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黒に迷えば

作者: 彦星こかぎ

 森の中を歩いてみる。

 足の下には腐葉土が何処までも続いていて、地面は優しく、柔らかい。大木は緑の葉を逆光に黒く染め、血液が流れているような滑らかで絶え間ない囁きを漏らす。陽光は揺れる葉の隙間から地面に辿りついて、凹凸の多い地面を更にまだら模様にしていく。

 そして、目を閉じてみる。

 突き刺さるような陽光は、閉じた目の中の世界を一瞬たりとも真っ黒にはさせず、瞼の裏で静かな燐光を点滅させる。髪を風が動かし、くぐもった森の香りが足を止めさせる。


 目を開けると、今度こそ本当の暗黒が広がっていた。


* * *


 したり顔をして老女は語りかける。

「つまり問題は、それが可愛いかどうか、なのさ」

 少女は首をかしげた。

「そんなことないわ。可愛くないものなんて、たくさんあるじゃない」

「いいや、お前は物事を知らなさ過ぎるよ。本当に醜いものはそれだけで悪なんだ。

もっとも……」

 老女は窓の外を見て、小さく息をつく。

「ここにいたら、醜いものなんて存在しないみたいに思えるけどね」

暗幕を開ければ広々とした夏の空が青く輝いているし、暗い部屋の中にも怖いものなんてありはしない。部屋に一つだけ明るさを与えているライトは、光線を真っ直ぐ前に伸ばしている。光の当たるところでは白い埃が舞うのがよく見えるし、埃の間をせわしなく移動する小さな黒い生き物たちは、大きな目玉をあちこちに向けて楽しそうに動き回っている。何一つとして、少女に危害を加えたりはしない。

ライトの先では、かすかな音を立てながらゾートロープが回っていた。円盤の縁を取り囲むように少しずつ違う絵を描き、点滅するライトを当てながら円盤を回転させることで、絵が変わっていくように見せるという、老女の趣味の産物である。

 魚が、大きな魚に食べられる。それだけの映像が、切れ目なく、絶え間なく、いつまでも続くのである。何処までも何処までも、魚は食べられ続ける。

「おばあちゃん、私ちょっと出かけてくる」

「あいよ、気をつけてお行き」

 老女は大きな口を開けて豪快に笑った。


 小さな家から踏み出すと、大きな森が顔を出す。

 リュックに荷物を詰め込んで、スカート揺らして意気揚々、今日は何処まで出掛けていこう、今日も何かを見つけよう。

 少女は小さく鼻歌を歌いながら、生き物だらけの森を進んでいった。

 小枝の上にいる黄色い動物は、全身丸くて耳だけ突き出している。すれ違ったのは尻尾が三本の猫。木の洞に潜んでいるのは、部屋の中にいるのと同じ小さな黒い生き物たち。片目をくっつけて覗いてみると、慌てふためいて奥に逃げてしまった。

 ふっと背後を、とても大きくて背の高いものが通り過ぎていった。振り返ってみても何もいなかったけれど、どこからか笑い声が聞こえてきた。

 それから薄暗いところを進んだときには、半透明の影たちとたくさんすれ違った。なんとなく人の形に見えたけれど、日向に出ると消えてしまった。少女は何も気にしないで、ずんずん奥へと進んでいった。

 ふと気付くと、木に囲まれるようにして、崖の中腹に洞窟がある。苔に覆われて深い緑しかない場所の中で、その穴だけが真っ黒い。

 入ってみようよ。耳の傍で、白いふわふわした生き物が語りかける。二つの潤った瞳が、せわしなく左右に動く。

 ついてきてくれる?

 いいよ。

 じゃあ、行こうか。

 少女は細い足を使って崖をよじ登り、洞窟の中に飛び込んだ。真っ暗な中を真っ直ぐ進む。同じ道を通れば帰れるから、何も心配することはない。遠くに見えていた光の点が、だんだん大きくなっていく。

 そうして洞窟を転がり出た少女は、光り輝く芝生の上に落ちた。圧倒的な光が少女を包み込み、浮いているような錯覚を起こさせる。目をこすって起き上がり、改めて周囲を見る。さあ、次はどこに行こうか。

 ところが少女は、凍りついたかのように立ちすくんだ。


 目の前にいたのは、輝く目をした青年だったのだ。


 彼は戸惑いながら少女に手を伸ばす。白いふわふわした生き物が驚いて少女の背後に飛び込むのを見て、彼はとても楽しそうに笑った。

 少女は彼の手を取った。不意にむき出しのふくらはぎがむず痒くなったけれど、我慢して笑って見せた。



 少女は家の外に出した椅子に座って、髪を切られている。

 元々短かった髪を、端を切り落として整えるのである。少女の髪は赤茶けていて、とても綺麗とはいえないけれど、それでも元気のいい髪をしていた。

 老女は床屋を相手に絶え間なく世間話をしていて、さっきから何度も今日の太陽のことを口にしている。首周りに巻かれたビニールの上に、細い短い髪がぱらぱらと落ちてくる。

「ほらほら、そんなに肩に力を入れなくてもいいんだよ」

 床屋のおじさんが優しく言ってくれる。しかし少女は、じっと口を引き結んだまま、少しも動くことが出来なかった。



 カップに入った半透明の飲み物は、陽光を受けて細かく輝いている。口をつけながら少女は、青年の顔を伺ってみる。

 青年は目を細めて笑った。少女も微笑してみせて、紅茶を口に入れる。不思議な香りが周囲を満たす。紅茶を飲んだことがないわけではないのに、ここの紅茶はなんだかいつもと違う味がした。

