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中編

 6月の夕飯後、俺達は汚物の処理に追われていた。


「あー、またやっちゃったかー……」


 キョトンとしたあどけない顔を見せるチワワとは対照的に、俺はため息をつきながら彼女がひり出したウンチを専用のペーパーでくるんで摘まみ上げた。便利な紙もあるもので、後は人間用のトイレにそのまま流せばいいらしい。そのため、処理自体は楽と言えば楽だが……。


「やっぱり、トイレの位置を覚えてくれないなぁ」


 俺はそうボヤく。

 チワワを1週間程ケージの中だけで過ごさせた後、始めてリビングに出した時は見物だった。最初はキョドキョドと周囲を見渡した後、絨毯におっかなびっくり足を乗せ、木製のテーブルの匂いをスンスンと確かめていたりと、実に和やかな動きしていた。

 俺や両親という3人に加えて猫2匹が見守る中だからか、最初はそうした警戒心がありありと見てとれていたのだが、状況に慣れて好奇心が発露した後は凄かった。バッタバッタと床を四足で叩きながら滅茶苦茶に走り回り、ソファーの下に潜り込むわカーテンの裏を執拗に確認するわで、途轍もない元気を発揮していた。

 俺達だって、スマホの動画にその姿を目一杯収めたものだ。


 問題は、その後にあった。

 何とはなしに動きを止めた後、チワワはフルフルと体を震わせた。嫌な予感がして咄嗟にそのちんまい体をどけてみると、残っていたのはオシッコとウンチだった。一応、ケージの中で使っていたトイレも外に出しておいたのだが、使ってはくれなかった。おかげで、絨毯の処理に非常に手間取った。

 それ以来、チワワをリビングに出す時は、床に新聞紙を敷き詰める事が我が家のルールになっている。そして、今日も今日とてチワワはトイレを使わず、新聞紙の上で粗相をしてくれてる訳だ。


「確か、怒鳴っちゃダメなんだっけ?」

「そう言ってたわね。ウンチをする事を怒られたと思って、隠すために食糞をする事もあるみたい」


 チワワをケージに戻し手をよく洗った後で、ペットショップの店員から聞いた躾情報を母に確認する。


「つってもなー、中々トイレの位置を覚えてくれないし。ケージの中ではちゃんとトイレを使ってるのに、外に出るとどうして粗相しちゃうかな?」

「外は広すぎるからね。ケージの中なら自分の寝床以外にウンチやオシッコをするだろうけど、外なら気兼ねする必要が無いんじゃないか?」


 父はそう言って、ソファーに座りながら膝の上に座布団とキジトラを乗せて、尻尾の付け根をトントン叩く作業に戻る。

 確かに。チワワのケージは二つに分けられていて、一方が毛布や犬用ベッドのある寝床で、もう一方がトイレになっている。その状態なら、ウンチを玩具にしない限りは自分が寝る場所以外で用を足すだろう。


「しかし、そうなるとどうやって対策しようか?」

「『ウンチの気配を察したら、ケージに戻すかトイレの上に連れて行って下さい』とも言われたけど……うーん、難しいね」


 ウンチの気配を察する。

 一月程度とはいえ、ずっとチワワの状態を見ていたから、何とはなしにそういう事はできるようになっていた。特に、母はかなり敏感なようで、一度チワワがウンチをする前に持ち上げる事に成功したのだが……。


「でも、この前は惜しかったわよね。持ち上げてる途中でプリプリ漏らしちゃうんだもん。ポトポト落ちていくウンチがおかしくって!」


 そんな感じである。

 猫2匹の時はそこまで苦労しなかったような気がするが、犬のトイレトレーニングは随分と難しい物だった。



 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 それから何日か後、各人のスケジュールの都合で、俺一人が昼間の家に残る事があった。

 最近、チワワは外で遊ぶ事に慣れてきたようで、動きたい時間帯になるとアクリル板で覆ったケージを前足でバンバン叩くようになった。吠えないのは立派だが、うるさい事には変わりない。


