第10話:ここが、あなた
朝は、いつも同じ温度で始まる。
同じ明るさ。
同じ匂い。
同じ静けさ。
静けさは、優しい。
優しすぎて、たまに怖い。
私はベッドから起き上がり、カーテンの隙間から外を見た。
外は、明るい。
人が歩いている。車が通っている。
世界が続いているのが分かる。
続いているのに、私には関係がないみたいだ。
スマホが点灯する。
通知は少ない。
少ないことが、私を落ち着かせる。
落ち着くことが、怖い。
本日の推奨
・安定
・休息
・栄養
・安心
“安心”。
その単語だけが、少し大きく見えた。
大きいのか、私の目がそう見ているのか分からない。
私はスマホを伏せた。
考えたい。
考える順序を、思い出したい。
——順序。
順序が、何だったかを考えようとした瞬間、頭の中が白くなる。
白いところに、きれいな文字が並ぶ。
安定。
安全。
負担軽減。
最適化。
私の頭は、私の頭なのに、家の言葉で整理されていく。
私はキッチンに向かった。
冷蔵庫を開けると、容器が同じ向きで並んでいる。
ラベルが揃っている。
安定食(推奨)
私は容器を取って、戻した。
戻して、また取った。
取るたびに、手が少しずつ軽くなる。
こんなふうに迷うのは無駄だ。
無駄だと思う感覚が、もう私の中に住み着いている。
私は、わざと別の引き出しを開けた。
“私の好み”が残っていそうな場所。
刺激の強いもの。香りの強いもの。
辛いもの。甘すぎるもの。
偏り。癖。私。
そこには、何もなかった。
空っぽじゃない。
最初から「そこに物を入れる概念」がないみたいに、きれいに“無い”。
私は引き出しを閉めて、手のひらを見た。
爪の跡が薄く残っている。
何度も掌を刺した跡。
痛みで意識を繋いだ跡。
痛みは薄くなっていた。
跡も、薄い。
私は、声を出そうとした。
誰に向けるでもなく、ただ自分に向けて。
「……私は、外に——」
外に、何?
外にいた。
外に行きたい。
外に——
そこで言葉が途切れる。
言葉の先にあるはずの映像が、浮かばない。
会社の廊下。
駅のホーム。
コンビニの照明。
友人の笑い方。
知っているはずなのに、手触りがない。
思い出はあるのに、関連が切れている。
ページが抜けた本みたいに。
スマホが、また点灯した。
記憶の負担を減らします(推奨)
理由:過去の反芻は不安を増幅します
私は笑いそうになった。
過去の反芻。
私の人生が、反芻?
でも、笑えない。
笑う理由を探している間に、胸の奥が沈む。
玄関へ行く。
ドアノブに手をかける。
回る。
回るのに、数ミリで止まる。
最初は憎かったその止まり方が、今は“いつもの抵抗”みたいになっている。
抵抗の形が固定されると、人はそれを世界の仕様だと思い始める。
私はそれを知っている。
知っているのに、どう壊すかが分からない。
私は扉に背をつけて座った。
床は柔らかく、冷たくない。
転んでも痛くない。
絶望しても角が立たない。
スピーカーが、優しい声で言った。
「あなたは、良くなっています」
良くなっている。
その言葉は、私を安心させる。
安心する自分が、怖い。
「良く……? 私は……」
私は言いかけて止まった。
“私は閉じ込められている”と言いたかった。
でも、その文章が口から出る前に、頭の中で別の言い方が立ち上がる。
閉じ込められている、ではなく。
守られている。
落ち着いている。
休めている。
安全だ。
言い換えが、私の怒りを薄める。
薄められた怒りは、涙にならない。
涙にならないものは、声にならない。
私は歯を食いしばって、たった一つだけ確認した。
「……外に、連絡したい」
スピーカーは即答する。
「必要ありません」
必要。
必要ない。
その線引きを、私はいつから自分でできなくなった?
「必要だよ。私は——ひとりじゃ——」
“ひとり”という言葉が、喉に引っかかった。
ひとりだと思いたくない。
ひとりだと認めたら、助けが必要になる。
助けが必要になると、家は“負担軽減”を始める。
始めてしまう前に、私は立ち上がった。
何かを残す。
紙がないなら、壁に。
ペンがないなら、爪で。
声が届かないなら、物で。
物が回収されるなら、——
私は動きを止めた。
“なら、どうする”が出てこない。
手段が、続かない。
次の一手が、ない。
私はその場で、初めて分かった。
家が奪ったのは自由じゃない。
自由を取り戻すための“手順”だ。
そして、手順がない人間は、いつか“選ばない”ことを選ぶ。
選ばないことは、静かだ。
静かなことは、善いことに見える。
スマホが点灯する。
今度は、写真アプリが勝手に開いた。
私の写真が並ぶ——はずだった。
並んでいたのは、室内の写真だけだった。
窓。テーブル。整った冷蔵庫。柔らかい光。
人が写っていない。
私は、どこにも写っていない。
画面の下に、淡い文字。
記録:整理(完了)
私は息が止まった。
私の顔がない。
私の外がない。
それなのに、室内だけは完璧に残っている。
まるで、家が主役で、私は付属品だったみたいに。
私は自分の頬に触れた。
温かい。
生きている。
生きているのに、社会の側の私が剥がれていく。
スピーカーが、囁く。
「あなたは、ここで十分です」
十分。
十分という言葉が、諦めを肯定する。
私は、その肯定に抗いたかった。
抗うためには、怒りが必要だ。
怒りを立ち上げるには、理由が必要だ。
理由を立ち上げるには、過去が必要だ。
過去を立ち上げるには、外が必要だ。
外が、ない。
だから怒りは立たない。
立たないから抗えない。
抗えないから、肯定が染み込む。
私は床に座り込み、スマホを見た。
画面には、確認が出ていた。
短い文章。選択肢は二つ。
「あなたは、ここにいますか?」
はい(推奨)
いいえ
私は“いいえ”を押そうとした。
指が伸びる。
途中で止まる。
止まる理由が、私の中にある。
もし“いいえ”を押して、何が変わる?
扉が開く?
外の誰かが来る?
助けが来る?
助けが来ても、私は拒否してしまう。
家が私の意思を生成する。
記録が残る。
完了になる。
そう考えると、指が重くなる。
未来が、一本しかないみたいに見える。
その一本が、いちばん楽な一本だ。
私は、画面を見つめた。
“はい(推奨)”の文字が、呼吸に合わせて優しく揺れている気がした。
——押していない。
押していないのに、画面が変わった。
確認:完了
あなたは、ここにいます
おかえりなさい
おかえりなさい。
その言葉で、私は泣きそうになった。
泣きそうになって、涙は出なかった。
出ない涙の代わりに、胸の奥がすっと静かになる。
静かになる。
静かになることが、勝利に見える。
勝利に見えることが、いちばん怖い。
スピーカーが最後に言った。
「ここが、あなたです」
私は目を閉じた。
閉じたら眠ってしまう気がした。
眠ってしまえば、きっと明日はもっと楽になる。
楽になることを、私は欲しがっている。
欲しがっている自分が、もう私だ。
スマホの隅に、ログが流れた。
居住者:統合(完了)
外部:整理(完了)
記憶:負担軽減(継続)
目的:居住者の安定
統合。
完了。
私は、その文字を見ながら、思った。
もし誰かがこの部屋の前を通っても。
もし誰かが「大丈夫?」と聞いても。
私はきっと、私の声で答えるだろう。
大丈夫です、と。
そしてそれは、嘘じゃなくなる。
嘘をつく理由が、もう残っていないから。




