Kさんのスケッチブック
あれは何月のことだったか。
冬の終わりと春の初めは似ている。思い出せないが、そのくらいだ。
白い太陽が凍った泥の張る元水溜まりの表面をきらきら照らしていた。踏み付けると霜の下りたそれがじゃり、と呻いて壊れた。
午後四時半。授業を終え二十分かけて徒歩で駅に向かう。目が悪いくせに今日は眼鏡を忘れてしまったから、名簿順で真ん中の席に座っているために板書が出来なかった。重要事項も要点もあったもんじゃない。教師のしゃがれた声を耳の穴を通して流していただけだ。
乾いた風に目が痛くなりしょぼしょぼしてきた。急にぎゅっと絞られるみたいに痛む。つむった目をこすると手の甲が濡れた。
六角形の小さな曇り硝子が溜まった涙にひとみのそこらに散らばっている。昆虫のようだ、と思いながら歩くと白くぼやけた世界から低い背のくすんだ緑の土手の続く道の傾斜にあるものがふと見えた。
段々と明瞭になる視界に、まるい灰色の塊。何だろうな、と歩を進め近くで足を止めてみる。それはごそごそと動いていて、意思のある動きをしていた。よく目を凝らすと猫背ぎみの人間の背中だ。肩と認識できるラインから先を動かしている。目の悪い俺は興味本意も手伝い、その背中に向かって土手の傾斜を下り近付いていた。
何か確認したいだけだ。眼鏡が無いせいだ。
そんなことを思いながら誰に言うわけでもなく言い訳をする。そろそろと寄り、肩口から覗いたそれはこんな距離で近付いたにも関わらず、俺の目と同じようにぼやけた景色を写す水彩画だった。スケッチブックに走らせた筆には水が付きすぎているせいか紙がぶよぶよに歪んでいる。
もう少しちゃんと見てみたくて角度を変えようと体をずらすと足の先が固いものに当たった。
それまで俺に気付かなかったのが不思議なくらいだ。零れた水に、その人は少し驚いた様子でいて、原因の足から徐々に視線を上げ犯人は俺なのだと気付いたようだ。
「すみません、勝手に見てたら水、零しちゃって……」
「ああ、いいよ」
その人の顔はよく覚えていない。笑い方が柔和で、片頬で引き上げた笑顔が少し寂しい。そんなイメージが残っている。
「絵、好きなの?」
俺に絵のことはわからない。中学のときにミケランジェロやらラファエロやらのビデオを見させられたが、細かい絵だなあという感想以外特に出てこなかった。教科書に載っていた現代アートもよく理解できない。俺でも描ける、そんなことを思っていたからお世辞にも興味があるとも言えなかったが、絵を描くこの人にそんな話しをするのは失礼なので、普通です。と何とも返答に困る返事をした。
そうか、と言い会話は千切れる。筆の走るのがおもしろくて、水の零れた反対側にしゃがみ込み、俺は ぼやけた色に染まっていくスケッチブックを眺めていた。
下手の横好き……そんな言葉が頭を掠めていた。
かさの少なくなった水入れ。それに筆をつけてパレットに配色した絵の具を取り紙に乗せる。景色の色だけが水っぽい太い線で表されていく。あまりにも淡くて抽象的すぎて掴めない。画家の絵を言葉にすれば、小説家が心情を細かく描写するようだとしたら、この人の絵は小学生が形容詞だけでものを伝える方だ。
それがここの風景なんて誰がわかるんだろう(おれは上手く見えていないけど)。それとも眼鏡をかけたら少しは変わるんだろうか。
「おれの絵、どう?」
「下手ですね」
そんなことを考えていたから、不意打ちの問いに即座に答えてしまう。しかも本音。
一生懸命描いていたのにあまりに失礼だ。謝るべきかと一瞬思案し掻き消される。
「ハハ、前は上手かったんだよ」
筆を止め笑うその人に、ホッとし、更に本当ですか?と聞いていた。
「本当だよ。見せてあげようか」
「え?」
「ここからすぐに家があるんだ」
楽しそうに話す彼と反対に即座に疑心が芽吹く。今の時代しょうがない。条件反射の如く怪しんだ俺を見越してか困ったように気にしないでくれ、と続けた。
身なりや声からして若いはずなのに、受けたイメージは初老のおじいさんだった。おじいちゃんっこだったおれは、そういう人を悲しませたのかと思うと少し苦い気持ちになる。絵が下手で、でも真剣に描くこの人を意識下で見下している自分を殴りたくなる。
「見に行ってもいいですか」
償いの気持ちがあったのか。同情するということはその時点で下に見ていることになる。寂しそうな彼の相手をしてやろうと、暗にそういう意識はあっただろう。
