麗しい侯爵令息が醜聞つきの私と婚約した4番目の理由
十二ヶ月を書こうと思ったら長くなってしまいました。
もしよろしければ最後まで読んでいただけると嬉しいです。
よろしくお願いいたします。
王国歴211年、春立ち月。
ぱしゃぱしゃ。
多彩な花々の咲く庭園にある大理石の水盤に女神の彫像が手にした水瓶から水を注ぐ。飛沫が薄っすらと七色の虹をかけていて、あえかで儚い。
チィチィと鳴く白い小鳥が雪玉のように並んで水を飲んでいる。
少ない花を求めて弱々しく翅を小きざみに震わせて翔ぶ冬の蝶ではなく、粉雪よりも軽くとも生命力に溢れた鮮やかな春の蝶が花々の上を翔び交う。
野の蓮華や菜の花、萌え出る草の芽、冬衣を脱いだ雪解けの水とともに訪れた春の日に。
純白ゆえに翳りのあるような花色が優美な、天を仰ぐように花咲く木蓮の花の下で初めて会った婚約者様は言った。
「はじめまして、僕の婚約者殿。僕はレオンフェルド・セルリオン。レオンと呼んでくれ。まず宣言したい。僕は君を愛して愛して愛しぬくつもりだ」
いきなりのことに私はびっくりして瞳をパチリパチリと瞬かせた。
「あの、初対面なのに愛の宣言をなさるのですか?」
「初対面だが婚約者殿のことは徹底的に調査をした。婚約者殿の家も婚約を結ぶ前に僕のことを調べているだろう? 僕たちは家のための政略の婚約なのだから。その上で性格や家格や条件その他諸々を熟考した結果、僕は婚約者殿とお互いに尊重し合えると考えた。これが一番目。二番目は今日初めて言葉を交わして惹かれたこと、これは大事な要素だ。三番目は、僕は結婚するとしたならば相手を大切にしたいと常々決めていたこと。四番目もあるけど聞きたい?」
古代の彫像のように完璧な美貌を誇る婚約者様は、その風貌にふさわしく実直で落ち着いた真面目な性格を前面に出して答えを促した。
「時間はあるんだ。一歩ずつ歩み寄って愛し愛される夫婦にいずれなりたい、どうかな?」
政略結婚をする貴族の娘にとっては、夢よりも夢物語みたいな望外の喜びの提案である。
「……素直な気持ちを申し上げますと、嬉しさしかございません。私のことはリュシアとお呼びくださいませ、レオン様」
顔合わせの前は不安で小さく心が波立っていた。ゆらゆらと波に揺られる小舟のように心許なかった。その波が穏やかに凪ぐ。
爽やかなレモンに似た、でも少し甘さのある木蓮の香りが私とレオン様を包んだ。さわさわと。木蓮の樹頭あたりで風がさわいで花弁と花影を撓ませる。
こうして、私リュシア・メラス侯爵令嬢16歳と18歳のレオンフェルド・セルリオン侯爵令息は婚約をして、まず最初の一歩を踏み出したのだった。
その全てを同席した王宮の記録官が一言一句違えずに筆を動かし書き残す。高位貴族の重要な慶弔の儀礼には必ず記録官が立ち会うことが法規となっていた。肝要な契約事であるからだ。211年間の記録である。膨大な量を保管する記録保管庫は、王宮の別宮となって王族と貴族たちの211年間を保存する巨大な建物となっていた。
別名は【魔窟】。
記録官たちは形式的には国王直属であるのだが、王国開祖の国王が定めた法令により独立機関であった。ゆえに王命が不当であると判断された場合には拒否することを法的に許された組織だった。
王国歴211年、春花の月。
うねるように大きく四方に蔓を伸ばし天井を這って幾筋も淡紫色の花房を垂らし、優美な滝となって支柱を覆う藤の花が美しいガゼボで。私は祖父母と座って庭園の景色を眺めていた。空は海のごとく青々として雲ひとつない。
「我がメラス侯爵家の醜聞はレオン様もご存じでしょうに、レオン様はどうして私との婚約を選んだのでしょうか? 縁談を厳選しなければならない私と違って、セルリオン侯爵家の次男であるレオン様ならば婿入りは引く手数多ですのに」
私が首を傾げると祖母も同じ方向に首を傾げた。
「そうねぇ。もしやいずこかの夜会でリュシアのことを見初めた、とか?」
「お祖母様。目にも眩しい美形のレオン様が私をですか? 本気でおっしゃっていますの?」
ウッ、と祖母が言葉に詰まる。
「そ、そうねぇ、人の趣味嗜好は様々ですもの。リュシアが好みだと言う殿方だって、きっと探せば……」
ホホホと祖母は扇子を開いて笑って誤魔化す。
私は亡き母親とそっくりな平凡な容姿である。淑女としても平凡な能力値だ。特記すべきことがあるとすればメラス侯爵家の血統魔法が使えることだけである。
この世界では魔力があるが、魔法を使えるほどの魔力所有者は少ない。
平民はほぼ魔法が使えず、貴族は高位貴族になればなるほど魔力量が多い。なかでも血統魔法は特殊で、その家系独自の魔法である。しかし発現できる者は稀だ。現に私の父親も祖父も血統魔法を保持していない。亡き曽祖父が保持者であったので、途絶えそうであった血統魔法を備えて誕生した私に一族中が歓喜の涙を流したそうだ。
「いやいや、リュシアは価値があるぞ。このメラス侯爵家の跡取り娘で稀有な血統魔法をも保有している。メラス侯爵家は醜聞にまみれたとは言え、領地は豊かだし資力もある。権力が衰えて社交界での地位がやや落ちたが、我が家は侯爵家。面と向かって文句の言える家など数えるほどだ。ましてや領地の鉱山から取れる貴重な魔石の取引を中止されると困るのは相手の家だぞ」
「お祖父様。その醜聞が大問題なのではないですか。その醜聞のために私が1歳の時に結ぶはずだった第三王子殿下との婚約が寸前だったのに中止となり、未だに社交界からヒソヒソと嘲笑されているのですから」
祖父は苦虫を噛み潰したような顔となった。
「愚かな息子のせいで……。リュートリアには可哀想なことをした……」
祖父の言う愚かな息子は私の父親で、可哀想なリュートリアは私の母親のことだ。
両親は私が1歳の時に離婚をして、母親は翌年に公爵家の後妻となり私の異父弟を生んで7年前に亡くなった。
「よかったこともあります。もし第三王子殿下と婚約をしていたら我がメラス侯爵家は、今頃は殿下の尻拭いのために奔走していたことでしょう。殿下と婚約を結んだグレイム伯爵家のように」
第三王子殿下は身分の低い妾妃様腹。
王族であるが、高位貴族出身の側妃様腹あるいは隣国の王女であった正妃様腹の王子方のように王宮内での確固たる後見も地盤もない。政治的権力がないのだ。なのに、国王陛下から妾妃様への深い寵愛があった頃と同じように今も傲慢な行動の数々。足りないものをあげつらう気質なのである。
すでに国王陛下からの寵愛は薄まり、他の妾妃様へと寵愛は移っているのに第三王子殿下も母親の妾妃様もそれを理解していない。いや、薄々気付いてはいるものの卵を温めるように過去を抱き締めて、栄華を忘れられずに見ないふりをしているのかも。
そも、乾いた孤独を埋めるために国王陛下が多くの妾妃様を求めることも問題なのだ。国王陛下は妾妃様に寵愛を与えるが、王座に座る者としてではない自身にも寵愛を求めた。しかしそれは叶わなかった。どの妾妃様も王座と国王陛下自身を切り離して見ることはなかったのである。
政略で迎えた王妃様や側妃様を大切にせず、愛を渇求して次々に妾妃様を増やす国王陛下に苦い顔をする貴族たちは年々増加している現状であった。
「第三王子殿下も困った方だ。幼い頃は利発で品行方正な王子殿下であったのに。今や、わがままな癇癪と自由奔放な行動はもはや暴挙に近い。王族としてあってはならぬほどだ。グレイム伯爵家は気の毒に思うが、第三王子殿下の後始末をするグレイム伯爵家の処理方法にも問題があるから同情はできない。しかし心底我がメラス侯爵家でなくて良かった。当時4歳だった第三王子殿下との婚約未成立の件は、ある意味愚かな息子の最後のお手柄とも言えるが……、せめて神殿にいるあの子の後ろ盾にはメラス侯爵家が終生なろう……」