「はいはい、今出してやるから待っとけって。新聞紙を敷くからな」


 そうして、俺は床に新聞紙を敷き詰めていった。絨毯が届いていない、フローリングまで満遍なくだ。


「あー、面倒だからトイレはこのままでいいか」


 どうせ、新聞紙は床全体を覆っている。外に出したチワワがトイレを使ってくれた試しはないし、別にこのくらいの手間は省いても構わないだろう。そんな怠慢だった。

 そして、チワワのケージを開けてやる。チワワは、待ちかねたとばかりに勢いよく飛び出して来て、至近にいた俺の顔をペロペロと舐めようとする。


「ハフッ、ハフッ、ハフッ」


 こいつはどうやら人の素肌……その中でも顔が好きらしく、体勢を低くしていると途端に顔面に突っ込んでくる。顔がヨダレ塗れになるのはごめんなので、チワワを両手で適当に引き剥がしつつ、ソファー横の猫ポールの中段でくつろいでいたクロを呼び寄せる。


「クロ、後は任せた」

「ナァ~……」


 面倒くさそうにしつつも、クロは呼びかけに応えて床に降りて来てくれた。

 クロは何だかんだで面倒見が良い。最初こそ、チワワに対して警戒心をあらわにしていたが、今では遊び相手になってくれている。チワワが遠慮無しにワシャワシャとじゃれついてくるのを、尻尾で適当にあしらいつつ自分も楽しんでいるようだ。おかげで、俺もソファーで本を読みつつ、横目にチワワを見る事ができる。

 この辺り、クロとチワワのどちらにも排他的で、人間以外が自分に近づくと威嚇してくるキジトラとはまるで違う。


「キジトラー、お前もクロを見習えよー?」

「ハッ」


 クロとチワワがじゃれている間にも、猫ポールの最上段で我関せずを決め込んでいたキジトラに呼びかけるが、鼻で笑われてしまった。こいつは、既に妖怪(ネコマタ)になっているのではないだろうか?

 ……と思いきや、キジトラまでスルスルと猫ポールから降りてきて、ソファーに座っている俺の横にちょこんと座る。そして、俺の顔をジーッと見てきた。


「ああ、膝に座りたいか。ほれ、来いよ」


 そう言って膝をポンポンと叩くも、キジトラの反応は芳しくない。相変わらず、俺の顔を見ながら『何か』を要求するだけだ。


「あー……? ああ、そうか。ほれ、座布団敷いたぞ」


 そうしてソファー脇にあった座布団を膝に乗せた瞬間、キジトラは当たり前のように座布団越しの膝の上に乗っかってくる。

 6月で日中で自宅内という事もあって、俺は下着姿で過ごしていたのだが、それがキジトラにはお気に召さなかったらしい。こいつはチワワとは逆で、人間の素肌が嫌いでズボンや座布団のような布越しでないと、膝の上に乗っからないのだ。

 まったく、そんなに俺の太ももは嫌か? ……そりゃ嫌か。俺でも毛むくじゃらの太ももに直乗りは嫌だ。


「ナァオ」

「はいはい、分かりましたよっと」


 そして、お姫様気質なキジトラの要求には際限が無い。膝の上に乗ったら乗ったで、喉をコリコリと掻かせるか、尻尾の付け根をポンポン叩かせるかまで、未練がましくこちらを眺めながら不満げな声を上げ続ける。

 俺は一旦本を読む手を止め、尻尾の付け根と喉を両方攻めてやる。


「ブシュ、ブシュシュ、グリュリュリュリュゥ~……」


 女の子の筈なのに、オッサンのような鳴き声を上げるキジトラ。実に気持ちよさそうで何よりだ。喉を掻いた俺の指には、凄い勢いで毛がまとわりついた。丁度、抜け毛の時期だから仕方ない。


