第二章-2
蒲郡紫子は化学準備室での資料整理を終えて、パンパンと手を叩いた。特に手に埃などが付いていたわけでもないが、なんとなく区切りのようなものだ。
「これで終わり、と。――二人とも、付き合ってもらって悪かったわね。先生に報告して帰りましょうか」
紫子は椅子に腰掛けてスマホをいじっている伏見樹里と、隣に座りその画面を覗き込んでいた清水美々にそう声を掛けた。付き合ってもらって、とは言ったが美々が最初の頃に少し手を出したくらいで樹里はほとんどなにもしていない。その樹里がスマホをポケットにしまって椅子から立ち上がりながら言う。
「別にいーけどさ。ったく、平井もこんくらい自分でやれっての」
平井というのは、彼女たちの担任教師の名前だ。半日の授業を終えた土曜日の放課後に化学準備室に篭っていたのは、クラス委員である紫子が件の平井教諭に資料整理を頼まれたという理由に因る。
「先生には先生の用事があるんでしょう」
紫子は一応フォローするようにそう応じて、机の上に置いてあった自分の鞄を手に取った。樹里は、ふん、と鼻から息を吐くような返事ともしれない返事をしてくる。上品とは言い難い仕草だが、男子の目のないところでの女子などこの程度のものだ。
「あー、待ってー、ジュリりーん」
一足先に化学準備室から廊下に出た樹里を追って、美々がパタパタと出口に駆け寄った。最後に紫子が部屋から出て、預かっていた鍵で扉を施錠する。正面玄関に向かう前に一階の職員室に寄り、完了の報告がてら鍵を返却すると、それと引き換えにねぎらいの言葉と飴を一掴み貰った。大人の男性の大きな手での一掴みなので、紫子は両手を揃えてそれを受け取る。とは言え、安い報酬だな、と思ってしまった。まぁ、なにもないよりはマシかもしれない。樹里と美々と三人でその飴を口に入れながら、高校の正門をくぐった。
「どーする? どっかでランチしてく?」
樹里が尋ねてくる。もう午後一時を過ぎていた。昼食には遅いくらいの時間だ。紫子は時計を確認して頷く。
「そうね。そうしましょうか」
紫子はクラス委員という立場上、校内でそんな話をしているクラスメイトがいれば一応校則通りの注意を与えることにはしているが、なにも本気で取り締まっているわけではない。こうして、自分だって同様の校則違反をしている。ダブルスタンダードだが、彼女とて普通の女子高生だ。あの問題児の倉嶋篤志などには鋼鉄の委員長のように思われている節があったが、実態はこんなものだろう。
飴を舐めている為、普段より三割増し舌足らずな口調で美々が言った。
「あー、じゃあねじゃあねー、ストロング・ストロベリーのトリプルベリークレープ食べたーい」
「それはメシじゃねーっしょ」
樹里が苦笑しつつ突っ込む。口は悪いが案外面倒見のいい樹里と甘えん坊の美々はいいコンビだった。見た目はメイクもばっちり決めた樹里と背が低いせいで実際以上に子供っぽく見える美々とで同じ高校一年生には見えないが、二人は同じ中学からの友人同士らしい。どちらも紫子とは違うタイプだったが、入学以来なんとなく一緒に行動していることが多かった。『蒲郡』と『清水』、『伏見』で出席番号は離れているし、入学時も席替えを経た現在も、彼女たちと特に席が近いということもない。話すようになったきっかけはなんだったかしらね、などとふと思う。
並んで歩きながら紫子がそんなことをぼんやりと考えていると、樹里が突然、
「あれ、倉嶋じゃね?」
と言った。急に出てきた名前に、少しドキリとする。
彼女の指す前方を見ると、土曜の昼下がりで人の多い商店街の歩道を小柄な少年が駅の方向に向かって歩いていた。右手に包帯を巻いているので、おそらくクラスメイトの倉嶋篤志で間違いないだろう。
