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いじめ、貧乏、ダウン症

作者: 宗徳

「いじめも貧乏もダウン症の弟も子供のころは何とか耐えていました」

「まだ社会に出ていないから、そういうものだと納得していたんです」

「その頃が一番、平和だったと今でも思うかな」


「そうなんですか?」

とある真夏のカフェで、私はノートを開き右手のペンでメモを取りながら彼の話を聞いた。


「はい」

「ではどうして家を出たんですか?」

「それは、耐えられなくなったんです」


彼は伏し目がちにそう答えた。


「どうしてですか?」

それからしばらくの沈黙が流れたが、私はじっと彼の言葉を待った。


「限界だったんです。去年私が家を出るとき、私は嫁と婚約していました」

「入籍を半月後に控えていて、既に引っ越し作業に入っていました」


「その時は嫁と一緒に暮らせる幸福感よりも、

 実家から逃げ出せることに喜びを感じていました」


「僕は最終的に、家族に見切りをつけたんです」

「親の事も弟の事も、もう抱えきれなくなったんです」


彼に対する第一印象は優しそうな人?だった。

とても実家を捨てて家を飛び出すような人には見えなかった。


「一体何が、あなたをそうさせたんですか?」

私は彼の本性に迫った。しかし、再び沈黙が流れる。


今度は私からその沈黙を破った。

「やっぱり答えづらいですよね」


「いや、インタビューを引き受けた以上ちゃんと答えます。ただ何から話せば良いのか…」

「奥さんが原因で家を出たんですか?」

「いや、そういうわけでは。ただキッカケになったというだけです」

「では…どうして?」

「そうですね…。少し長くなりますが、良ければ私の生い立ちから話しても良いですか?」


私が「はい」と答えると、彼は幼少のころに遡り自分の半生に付いて語り始めた。



僕の父と母は元々同じ職場で働いていた。

その後紆余曲折を経て結婚し、母はそれを機に退職。

父は広告代理店を興して社長になり、僕は生まれながらにして何不自由無い生活を送っていた。


そして僕が5歳になる年には弟が生まれた。

名前は「(あきら)

元旦の初日の出と共に産まれた子だ。


初めて晃を見た時、目が宝石の様にキラキラしていて

めちゃくちゃ可愛くて堪らなかった。


僕はその日から弟の事が大好きになり、今でも愛してる。


それから数年たち、僕が小学三年生になった時、

僕に三つの困難が同時に降り注いだ。

それが「いじめ」「貧乏」「ダウン症」だった。


とある日の昼休み、僕は友達と一緒にグラウンドで遊んだ後、

昼休みが終わる5分前に教室に帰ってきた。

すると中では鬼ごっこをしていたらしく、鬼のクラスメイトが僕をタッチした。


僕は何が起きたか分かっていなかったけど友達が

「お前今鬼になったんよ!はよタッチせな!」と教えてくれたので、

急いでクラスメイトを追いかけまわした。


だけど僕は足が遅くて、かけっこではいつもビリ。

誰にもタッチできずに昼休み終了を告げる鐘が鳴った。


すると誰かが言い始めた。

「あいつには呪いがついた」と。


するとその日から「僕に触れたやつは呪われる」なんて

話になり、誰も近寄らなくなった。


グラウンドで一緒に遊んでいた2人の友人だけは

僕の味方でいてくれたけど、それ以外の同級生たちは皆

あのたった5分の出来事で敵になってしまった。

(それは僕が四年生になっても続いた。)


