Kさんの指
青紫の唇。白い肌に透けた静脈がうっすら葉脈のように分かれているのが見えた。
ペパーミント、優しい白(白と言ってもいろいろあるのだ)のモザイクタイルが規則的に敷き詰められた冷えた浴室。すべすべの肌をしたバスタブの中にはすっかり冷たくなった液体に浸かっている清野がいた。
ぽつん、と水滴が首から落ちて背筋を伝う。寒気が押し寄せてきた。
*
「……あぶねえ奴だな」
「ワリ、助かったよ」
ふふ、と片頬だけを引き上げて彼が笑う。布団から体を起こし俺がマグカップに煎れた緑茶に口をつけて視線を落とした。暗い部屋に浮かぶなめらかな頬のかたち、それに影を落とす睫毛。
どきりとした。ごまかすように寒くないか尋ねると首を振る。
「……手」
「手?」
上手く動かなくなった指を、ぎこちなく関節から曲げる奴に落ち着かなくなる。
「あっためて、リハビリすればいいかなって風呂ん中浸かってたら寝てた」
「そっか」
「うん」
「……清野、」
清野は、将来を嘱望された男だった。才能があった。人を惹き付ける才能、人に感動を与える才能。未来があった。絵かきだけで食っていける奴なんて何人いるのか、就職にシーズンともなれば全く関係のない職に就いていた卒業生を見てきた俺達にとって、清野は希望の塊のようなものだった。
呼び掛けて、言葉が見つからずだんまりを決め込む。
清野が薄い唇を開いた。
「駄目だね」
清野が泣いているところは見たことがない。キャンバスに真剣な調子で表情を険しくして向かっていてもいつもそれはどこか隙があってほほえましいものだったから、同じように多分、泣いていたとしても薄く、困ったように頬を筋肉でつっているのだろう。泣いたらどんなだろうか、想像してみるけど、涙が零れた奴はくしゃくしゃの泣き顔とは程遠い。ひとみから浴室の天井から落ちた水滴みたいな雫がぽつんと流れる、そんな空想。俺はこいつを目の前にして何を考えてるんだろう。ぴくぴく動いている指が目に入り、そこから視線が逸らせなくなった。
「そんで高橋はなんで来たの?」
清野は気付いているんだろうか。
「ああ、学校来ないからどうしたかなって。したら鍵空いてたからさ」
清野を見るのが辛いって言われた。事故で入院した時に皆で見舞いに行ってからだ、泣きも喚きもしないこいつを見てから。今はリハビリである程度の作業ができるものの、清野が飯を食うのにも難儀していた姿、それは衝撃だった。清野の指はもう駄目だ。一瞬にして知ると俺と、つるんでいた連中。見舞いへの足数は徐々に少なくなっていた。
未来を託していたのは俺達だ。
「そっか。みんな元気?」
「相変わらずうっせー、清野も来いよ」
「止めとく。皆に気い遣わせるから」
「んなの気にすんなって」
正しかった。あのデッサンをしている現場に来られたら、気まずい。
清野には特に仲のいい奴がいるわけではない。適度に仲間、として付き合っていた。勿論、俺も。
それなら何故こうしてここにいるか。誰もいない時じゃないと、区切りを越えられないからだ。興味を持っていても、深くない付き合いの衆人が多い程近付き難く、更に誰もそれ以上を踏み越えなかったから俺も押し留まっていた。こんなことが無ければ二人きりでいることもなかっただろう。興味を持った時点でこの不思議な存在は大きくて、俺なんかすぐに押し潰されてしまう。隣に並べるわけがないと知っていて、近付きたかった。この、特別な存在に。
「高橋は優しいな」
無表情でそんなことを言ったから胸が詰まる。俺は弱みに付け込んでいるだけだ。
「んなこたねえよ」
恐ろしい想像をする自分がいる。周りに誰もいない清野。そして一人だけ近付く俺を、必要とする清野。勘当同然で飛び出してきた清野には、俺だけ。
もし、そうなったら。