「今日は、あの白いのは一緒じゃないの?」

 青年の問いかけに、

「あいつ……気まぐれ、だから」

 少女は気取って答えた。青年は頬杖をついて芝生を眺めながら、紅茶を口に運ぶ。

「もし機会があったら、僕のアトリエを見せてあげるよ」

「本当? ゾートロープはある?」

「へえ、あれが好きなんだ……じゃ、探しておこうかなあ」



「……ねえ、おばあちゃん」

 暗幕を下ろした部屋の中で、少女は老女に話しかける。

「世の中には、可愛いものと醜いものしか、ないの?」

「そうだねえ」

 老女はゾートロープを見つめながら、口を横向きに引っ張るようにして笑う。ゾートロープでは、活発そうな少年が鉄棒で前回りをし続けている。

「そうじゃないものも、ないわけじゃないねえ」

「どういうもの?」

 鉄棒から体を起こしたときに一瞬だけ見える少年の顔は、にやにや笑っていて横に広くて、とても可愛いとは思えない。

「綺麗なもの、があるね」

 少女は一瞬、青年の長い睫毛を思い出していた。

「綺麗なものは、いいものなの?」

「そうとも言い切れないね。だけども……」

 老女はゾートロープを台から外した。急に差し込まれた老女の手に驚いて、黒い生き物たちが戸惑いながら逃げていく。少年はにやにや笑ったまま、永遠に静止する。

「お前は、とても可愛い子だよ」



「君はとても可愛い目をしているね」

 青年のその言葉は、いわば免罪符なのである。

 可愛い、といわれてしまうと、少女は隣に青年が座ることも、青年が少女の頬に触れることも許してしまうのである。

「可愛くなんかない、よ」

 触れられるたびに感じる奇妙な気持ちの悪さと、同じだけの奇妙な嬉しさが、少女にはまだ耐えられなかった。

「ううん、君の目は本当に……」

 耳元で囁かれる声が、また腰の辺りをぞくぞくさせる。

「そんな事ないよ。綺麗、じゃないし……」

 白いふわふわした生き物が見当たらない。今日は一緒に来たはずなのに、今の少女の見えるところにはいてくれないのだ。

「アトリエに入ろうか」

 青年の言葉に、少女は自分でも気付かないうちに頷いていた。


 アトリエの中は真っ暗で、点滅する光線だけが光の筋を伸ばしていた。ゾートロープが回っているので、少女は少しだけ嬉しくなる。

 円盤の中で、花が伸びては枯れていた。その茎の微妙なカーブは、今までに見たことがなかった。綺麗だ、と、少女は純粋に思う。

「気に入ったかい?」

 青年がまた、目を細めて笑う。

「うん……」

 少女は心の底から、素直にそういってしまうことが出来る。

「次のを試してみようか」

 暗幕の隙間から差し込む日光も、ライトのオレンジめいた光も、見慣れたものと何も変わらなかった。青年は背後から少女の肩を叩いて、もっと近寄るように促した。

 ところが。


 少女はライトの中で動くものに気付いた。

 黒い小さな生き物だけれど、少女がよく見るものではない。大きな目をした可愛い生き物ではなくて……それは、後ろ半分が黒い膜に覆われた、目玉だったのだ。


「どうしたの?」

 青年の問いに、少女は息を殺して問い返す。

「あれは、何?」

 青年は少女の肩越しにそれを覗き込んで、また楽しそうに笑う。

「ああ、あれは目玉だよ」

「だけど……」

「あれは原始的な生き物だからね。生き物に一番大切なのは目玉だろう?」

「そう、かもしれないね」

「だから目玉は、ああやって一番はじめに進化するんだ。まだ体ができていないんだよ。目玉が大きい生き物なら、たくさん見ただろう?」

「うん……」

 青年は平然と説明を終えて、少女の体に腕を回した。

「君の目は、本当に可愛いね……」


 そのとき、少女は気付いてしまった。自分を背後から抱きしめているものが、一体何なのか。

 黒い毛だらけの体に、巨大な目玉が一つだけついた生き物。その目は虚ろに上の方を見つめていて、口は半分開いて薄笑いを作っている。

 それが青年なのか、かつては青年だったのか、青年ではない何かなのかはもはや問題ではない。ただそれは、未だかつて少女が見たことのないほどに、醜い生き物だった。

 少女はそれの腕を振りほどいてアトリエを飛び出し、脇目も振らずに逃げ去った。

 それから、どうやって家に帰ったのか、少女は覚えていなかった。


* * *


 目を開けてみる。

 世界は黒く、瞼の裏の世界よりもずっと暗い。それでも、本当はその世界には太陽が溢れ、森があり、そしてその世界での自分は単なるありふれた人間という生き物であることを、それは知っている。

 満足して、笑顔を作ってみた。

 そしてそれは一つしかない瞳を開けたまま、毛だらけの太い足を動かして、薄笑いを浮かべながら森を歩いていく。

 いずれ、それは彼女と再会することになる。

 どこまでも綺麗な瞳を持つ、かつて少女だったその女性に。

スタジオジブリが好きです。

強さを失わない少女たちは、果たして本当に、大人になるまで強くいられるものなのでしょうか。

恋慕や愛情は、人間を強くするようで、弱くするようで。

大人になるって、怖い事ですよね。

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