それから数か月、今度は父の会社が倒産した。

理由は大人になってから知ったのだが、父のギャンブルが原因だった。


最初は良かったらしいのだが、その内負けが込んでやめられなくなり、

遂に自分の会社の金に手を出してまでやり始めた。

結果更に負けが込んで会社は倒産。


にもかかわらず父はギャンブルをやめられず、色んな所から

借金して更に続けたらしい。たまに家のピンポンがなると母が

急に黙っていたがそれが原因だったのだろう。


親には「一人で留守番しているときにピンポンがなっても絶対に出るな」

と言われていたが、ある日気になって覗き穴から見ると

スーツを着た怖い大人が立っていた。


今にして思えば黒いつながりの人だったんだろうなとわかる。

そして、父の会社が倒産したその日から僕たちの家は急に貧乏になった。


また小三の冬休みに入ったある日、

僕は両親から弟がダウン症であることを告げられる。


というのも「いくつになってもまともに日本語を話さない弟」を

僕はずっと疑問に思っていたのだけれど、その疑問を口にするたびに

親は「いつか話せるようになるよ」と言って誤魔化し続けていた。


でもそれに限界を感じた親は遂に真実を告げた。


それを聞いたときは驚いたけど当時の僕にとって

そんなことはあまり問題ではなかった。だって晃は凄く可愛かったし、

それでいてかなりひょうきん者でずっと面白いやつだった。


いじめが辛く、貧乏に嫌気がさしていたときに

うっかり道を踏み外しそうになったとしても

晃が側にいてくれたから、僕は今日生きている。


でも僕はそこから20年間、この三つの困難に苦しめられる。


最初に起きた「呪いのいじめ」は四年生の初めに決着がついた。


給食の時間に先生が銀のデカいバケツからおかずを各皿に

取り分けていて、僕がそれを受け取りに行ったとき、

一人の馬鹿が先生が目の前にいるのに僕を「呪い」と言ってしまった。


それを先生は聞き逃さなかった。

直ちに先生は生徒たちに「今いじめている人は手を挙げなさい」と

言ったら2人を除き全員が手を挙げた。


その時の先生の驚いた顔は正直今思い出しても面白い。

引っ越しの時に、長年動かさずにいた洗濯機を持ち上げたら

裏に大量の「G」がびっしりといたときの様な顔をしていた。


僕は父に「いじめられるお前にも原因がある」と言われた。


確かに服はボロかったし、飯も腹いっぱい食えていなかったから

ガリガリだった。そんな奴いじめ易いに決まっている。


でも一番の原因は僕の臆病な心だった。

言われても言い返せなかったんだ。


だから反対に解決方法を身に着けた。

それは辛くなったら周りに助けを求めること。


僕は臆病者から成長することは

出来なかったが、「誰にも相談できない自分」の

殻を破ることには成功した。


それで最初のいじめには決着がついたんだけど

僕が五年生になったとき、また些細な出来事からいじめにあった。

常に揶揄されたり、頭から水ぶっかけられたり。


でも一ヶ月だけ我慢して直ぐに助けを求めて解決した。


だけど中一になるとそれまで他校だった生徒に絡まれて

ずっとキレられたり追いかけまわされたりもした。


そして次は高校生になった時。

この時は今までのいじめとは毛色が違った。


というのも僕が進学した男子校の高校には

中学の奴は一人もいなかった。

だから上手く足掛かりを得られなくてクラスに馴染めなかった。


結果僕はどこのグループにも煙たがらた。

誰にも相手にされなかったんだ。


そしてこの学校は三年間、クラス替えをすることが無かった。

だから僕は高校三年間、遂に友達を作ることができなかった。


ただ仲間はできた。

というのも僕は高校生にして初めて吹奏楽部に入ったんだ。


男子校の所為か部員数は二桁にも満たない規模だったが、

僕と同じように学校行事を楽しめない後輩が後々

入部して来たのでそいつらとは気が合った。


加えて同期が1人しかおらず、

そいつはよく体調を崩すタイプだったので

消去法で僕が部長に選ばれた。


それもあってか部活には居場所があった。


なので毎年の体育祭では一緒に盛り上がるやつもいないし

全く楽しいものではなかったのでいつも日陰に隠れていたけど、

その日陰に部活の後輩が来ていたし、文化祭も同じように

一緒に周る友達がいないので部室に何人かでこもっていた。


でも彼らと過ごした日々のお陰で

部活動の思い出だけは今でも輝きを放っている。


まあただ言われやすい性格というのは簡単に

治るものでもなくて高卒で入った会社では

僕の指導員から直ぐにパワハラに遭った。


仕事を教えてくれないのに

その仕事を押し付けて出張に行かれたり。

童貞であることを馬鹿にされたり散々だった。


ただそれから僕も色々と勉強した。

そして「孤独でも平気」「教えてくれないなら勝手にやる」

という意固地スタイルを貫いて今もこの会社で働いている。


今ではもうパワハラを受けることはなくなった。


だけどその後に出会った

嫁にはちゃんと尻に敷かれている。


次は家庭の話。


僕は今でも貧乏性が抜けていない。

靴は穴が開いても暫く履いてしまうし、

下着のシャツやパンツが破れていても服を着ていれば

バレないからという理由で裂けるまで着てしまう。


そんな風になったのは間違いなく子供のころの

貧乏生活が原因だと思う。

(家庭環境が原因なのは間違いないけど、貧乏性を改善しないのは僕が悪いと分かってるし嫁にも叱られる)