彼は入学直後に事故に遭ってから、ずっと右手に包帯を巻いている。もう最近では右手で文字を書いたり箸を使ったりするのにも特に不自由はないようなのだが、まだ包帯は取れていない。酷い傷跡でも残っているのかもしれない、と想像してしまった。
「そういえばー、倉嶋くんの家って、学校の近くなんだっけー?」
美々が誰にともなく尋ねてくる。
「そんなに近くはないわよ。学校から見て、商店街の向こう側」
少し上の空で紫子は答えた。前方を歩く彼は、右肩に小さ目のボストンバッグを担ぎ、左手には籐製らしきバスケット、右手には小さな紙箱を提げているようだ。
樹里が笑みを浮かべながら言ってくる。
「おー、さすが詳しいじゃーん。見舞い行っただけのことはあるっしょー」
「やめてよ。そんなのじゃないから」
紫子は抗弁するが、そんなの、が具体的になにを指すのかは自分でも詳しくは想定していない。自分から振ったくせに話を聞いていないように、美々がまた別の疑問を発した。
「バッグ持ってるねー。旅行でも行くのかなー?」
「ってか、あれ、イル・ビットの箱じゃね?」
樹里も言う。その言葉に彼が提げている紙箱の色柄をよく見ると、確かに商店街の外れにある知る人ぞ知るケーキの美味しい洋菓子店の箱のようだった。呆れ気味に紫子は口を開く。
「――樹里、あんた、目いいわね」
「まーね。これでも、両目とも二.〇あんの」
樹里が得意げに応じた。
そういえば、五月の連休前頃に彼に聞かれてその店に案内してあげたことがあった、と紫子は思い出す。というか、そこでケーキをご馳走してもらって一緒にお茶をしたのだ。あのときのお礼に渡したお弁当を彼は美味しかったと言ってくれた、と更に思考は脱線する。
「旅行にでも行くようなバッグに、ケーキの箱。――これって、オンナの家に泊まりに行くんじゃね?」
「えー!? 大人だー!」
樹里の推理に、美々が歓声を上げた。紫子は飴を吹き出しそうになる。
「――手土産持って、実家に帰るだけかもしれないじゃない」
紫子は言うが、そんなつまらない推測は二人の耳に入らないようだ。二人はよからぬ相談を始めた。
「後、尾けてみねー?」
「それ、面白そー!」
「ちょっと、やめときなさいよ。悪趣味よ」
紫子の制止の言葉に、二人が口々に反駁する。
「えー、いーじゃん。紫子だって気になるっしょ?」
「噂の青髪外国人の彼女さんが見られるかもしれないよー?」
紫子は動揺を抑えて言い返した。
「興味ないわよ」
不意に樹里がにやりと笑う。
「あんたは倉嶋が実家に帰るだけって思ってるんっしょ? 確か、紫子と倉嶋って同中だったよね? つーことは、家も同じ街にあんだよね?」
「……そうだけど」
「だったら、あんたは家に帰るだけで、倉嶋とはたまたま同じ方向に行くだけってことになんじゃね?」
見事な屁理屈だ。紫子は咄嗟に反論出来ない。樹里は笑みを大きくして宣言する。
「んじゃ、決まりー。とりあえず、倉嶋と同じ電車に乗るってことでいーね? ビビ、見付かんなよ?」
「おー!」
美々が拳を突き上げた。樹里がすかさず窘める。
「そーゆー目立つ真似すんなって言ってんの」
「えへー、ごめーん」
楽しげに言い合いながら、樹里と美々が篤志の後に続いて駅に入っていった。紫子は一つ溜め息を吐いて二人の後を追う。勿論、不承不承というポーズで、だ。
篤志が上り方面の電車に乗り込むので、三人も同じ車両の彼とは反対の端に乗る。週末の昼下がりの電車は適度に混んでいて、向こうに見付からずこちらは見失わない、という微妙な条件を満たしてくれそうだった。篤志は数駅先で下車し、地下鉄に乗り換える。三人もその後を追い掛けて、また同じ車両の反対端に乗った。樹里が紫子に聞いてくる。
「で、これって、あんたの家のほうに行く電車?」
「……違うわ」
紫子は憮然として答えた。樹里が勝ち誇った顔をする。
「やっぱり、彼女さんのところに行くんだー」