と、祖父は無念が滲む口調で言った。
私の父親は結婚前から浮気をしていた。
相手は平民の女性で、愛と結婚は別物と考える父親はあくまで女性を愛人として扱っていた。それが女性には不満だったのだろう。あるいは父親との長年にわたる相思相愛の関係とメラス侯爵家にとって長男にあたる私の異母兄を出産したことが、女性に欲を持たせて増長させてしまったのかも知れない。
メラス侯爵家を異母兄に継承させたい、と。
絶対に無理なのに。
私は家の存続のために結婚した高魔力持ち同士の父親と母親から誕生した正嫡子であり、しかも血統魔法を発現させて一族から祝福を受けた娘なのだ。
平民から生まれた低魔力の庶子にすぎない異母兄が男であっても長子であっても論外なのである。
しかし私が1歳の時に曽祖父が亡くなり、その葬儀の場に女性は幼い異母兄を連れて乗り込んできたのだ。
曽祖父の葬儀である。当然、記録官も同席していた。そのことが最悪だった。記録官は一言一句漏らさずに筆録するのが仕事なのだから。【魔窟】は王国の211年間の秘密が沈められた場所なのだ。水の底からの気泡のごとく秘密が浮上しないように、王家と貴族家の者が今際の際に「くっ、燃やしたかった!」と魂の叫びで切望する場所ワーストワンなのである。
父親の立場も悪かった。
当時の父親は王太子殿下(現国王陛下)の親友で側近の筆頭であった。
そして貴族たちの欲望や嫉妬心や権力闘争など諸々が加わり、メラス侯爵家の大スキャンダルに発展したのである。
結果として父親は側近を退き領地に軟禁された。王国の成人年齢である15歳で父親と結婚した母親は若さゆえに傷つきやすく、心に施錠してしまい離婚をした。
女性は貴族への不敬罪で処刑されて、異母兄は断種の上で神殿に入れられた。世俗から隔離されたのである。祖父は高位貴族らしく厳格な性格なのだ。ただし、家族には慈悲深い。寄進をたっぷりとするメラス侯爵が後見人であるので、異母兄は神殿における高位神官への道は約束されていた。禍根を断つため庶子である異母兄の処分を画策する親族から、祖父は異母兄を守ったのである。
1歳だった私は、寵愛真っ盛りだった妾妃様が第三王子殿下に瑕疵がつくことを嫌がったために王命であったはずの婚約の話が流れて。
そうして、メラス侯爵家には家名に拭いようのない泥が塗り付けられたのだった。
おそらく王家は、第三王子殿下の婚約によってのメラス侯爵家への時間をかけた侵蝕よりも手っ取り早い、メラス侯爵家の凋落による侯爵領の没収を狙ったのだろう。祖父は多くを語らないが、陰で蠢く王家と、メラス侯爵家の隙につけこんでの水面下における他家からの攻撃が凄まじかったらしい。
単なる醜聞ひとつで、あり得ないほどの怒濤の没落寸前となったのだが。
しかし祖父は、翅をもいでもガチガチと歯を鳴らすオニヤンマのごとく強くしぶとかった。
崖っぷちで踏ん張ってくれた祖父の手腕と貴重な魔石と何より代々の祖先による王家と貴族家たちの弱みの収集のおかげで、メラス侯爵家は逆風にも倒れることはなかったのであった。
その日の午後。
私はレオン様と治安が保たれた貴族街にきていた。お出かけデートである。ゆるやかな足取りで大通りを歩く。
「リュシア。手を繋いでもいいかな?」
差し出されたレオン様の手に私の胸が高鳴る。そろそろと手を重ねると私の心臓の鼓動まで伝わってしまうのではないか、と心配で指先が震えた。
ぎゅっと握られて、私はドキドキと頬を染める。レオン様の大きな手の感触に体温が上がってしまいそうであった。
婚約して二ヶ月目。
レオン様はご自分の言葉通り、私を大切にしてくれている。
並木道の花壇には土の扉をこじ開けて茎を伸ばした、つぼんだ花姿のチューリップが風の吐息に揺れていた。蕾は妖精が眠るベッドのようで、開花は春の目覚めのように美しい。
チューリップと戯れた風が、私のドレスの裾をひらめかせて吹き抜けていく。ひらり、と花びらのように舞いかけたドレスをレオン様が片手で押さえてくれた。
「あ、ありがとうございます、レオン様」
「いたずらな風だね。だが、僕のリュシアの可愛い足首を晒しかけたのは許しがたい。風といえど万死に値する」
「まぁ、レオン様ったら」
「笑い事ではないよ! リュシアは頭の天辺から足の爪先までリュシア自身と僕のものなんだからね!」
「私とレオン様のもの?」
「そうだよ。僕も僕とリュシアのものだよ。僕はね、僕だけが幸福になるのではなくて、僕とリュシアの二人で幸福になりたいんだ。だから全部二人のものなんだよ」
「レオン様……」
「僕はリュシアを愛している。約束して? 僕の知らないところで泣かないで。僕の見えないところで傷つかないで。僕の手の届かないところに行かないで。お願い、約束してほしい」
「…………はい。レオン様、約束します」
レオン様は隣国から入ってきた流行語であるヤンデレっぽいのかも。
好きな人へ示す好意が強すぎる感じがする。執着心を露わにして縛ってくるような言動も多い。
けれども私はそれが嬉しい。
15年経っても醜聞の消えないメラス侯爵家の娘として、血を継ぐために冷たい政略結婚をするのだと思っていたのだ。
愛されないよりも愛される方がいい。愛してくれる人との結婚の方が絶対にいい。
私は滲みそうになった涙を微笑むことで隠したのだった。
王国歴211年、春蝶の月。
丘を染めるように広がる広大な紫色のラベンダー畑で私はセッセとラベンダーを収穫していた。くるくると茎を紐で束ねる。ラベンダーの爽やかな香りを含んだ風が波が打ち寄せるようにヒュウウと吹いて、私の髪を飾るガラスで作られた花と葉の髪飾りの葉擦れを涼やかに鳴らす。
頭上に拡がる蒼穹に浮かぶ雲の動きも風に押されて帆を張った船のように速い。ぽつん、と残った朝露がそんな空の青さを小さな小さな水の世界に閉じ込めていた。
「リュシア、ポプリを作るラベンダーはこれで足りる?」
腕いっぱいにラベンダーを抱きかかえたレオン様の麗しさがキラキラとまばゆい。手からラベンダーの香りが溢れて、香気の翅を蜜蜂のように震わしているみたいだ。
「はい。十分です。ありがとうございます、レオン様」
ここはメラス侯爵家のラベンダー畑。
毎年少しだけ分けてもらって私はポプリを作っているのだ。
「完成したらポプリを贈ってもいいですか?」
「やった! リュシアの手作りのポプリだ!」
「では、ラベンダーを干して乾燥させますので帰りましょうか」
レオン様と手を繋ぎ、馬車の方へとラベンダー畑を進む。私もレオン様もラベンダーの香りをまとって、花盛りの季節を味わっていた。
細くまっすぐに伸びるラベンダーの茎の先端に咲く紫色の小さな花が、日の光の下、透き通った風に吹かれて海に立つ波のように揺れる。ラベンダーが風を従えているのか、風がラベンダーを従えて走っているのか、香りが鼻腔をくすぐりシャラシャラと私の髪飾りが音を奏でた。
「僕、リュシアといっしょにいられることが幸せだ。特別な出来事とかではなくて、ありふれた日常をリュシアと共に過ごせることが凄く幸せなんだ」
「私もレオン様といっしょにいられて幸せです」
何事もない穏やかな日常が得難いものだと私は知っている。子どもの頃からメラス侯爵家の醜聞で嗤笑されてきたのだから。