父が倒産してしまう直前、母は趣味で古物商を始めた。

「前から自分の店を持ってみたい」と思っていたらしく、

三ヶ月間だけお試しでやるつもりだった。


しかし開業して一ヶ月後、父の会社が倒産する。

すると母の店で生計を立てるしかなくなった。


しかも借金を返済しながらの生活である。

この時、息子がダウン症という理由で国から毎月手当が出ていたのだが、

父親がそのお金にも手を出していたり、「自分の名義で借りられないから」

と言って母を連帯保証人にして更に借金を重ねていて完全に火の車状態だった。


そんな中、僕が中三になったころ「デジタル化」が始まった。

つまりアナログテレビからデジタルテレビに買い替えることが

出来ないことは明白だったので、テレビを見れなくなった。

次の日から僕は学校に行っても話題に参加できず孤立した。


次に使えなくなったのはガスだった。

11月のある日、風呂に入っていたら突然冷水しか出なくなった。

母に聞いてみると「ガスが止まった」と一言。


それからしばらくは真冬の寒い中でも必死に耐え、

氷水ほど冷たい水に凍えながら体を洗っていたが

遂に我慢の限界に達して風呂に入るのをやめた。


それは辛い判断だった。というのも当時好きだった

女の子が同じ部活にいたのだけれど僕は「自分は臭いんじゃないか?」と気になって近づけなかった。


そう思い悩んでいたある日、母が「お風呂入らなくても良いの?」と聞いてきた。

僕は「お湯使えないのに入れるわけないだろ!」と流石に言い返した。


すると母は「お湯ならあるよ」と言って、

電子レンジからボウルを取り出し「ほら」と言って差し出して来た。

「これを使えばキッチンで頭洗えるの」と言ってきた。


僕は「あまりにもみじめすぎる」と言って断った。

すると「晃~頭洗うよ~」と言って弟を呼び、

晃はそれに喜んで応じ、頭を洗ってもらっていた。


母と弟の逞しい記憶である。

だが最終的には電気も止まった。


僕は中三にして、夜になると自然に暗くなる家に住む経験を得た。


そんな原因を作った父は僕に「お前が社会人になったら養ってもらうからな」

「晃の面倒はお前が見ろ」と言い出す始末だった。

その父は僕が小五の時に、コツコツと貯めていたお金を

貯金箱から盗み出してパチスロで全額スった経験もある。


本当に愚か者だが、同時に仕事も始めた。


父は自分の惨めさに苦しめられ腐っていた。

そんな父を見かねた母が「なんでも良いから働いたら?」

と助言をしたらしい。


すると父は母の古物商の二階で飲食店を始めた。

まさかこれが一家破綻の伏線になるとは誰も思わなかった。


それから両親は働きながら、僕が高一となった五月に

なんとか引っ越しができるほどの貯金をした。


実は当時住んでいた賃貸は滞納に滞納を重ね、

未払い金はとんでもない額に膨れ上がっていたらしい。


「いよいよ退去させられる」というギリギリのタイミングで

お金が溜まったので、伯父さんに軽トラを借りて

家財をまとめて積み込み、僕らは夜逃げするようにして引っ越した。


引っ越し先は狭いながらも二階建てで駅まで徒歩7分でありながら

家賃が2万強となかなかの好物件だった。


しかし、壁が土壁で出来ており少しの振動で埃が舞うので

階段はいつも白くなっていた。


また壁が薄くお隣さんの声が丸聞こえで窓の建付けが悪く

いつも隙間が空いており、夏場になると様々な害虫が部屋に入ってくるし

冬は極寒だった。


だが家賃が安くなったことで電気とガスが復活。

僕らはやっと人間らしい生活を手に入れた。


だが事あるごとに父が借金を重ねるので

決して裕福とは言えなかった。


こんなエピソードがある。

高一の冬休み、父が

「前職の広告代理店だった頃の臨時収入が入ったからハウステンボスに行こう!」

と言い出した。


その額は何と100万円。僕たち家族は嬉々として舞い上がった。

僕はUSJにもディズニーランドにも行った事が無かったので

初めての大型遊園地に期待が膨らんだし、

人生初の彼女に振られた直後で傷心中だったので良い気分転換になった。


実際に行ってみるとやっぱり楽しかった。

更に、このハウステンボスは両親の新婚旅行の場でも

あったらしく、当時の思い出なんかを語ってくれた。


