思わぬ穴
とある刑務所の独房に、一人の男がいた。彼は死刑囚であり、本人は知らぬが、執行の日はすぐそこまで迫っていた。泣こうが喚こうが反省しようが、その判決が覆ることはない。もっとも、彼は反省するどころか、今なお罪を重ね続けているのだが。
「よしよし、だいぶ掘り進めたな……」
男は脱獄を目論み、独房の床下に穴を掘り続けていた。
きっかけは遥か昔、支給された食事のトレーにスプーンが二本乗っていたことだった。看守の些細な手違い。それを見逃さなかった男は一本をくすね、夜ごとにベッドを動かし、コンクリートの床を削り始めたのだ。擦り減ったスプーンは定期的に新しいものとすり替え、地道に執念深く掘り進めてきた。
長い年月をかけて作られたそのトンネルは、ついに建物の外壁を越え、あとわずかで塀の外へと到達しようとしていた。
「……おや?」
その夜、いつものように作業を終えようとしたとき、男の指先が何かに触れた。硬いが、滑らかな感触。石ではなさそうだ。興味を惹かれ、慎重に掘り出し、それを独房に持ち帰った。
月明りが差し込む窓辺で確かめると、それは古びたランプだった。金属製の小ぶりなオイルランプで、長年土に埋もれていたせいか、泥と錆にまみれ、鈍い色をしている。
「まるで魔法のランプみたいだな。こうやって擦れば中から……あっ」
男は冗談半分に袖で表面を擦った。すると、思わず声を上げそうになり、慌てて口を押さえた。ランプの先端から煙がもうもうと立ち上り、瞬く間に天井まで広がり、室内を満たしたのだ。そして、煙の中から――
『私はランプの精霊! 出してくれたお礼に、どんな願いでも三つ――』
「馬鹿っ! 静かにしろ! 看守が来るだろうが!」
勢いよく現れた精霊は、怒られてしゅんとした。
「――で、どんな願いでも三つ叶えてくれるんだな」
『はい』
精霊から小声で説明を受けた男は腕を組み、考え始めた。
「うーん……美人な嫁でも頼もうかと思ったが、こんなところに呼んだらすぐに見つかってしまうしな。金も欲しいが、看守に没収されるだろう……いや、穴の中に隠しておけば……」
『ん?』
「若返るのも捨てがたいが、死刑囚の身では意味がないな……。いや、体力が戻れば作業が捗るか。これはありだな。ああ、それよりツルハシやハンマー、ライトが欲しいな。これで三つ……いや、採掘セットと頼めば、まとめて手に入るかもしれん……!」
『いや、あの』
「まあ待て、堀り出した土の処理も問題なんだ。運動時間に少しずつ外に捨てているんだが、まだ山ほどある。ふふっ、あれが全部片付くと思うと嬉しいなあ。しかし、問題はどこに出すかだな。運動場というわけにもいかん……」
『いや、刑務所の外に出すように願えばいいのでは……?』
その言葉に、男は目を見開いて固まった。そして肩を震わせ、吹き出すように笑った。
「いやいや、盲点だった。確かにそうだ。じゃあ、どこか山奥にでも捨ててもらうとして、あと二つはどうしたものか……」
『いや、土じゃなくて。あなた自身を刑務所の外に出して差し上げますよ』
「ああ、そうか。その手があったか……」
『ええ、お任せください。私にかかれば容易いことです』
「そんな簡単に言われると、嫌な気持ちになる……。ここまで掘るのに何十年かかったと思ってるんだ」
『あ、すみません……』
「でもまあ、塀の外からこの刑務所を眺められると思うと、感慨深いものがあるな。ああ、涙が出てきそうだ……」
『いや、わざわざ塀の外じゃなくても、海外にお送りすることだってできますよ』
「そうかい。しかし、そうなるとこの穴の処理が問題だな。見つかったら脱獄未遂で罪が増えることになるだろう」
『それ、気にする必要あります……?』
精霊はうんざりした様子で頭を掻いたが、男は気にすることなく考え続けた。
「いやあ、しかし外の世界か……。自由は嬉しいが、この歳で追われる身になるのはきついな。……おっ、いいことを思いついたぞ」
男はぽんと手を打ち、にやりと笑った。
「よし、まずはこの穴を完全に塞いでくれ。次に、この国……いや、世界中の人間から、おれの事件に関する記憶をすべて消してくれ。そして最後に、おれを刑務所の外に出してくれ。これで三つだ」
『はあ、かしこまりました』
精霊は『もうどうでもいいや』という顔でため息をつき、願いを叶えた。男が何十年もかけて掘った穴は跡形もなく埋まり、世界中の人々の記憶から、男の罪はすっぽりと抜け落ちた。
男の体はふっと独房から消え、精霊も煙とともにランプごとどこかへ消えた。
朝焼けが街を赤く染める。刑務所の塀の外、その一角に男はぽつんと立っていた。
ぼんやりと空を仰ぎ、首を傾げる。
「……おれ、なんでこんなところにいるんだろう」
やがて、ふらふらと歩き出した。足取りはおぼつかず、その姿はまるで呆けた老人のようだった。
しばらくして、男はふと立ち止まり、刑務所の塀を振り返った。
なぜか妙に懐かしく、あの中へ入りたくなった。