何もない、何でもない毎日を好きな人と過ごせることは幸福なことなのだ。
私はレオン様の手を離さないようにきつく握り返した。
王国歴211年、夏告げ月。
婚約して四ヶ月目、私はレオン様にセルリオン家のパーティーに招待されていた。
夜空には月が花のように開いて満開となり、不動の星が迷わぬ一本の道をつくるように燦然と輝いていた。
芳しく芳醇な香りが夜を彩る。
甘く呼吸するニオイバンマツリの香りだ。
会場の入口には、咲き進むにつれて紫色から白色に花色を変化させるニオイバンマツリの花が咲いており、二色花みたいに紫と白の花が満開となっていた。
繊細なレース編みのようなカラスウリも花開いている。香りで。花蜜で。花姿で。花色で。一夜をウェディングドレスの小さな淑女のように飾り付けていた。
メラス侯爵家まで迎えにきてくれたレオン様と大勢の貴族たちで賑わう会場に入ると、人々がこちらを一斉に注目する。
正装したレオン様は、銀髪に銀眼なこともあって地上に降臨した月の化身のごとく麗しい。
そのレオン様が私に蕩ける笑顔を向けているのだ。
若い令嬢たちや夫人たちの妬みや僻みの不躾で濁った視線が矢のごとく私に突き刺さった。
「まぁ、メラス侯爵家のリュシア様よ。父君と愛人が騒動を起こしたのに堂々とした態度だこと! 恥ずかしくないのかしら?」
「わたくしでしたら羞恥で顔を上げて歩くこともできませんわ」
「しかもレオンフェルド様の婚約者など! 醜聞付きなのですから身の程を弁えるべきですわ!」
「ええ! まったくレオンフェルド様に相応しくありませんわ! 容姿からしてリュシア様はレオンフェルド様と比べものになりませんわ、みすぼらしいこと!」
侯爵家の私に正面切って言えない言葉を、後方から私の耳に届く声量で令嬢や夫人たちが聞こえよがしに話す。お喋り好きの嘴が囂しい。嘲笑はいつものことだ。私は聞こえていないがごとく無視をした。私を泥沼に突き落とすための下品な中傷に項垂れて下を向きたくなかった。
顎を上げて前を向き、背筋を伸ばす。
その様子を傍らのレオン様が見ていた。
くるり、とレオン様が振り返る。
「みすぼらしい?」
レオン様は、令嬢や夫人たちを上から下まで流し見てフンッと鼻で嗤った。
「確かに貴女方の容貌はみすぼらしいな。自覚があるらしくて結構なことだ」
天上の玲瓏な月のごとき美貌のレオン様に敵う者などいない。額にかかっている一筋の銀髪すら美しいのだ。誰も言い返せない。美の上限を容易く超えているレオン様に誰が何を言えるというのだろう。令嬢も夫人たちも、天井の豪奢なシャンデリアに煌々と照らされているのに真っ赤になったり真っ青になったりしている。
「それとメラス侯爵家の醜聞だったか? よく言えるものだ。そこの夫人、夫人の夫は庶子を9人もつくって先日もめごとを起こしたではないか。そちらの夫人は、自身の愛人と別れる別れないで刃傷沙汰を。その金髪の令嬢の家は、父親が複数の愛人を屋敷に同居させているではないか。そこの令嬢の父親も派手に遊び歩いていることで有名だ」
レオン様が冷たく口角をあげる。
「―――で? メラス侯爵家の醜聞がなんだって?」
もう令嬢と夫人たちの顔は青も白も通り越して土気色だ。
レオン様と令嬢たちとのやり取りを見ていた周囲の人々も青ざめている。
「おや? 顔色が悪いね」
パン、とレオン様が手を叩いて使用人を呼ぶ。
「体調不良でお帰りのようだ。馬車までお送りして」
令嬢も夫人たちも家柄は伯爵以下の身分だ。レオン様に反論ひとつできない。ましてやレオン様の母君は現国王陛下の姉君。レオン様は王位継承権をお持ちの高貴な血筋なのである。
ぐるり、とレオン様が周囲を視線で薙ぎ払う。
「顔色が優れない客人が多いようだ。他にもお帰りになる方はおられるのかな?」
権勢のあるセルリオン侯爵家のパーティーから締め出されることは社交界における立場にも影響する。しかもセルリオン侯爵家は王国内の塩の生産を独占している。塩は生命維持に欠かせない栄養素だ。「この地から海が始まるのだ」とセルリオン侯爵家の初代は豪語したが、その言葉が許されるほどに塩と貿易によってセルリオン侯爵家は繁栄していた。
王国の勢力図では王家と貴族家が拮抗するほど、有力貴族家それぞれの力は強いのである。特に上位13家の有力貴族家は国王の選定にも関わるほどの権力を所有していた。
時に敵となり、時に味方となる13の家々。
ただ、どの有力貴族家も自身が抜き出れば他家が許さぬことを理解しているので王国の均衡は維持されているのだった。
力がないことは罪だ、少なくとも貴族社会では。
上手く立ち回り、流し、対応して社交界を泳ぐ者たちはセルリオン侯爵家の不興を買う危険性を身に沁みて熟知している。
そそくさと。冷や汗を噴き出して、甘い蜜を垂らす花に惹きつけられるようであった人々は芝居の暗転で切り替わるように会場のあちらこちらへと足早に消えていった。まるで蜘蛛の子を散らすようである。
あっという間に静かになった私の周りに、レオン様が苦笑をもらした。
「ネチネチと鬱陶しかったね」
「……レオン様」
「言ってしまえば、リュシアの父親が浮気をして、庶子を産ませた愛人が葬式に乱入した、それだけだよ。貴族にはよくあることだよ」
貴族にはよくあること、なのだけれども。
ただ、時と場所と場面と内容が悪かった。記録官の同席も最悪だった。父親が人々から羨望される位地だったのも不運だった。それらをあわせて社交界で足を引っ張られたことが一番マズかった。
でも、もう15年も前のことなのである。
ふぅ、と私は息を吐き出した。息とともに、思いきって心に溜め込んだ気持ちをも吐き出す。
「……はい。15年間もネチネチと鬱陶しいですわ。皆様、話題がないのでしょうか? 我がメラス侯爵家には魔石がありましたから、聞こえる陰口を叩かれるかパーティーで当たり障り無い距離か無視されるか、だいたいはその程度でしたけど。イヤガラセにしても皆様みみっちいのです」
魔石は魔道具のエネルギーだ。
その魔石の国内流通の95パーセントはメラス侯爵領産である。
庶民用のクズ魔石は安いままだが、貴族が使う通常サイズ以上の魔石は祖父の操作によって値上がり傾向にあった。貴族の魔道具は設計から庶民のものとは異なるため普通サイズ以上の魔石でないと使用不可となるのだ。
過去に私を直接に害そうとした貴族家は購入価格が十倍にもなっており、一度でもメラス侯爵家に敵対した貴族家の多くは迂闊な言動を後悔していた。
先ほどの令嬢と夫人たちはメラス侯爵家の政敵派閥に属する貴族家だから強気であったが、悔恨の念に駆られるのも間近に迫った段階なのである。
蛇よりも執念深く狡猾な祖父は許さないし、容赦もしない。時間がかかろうとも虎視眈々と時期をうかがい雪辱を果たすのだ。
「リュシアはよく頑張ったね」
「レオン様は最初からメラス侯爵家の醜聞をお気になさりませんでしたね」
「だってリュシアの父君が側近の仕事で失策をしたとか、メラス侯爵家が政治上で失態を犯したとか、それだったならば貴族家として致命的だけど。違うだろう? 貴族家に多い単なる家庭内スキャンダルだよ、それを責めることのできる清廉潔白な貴族がどれだけいるのか自身を顧みろ、って常々思っていたからね」
レオン様が慰めるように私の頬を優しく撫でてくれる。私はレオン様の手に自分の手を添わせた。
