第一章-3
一人暮らしで起こしてくれる人がいないというのはこういうとき不便だ。翌朝そんなことを思いながらも、倉嶋篤志はかったるい身体に鞭打ってなんとか起床した。どうにかいつも通りの時間に起きられたようだ。
眠い目をこすりながら異星の強力なシャンプーで毛染めが落ちてしまった白髪を染め直し、自分の身体とは不釣り合いな『彼女』の右腕に包帯を巻いて擬装し、ついでにチッピィの散歩も済ませると詰襟の学生服に着替えて登校した。徒歩十数分で高校の門をくぐりローファーから上履きに履き替え、四階の自分の教室に向かう。
「っはよぅっす」
引き戸を開けて、誰にともなく挨拶した。すると、ちょうど入り口の近くの席を囲んで友人同士お喋りをしていた委員長こと蒲郡紫子が振り返る。肩までのストレートの黒髪がふわりと広がった。
「おはよう、倉嶋。風邪はもういいの? ていうか、ホントに風邪だったんでしょうね?」
「っはよぅ、委員長。風邪だよ。信用ねぇな。もう治ったけど」
実際には紫子の言う通り仮病だったので文句を言えた筋合いではないのだが、彼女が相手だとつい減らず口を叩いてしまう。
「委員長って言うな。あんたには無断欠席の前科があるからね。まぁ、治ったんならいいわ」
紫子が両手を腰に当てて、呆れたような安心したような複雑な表情をした。
「こう見えても身体弱いんだよ。今頃みたいな季節の変わり目には体調崩しやすいんだ」
篤志は更に言い募る。これは一応嘘ではない。身体を鍛えていないので基礎体力がないのだろう。
「ふーん。そうだったかしら?」
紫子も紫子で篤志相手だと軽口の応酬になるようで、疑わしげな目をする。彼女とは同じ中学で二年間同じクラスだったので、こういうところは誤魔化しが効かない。
「それにしたって、自慢出来ることじゃないでしょう? パソコンばっかりいじってないで、少しは身体鍛えなさい」
母親のようなことを言う紫子。その台詞に乗っかって、彼女と話をしていた一人、伏見樹里が口を挟んできた。
「そーだぜ、倉嶋ぁ。そんなひょろいんじゃモテねーっしょー?」
彼女はウェーブの掛かったロングヘアを金に近い茶色に染めているなかなかの美人で胸もわりと大きいのだが、その口の悪さが災いして一部のマニア以外にはあまり人気がないという残念美人だ。入学してから二ヶ月も経過した今では、彼らの学年の男子の間にそういう共通認識が芽生えてくる。
「……ほっといてくれ。ていうか、今その手の話題は聞きたくない」
篤志は反射的にジゼルの顔を思い浮かべてしまい、ややげんなりして樹里に言葉を返した。その言葉に、樹里の隣の清水美々が背伸びをして彼女に耳打ちする。美々は栗色がかった髪をおさげにして両肩に垂らした樹里とは対照的に子供っぽい容姿で、これまた一部のマニアにしか需要がないタイプだ。
「ジュリりん、倉嶋くんはー、ほら――」
「あー、例の青髪――、っとと」
篤志と紫子、どちらに遠慮したのか、樹里が言葉を濁す。
(……まだその噂は消えてなかったのか)
篤志は表情を取り繕って聞こえなかった振りをした。
「ま、そういうことで」
と意味のない台詞で会話を打ち切ると、包帯に包まれた右手を軽く挙げて彼女たちの脇を通り過ぎる。後ろで樹里が紫子を追求しているのが聞こえてきた。
「ってか、紫子、今回は倉嶋の見舞い、行かなかったん?」
「ちゃんと学校に連絡があったもの。たかが風邪で欠席したクラスメイトをいちいち見舞ってあげるほど、わたしも暇じゃないわよ」
そんな会話を聞き流しながら窓際の一番後ろという誰もが羨む特等席に鞄を置く。二つ前の席の友人未満のクラスメイトであるいかにも軽薄そうな伊勢田誠人と、その机の脇に立ってなにか話をしていたいかにも優等生風の豊川翔毅のコンビに挨拶した。
「っはよぅ、伊勢田、豊川」
「おっす、倉嶋。昨日、サボり?」
「おはよう、倉嶋」
篤志は、誠人との間の席に当たる山城紗紀という気弱そうな女子の迷惑にならないように、誠人の席の傍まで近寄る。苦笑を浮かべて彼の質問に答えた。
「ここでもそれを言われんのかよ。風邪だ風邪。だいたい、サボるぐらいなら出てきて授業中にバイトしてたほうが出席が稼げる分マシじゃねぇか」
「……おまえ、その考えどうなの?」
篤志の台詞に、呆れたように誠人が言う。篤志は言い返した。
「ほとんどの授業で寝てるおまえには言われたくねぇな」
「げ!? バレてる!?」
「後ろから見てると丸わかりだ」
言い合う二人に、翔毅が口を挟む。
「二人とも、ちゃんと授業受けようよ……」
わかりやすい優等生発言だ。
「なんだと、このイイコちゃんめ!」
「うわ。やめてよー」
誠人は立ち上がると、ふざけて翔毅にヘッドロックを掛ける。そんなことをしていると朝のホームルーム開始のチャイムが鳴り、担任教師が教室に入ってきた。
「ほら、席着けー。朝のホームルーム始めるぞー」
教室中の人間がざわざわと移動を開始して、すぐに全員が着席する。ちなみに、担任教師は中年から初老に差し掛かったくらいの頭髪が寂しくなった化学担当の男性教師だ。
(これが学園モノのマンガとかラノベだったら、担任は美人だけど性格がとんでもないお姉さまタイプか、でなければ偽幼女なんだろうけどなぁ)
篤志はそんなことを思う。別に、高校に入学するときにそんな非現実的なことを期待していたわけではない。
「――お、今日は倉嶋も来てるな。もう風邪はいいのか?」
教室中を見回した担任教師が篤志に目を留めてそう声を掛けてきた。ぼーっとしていた篤志は慌ててそれに応じる。
「あ、はい。おかげさまで」
「そうか。皆も体調管理には気を付けろよー。じゃ、出席取るぞー」
担任教師が出席を取り始めた。自分の名前が呼ばれるのに返事をして、篤志は頬杖を突き窓から空を見上げる。今日も空模様は怪しい。今年は梅雨が早いのかもしれないな、などとぼんやり思う。
それにしても、先ほどからクラス内での自分の病欠のインパクトが予想以上に大きかった。入学早々二日も無断欠席をした前科があるせいかもしれない。これは仮病の手は暫く封印せざるを得ないな、なにか他にいい言い訳は――、などと考えてしまい、自分の思考に自分で苦笑する。これでは近々休むことが前提のようではないか。そんな羽目にはなりませんように、と心の中でなにかに祈っておいた。