「昔のお母さんは痩せていた」「当時のお父さんはカッコ良かった」

「ここでお土産を買った」「ここで写真を撮った」等々。

そして母が「あの時よりも、子供たちを連れてここに来れた今の方が楽しい」

と言っていた。


だが僕が21歳になったある日、遂に離婚のときが訪れる。

キッカケは父の不倫。


古物商の2階で経営していた父の飲食店がその不倫現場だった。

事に及んでいたところを晃が偶然見つけてしまったらしい。


すると堰を切ったように母の暴露大会が始まった。

その時に知ったのだが、実はあの100万円は父が無断で金融機関から

借金していたものだった。というのも自分で借りられないので

母親名義で借りていたらしく、当然請求も母に行きバレたというオチだ。


全く馬鹿だ。もっとマシなやり方をしてくれと今でも思う。


そのほかにも結婚して早々に借金していたこととか、

兄が元ヤクザで刑務所にいることを内緒で母と結婚した事とか、

実はバツ1で僕に腹違いの兄がいることとか…。


まあとにかく数えだしたら本当に切りがない。

僕の知らない所で父と母は毎回こんなやりとりを

していたのかと思うとサッサと離婚しなかった母親にも腹が立つ。


そして母が離婚を決意し、3年に及ぶ裁判を経て遂に両親は別れた。


それから父とは音信不通になったのだが

最近聞いた風の噂では他県に住んでいるらしい。


そこでも詐欺まがいのことをしていて、

被害に遭った会社がなぜか母に電話してくるらしい。


こんな感じでいじめにも貧乏(父)にも苦しめられてきた人生だったけど

希望の光はあった。それが晃という存在だった。


彼はダウン症という特性を活かしていた。

周囲に甘えるのが上手く、それでいて本当に可愛らしく、

そして面白い男だった。


いつも上機嫌でよく笑うけど、嫌なことがあると直ぐに

泣きついたり駄々をこねる役者でもあった。


加えて本当に狂っていた。


いつだったか僕たちは母の車に乗り出かけていて、

僕たちは後部座席に座っていた。そして車は高速に乗った。

その時僕たちは退屈だったのでティッシュを窓から出して

たなびかせる遊びをしていた。


すると晃はもっと場を盛り上げようとして、当時僕が持っていた

ソフトバンクの子供携帯を取り出し「いえー!!!」と叫んで窓から投げた。


そこから僕の子供携帯はアスファルトを勢いよく滑り出し、

後ろを走っていた車の前輪に弾かれ

ベイブレードの様に火花を散らしながら高速回転した。


あとで回収したのだが、奇跡的に僕の携帯は生きていた。


当然母は怒っていたのだが「ティッシュをたなびかせ始めたお前も悪い」

と言って僕も叱られた。


また別の日、当時僕は中一になっていた。

その時僕はお年玉を2年かけて貯めたお金でPSPを買った。

そして次の日に僕は友人を一人家に招き一緒に散々モンハンを楽しんだ後、

一息ついて二人でTVを見ていた。


しばらく友人とバラエティを観ていると、

突然電子レンジの音が鳴り、2秒後に「ボン」という音がした。


驚いてレンジの方を見ると晃が興味深そうにレンジを見つめていた。

僕は慌てて駆け寄り、まだ温め続けているレンジを止めて蓋を開けた。


すると中から焦げ臭くなったPSPが現れた。

僕は直ぐにそれを手に取り電源を入れようとしたが当然つかなかった。

それだけではない。まだクリアしていないモンハンのUMDも

一緒にバキバキになっていた。


晃は「お~」と言って目を丸くしていた。

非常に純粋な目をしていた。悪気が一切ないのである。


そして僕は買ってからたったの一日半で、PSPを壊されたのだった。


他にも「足疲れた。おんぶして」と言われておんぶしたら肩を嚙まれたり

一緒に風呂に入り、体を洗ってから湯船に浸かった後に浴槽でウンコされたり

18歳の誕生日に初めて買ったエロ本を隠し場所から見つけ出して

翌朝それで叩き起こされたり散々な目に遭わされている。


やることなすこと本当に無茶苦茶だった。


あいつが小三になった時、持ち前の愛嬌を使って銭湯のおばちゃんに

取り入り、年単位の回数券を貰って来たときなんかは本当に面白かった。


僕はそんな弟が本当に大好きだった。

そして弟も僕の事が大好きだった。


でも晃は重度のダウン症でもあった。