「リュシアの父君が悪いのに、何故、何も悪くないリュシアが蔑視されたり軽んじられたりして苦しまなければならないのか。貴族家だから仕方のない面もあるけれども、被害者的立場のリュシアが15年間もネチネチされるような問題ではないし、それにネチネチ責められるとしたならば父君の方だろう」
私の気持ちに寄り添ってくれるレオン様の言葉が嬉しい。やっと安心して呼吸ができる場所を見つけたように心が安らぐ。
社交の場で裏切ることのない人がいる。その人が側にいて味方をしてくれる。さんざん社交界で冷遇されてきた私はレオン様の優しい眼差しに溶けてしまいそうになった。
嬉しさを噛み締め、レオン様が私の婚約者である幸運に私は自然と笑みが浮かんだのだった。
王国歴211年、夏水鞠の月。
私は完成したポプリを持ってセルリオン侯爵家を訪問していた。
銀糸で刺繍を刺した絹の袋にポプリを入れた匂い袋。祖父母や使用人たちは良い香りだと言ってくれている。刺繍も上手だと褒めてくれた。刺繍は苦手だけど頑張ったのだ。
レオン様は気にいってくれるだろうか、と心配と期待で胸が痛くて私は匂い袋をキュッと握り締めた。
レオン様の部屋まできた時、室内の声がかすかに聞こえた。扉が少し開いていたのだ。
「そろそろ帰れ。僕はこれからメラス侯爵領の勉強の時間なんだから」
「おー、順調そうだな。ちゃんと無事にリュシア嬢と結婚しろよ、レオン」
「いわれなくともセルリオン侯爵家の人間として責任は果たすよ」
「リュシア嬢にはセルリオン侯爵家の悲願がかかっているからな。リュシア嬢の母親のリュートリア夫人は、血統魔法持ちのリュシア嬢と再婚先でも血統魔法持ちの男子を産んだ。ありえない、産んだ子どもが100パーセント血統魔法持ちだなんて。そのリュートリア夫人にリュシア嬢はそっくりな容姿だ。もしかしたらリュシア嬢も血統魔法持ちの子どもを産めるかも知れない」
「不確定な可能性だ。リュシアは母君と容姿が似ているだけなのに」
「可能性だけであろうとも! もう百年もセルリオン侯爵家には血統魔法持ちが誕生していないのだぞ! どうせ結婚するんだから押し倒してドンドン子どもを産ませれば、一人くらいは」
「不愉快だ、リュシアは子どもを産む道具ではない。従兄弟とはいえ口が過ぎるぞ。しかも押し倒せ? リュシアは貴族の令嬢だぞ。おまえには常識すらないのか! 帰れっ!!」
庇ってくれるレオン様の声……。
でも、ショックで私は扉から後退った。
転倒した砂時計みたいに時間が止まる。
政略結婚だと最初から理解はしていた。
ただ、レオン様があまりにも優しかったから。
私は冀求してしまったのだ、愛し愛されることを。
まさか血統魔法持ちの子どもを産むことを望まれていたなんて。
奇跡のような確率なのに。
まさか、まさか、それが4番目の理由なの?
私の手から匂い袋が落ちる。
ゆっくりと私の足が一歩二歩と退く。そのまま私は音も立てずに踵を返した。
政略結婚なのだから両家の繋がりである子どもは必要だ。メラス侯爵家としても後継である子どもは必須であった。
しかし、セルリオン侯爵家側が希望しているのは血統魔法持ちの子どもである。
それは神の御業だ。
神の領域なのである。
左右に傾ぐ天秤の振れ止まらぬ針のように私の心が乱れる。
今、どんな顔をしてレオン様に会えばいいのかわからない。
私は廊下を走った。
セルリオン侯爵家の使用人たちの戸惑うような視線も気にならない。
扉が開いて、レオン様が私の後ろ姿に何かを叫ぶ。しかし、私はレオン様を振り返ることなく走った。
玄関正面には、噴水を中心に色鮮やかな薔薇の花々が整えられたアプローチがあった。風に吹かれて、雌雄の蝶々の戯れみたいに薔薇の花弁がひとひらふたひら舞い散っている。花の呼気と呼気のあわいでひとひらふたひら落ちてゆく。
その日、私はレオン様に会うこともなく馬車に飛び乗ってメラス侯爵家の屋敷へと逃げ帰ったのだった。
王国歴211年、夏翡翠の月。
メラス侯爵家の応接間で。
私とレオン様は相対していた。
外は金砂の陽炎のごとき日差しが熱いが、室内では曇りのある水晶みたいにほんのりと沁み込む薄暗さがあった。
私の両隣には祖父母、目の前にはレオン様が座っている。
「セルリオン侯爵家から出てきました。祖父から譲られた男爵位と塩の10パーセントの権利、それから僕が投資で築いた2億ゴールド、これが僕の全財産です。言語は六ヶ国に不自由しませんが財務も政務もまだまだ勉強中です。メラス侯爵家の婿としては不足でしょうが、どうかリュシア嬢との婚約を継続させていただけませんか?」
頭を下げるレオン様に祖父が口を開く。
「産まれる子どもが血統魔法持ちとは限らない、それでも?」
「もともと僕は、血統魔法持ちが産まれるなんて夢のような可能性は考えていませんでした。高魔力持ちですら確率的に難しいのに、血統魔法持ちなんて奇跡に等しい。生家のセルリオン侯爵家の親族たちの下心は知っていましたが、あそこまで下劣とは予想外でした。リュシア嬢を不快にさせたことは僕の失態です。まことに申し訳ありませんでした」
さらに深く頭を下げるレオン様に、私はあわてて声を発した。
「レオン様、頭を上げてくださいませ。悲しかっただけで、私は怒ってはいません。より優秀な子どもを望むのは貴族家としては当然ですし……、その、血統魔法持ちの子どもは別物になりますけど……。私、産める自信もありませんし……」
レオン様が身を乗り出して私の手を取る。
「…………僕のこと、嫌いになった?」
レオン様の銀色の双眸の奥が底光りしている。仄暗く、レオン様の瞳孔がジワジワと開く。そうだった、レオン様は愛が重い方であった。私は慎重に答えを選んだ。
「私、たぶん血統魔法持ちの子どもは産めません……」
答えを間違えてはいけない。地獄の蓋が足元でぽっかりと開いている気配がする。
私の血統魔法は、危機察知魔法である。
「もちろんだ。僕の父親も、もしかしたらと一縷の可能性に賭けているだけだ。父親は親族の過剰な望みを危険視して叱咤している。従兄弟は親族への見せしめも兼ねてセルリオン侯爵家から絶縁された。あとは従兄弟の親である伯爵次第だ」
「あの……、その……、レオン様はセルリオン侯爵家を出られた、と……?」
「貴族として生まれた者としては失格だけど、僕は家よりもリュシアの方が大切なんだ。家には養育費分と利子をつけて投資で稼いだ資産の大半をおいてきた。持参金が少なくなってごめんね。でも、塩の権利を所有しているから僕との結婚にはメラス侯爵にとってちゃんと利益はあるよ」
「僕は……。もう僕の心も身体もリュシアのことを覚えてしまったんだ。リュシアの優しい眼差しもリュシアの温かい手も忘れられない。お願いだ。好きなんだ、リュシア。この花のように『はかない恋』にはしないで」
せつなく訴えるレオン様が私の髪の月下美人に触れる。
夜の、月の光の下で咲く幻想的な月下美人の花を保存魔法をかけて私の髪に挿していた。花言葉は『はかない美』『はかない恋』『ただ一度会いたくて』。
「私は……」
会いたいけど、会うことに臆病になって会えなくて。
だから、わざわざ保存魔法までかけて月下美人の花を身につけていた。レオン様を思わせる美しい月下美人の花を。
『ただ一度会いたくて』、と。
「……私も、レオン様が好きです。レオン様は、パーティーでも従兄弟の方からも庇ってくださいました。レオン様の優しさも温かさも私を救ってくださいました。ごめんなさい、私が弱虫だったからレオン様に……」
