキョドキョドとしていた。
青々とした芝生と、それなりに過ごしやすい気温。だというのに、あまりに落ち着いていない。何か悪かったのだろうか? この公園じゃダメなのか?
その日のチワワはあまり元気が奮わなかったが、実家に戻るといつものようにバタバタとおおはしゃぎした。そのため、場所が合わなかったのだろうと思い、次週の休日は別の公園へ行く事にした。
しかし、次の公園もダメだった。
噴水や流れる水場にも興味を示さない。そういう物に好奇心を向ける以前に、どうにも落ち着きなく周囲を見回しているだけだ。
そこで、俺達はようやく気づいた。このチワワが、病院のような『屋内』以外で明確な『外』に出るのが始めてだという事に。
キョドつくのも当然だ。いきなり知らない場所に連れて来られたら、それは警戒するだろう。我が家に来た時は特に問題が無かったため、スッポリと頭から抜け落ちていた。
だから、その次の日からは実家の周囲だけを散歩させる事にした。
最初は落ち着きなくしていた様子のチワワだったが、1週間も同じコースを辿ると大分慣れが出てきたらしい。今では『いつも通りのコース』を先読みして、グイグイと人間を引っ張るくらいだ。途中にオヤツ(これも医療用だ)をあげたりして、何とか気を引いたのが功を奏したのだろうか?
しかし、一度付いた苦手意識は中々抜けきらないらしい。
外に出れば出たで、オヤツのためにかさっさと散歩を終わらせようとするのだが、自分から進んで散歩を行こうとは決してしない。
もっぱら、家の中でボール遊びをしたり猫にちょっかいをかけたりするのがお好きなようだ。
「要反省だよなぁ。最近は、クロも飽きたのかあまりチワワに構ってくれなくなったし……って、引っ張るなって!」
「ハフッ! ハフッ!」
そうして、俺とチワワの散歩はいつも通りに進む。
実家の近隣をぐるりと回る散歩コースなのだが、散歩の終わり際に我が家が見えた時のパワーはかなりの物だ。そんなに早く帰りたいか、オヤツが欲しいか、生意気な奴め。
「よーしよしよし、よく頑張ったねー!」
「ガツッ! ハフッ!」
まぁ、ちゃんとオヤツはあげるのだが。
チワワの足を濡れタオルで拭きながら、棒状のオヤツを食べる姿にホッコリとするのだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
9月、今日も今日とて我が家は動物園状態だ。
最近とみにチワワの餌を狙っているキジトラを、鶏缶でなだめてみたり。
夜中に布団を出そうとすると、押入れの中で眠っていたクロに爪と牙で反撃を受けたり。
放り投げたボールはビュンと追いかけて咥えて戻ってくるのに、中々ボールを離さないチワワと遊ぶのに苦慮したり。
ハッキリ言って、ペットを飼うとなると金と時間はガッツリ消費せざるを得ない。
以前は2~3日に一度だった掃除機がけも、今では1日怠るだけで家中が毛玉だらけだ。餌代やトイレ用品代も馬鹿にならないし、処理の手間だってかかる。負担は決して無視できないレベルで、間違いなく存在している。
だが、そうした諸々を差し引いても、俺はこのペット達に会えて良かったと思う。家に帰れば、「おかえり」より先にニャーニャーワンワンという声が聞こえるのが、とても心癒される。
だから、同時に怖くもある。おそらく、こいつらは俺より先に逝くだろう。ペットロス状態になった時、俺はどうしようもない喪失感に襲われると思う。
それでも、せめてこいつらが居心地の良い空間は作ってやりたい。人間のエゴでも押し付けでも、一度飼った以上は放り出す事などできるはずもない。それが、飼い主として最低限の責任だろう。
父も母も、その点においては信用できる。家族を見捨てないような家族で、本当に良かったと思っている。
今日も今日とて、我が家は動物園だ。
他のどこにも無い、我が家だけの動物園だ。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。