北帰行
トンネルを抜けると一気に視界が白む。夜露が凍りつく窓の外に銀世界が広がった。あの有名な日本文学のフレーズが思い浮かんだけれど、僕はあの話が嫌いだった。どうやったって、嫌いだった。
暖房の効いた列車の中で膝の上に乗せた木箱を両手で包み込む。日本の冬には未だ慣れない。本当はヴェネツィアに君を連れて帰りたかった。
でも、列車は君が待つ北の雪国へと走り続けている。
岩肌を無理やり這うように線路が軋む。水上をゆらゆら進むのとはまるで違う。僕は君を愛しているけれど、実際、今は君の故郷のことが嫌いだよ。
雪景色は目を焼くように明るかった。
『あなた、お昼に休めてないの』
いつだったか、見舞いに訪れた僕の充血した目を見て君は困ったように笑った。
今の僕は夜しか眠れない。日本人には普通のことだろうけれど、僕にとっては残酷な呪いだった。夜しか眠れない。リポソの習慣もなくなった。
明かりのない闇の中でしか、安らかにいられない。
故郷ではあんなに温かかった太陽は、変わってしまった君の輪郭を容赦なく照らし出すだけのスポットライトだ。君の命の灯火が少しずつ削られていく現実を僕の目に焼きつける。
希望に満ちるはずの昼の間はただ不安に急き立てられて、疾く夜をと祈ることしか僕にはできなかった。
暗闇だけは見たくもない現実を覆い隠してくれる。夢の中の君はかつてのように闊達に、僕に笑いかけてくれる。
運河沿いにどこまでも歩いて、二人でスプリッツを楽しみながらグーリエ橋を眺めたりして――僕たちの安らぎは夜の眠りの中にしかなかった。
膝の木箱には一輪の真紅の薔薇が横たわっている。君が故郷に帰って以来、君が生まれた日に薔薇を贈ることができなくなってしまった。花が褪せていくのに君が涙を我慢するから。
君の細胞は少しずつ色を失い、透き通る雪のように消えていこうとしている。僕が君の頬を両手で包んでも、その進行を止めることはできないという。
だからせめて、消えゆく君に枯れない薔薇を。
僕の故郷に伝わる伝統工芸、ヴェネツィアンガラスの花びらを重ねて作られた薔薇の花だ。職人の手によって命を吹き込まれ、瑞々しい輝きは決して絶えることがない。
夕闇が空を覆い始めた頃、列車は終着駅に滑り込んだ。凍てつく寒さの中を急ぎ、足を滑らせそうになりながら、雪を固めたような白い建物に辿り着く。入り口で靴底の氷を落として君のもとへ向かう。
個室の扉を静かに開けると、ベッドの上で浅く息をしていた君が静かに目を開けた。
「きてくれたのね」
「ああ。遅れてごめん」
「早いほうよ」
「僕も日本人になってきたかな」
微かに笑うと同時に、君は小さく咳込んだ。
君の枕元に座って、木箱から取り出した薔薇をそっと君の手のひらに乗せた。薄明かりを反射して真紅の薔薇が君の白い肌の上に鮮やかに咲き誇る。
「きれい。生きてるみたい」
「生きてるさ。この薔薇は絶対に散らないし、色褪せることもないんだ。君の薔薇だよ」
「嬉しい。……ごめんね」
「だめだよ、そこは『ありがとう』だ。日本人の悪いところだな」
「ふふ。私はまだイタリア人じゃないわね」
君の瞳から、一滴の雫が硝子の花びらを濡らした。
「待っていてくれて、ありがとう」
僕がそう囁くと、君は僅かに首を振って、香りを探すように薔薇に唇を寄せた。
「暗くなるのを待ってたの。夜に眠りたかった。あなたは夢の中にきてくれるから」
「僕は明日もここにいるよ。君のそばに」
静寂に包まれた雪国に夜がやってくる。この街が、ヴェネツィアよりずっと南にあるなんて信じられない。信じられないよ。
chi di speranza vive disperato muore.
なぜだろう。昼の君が少しずつ消えてゆく。それでも夜には眠りの中で会える。
月明かりの下でまた君へ薔薇を贈ろう。いつまでも――




