前編
2月、唐突に母が切り出した。
「私ね、犬を飼いたいと思ってるの」
「いや、いきなり何言ってんの母さん?」
大概の場合において脈絡のない母だが、いつも通りの夕飯の席で切り出されたそれは、これまでにも輪をかけて突然の話だった。
「大体、ウチには既に猫が二匹いるでしょ。何でまた、わざわざ手間を増やすような事を」
俺はそう言って、出窓に置かれた磁器製の皿から餌をがっついている毛玉達を顎でしゃくった。
猫の間にも上下関係はあるようで、キジトラ模様がカリカリと音を立てて粒餌を食んでいるのに、クロ色はじっとその背後で待機している。
「いやね、私ずっと犬が飼いたかったのよ。お母さん……あなたのお婆ちゃんが、嫁ぐ前に犬を可愛がってたっていうのをいつも言っててね。私もいつか飼いたいな~、と」
「あー、お婆ちゃんの影響ね。でも、それならどうしてお婆ちゃんは、犬を飼うのを止めちゃったの? お爺ちゃんが犬嫌いだったとか?」
「それは分からないけど。でも、私ももう若くないでしょ? 寿命を迎える前に、犬を飼って育てて看取りたいと思うの」
確かに、五十代半ばの母はもう決して若くないだろう。だからこそ、小さい頃からの夢を叶えたいという想いは分かるが……。
「というか、父さんはどう思ってるの?」
「ん? まぁ、いいんじゃないか?」
黙々と箸を進めていた父に話を振るが、特に問題無しという回答が返って来た。
となれば、二十代半ばを過ぎて実家に置いて貰っている俺が反対できる筈もない。
「なら構わないけどさ、世話は母さんがちゃんとやってよ?」
「大丈夫! もう本も買ってあるから!」
そう言って、母は子犬の飼育本を取り出して来た。用意周到にも程がある。
その本の表紙を見るに、どうやらチワワを飼うつもりらしい。
「ね? ほら、基本的に家で世話できるように、小型犬にするつもりなの。近所のペットショップにもあたりをつけていてね?」
「あれ、ペットショップで買うの? キジトラやクロとは違うんだ?」
キジトラは里親募集で、クロは捨てられていたのを拾った猫なのだが、どういう心境の変化があったのだろうか?
「え、犬ってペットショップで買うんじゃないの? ほら、この間来たミックスちゃんも」
「あー、そういやアイツもそんな事言ってたっけ」
そうして思い出す。少し前に弟が帰省した時、雑種犬を連れてきた事を。今回の話は、その影響もあるのだろう。
夕飯を食べ終わり、皿を重ねてシンクに置いた後、再度向き合って母と話す。
「大丈夫、ちゃんと良いペットショップを調べてあるの。掃除とかもシッカリしてて、躾の諸々やアフターケアまでバッチリ……って、隣の奥さんが言ってたから」
おばちゃんネットワークも関与していたらしい、口コミは強しだ。
「これから、犬用のケージや餌皿なんかを買い集める予定なの。力仕事は手伝ってくれる?」
「仕事が無い日なら別に良いよ。目星は付けてあるの?」
「うん、あのね……」
そうして、母は飼育本をパラパラめくりつつ、タブレットも併用してお目当ての品を解説してきた。楽しげに目を輝かせる母は、いかにも人生を謳歌しているようだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
5月、犬を迎え入れるために諸々の準備を済ませて、いよいよ『その時』がやって来た。
俺自身、件のペットショップを事前に訪れたが、非常に清潔でその手の店にありがちな獣臭さが殆ど無かったのには驚いた。
ケージに入れられた犬達も、特に吠えたり元気が無かったりする様子もなく、躾が行き届いているのが分かった。犬がケージの中で排泄をした場合、店員が即座に後処理を行うのも間近で見た。
生まれた子犬は可能な限り引き取り手を見つけ、殺処分はしないというらしい。
ペットショップとは、やかましくて臭くて管理が雑。売れない命をいとも簡単に使い潰す。
そうした固定観念を消し飛ばすくらい、その店は隅々まであらゆる手間が行き届いていた。まぁ、店員のセールストークも込みなので、どこまで信用できるかは分からないが。
しかし、今の俺にはそういう事情は大した物じゃない。目の前の『それ』に、すっかり意識を奪われていた。
「……ちっちゃいね」
「これでも大きくなったのよ? 産まれたばかりの頃は、手の平に乗るくらいだったんだから!」
手で持ち運べるようになった籠の中でキョトンとしているチワワは、チョコレート色をしている。四足の先だけが白く、靴下を履いているように見えるかもしれない。見慣れない人間相手にも警戒心は無いのか、時折クンクンと鼻をヒクつかせる仕草が可愛い。「これでも大きくなった」らしいが、それでも片手で首根っこを掴まえられるレベルだ。
「と言っても、まだまだ産まれて2ヶ月半の赤ちゃんですからね。これからもっと大きくなりますよ」
ペットショップの店員が笑顔で説明するが、どうにもこのチワワが大きくなる未来が想像できない。
「この子は、同じ四兄弟の中では下から二番目の大きさですらからね。でも、元気は一杯で自分より大きい他の子よりアグレッシブに動いていましたよ?」
それは、母の携帯電話で撮影した動画でも見せて貰った。他の兄弟犬が寝ているというのに、随分とヤンチャに絡んでいた。その体力はどれほどの物か、少なくとも5分間の動画においては、時間一杯までチョコマカと動いていたのが記憶に残っている。