こみ上げてくる感情が涙に変わる。レオン様をとてもとても好きなのだ。好きだからこそ立聞をして動揺してしまったのである。
「ごめんなさい、ごめんなさい、レオン様。逃げてしまってごめんなさい」
ぽろり、と落ちた涙をレオン様が指の腹で尊い宝物のように拭ってくれた。
コホン、と祖父がわざとらしく咳払いをする。
「我らは席を外そう。二人で話し合いをしなさい」
「んふ、ふふふ……っ」
と祖母は瞳をキラキラさせて口を扇子でおさえている。トキメキ真っ盛りの乙女のようだ。
「お祖父様……、お祖母様……」
「ご配慮に感謝いたします。メラス侯爵閣下」
レオン様が胸に手を当てて頭を垂れると、祖父が朗らかに笑った。
「家族となるのだ。敬称はいらない。わしもレオンフェルドと呼んでもよいかな? 婚約期間は1年間、結婚式は来年の春立ち月にしよう。セルリオン侯爵家との執成しもわしに任せておきなさい、決して悪いようにはしないから」
勢いよくレオン様が顔を上げる。驚きと歓喜から一瞬泣きそうに顔を歪ませ、グッと目元に引き締めて震えるように口を開いた。全身の血が興奮で沸き立つように熱い。
「あ、ありがとうございますっ!!」
「レオンフェルドの部屋も屋敷に用意しよう。ただし結婚式までは清く正しく、な?」
「もちろんです。貴族の令嬢であるリュシアが後ろ指をさされるような真似はいたしません」
「うむ、うむ。信用とは言葉ではない、行動が信頼となるのだ。レオンフェルド、リュシアを頼むぞ」
祖父はレオン様の肩を軽く叩くと、祖母をエスコートして部屋から出ていった。
「リュシア、来年の春立ち月に結婚が決まったけど大丈夫かい? 僕は信じられないほど嬉しいが女性には準備や心積もりが必要だろう? もっと時間をかけたいならば僕の方から侯爵閣下に進言するよ」
気持ちに寄り添い、私をどこまでも尊重してくれるレオン様。
「いいえ、私も嬉しいです。それに結婚の衣装や装飾品や道具などは幼少期より少しずつ準備してきているので安心してください。だからこそお祖父様は来年の春立ち月と結婚式を指定したのだと思います」
レオン様が嬉しそうな笑みを浮かべて、おずおずと私を腕の中に囲む。初めての抱擁。二人で頬を染めながらコツンと額をあわせた。
「凄く幸せだ。リュシアと触れることなく生きていた頃があるなんて信じられない。リュシア、僕と共に生きてくれる?」
「はい、レオン様。命の終わる最期まで一緒です」
頷く私に、レオン様は額を離し私の耳に息を吹き込むように口づけを刻む。吐息が耳に頬に触れて、思わず私はふるふると震えた。
「ぴゃわ……」
謎の鳴き声を発して頬も首筋も熱くなって真っ赤になる私にレオン様は、
「清く正しくと釘は刺されているけれども、ちょっとだけ、ね?」
と反対の耳にも啄む小鳥のキスをおとす。
「ぴぇえ……、レオン様……」
色事の経験がまったくない私は半泣きになる。箱入りの私には刺激が強すぎて心の準備が。ちょっと気持ちを落ち着かせるために中断してほしい、できることならば一ヶ月くらい。いや、結婚まで。
身長差から涙で潤んだ瞳でレオン様を見上げると、何故かレオン様が天を仰いだ。
「うッ。可愛すぎだろ、反則だ。耐えろ僕。結婚式は半年後だ」
意味は違うようでも一致した意見の私とレオン様。
ゴクリと鳴る喉を懸命に理性で抑えるように、
「リュシア、愛している。僕の人生の1分1秒まで全てをリュシアに捧げるよ」
とレオン様は私を抱きすくめて甘く耳元で囁いたのだった。
王国歴211年、秋便りの月。
謝罪の品付きでセルリオン侯爵家から詫びの手紙が届いた。
「ごめんよ、リュシア。父本人が謝罪に来れなくて。嵐の季節だから港から離れられないんだ。しばらくは領地の運営で昼夜問わず忙しくなってつきっきりになるんだよ、毎年この季節は」
「王都にいらっしゃるレオン様のお兄様から直接に謝罪を頂戴しておりますから、遠い領地から仕事で多忙であるのにわざわざ足を運んでいただくほどのことではございません。手紙で十分です。それよりもレオン様とご家族が和解されたことの方が重要です」
「和解というか……。恥ずかしながら僕が勝手にセルリオン侯爵家から逃奔してきただけだから、父や兄からは婿入りが早まったくらいにしか思われていないんだろうな」
レオン様の毎日は忙しい。
メラス侯爵家の屋敷に入った翌日から祖父の元で領地経営を学び、魔石の流通にも関わるようになって精力的に働いていた。結婚式が決まったので、王国の風習に則って花婿から花嫁に贈る花の選定のために温室にも足繁く通っている。
わずかな隙間時間で私に会いにきてくれて、結婚式の打ち合わせや屋敷の西側を改築してつくる新居の部屋の相談をしつつ談笑していた。今も庭の小道をおしゃべりしながら散歩して、僕の癒しだ和みだとレオン様は笑顔が絶えない。
「うー、僕、客観的にみて言葉にすると格好悪いな……。セルリオン侯爵家の親族に怒って、縁切り上等とひとりで暴走して。リュシアに愛想を尽かされて婚約破棄をされてしまったらどうしよう、と視野が狭くなってそればかり考えていたから……」
レオン様が恥ずかしげに片手で顔を覆った。
レオン様は綺麗で。強くて。賢くて。
でも人間だもの、美しく正しいばかりではない。完璧な人間はいない、大人になるイコール立派な人間である、ではない。大人は子どもが成長して大人になっただけなのだから。
頑張ろうと思っても頑張れない時もあるし、みっともなかったり弱かったりもするけれども、それは自然の姿で。
私だって駄目なところはたくさんある。
違う環境で育ったのだ、価値観も異なることもある。
けれども、お互いに駄目なところも認めあって補いあって、同じ方向を見て手を取り合っていっしょに歩んでいけるならば。
一歩踏み出せばそこが道になるのだから。
それにレオン様は暴走と言うけれども、それだけ私を愛してくれている証拠のようで―――嬉しい。
「そのおかげでレオン様がメラス家の屋敷に来てくださったのですから。はしたないことですけど私は喜んでしまっているのです」
「リュシア……」
レオン様の双眸に宿った甘い熱がチリチリと私を焼く。
焦がれてやまない、と。
レオン様に抱きしめられて翻ったドレスの裾が小道の脇に群生するガウラの小花に触れる。白い蝶が群れて飛ぶようにガウラの花がたおやかに揺れた。
王国歴211年、秋実り月。
夜空には、銀砂のような星々に囲まれた五分咲きの月が空の魚のように雲海の波の上をゆるりと移動していた。
「レオン様、少し早いですけどそろそろ……」
「ああ、リュシア。屋敷に戻ろうか」
今夜は、異父弟サリオンのイリアジウス公爵家のパーティーに出席していた。
私は亡き母親と容姿がそっくりである。
母親を亡くした時サリオンは6歳だった。葬儀で母親似の私にしがみついて泣きに泣いて、以来、私はサリオンの第二の母となった。私も寂しかったのだ。私はサリオンを愛することで、サリオンは私に愛されることでお互いに寂しさを埋めたのである。
私には危機察知魔法があるゆえ、メラス侯爵家とイリアジウス公爵家と別々の家であったがサリオンの傍らにいることが許されたのだ。むしろイリアジウス公爵家に歓迎された。祖父は苦笑して寂しい私の気持ちを重視してくれた。
サリオンの母親は後妻だが、サリオンはイリアジウス公爵家の血統魔法持ち故に先妻が産んだ異母兄たちを退けて後継者となっていた。それは異母兄たちにとって服従しがたい不平であった。サリオンが誕生するまでは第一子の長兄がイリアジウス公爵家の後継者であったのだから。