「お前らの毛皮は暑そうだなぁ、脱げばいいのに」


 母の十八番である冗談を呟きつつ、リビングで動物3匹を見守っていた。

 しかし、そこでもう1匹の猫が行動に出た。


「フゥ……」


 どうやら、チワワの相手をする事に飽きたらしい。クロは一つため息をついた後、リビングのドアを開けて出て行ってしまった。


「開けたら閉めろよ……ってのは、流石に無理か」


 鍵がかかっていない限り、クロは大概の扉を開ける事ができる。

 リビングの開き戸も、ノブにぶら下がるようにして開ける。和室の引き戸も、ちょっとした隙間から腕を差し入れて開ける。風呂場の折り戸だってお構いなしだ。例外は、重すぎる玄関扉くらいだろうか。キジトラはできない辺り、猫でもオスメスで腕力に差はあるらしい。

 そして、遊び相手がいなくなったチワワが、開けっ放しのドアを見向きもせずにこちらにやって来た。リビングより更に外に行くよりも、新しい遊び相手に俺を選んだらしい。


「あーこら、ペロペロするな、くすぐったい」


 人間の素肌が好きなチワワにとって、靴下も履いてない俺は絶好のターゲットだったらしい。ソファーに乗っかる事ができず、俺の顔は狙えなくても、足の指の間を丹念に舐めてくる。ちなみに、チワワと関わりたくないらしいキジトラは、既に猫ポールの最上段に戻っている。気を見るに敏な奴め。

 ……っと。


「あ、トイレか?」


 チワワの動きが鈍くなり、フルフルとし始めた。俺は急いでチワワを抱き抱えてトイレに向かわせようとするが……。


「あれ?」


 チワワは俺に捉えられる事なく俊敏に動き、自分からケージの中に戻った。そして、リビングに出さずにケージ内で放置していたトイレで用を足している。


「……ひょっとして、トイレは外に出さない方が良かったのか?」


 可能性はある。既にケージの一区画を『ウンチをする場所』として認識してたなら、ケージからトイレが無くなったなら、どうしていいか分からなくなったとしてもおかしくない。

 とはいえ、その可能性は後で考える事だ。今、俺がすべき事は――


「よーしよしよし! よくおトイレできまちたねー! ほら、ご褒美!」

「クゥン」


 ――近くに備えてあった、チワワ用品の中からお菓子を取り出し、思いっきり褒めながら与える事。

 こうする事で、「トイレでウンチをすれば褒められる」と認識する……らしい。ペットショップの店員の受け売りだが。

 わっしゃわっしゃとチワワの全身を撫で回しつつ、両親へは必ず報告しなけらばならないと思った。



 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 7月、チワワのトイレトレーニングはほぼ完璧になっていた。あくまで『ほぼ』だが。


「あー、少しはみ出してるわねぇ」

「はいはい、処理しちゃおうね」


 ケージから外に出して、リビングで遊ばせてる途中にもよおしても、外に設置してあるトイレでちゃんと用を足してくれる。ここまでは完璧だ。

 ただ、座る場所が悪いのか、ウンチの位置が微妙にトイレからズレてしまう事がある。そのため、トイレ周りには相変わらず新聞紙が敷いてある。

 それでも、床全体が新聞紙だった頃を考えれば、格段の進歩と言えるだろう。ややズレはあるものの、ちゃんと躾に応えてくれたなら、ご褒美を上げなければいけない。

 排泄物自体の処理は俺がやり、母にトイレマットを片付ける事を頼んだ後、手を洗ってからチワワの体をゴロンと転がす。そのまま腹をワシワシと撫でて、チワワが気持ちよさそうに目を細めて――


「……あれ?」


 ――母がトイレマットを見て、何かに気づいたらしい。


「どうしたの、母さん?」

「その……これを見て」


 そうして広げられたトイレマットには、いつもの黄色いオシッコとは微妙に違う、やや赤茶けた液体が吸収されていた。


「……血尿?」


 誰かが放ったその言葉は、どうにも嫌な予感を刺激する物だった。

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