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身分違いの朝食係はもう辞めます、辺境公爵家で病人食を作ります。  作者: 小竹X


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第2話 薬帳と小さな鞄

王宮の廊下は、朝が進むにつれて人の足音を増していく。


 磨かれた床に靴音が重なり、侍女の裾が擦れ、遠くの中庭から水音が聞こえる。いつもならリディアは、国王が一口目を飲み込んだかどうかの報せを待ちながら、次の薬湯の仕込みを始める時間だった。


 けれど今日は、東厨房の裏にある小さな控え室で、自分の鞄を広げていた。持ち物は少ない。


 替えの服が二組。亡き母の木匙。古い薬草鋏。薄い手袋。城下の薬種屋がくれた乾燥生姜。あとは、四冊の帳面。


 一冊目は、国王陛下の朝の記録。二冊目は、薬草の相性と食材の火加減。


 三冊目は、王宮厨房の失敗を書き留めたもの。焦げやすい鍋、湿る薪、気分屋の魔導炉、季節ごとに味の変わる塩。


 四冊目だけは、誰にも見せていない。


 母が残した手書きの温脈帳(おんみゃくちょう)だった。人の体の冷えや疲れを、料理と湯でゆっくり整える古い技術。魔法と呼ぶには地味で、医学と呼ぶには台所に近い。だから王宮では軽んじられた。


 軽んじられたものほど、失うまで気づかれない。


「リディア様、本当に出ていかれるのですか」


 控え室の扉の向こうで、ネリが泣きそうな顔をしていた。さっき国王の朝食を届けに行ったばかりなのに、息が切れている。


「陛下は召し上がった?」


「はい。二口目で少し咳き込まれましたけれど、札の通り葛湯に替えたら落ち着かれて……『今朝もリディアの味だ』と」


 その言葉は、胸に痛いほど温かかった。リディアは帳面の紐を結び直した。


「なら、今日は大丈夫」


「今日は、です」


 ネリの声が強くなる。


「明日はどうするんですか。明後日は? 料理長は分かってくださいますけど、薬草の量まで全部は……」


「基本の表は残すわ。料理長なら読める」


「ミレーヌ様が、さっきの札を捨てようとしました」


 リディアの手が止まった。


「捨てたの?」


「料理長が止めました。でも、ミレーヌ様は『苦しければ侍医が診ればいい。食事で王を支えるなど、厨房の者の思い上がり』と」


 予想していた言葉なのに、実際に聞くと胃の底が重くなった。


 リディアは新しい紙を取り、王宮料理長グラントに宛てて書いた。季節ごとの基本、陛下が嫌う苦味の薬草、咳が湿っている時の湯、乾いている時の湯。全部を書けば本が一冊になる。だから今日から三日分だけ、確実に必要なものを選んだ。


「これを料理長に。人目のあるところで渡して」


「はい」


「それから、私の帳面は持っていくわ。個人の記録だから」


 ネリは涙を拭った。


「当たり前です。あの方たち、リディア様のものまで置いていけと言いそうですもの」


 扉の外で、わざとらしい咳払いがした。振り向くと、王太子付きの侍従長が立っていた。細い髭を整え、手には一枚の紙を持っている。


「ベルセ嬢。殿下より、退去の前にこちらへ署名するようにとのことです」


 差し出された紙には、退職ではなく「自発的な厨房立ち入り停止に関する誓約」と書かれていた。中身は簡単だった。


 王宮厨房で知り得たことを外で話さない。国王の食事に関する記録を持ち出さない。今後、王宮から求めがあった場合は無償で助言する。


 最後の一文を読んで、リディアは小さく息を吐いた。


「署名できません」


「なぜです。あなたは王宮に仕える身ではないのでしょう。ならば、誓約くらいは」


「仕える身ではないなら、無償で助言する義務もありません。国王陛下の公式記録は料理長に残しています。私の帳面は、私の手で観察し、私の母から受け継いだものです」


 侍従長は不快そうに唇を曲げた。


「身分をわきまえなさい。あなたをここまで置いておいたのは、殿下の温情です」


「でしたら、その温情にこれ以上甘えないことにいたします」


 ネリが息を呑んだ。リディア自身も、少しだけ驚いた。けれど、言葉は止まらなかった。


「未払いの手当については、ベルセ子爵家ではなく私個人へお支払いください。厨房記録の写しに、勤務日と時間は残っています」


「金の話を、この場で」


「食材も薪も薬草も、金で買います。働いた人の時間も同じです」


 侍従長は署名紙を乱暴に畳んだ。


「後悔なさるでしょうな。王宮を離れた子爵家の養女に、どれほどの行き先があるか」


 その言葉に、扉の向こうから低い声が返った。


「行き先なら、こちらで用意している」


 廊下に立っていたのは、黒い外套の騎士だった。王宮の近衛ではない。肩章には、灰色の狼と北の山を組み合わせた紋章が刺繍されている。


 辺境公爵家ノルドヴァルトの紋章。侍従長が一歩引いた。


「貴殿は」


「ノルドヴァルト公爵家家令補佐、オスカー・レイン。昨夜、王宮侍医殿を通じてベルセ嬢への正式な雇用打診を出した。返答を待っていたが、どうやら王宮側の事情が変わったらしい」


 リディアは目を瞬いた。打診など聞いていない。


 オスカーはそれを察したのか、礼儀正しく頭を下げた。


「リディア・ベルセ嬢。主エルヴィン・ノルドヴァルト公爵は遠征帰還後、胃を患っております。侍医は薬を処方しましたが、食事が通らない。あなたの養生食(ようじょうしょく)の評判を聞き、北境公爵家の客員厨師としてお迎えしたい」


 侍従長が慌てて口を挟む。


「待て。ベルセ嬢は王宮の情報を――」


「彼女が王宮に正式雇用されていないことは、先ほど貴殿がお認めになった」


 オスカーの声は穏やかだったが、廊下の空気が冷えた。


「それとも、王宮は正式な俸給も任命書も与えず、退去の自由も認めないのか」


 侍従長は黙った。リディアは鞄の留め金を閉じた。木匙が中で小さく鳴る。


「伺います」


 迷いは、思ったより少なかった。


「ただし、私は王宮の失敗を売るつもりはありません。できるのは、公爵様のお体を見て食事を作ることだけです」


「それを望んでおります」


 オスカーは深く礼をした。ネリがリディアの袖を握った。


「リディア様、どうかお元気で。私、料理長に必ず紙を渡します」


「ありがとう。あなたも火傷に気をつけて」


 王宮の通用門を出る時、朝の雨が石畳を濡らしていた。リディアは一度だけ振り返った。高い塔の窓のどこかに、国王の寝室がある。今朝の粥は、もう冷めただろうか。


 胸が痛む。それでも、戻らなかった。


 彼女の手には、自分の鞄と、自分の帳面があった。

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