その不満は御家騒動へと発展しかけたが、私の危機察知魔法により公然となる前に秘密裏に処理されることとなった…………。
メラス侯爵家の家庭内スキャンダルと違い、御家騒動は王家がイリアジウス公爵家へ干渉できる立派な口実となる。王家の介入など、イリアジウス公爵家にとって百害はあっても一利もない。
サリオンの異母兄たちは領地視察の際に落石にあって事故死したのだ。抜かりなく不備もない、完璧な事故死であった。
記録官に嗅ぎつけられる寸前であったので、辛うじてイリアジウス公爵家は王家が介入する口実になりかねない家督争いの波瀾を回避したのである。
「……あら?」
私は壁側に並べられたテーブルに目を留めた。幾つものテーブルが並び様々な料理や飲み物が用意されていた。
クン、と何かが釣り糸のように引っかかる。
私は過去のこともあってイリアジウス公爵家では警戒心を強くして危機察知魔法を常時展開していた。すでに解決はしているが、イリアジウス公爵家の親族や使用人の中には亡き異母兄派が潜んで残っているかも知れないからだ。
ぼんやりと広がる危機察知魔法をレンズの焦点を絞るように意識を集中させる。
右端のテーブルに置かれている洗練された銀飾りが施された20個ほどの細長いグラス。蜂蜜色の液体。その蜂蜜色のグラスに私の危機察知魔法が強烈に反応した。
「サリオンを呼んでくれる? 分析して欲しいものがあるの」
私の顔はイリアジウス公爵家では周知されている。近くにいた使用人が静かに動く。公爵家の使用人らしく徹底的に教育されていて、私が継嗣であるサリオンを呼びつける無礼にも卒無く敏速だった。
サリオンは成人前の13歳だがイリアジウス公爵家の後継者であるため、自家はもちろん他家の夜のパーティーにも参会していた。
「姉上!!」
サリオンの秀麗な顔が歓喜にあふれている。
「ごめんなさいね、サリオン。私が行くよりもサリオンに来てもらった方が早いと思って」
「いいえ。姉上の顔を見られて嬉しいです」
「サリオンったら。先ほどパーティーに招待してもらった挨拶をしたじゃない」
「1時間も前ですよ? 姉上とは毎分毎秒ごいっしょしたいのに現実はなかなか会うことができないのですから。僕が幼い頃はたくさんの時間をともに過ごすことができていたのに」
拗ねたようにサリオンが口を尖らせる。かわいい。でもレオン様と同類の匂いがちょっとしているような……?
「それで姉上、僕にご用だとか?」
私は表情を引き締めた。
「あの蜂蜜色の液体が入ったグラスを分析して欲しくて。おそらくお酒だと思うのだけれども、私の危機察知魔法に反応したから何か混入されているのかも……」
サリオンの血統魔法は、分析魔法である。
鑑定魔法に近いが、より詳細に要素、成分、構成などを把握可能な魔法であった。さらにそこから物事や事象の新しい情報を導き出す魔法でもある。
ただ分析魔法は魔力を桁違いにごっそりと使うので1日に複数回も使用はできない。
サリオンが目を眇める。
パチン。
指で合図をすると、時間経過によるお酒の交換のような態度で使用人たちがさり気なく新しい薔薇色のお酒と蜂蜜色のお酒を取り替えていく。公爵家のパーティーである。異物の混入などを警戒して監視役も兼ねて大勢の使用人が配置されており、交換は瞬く間に終わった。招待客は気付きもしていない。
「姉上、別室に行きましょう」
案内された別室で、私はダリアの花が緻密に彫刻された優美な椅子に座った。背もたれから脚先に至るまでダリアの花が植物の葉のような曲線にくるまれた装飾が施されている。レオン様は果樹の装飾の椅子に、サリオンは天使の意匠が凝らされた椅子に座った。
室内を照らす大樹をかたどった黄金の葉の枝付き燭台には多くの蜜蝋のろうそくが灯り。気品ある部屋を、芸術品のように美しいレオン様の存在が一層豪奢に見せていた。
「姉上、ありがとうございます。あやうくイリアジウス公爵家の名誉が傷つくところでした」
サリオンが重い息を吐き出した。
「あのテーブルには、口当たりのよくてアルコール度の低い酒を準備していたはずなのですが。いつの間にか蜂蜜色と色は同じでも、口当たりがよくてアルコール度が極めて高い酒にすり替えられていたようです。酒に慣れていない者でしたらグラス一杯で酩酊してしまうような。しかも質の悪いことに興奮剤も混入されていました。興奮剤は甘いことが特徴ですが、あの酒自体が甘い酒なので、飲酒しても興奮剤を認識できる者はいなかったでしょう」
顎に人差し指をあててサリオンが続ける。
「それで考えたのですけど。表沙汰にはなっていないのですが、最近社交界で泥酔して過ちを犯す事例が何件か連続しているのです。これ、関連していると思いませんか? もし今夜の蜂蜜色の酒を誰かが飲んでいた場合、イリアジウス公爵家のパーティーでの不祥事となっていたかも知れません」
「なるほど。媚薬ならば禁止されているから捜査も厳しくなるが、興奮剤ならば金と権力次第で発覚してもイタズラの名目で処分も軽くすむ。あるいは泥酔事件として有耶無耶で終わらせる、か……。しかし、泥酔がもし若い令嬢の場合は令嬢の未来を潰す過ちに繋がることもある、軽いイタズラではすまされない」
レオン様が思案しつつ言葉を織る。
「蜂蜜色の酒はただ置かれていただけだったから不特定多数を対象としていたと思う。混乱を愉しみたかったのか? 公爵家の面目を失わせたかったのか? 動機は不明だが犯人は、公爵家のパーティーのチェックされた飲食物を入れ替えの策謀できる頭脳を持ち、なおかつ権力や財力もある。あの蜂蜜色の酒は高価なシーリア酒だろう、口当たりがよくてアルコール度の高い蜂蜜色の甘い酒は隣国から輸入されているシーリア酒だけだ」
「シーリア酒……」
と呟いたサリオンは思い至るものがあったのか、ハッとした顔をする。
サリオンの視線を受けてレオン様が頷く。
「シーリア酒は、第三王子殿下の母君である妾妃様のご実家、カイザ男爵家の商会が隣国から独占的に輸入している酒だ」
第三王子殿下の悪評は有名である。
「しかしお粗末すぎる。公爵家のパーティーに喧嘩を売るみたいな真似をしておきながら、簡単に犯人に辿りつけるようなヒントを残すとは……。何か裏があるのか、それとも第三王子殿下は王族ゆえに刑罰の対象外であると思っているから証拠を気にしないのか」
とレオン様は言って、サリオンと目を見合わせて厳しい顔をした。
王国歴211年、秋葉の月。
最近のレオン様は繁多である。
メラス侯爵家、セルリオン侯爵家、イリアジウス公爵家の各当主方と密談を重ねて、特にサリオンと仲良く内々に策動していた。
魔石のメラス侯爵家。
塩と貿易のセルリオン侯爵家。
王国の食糧庫である広大な領地を所有するイリアジウス公爵家。
この3家が手を組めば王国経済の大部分を牛耳ることができる。しかも私の祖母は北の辺境伯家の当主の姉だ。武力面でも王家に負けることはない。
今日は、レオン様が多事多忙なので私は一人で買い物に来ていた。もうすぐ祖母の誕生日なのでプレゼントを選ぶつもりだった。いつもは屋敷に商人を呼ぶのだが店で購入することも気分転換になって楽しい。侍女と複数の護衛たちも同行しているが、あまり一人で出かけることはないので気持ちが少し高揚していた。
街路樹の落ち葉を踏む音が小気味よい。
高木の上からはらはらと葉雨のように道に散った落葉は、小鳥の小さな羽ばたきのような幽い音を鳴らす。寂しく優しい音だ。
葉色も切なく優しい色をしている。
