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身分違いの朝食係はもう辞めます、辺境公爵家で病人食を作ります。  作者: 小竹X


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第60話 山村への巡回

短い夏が終わる前、リディアは北境の奥にあるラウム村へ向かった。


 食卓法の写しはすでに各村へ届けてある。だが、写しが届くことと、村の台所で使えることは同じではない。ラウム村から返ってきた報告は、麦の量だけが書かれ、食べた人の様子は空欄のままだった。


 怠けているのではない。書ける者が少ないのだと、ハンナが教えてくれた。


 山道は細く、馬車の車輪は石に何度も引っかかった。同行したトマは、荷台の小さな鍋を押さえながら眉を寄せている。


「この道で冬に病人を運ぶのは難しいですね」


「だから、村の台所でできることを増やす必要があります」


 ラウム村は谷の奥にあった。家は低く、屋根には石が載せられている。村人たちは公爵夫人の来訪に緊張し、広場に並んだが、誰も前に出ようとしなかった。


 村長は年老いた男で、礼は丁寧だった。


「法のことは承知しております。ただ、字を書く者が少なく、帳面は若い司祭に任せております。司祭は隣村も見るので、毎日は来られません」


 リディアは村の共同厨房を見せてもらった。鍋は清潔だった。麦の保存も整っています。だが、壁に掛けられた帳面は確かに空欄が多い。食べられなかった日の理由を書く欄には、何もない。


 その空欄の横で、小さな女の子が椀を抱えていた。唇が乾いている。熱は高くなさそうだが、匂いに敏感になっている顔だった。


「その子は?」


 村長の嫁が慌てて頭を下げた。


「孫です。昨日から汁を嫌がって。王都のような病ではありません。ただ、食べないだけで」


 ただ食べないだけ。その言葉の奥に、家族の焦りがあった。


 リディアは膝を折り、女の子の椀を見た。刻んだ山羊肉が入っている。大人には力のつく汁だが、今の子には匂いが重い。


「お名前は?」


「ミラ」


「ミラ、肉の匂いがいや?」


 女の子は小さくうなずいた。リディアは肉を責めなかった。作った人を責めることもしなかった。


「今日は麦湯だけにしましょう。香りの強いものは別の鍋に移します」


 共同厨房で、リディアは新しい記録板を作った。紙ではない。板に、小さな絵を刻む。


 椀の絵は食べた。

 横線の入った椀は残した。

 鼻の絵は匂いがつらい。

 手の絵は器が熱すぎる。

 月の絵は眠れなかった。


 字が書けなくても、印をつけられる。トマは最初、驚いていたが、すぐに炭を削り、見やすい線を足していった。


「これなら子どもでもわかります」


「子どもにもわかるなら、大人も逃げにくいです」


 村長は板を見つめた。


「これも、法にかなうのですか」


「記録の目的は、きれいな字を残すことではありません。次に同じ人を困らせないことです」


 ミラは白い麦湯を一口飲んだ。たった一口で、広場にいた大人たちの肩が下がった。


 その夜、共同厨房の壁には絵の記録板が掛けられた。村長の嫁は、鼻の絵の横に小さな印をつけた。


「肉の匂い、と」


「はい。明日、匂いの弱い汁で試します」


 リディアはその印を見て、食卓法が少しだけ山の奥へ歩いたのを感じた。紙の上の制度は、村の手に合う形へ変わらなければ、ただの飾りになる。


 ラウム村の朝は、王宮の朝とは違う。だからこそ、その違いを記録する場所が必要だった。

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