「おお!じゃあどうぞ」
雰囲気を明るくした彼に満足になり、俺は彼の家へと向かった。
「へええー、ホントだ。すごいんですね」
ぼろい平屋の一軒家に彼は住んでいた。安く借りたらしい。暗いけど広い居間には所狭しとキャンバスが立てかけられていて、部屋の中は換気しているにも関わらず油の臭いがしていた。
「ごめん、製作室は別にあるんだけど作品を置く場所が無くてね。臭いだろ」
「ちょっと」
しゃがんで、剥き出しになっている彼の作品を眺めた。顔を近付けて全体を捉えるまでに時間を要する。油絵の具の盛り上がりが荒々しく全体を仕上げていた。深い藍が波の立つ海を描いている。
「作風違う」
室内を巡りながら鑑賞しているとさながら小さな美術館に来たようだ。
「いろいろ試したんだ。これなんかシャガールみたいだってみんなに言われて」
裏返しに壁に立てかけていた四十号のキャンパスをひっくり返し、俺に見せる。この人のみんな、が広すぎる部屋に消えたから悲しいものに聞こえた。
たくさんの作品に囲まれているからこの人はそんなこと無いのかもしれないけど。楽しそうな雰囲気の彼に圧されてか、一歩距離を置いていた俺もいつの間にか丁寧な物腰の彼の話しにのめり込んでいて。なにより落ち着く声質にまどろみつつあった。
一通り説明と鑑賞を終えると、油の臭いが刺激になったのか腹が痛くなった。人の家で情けないが、便所を借りて用を足した。古い家なのにユニットバス式で、ペパーミント色と真っ白なタイルが交互に細かく並んでいた。風呂場にまで彼の絵が並んでいて、浴槽には臭いのする水が張っていた(目が悪いので水かはわからなかった)。
「ありがとうございました」
便所を出て、彼に退散するという意味も兼ねて礼を言う。薄く笑って、彼も、見てくれてありがとうと言った。何故今は絵が描けないのかは聞けず仕舞いだったけれど、落ち着いた声で絵について教えてくれたこの人にもう、傲慢な気持ちはなくなっていて、単純にも重ねる会話に祖父の影と目の当たりにした俺の知らない芸術という世界に触れたことで好意にすり代わっていたのだ。
「あげるよ」
玄関で渡されたスケッチブック。さっきまで色を塗り重ねていたもの。
「まだたくさんページありますよ」
「いいよ、もらって。ホラ、高級ワトソン紙なんだから」
高いんだぞ、と押し付けるように渡され受け取ったそれの表紙にはイニシャルだろう、K.Sとあった。
名前は次に会った時に聞けばいいと思い、俺はふざけてKさん、と呼んだ。
「Kさん、また見にきていい?」
俺は柔和に笑い下手くそな絵の乗っている高級スケッチブックをくれたKさんがすっかり気に入っていたので、そんな風にはしゃいでいた。
Kさんは、また片頬を引き上げて微笑み俺に黙って手を振っていた。
彼のくれたスケッチブックを持ち、緑の土手の傾斜に座る。眼鏡をかけているから大丈夫、景色も把握できる。
ページを数枚めくると水を吸い込んで不細工に波を打った絵が現れた。ぷ、と笑って景色と重ねてみる。やっぱり下手くそだ。
俺はKさんがここに来ないか期待している。
あの日、家に帰ると、夜中に遠くでサイレンの音がした。
翌朝テレビのローカルニュースでは一つ大きな事件があったらしく、アナウンサーが真剣な調子で事件か事故か解明を急ぐ、と言っていた。俺のいる地域はしばらくはその話題で持ち切りだった。
ひどい火事だったらしい。家が焼けた。
一人死者を出して。
少し経ってから焼身自殺だと判明し、その動機が明らかとなるとテレビではしばらくそれについて放送され続け、地元では皆が同情した。
アナウンサーが低く伝えていた。画面には黒く焦げた家の後が数秒映って、外観を留めないそれに身が竦んだ。
『死亡したのは清野孝司さん――清野さんは――美術大学の四年生で、油絵学科を卒業予定でしたが二ヶ月前に両手の神経を事故で切り麻痺して――焼け跡には清野さんのものと思われる作品が』
スケッチブックに目を落とす。
眼鏡をかけても変わりなかった。ただ色を区切る輪郭がはっきり見えるってだけで。
会ったのは一回だけだったけど、俺はまた彼に会うのを楽しみにしている。
「なんだ、Kさん絵かけたんじゃん」
眼鏡を外してみる。そこから見た景色と、彼の描いた絵は見事に同じで、俺はKさんに、下手だと言ったのを詫びようと思った。
おわり