磨き上げられた玻璃のごとく鮮やかなのに、日の残照に似た凋落をも感じさせて切なく美しいのだ。
一足ごとに奏でられる葉音を堪能しながら店頭を歩いていると、偶然に彼女を見つけた。グレイム伯爵家のルチア様。第三王子殿下の婚約者の令嬢である。
貴族街で安全とはいえ侍女も護衛も連れておらず、しかもルチア様本人は侍女服っぽい地味なドレスを着ていた。しかもしかも隣には下級騎士服の第三王子殿下の姿が。
カフェに入店するルチア様と第三王子殿下の後ろに続いて、思わず私もカフェに入ってしまった。なんとなく危機察知魔法が微妙に反応したのだ。
部屋料を払えば個室に案内してくれる店だったので、私もルチア様と第三王子殿下の隣室へと入った。狭い部屋だったので侍女と護衛たちも入ると窮屈であったが誰も文句は言わない。ただ、ビタッと隣室との壁に耳を押しあてている私をちょっと不審な目で見ているだけである。
人の口は軽いが、沈黙は重い。
侍女と護衛たちの無言に気まずさを覚えるが、隣室への興味の方に天秤が傾く。
サリオンから以前にもらった希少な集音の魔法陣を壁に張り、そこに記録の魔法陣を重ねてから耳をあてた。役に立つから、と言って昔からサリオンは高価なものを色々と私にくれるのだ。
まず聞こえたのはルチア様の泣き声だった。
「泣かないでおくれ、ルチア」
「殿下、もうお止めください。自身の評判を下げるために乱行なことを繰り返すのは……」
「しかし、母はわたしが王位に就くことを密かに願っている。心に巣食っているだけであるので母は愚挙なことは実行していないが、このまま母を諦めさせるためにはわたしは愚かな振る舞いの不出来な王子でいるのが一番穏便な方法なのだ」
「グレイム伯爵家の婿入りとなれば臣籍降下となり、王族としての身分を失い王位継承権も喪失となるではありませんか。それだけでは駄目なのですか?」
「誰からも支持されない王子であるからこそ母も野心を断念できるのだ。それに、わたしの王族としての落ち度ギリギリの過失を尻拭いしてくれているグレイム伯爵家には他家からの同情が集まっている。万が一、母の野心が発覚することがあっても処罰に巻き込まれることはないだろう。本当は婚約の破棄をするのが安全なのだが……」
「嫌です! わたくしは殿下を愛しております! 貴族の娘として家を第一に守るべきではありますが、わたくしは……」
「いっそ母を捨てて家を捨てて、どこか遠くへ二人で逃げることができたならば……。だが、わたしは母をルチアは家を捨てることはできない。ああ、ルチアを愛しているのに。わたしたちは不運な星のもとに生まれてしまったと言うべきだろうか」
「殿下、殿下のおためならばわたくしは耐えます。けれどもわたくし心配なのです。殿下の不行状を我がグレイム伯爵家はいくらでも後始末をいたしますが、殿下ご自身に何らかの処罰があるやかも、と」
「それならば大丈夫だ。わたしの愚行は法的に言い逃れのできるものばかりだし、わたしを罰せられるのは父王だけだ。そこは上手く躱すことができるよ」
と、自分たちの悲劇に酔った密会ごっこをする第三王子殿下とルチア様の愛の劇場が魔法陣から流れる。
屋敷に帰るとちょうど皆様で話し合い中だった。王国の経済を左右する錚々たる顔ぶれである。サリオンもサリオンの父である公爵様も私の祖父もレオン様もレオン様の兄君様も揃っていたので、収集ほやほやの記録の魔法陣を聴いてもらったのだ。
「王太子殿下も第二王子殿下も才知を備えた素晴らしい方であるのに、第三王子殿下は頭の良い愚か者だったというわけか。まるで自分優先のイタズラ好きの子どものようだ」
「結局は保身じゃないか。豊かな生活は捨てたくはなくて、自分の評価は落とすが処罰はされないラインを計算して最終的には円満な婿入りでハッピーライフ。だいたい王位継承権を喪失する婿入りを早々にすれば解決するのに、それをしないのは王族である身分の恩恵を長く享受したいからではないか? あるいは不行状自体を楽しむためには王族の身分が便利だから婿入りを延ばしているとしか考えられない」
「野心など貴族ならば胸裏に飼っておる。だが、妾妃殿の表にも出しておらぬ野心を心配して賢しらに予防策を講じるのは臆病に臆病を重ねるようなものだ。むしろサリオン殿の言う通り王族の地位を利用したいがための詭弁に思える」
「イリアジウス公爵家のパーティーでのことも確かに責任を回避できるだろう。第三王子殿下の過去のヤラカシも言い抜けできるものばかりだった。しかし、金や権力で押さえられて黙るしかなかった者、自身や家の体面のために声を出せなかった者、被害者たちは遊戯盤で駒を動かして遊ぶような軽い悪戯だったと言われて納得できる者たちばかりではない」
「無関係な人間に累を及ぼして被害を与えている時点で有罪だ。第三王子殿下は賢く能力もあるが、王族としての器がない―――ある意味、国王陛下によく似ている」
と、公爵様、サリオン、祖父、レオン様、レオン様の兄君様。皆様、青筋が酷い。
レオン様が眉間に皺を寄せて言った。
「パーティーのこともあって第三王子殿下のことを調べたのですが。どうやら第三王子殿下は伯爵家への婿入りに不満みたいです。もっと上位の、特に13家の貴族をご希望のようですが、他家はやんわりと第三王子殿下を拒絶しました。第三王子殿下は旨味のない王子ですから。当時はかなりプライドが傷ついたらしいです。自身の欲望を刺激するための暗い悪行はその頃から始まっています。不満の憂さ晴らしの面もあるのか、と。証拠も証人もザクザク出ました」
「つまりグレイム伯爵家はキープ扱い? ルチア嬢の愛情の上に胡座をかいて、自分本位に不行状を愉しんでいる愉快犯?」
サリオンの言葉にレオン様が頷く。
「第三王子殿下は頭が切れる。遊戯という名の悪行を賢く優雅に愉しむラインを見極めて安全地帯で謳歌している」
「今まではね。けれどイリアジウス公爵家に手を出したのは第三王子殿下の失敗だ。イリアジウス公爵家は第三王子殿下を許さない」
研磨された宝石のように青い双眸を光らせるサリオンが薄く微笑む。無情に。花の盛りに鮮やかな花色の花びらを散らす嵐の予感に、私は頬を強張らせたのだった。
王国歴211年、冬降りの月。
グレイム伯爵家の価値は高位貴族であるが害のない家、それが最大の利点であった。
驕り高ぶる家ではなく、野心のある家でもなく、領民を虐待している家でもなく、領地経営が破綻している家でもなく、収益が豊かで大資産がある家でもなく、色々なあらゆる点で可もなく不可もなく害のない貴族家なのである。平凡な伯爵家、それは野望に燃える高位貴族社会において人畜無害という貴重な存在であったのだ。
しかしグレイム伯爵家は、第三王子殿下のために自家の最大の価値を壊してしまった。
無毒な伯爵家であったのに、第三王子殿下の尻拭いを甲斐甲斐しくすることによって恨みを買うこととなった。下位貴族では伯爵家に逆らえない。下位の者は尊厳や気持ちを踏み躙られても、権威を振りかざして謝罪をされてしまえば受け入れるしかないのだ。ましてや謝罪を了承しなければならないような公の場で謝罪をされてしまえば、なおさらに。
王家が第三王子殿下の事後処理を全てグレイム伯爵家に任せたことも問題であったが、グレイム伯爵夫妻がルチア様を盲愛して、ルチア様の望むままに第三王子殿下に服従したことも過誤であった。せめてルチア様がひたすら恋に一途になるのではなく、伯爵家の娘としての義務と責任をもって領民や領地のことを考慮する令嬢であったならば。何よりもグレイム伯爵が娘のルチア様を過保護なまでに盲愛せず、ルチア様を諄々と諭していれば未来は違っていたはずなのに。
