表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
身分違いの朝食係はもう辞めます、辺境公爵家で病人食を作ります。  作者: 小竹X


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/68

第10話 南門救護所の夜

南門救護所で最初の患者が倒れたのは、雨の夕方だった。北境の雨は冷たい。山から下りる風に混じると、春の終わりでも骨まで染みる。その日、南門の兵たちは訓練のあと、濡れた外套のまま見回りに出ていた。


 倒れたのは、兵舎で一度粥を飲んだ少年兵だった。名をユアンという。腕の包帯はまだ取れていない。彼は門の陰で腹を押さえて座り込み、見張りの交代に来た兵が見つけた時には、顔色が紙のように白かった。


 知らせを受けたリディアは、厨房から湯壺を抱えて走った。雨の石畳は滑る。マルタが後ろから外套を掛けてくれたが、裾はすぐに濡れた。


 救護所に入ると、冷えた空気と汗の匂いが混じっていた。軍医バルトがユアンの脈を診ている。エルヴィンも来ていた。彼自身も濡れているのに、気にした様子がない。


「食中毒ですか」


 リディアはまずそれを聞いた。自分の鍋で誰かを傷つけた可能性を、先に確かめなければならない。


 バルトは首を振った。


「熱は低い。腹を下してはいるが、毒の反応ではない。冷えと空腹に、古い干し肉を食べたらしい」


 リディアはユアンのそばに膝をついた。


「干し肉を食べたのですか」


 少年兵は青い唇で答えた。


「すみません……夜番の前に、腹が空いて。先輩が、少しだけならって」


「謝るのはあとです。今は息をゆっくり」


 リディアは湯壺を開けた。中身は薄い葛湯だった。生姜は弱く、塩をほんの少し。甘みはない。冷えた体に急に濃いものを入れると、余計に吐く。


「一口だけ。飲み込めなければ舌に乗せるだけでいいです」


 ユアンは震える手で器を持とうとしたが、指に力が入らない。エルヴィンが無言で器を支えた。


 公爵が少年兵の口元へ器を運ぶ。ユアンは驚いたように目を見開いたが、すぐに一口を飲んだ。喉が動く。


 吐かなかった。


「もう一口は、少し待ちましょう」


 リディアは濡れた外套を外し、ユアンの腹に温めた布を当てた。バルトが感心したように見る。


「腹を温めるのか」


「冷えた胃腸に湯だけ入れても、外から冷え続けていれば動きません」


「なるほど」


 救護所には、同じように冷えと腹痛を訴える兵が三人運び込まれた。全員、濡れたまま見回りに出て、空腹をごまかすために干し肉を噛んでいた。


 リディアは湯を分け、症状を見て量を変えた。ひどい者には葛湯。まだ余裕のある者には薄い麦湯。吐き気がある者には香りを抜く。体が震えている者には、足元から温める。


 作業は地味で、終わりが見えなかった。だが救護所の空気は、少しずつ変わっていった。


 最初は呻き声ばかりだった部屋に、湯を飲む音が生まれる。濡れた外套が干され、替えの布が運ばれ、トマが厨房から焼き戻した黒パンの小片を持ってきた。


「噛みたい人用です。リディア様の言った通り、表面だけ炙りました」


「ありがとう。痛みが落ち着いた人から少しずつ」


 エルヴィンはその間、ずっと救護所にいた。彼は指示を出し、兵の家族へ連絡する者を決め、濡れた寝台を替えさせた。何度か咳をしたので、リディアは目で注意した。


「公爵様も、お戻りください」


「まだ動ける」


「動けるかどうかではありません。明日の朝、胃が痛んだら、兵に示しがつきません」


 周囲の兵が小さく笑った。エルヴィンは渋い顔をしたが、反論しなかった。


「一刻だけ残る」


「半刻です」


「……半刻」


 そのやり取りを聞いたユアンが、弱々しく笑った。


「公爵様が負けた」


「負けていない」


「負けましたよ」


 救護所に、久しぶりに軽い空気が流れた。夜半、雨が弱まった頃、ユアンの腹痛は落ち着いた。顔色も戻り、眠りに落ちる。ほかの兵たちも、ひどい者はいない。


 リディアは救護所の隅に座り、濡れた袖を絞った。疲れが一気に押し寄せる。


 王宮でも、夜明けまで厨房に立つことはあった。だがあの頃の疲れは、誰にも見られないまま床に染み込んでいた。


 今は、マルタが温かい外套を肩に掛けてくれる。


「よくなさいました」


 その一言で、目の奥が熱くなった。


「私は、鍋を持ってきただけです」


「鍋を持ってくる人がいなければ、兵は一晩苦しみます」


 マルタは湯の入った小さな器を渡した。


「リディア様も飲んでください」


 自分用に温かいものを受け取ることに、リディアはまだ慣れていなかった。少し離れた窓際で、エルヴィンが雨の上がりかけた空を見ている。半刻で戻ると言ったのに、結局彼も残っていた。


 リディアが近づくと、彼は静かに言った。


「あなたの食事は、戦場の後始末にもなるのだな」


「戦場に行ったことはありません」


「だから見えるものもある。兵は、腹が痛いくらいで弱音を吐けない。あなたはそれを弱音にしないで、手順に変える」


 リディアは湯の器を両手で包んだ。


「王宮では、細かいと言われました」


「細かいものを見落とすと、人は倒れる」


 エルヴィンの声は、雨の後の空気のように低く澄んでいた。


「北境には、その目が必要だ」


 必要。その言葉が、リディアの胸の奥にゆっくり染みた。


 王宮では、必要なのはいつも彼女の手順だった。ここでは、彼女の目まで必要だと言われた。


 夜明け近く、救護所の窓に薄い光が差した。ユアンが目を覚まし、かすれた声で言った。


「お腹が、空きました」


 それを聞いた瞬間、リディアは笑った。南門救護所の夜は、粥の小さな勝利で終わった。

お読みいただきありがとうございます。

ここまでで北境での最初の受け入れが一区切りです。続きもお付き合いいただけましたら嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