ごくり、と唾を燕下する音が体内で響いた。
まとも、じゃない。近付きたいと思っていたのに、今はどうだ、底では堕落した姿を求めている。
「わり」
「ああ」
マグカップを俺に渡したのでそれをローテーブルに置いた。
「高橋、さ」
清野は無表情だった。そこには躊躇だとか悲しいだとか、弱いものは何ひとつ見えてこなかった。
「燃やしてよ」
続けて、見えなかった主語を。
「絵、燃やしてみて」
「はあ?」
どき、としたのは内心を見透かされているのかと思ったから。俺がやましい、落ちぶれた気持ちを抱えているから。
「見たいんだ。おれの指がこれつくったんだから、全部なくしてみたい」
「だからってなんで俺なんだよ」
「高橋は見たくない?」
話が噛み合わない。きらりと瞳に光が走っていた。
背中がぞくりとして、まるで犯罪でも犯しているみたいな気分になる。居心地が悪い。子供みたいな表情をした清野、こいつは俺の理解の範疇を超えていた。俺なんかが易々と変えられる代物ではないのだ。深く関わるべきではなかった。アポロンの馬車のように焦がされてしまう。後悔しつつも戻れなかった、清野は俺にまともな反応なんて求めていない。
指の動かなくなった男、それでも俺は手が届かない。
失意、ちがう。無力、自分より大きなものに振り回される。無力。
「……いいよ」
「ほんとに?」
「燃やしてやる」
力強くそう言い、完全に喜びを顕にする前に、だけど、と俺は交換条件を突き付けた。
ぴく、と痙攣する指に自在に動く俺のそれも絡ませた。マッサージした後は調子がいいらしいその長い指も、時間が経てば硬くなりしなやかさを失っている。
「たかは、し」
薄い体にしっとりと汗が濡れている。眉を寄せて余裕を失った様子に満足した。伏し目がちにしてぼんやり瞳を泳がせる。
「……こういうの、好きだったんだ」
「さあ。わかんねえ」
「わかんない、って……」
清野の言葉を吸う。口内を一通り荒らし、離れた。
「試してみたかった」
それだけ言うと、清野は些か傷ついた様子だった。押し倒して無感情のキスを続ける。手を絡ませるのを嫌がっていたから、キスに便乗してわざと力をこめた。
試してみたい。誰でも良いという意があったから、清野は傷ついたんだろうか。好意だとか、そういう感情は無しに。
*
黄色いテープが周囲に張られた黒焦げの家からはまだ、鼻につく臭いがした。
油絵が何点もあったからだろうか、それとも清野の体が塵になってまだこびりついているからだろうか。
俺には結局、清野の絵を燃やすなんて出来なかった。いざとなったら怖くなったのだ、この仕事が。チャッカマン片手に動けなくて、情けなくて。でも、魔力のように引き付けられたその絵に火は点けられなかった。俺は、寂しそうに笑った清野に「高橋もみんなと同じだ」と言われただけだった。
それから数日して、清野は死んだ。絵と一緒に焼けた。
俺があの時絵を燃やしていたら清野は死なずに済んだのだろうか、それとも描けなくなった人生を背負った時点で清野は死んだのだろうか。俺は、清野に何の影響も与えなかったんだ。どこまでも凡人は凡人でしかなかった。
焼け焦げた家の前に花を手向けて背を向ける。歩いてその足で大学へと向かう。緩やかな土手の続く道がある。穏やかな天気だ、とても心地のいい、良い日。
短い丈の緑が目に眩しく映えている。その傾斜には学生が一人、スケッチブックを開いて遠くを眺めていた。後ろからちらりと眺めて見えたのは風景の色をぼやけた水彩で写した絵。下手くそな絵。
なんとなく、白んだ感じが誰かの雰囲気に似ているなと思ったが彷彿とも思い出すともしなかったので興味を惹かれなかった。視線を外して再び大学に続く道をゆるゆる歩いて行く。
清野の動かなくなった指をぼんやり思い出していた。
おわり