「それでは、再度確認させていただきます。餌は最初はふやかして――」
店員の説明を受けつつも、視線をチラチラとワワに向けるのを止められない。まぁ、母も聞いておいてくれているし、メモも書き留めてある。大丈夫だろう。
「――以上となります。それでは、ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
そうして、書類等を引き継いで、籠に入ったチワワと共に帰路につく。夕暮れ時の家に着いて、リビングに置いてあるケージに、トイレ・給水器・犬用ベッド・毛布・チワワが生後から馴染んだ玩具を一緒に入れた後に、ようやくチワワを放り込んだ。
ちなみにこのケージ、最初は普通の檻制だった物を、父が日曜大工でアクリル板を外周に貼り付けた。大きさこそベストだったが、檻だけだと犬が足を挟む恐れがあるかららしい。アクリル板の間に隙間もできているが、足を挟まない程度に小さく、空気の通り道にもなっている。
そして、ケージの上に布をかけて薄暗くしてやる。
流石に環境が変わりすぎて戸惑っているのか、チワワはキョロキョロと周囲を見渡した後、毛布の中に潜り込んで大人しくなった。
店員曰く、「これでいい」らしい。ここが『自分の場所』だと認識させるため、一週間程度はあまり構い過ぎない方が良いのだとか。
給水器も店で使っていたのと同じ形式の物を使用しているし、一応環境は整えた筈だ。
「じゃあ、次はご飯を用意しなきゃね!」
と、ここまで確認した所で母が張り切って準備を始めた。もう夕方を過ぎているが、この場合の『ご飯』とはチワワのための物だ。生後間もない子犬は噛む力が弱いため、市販の物をそのまま食べさせるのではなく、ぬるま湯でふやかした物を与えるのだとか。
「計量カップを使って、餌皿に……これくらいだっけ? それで、ぬるま湯を注いでっと。母さん、蓋ある? 蒸らすのに必要なんだよね?」
「えーっと、これでいいかしら? 人間用のだけど、この際チワワちゃんの物にしちゃいましょ」
母はそう言って、電子レンジにも入れられる耐熱仕様の半透明の蓋を持ってきた。とりあえず、慣れない事ばかりだが、事前の手順に従うしかない。
そして、待つ事5分。蓋を開けた皿に母が指を突っ込み、粒餌の弾力を確かめた。
「……これでいいのかしら? あなたも確認してよ」
「えーっと、多分、大丈夫……だと思う」
本当に慣れない事ばかりだ。だが、一応出来上がった以上はチワワの所に持って行こうとして――
「フギャ!」
「うわ、ごめんキジトラ!」
――リアルに『猫ふんじゃった』をやってしまった。
尻尾を踏まれたキジトラの機嫌を取るために、喉をコリコリと掻いてやる。
「グルルルルル……」
「ごめんねー、キジトラ。痛かったねー、ごめんねー。……って、クロ。お前まで」
「ミャァオ」
文字通り、猫足で忍び寄って来たもう一匹に注意を奪われる。普段はあまり干渉し合わないこの二匹が、一緒の場所にいるのは地味に珍しい。
「あはは、チワワのご飯の匂いに釣られて来たのね! でもダーメ、これはワンちゃん用なの、猫用じゃないの」
母が笑いながらチワワ用の餌皿を取り、ケージの中に持っていく。
「チワワ、おいで。ご飯だよー」
母の声が聞こえたのか、餌の匂いに反応したのか、チワワが毛布の下からノソノソと出てくる。人間達や猫二匹はケージから距離を取り、遠巻きに見守るだけだ……っと。
「うわっ、凄い勢いだな」
「お腹空いてたのかしらね?」
チワワは、一度スンスンと鼻をヒクつかせたと思ったら……次の瞬間、一気に餌をがっつき始めた。犬によっては、環境の変化で拒食症のような状態に陥る事もあるらしいが、このチワワに限ってはその心配は無さそうだ。
「まぁ、何はともあれ食べてくれて良かったよ。餌の量は徐々に増やしていくんだっけ?」
「そうそう、何週間かしたら少しずつふやかしてない粒々を混ぜていって……って、もう食べきっちゃったみたい」
視線を母からケージの中に移すと、餌皿の中身は綺麗サッパリ無くなっていた。チワワはチワワで、名残惜しそうに皿をペロペロと舐め続けている。そして……。
「キューン……キューン……」
悲しそうな声で鳴き始めてしまった。
ペットショップで引き渡される時も、家に着いてケージに入れられる時も、まるで鳴かずに大人しかったチワワが、始めて明確に『不満』を出した!?
「いやいやいや、どうすんのコレ? 餌の量が少なかった? でも、俺ちゃんと計量カップ使ったよ?」
「わ、私も分からないわよ! でも、もう少しご飯をあげた方がいいのかしら?」
「えーっと、こういう時はメモを……」
「ただいま……って、もうチワワが来てたのか。どうしたんだ、結構鳴いてるけど」
どうにも折の悪い時に父が帰って来た。判断を仰いでもいいが、父も犬を飼った事は無かった筈だ。果たして最適解が出るものか。
後日、家における人間と動物の比率が均等になった状況を見て、「まるで動物園ね」と母は言った。
家族の誰もが未経験な状態で、犬を飼い始めた我が家。鳴き声一つで大騒動になる辺り、これから先の事に不安が無いとは言えないが、飼い始めた以上は途中で放り出す事など論外だろう。ちゃんと、このチワワも幸せにしてみせる。
こうして、我が家に新しい家族が増えた。