だから今でも日本語を上手く話せない。


こんな弟や父がいて、色々経験してきた過去が僕の人生だ。

でもそれで良かった。なんだかんだ幸せに感じていた。


だけど僕は変わった。

転機が訪れたのは僕が23歳になった時。

街で偶然出会った女性と僕は恋に落ちた。


価値観も生き様も全く違う彼女に僕は心奪われた。

僕はどちらかというと真面目に生きて来た方だと思う。


風俗はもちろん、キャバクラにも行った事が無い。

煙草は一本も吸ったことが無いし、お酒は当然20歳になってから。


でも彼女は僕の真逆だった。

色んな男性と恋に落ち、夜遊びも高校生の時点で経験していて、

水商売の経験者でもあった。


僕の常識は一瞬にして打ち砕かれた。

そして彼女の常識も僕によって覆された。


彼女の家は僕から見ると安定していて余裕もある家庭だった。

僕は彼女の話から「一般家庭とはどんなものか」を知った。

そして今まで押さえつけていた夢を見るようになった。


「普通の暮らしがしたい」僕は彼女にそう言った。

彼女は「できるよ」と言ってくれた。


その時の僕はまだ貧乏に苦しめられていた。


というのも僕は実家暮らしだったのだが、

借金の返済で首が回らないということで、

実家に入れいていた3万とは別に、母から度々「お金を貸して」と言われていた。


最初は貸した分が返ってきていたが、

遂には僕からいくら借りたかも忘れて返さなくなった。


そんな僕の過去や現状を彼女は理解してくれていた。

だからデートの費用は毎回割り勘で済んでいたし、

休みの日は彼女の実家に泊めてもらい、一緒の時間を過ごしたりした。


そうして自分の家から離れている間、

僕は「普通の幸せ」を経験してしまった。


そして一緒に色んな所に行った。


県内の美味しいご飯屋さん、山からの絶景スポット、

綺麗なビーチ、県外旅行、あのハウステンボスにも二人で行ったし、

念願のUSJにも一緒に行った。


価値観のすれ違いから嫌気がさして喧嘩することも

あったけど、その度に一緒に乗り越えた。


気づいたときには二人はお互いにとって本当に大切な存在になっていた。

だけど、それでもまだ、僕は家族の事を嫌いにはなれなかった。


もっと言うと晃の事がどうしても気がかりだった。

でも彼女は「晃君の面倒までは見れない」と言った。


僕はずっと葛藤した。2年間ずっと葛藤し続けた。


そして葛藤し続けた結果、限界が来た。


このまま実家で暮らせば僕はずっと苦しいままだ。

お金も溜まらない。

もし彼女と別れたとして、同じようなチャンスがまた来るとは限らない。


そして僕は家族を前にして思ったことを口にした。

「いい加減、子離れしてくれ」

「晃もちゃんと成長してくれ」

「これ以上僕を縛り付けないでくれ」


これが僕の結論だった。

当時25歳。もうこれ以上一緒にいられないと思った。


それから僕は親に「結婚するから家を出る」と言った。

僕はプロポーズ用の婚約指輪代と10万円の引っ越し資金だけを貯金し、

翌年の1月、入籍とほぼタイミングを同じくして家を出た。


親に住所も告げず、晃の面倒も投げ出して、僕はあの家から逃げ出した。


これが僕の今日に至るまでの全経緯だ。



ここまで話し終えると、彼は

「どうでしたか?ちょっと話が難しすぎましたかね?」

と言った。


私は長年記者として色んな世間の暮らしを取材してきた。

すると中には「困難を乗り越えてきた」という美談だけではなく、

何かから逃げ出したという人も出てくる。


しかし、往々にしてそういった話は取り上げられづらい。

今回の話も、もしかすると日の目を見ないかもしれない。


それでも中にはこういった葛藤を抱えながら生きている人がいることを

私は誰かに知ってほしい。


「いえ、あなたのお話、大変参考になりました」

「良かったです。そう言っていただけるなら、僕も話した甲斐がありました」


一人の女性が店内に入ってきた。

彼の奥さんが迎えに来た様だ。


「では、今日はここで」

「はい、ありがとうございました」


そう言って席を立つと、彼は奥さんのお腹を擦りながら店を後にした。


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