「実家ではなかったけど、まだ、その、――彼女、のところに行くと決まったわけじゃないでしょう?」
美々の感想に、紫子が反論した。
「さーて、どーかねー?」
樹里が意地悪げな笑みを浮かべる。
「あー、降りるよー! ジュリりん、ユカリん、早く早く!」
駅に着いて開いたドアから、美々がぴょんと飛び降りた。紫子と樹里も彼女の後に続く。地下鉄の駅から地上に出ると、篤志は戦前からありそうな古い民家と新築の高層マンションが隣り合わせに建つ不思議な雰囲気の街を慣れた様子で歩いていくところだった。三人は彼の尾行を続行する。
住宅街で人があまりいないので一応見付からないように気を配ったが、彼は当然尾行を警戒しているわけもないので周囲に注意を払っている様子はない。そのおかげで尾行の技術など持ち合わせていない素人の三人でも、彼に気付かれることなく後を尾けることが可能だった。
十分ほど歩いて、篤志は建てられてから相当の年月を経ていることが外観だけでよく解る二階建て木造アパートに辿り着くと、その外壁に設置された今にも崩れ落ちそうな階段を上り始める。
「うっわ、ボロいアパート。ってか、あの丸いのなに?」
樹里が呟いた。見てみると、そのアパートの屋根の上にはなにやら大きな円盤のようなものが立っていて、ゆっくりと回っているようだ。
「UFOみたいだねー」
美々が的外れな感想を口にするが、紫子にもそれがなんだか解らなかった。
彼女たちがそんなことを言っている内に、篤志はアパートの二階の階段の隣の部屋の前で立ち止まり、ドアをノックしたようだ。すぐにドアが開いて、長い黄金色の髪をポニーテールにした外国人らしき少女が顔を覗かせた。
「あれー? 髪の毛、青くないよー?」
「あれが青髪外国人の正体かー?」
美々と樹里が口々に言う。それを聞き流しながら、紫子はその少女を観察してみた。遠目にも結構な美人に見える。身長は篤志と並んで立つとやや低い程度。スレンダーな身体に似合ったパンツルックで、脚がすらりと長い。
篤志はその少女と挨拶を交わしていたようだったが、突然ドアが大きく開け放たれもう一人少女が飛び出してきた。
「わー! 髪の毛、ピンクー!」
「すっげ! ミニ花魁振袖!? 成人式でもないのに!? キャバ嬢かっての!」
驚いたような口調でまた二人が感想を口にしたが、紫子は言葉もない。新たな少女はピンク色の巻き髪をツインテールにして、ミニ丈で襟も大きく開いた桜色の振袖のような着物を着ているという奇妙過ぎる格好をしていた。やはり外国人のようだったがこちらは随分と小柄で、けっして身長が高いとは言えない篤志を見上げなければならないほどだ。彼女は飛び出してきた勢いそのままに篤志に飛び付くように抱き付く。
「おー、こっちが本命かー」
「えー? 髪の毛、青くないよー? 新しい彼女さんー?」
「ばか。常識的に考えて、染め直したんっしょ」
樹里と美々が言い合っている間に、そのピンク髪ミニ振袖少女に手を引かれて篤志は戸口の中に消えていった。最後に金髪ポニーテールの少女が室内に入ってドアを閉める。それを見届けてから、樹里と美々は顔を見合わせた。
「予想以上にすげーもん見ちゃったなー」
「ねー」
樹里が紫子に向き直る。
「で、紫子、あのピンク髪ミニ振袖外国人、彼女じゃねーと思う?」
「……外国人で、多少スキンシップがオーバーなだけって可能性もあるわよ?」
紫子は表情を取り繕って言い返すが、声に力がない。樹里がずけずけと核心に触れた。
「そこまでして否定したいってことは、やっぱ紫子ってさー、倉嶋のこと――」
「違うわよ! そんなのじゃないってば!」
否定する紫子に、樹里は呆れたように溜め息を吐く。
「あんたも頑固だよねー。ま、そーゆーことにしとくか」
「そういうことっていうのがどういうことか、よくわからないわね」
紫子は精一杯の虚勢を張った。