「王国では貴族の力が非常に強い。王家からの理不尽な要求には歯向かうこともできるし、無毒なグレイム伯爵家だった頃ならば味方も多かった。決して第三王子殿下の尻拭いを拒否できない立場ではなかった。だからグレイム伯爵家の現在の状況は気の毒だが自業自得の面もある。殿下は王族なのだから本来は王家が尻拭いをするべきだったのに、グレイム伯爵は喜々として後始末をした。ルチア嬢が殿下からの特別な寵愛を欲したがために」
「グレイム伯爵家は衰退の兆しがあるとの噂が流れています」
「ああ、没落寸前みたいだね。親族のマリシム侯爵家がグレイム伯爵家の領民と領地を救うために潜行して動いている。ルチア嬢は殿下に溺れているが、殿下はグレイム伯爵家に見切りをつけて他の貴族家を密かに物色中だ。共倒れして転落する気はないらしい。だが、以前もそうだったが今回も殿下を婿に望む高位貴族家はいない。いや、グレイム伯爵家の傾斜の原因である殿下は疫病神のごとく毛嫌いされていると言うべきか」
「殿下は不品行ゆえに王族としての重要性も大暴落していますし、グレイム伯爵家の二の舞を踏みたい家はありませんものね」
今日は空が晴れ渡り日差しが穏やかだったので、私とレオン様はガラスで包むような造りのコンサバトリーでお茶を飲んでいた。
冬の青い空を吐く吐息が一瞬だけ曇らせ、ふわり、と砂糖菓子のように溶けてしまう寒い季節だが、室内は陽光がぽかぽかと暖かい。
日差しがガラスを通り抜けカップの紅茶に降り積もる。手に持つとカップの中の紅茶が金茶色の波の形となって揺れた。
射し込む陽の温度と角度が冬の深まりを教えてくれている。
ガラスから見える外の庭には花は少なくなったものの、冬の日溜まりの色のような金柑や蜜柑。赤い珊瑚のような色の山橘、深山樒、南天、千両、万両。小さな実がつやつやと寂寥たる冬景色に彩りを添えている。
私は紅茶のカップを手に持って、フーと息を吹きかけた。お茶会では我慢して飲んでいるが本当は猫舌なのだ。舌を火傷したことがあって、レオン様にいっぱいフーフーすることを約束しているので、遠慮なくフーフーと繰り返す。
「かわいい……」
レオン様が目元をゆるめるので、私は羞恥心を紛らわすように紅茶のさざ波を口に含んだ。
レオン様もお茶で喉を潤す。
「第三王子殿下も愚物だよね。国王陛下は政治的思惑はあれども、それでも豊かなメラス侯爵家や無毒なグレイム伯爵家を殿下のために選んでくれたのに。最初は政略でも歩み寄れば幸福になれる道もあったのにね」
「私はレオン様が婚約者で幸運でした」
「僕もだよ。……王家は王権の強化を狙っているらしく王女方の臣籍降嫁が続いている。それだけならば問題にならなかったが、メラス侯爵家の噂を長く継続させて貶めようとしたり他の貴族家では継承問題や婚姻に強引に口出しをしたりして、ここ数年は王家と貴族家とが反目し合う件が増加している。王家は、王国の頂点で貴族家のパワーバランスを保ち円滑に支障なく統治することが最大の役割だというのに……。そろそろ貴族たちも意趣返しに動いている、メラス侯爵閣下も長引く醜聞にうんざりしているしね」
「…………第三王子殿下を利用なさるのですか?」
「殿下の不行状に巻き込まれて犠牲になったのは平民や下位貴族がほとんどだが、遺恨を残す者は多い。巧妙な手口だから、殿下の不行状は法律に抵触ギリギリで身分的にも責任の追及は難しい。うわべ的には大した問題に発展していないから国王陛下も殿下の行動を問責していないし、そもそも王家も情報を集めているだろうに殿下を罰していないのは、王家の威信に傷がつくことを忌んで罰する気がないからだ。どうやら国王陛下は下手に注意して揉め事が複雑化しておおごとになることを危惧して聞き流しているらしい。余計な手出しをして問題を掘り起こしたくないんだよ。王太子殿下が第三王子殿下に幾度も戒告しても、国王陛下が窘めておられぬから第三王子殿下は周囲の諌めに耳を傾けない。かと言って高位貴族が議題とするほどの問題ではない。せいぜいが各家による抗議程度だ」
人々の傷付けられた見えない傷は、まるで割れたガラスのようだ。
ガラスは割れれば割れるほど小さくなり鋭く尖ってしまう。しかも氷のごとく透明で美しいガラスは氷と異なり溶けることがない。
「メラス侯爵家、セルリオン侯爵家、イリアジウス公爵家が手を組めば王家を滅することも可能だ。しかし、統治の成果はないが民が飢えるような失策もない王家との争いは民に無用な流血を強いることとなる。本末転倒だ。大義があろうと正義があろうと無辜の民を巻き込む衝突は避けるべきだ。それに次代の王太子殿下は英明な方だし、何より王家を倒すと他の高位貴族各家が厄介だしね」
レオン様の言葉は苦かった。
「だから第三王子殿下に役立ってもらう」
「リュシアの父君は国王陛下の親友で正しく諫言をなさる方だった。その父君が地位を失い、国王陛下は忠言をする臣下を徐々に遠ざけ耳に心地よい言葉を吐く者を増やした―――結果はこれだ」
私は目をかたく瞑った。
瞼の下で影絵のように数度しか会ったことのない父親の姿が浮かぶ。
15年前の嵐は、メラス侯爵家も王家をも運命を歪めてしまったのかも知れない。
王国歴211年、冬雪の月。
夜の闇が昼の世界を浸透する汀、私は王宮の白く磨かれた大階段をレオン様にエスコートされて登っていた。階段の両側には、装飾的な甲冑で身をよろった兵士たちが煌めく槍をたてて直立している。
「リュシア。少し騒がしい夜に今夜はなるかも」
「はい、わかりました。長い夜になるのですか?」
「もしかしたら長引くかも知れない」
今夜は王宮の冬の大夜会である。
国外からの招待客も多く、国内の貴族たちもこぞって出席していた。
「あの、先に化粧室に寄ってもいいでしょうか?」
レオン様が返事をするよりも早く、深紅の天鵞絨が垂らされた入り口の金襴張りの壁側で待機していた侍女が口を開いた。この場所には多数の侍女たちが受付や案内係のように待機しているのだ。
「ただ今、化粧室は混雑しております。よろしければ空いている化粧室へご案内をできますが?」
大人数の夜会であるので近場の化粧室は満員らしく、侍女が申し訳なさそうな顔をした。
「ええ、ありがとう。お願いできるかしら?」
「はい。こちらでございます」
侍女に先導されて私とレオン様が大理石の円柱が連なる廊下を歩く。円柱の間には、百花に先駆けて咲く開花期の早い梅の花枝がいけられた花瓶が置かれ、気品ある香りを漂わせていた。
「ここで待っているよ」
私は廊下でレオン様と別れて化粧室に入った。
王宮の化粧室らしく温室咲きの華やかな花々が飾られて豪奢であった。奥の個室の扉には彫刻が施されて、本当に化粧や着崩れを直せるように大きな鏡や化粧台もある。
化粧室には女性の姿はなかった。
女性専用の化粧室であるのだから男性の姿もないはずであった。
しかし、第三王子殿下が堂々と立っていた。化粧室の入口には侍女がいて塞がっている。
私は唇を噛んだ。
王宮での魔法は基本的に禁止されているので危機察知魔法を発動していなかったのである。
ぶるり、と私の身体が震えた。
貴族社会では第三王子殿下と化粧室にいるだけで、婚約者のいる私の秘めた不適切な関係との風評が立ってしまうのだ。しかも私は自分の足で化粧室に入ってしまった。ここで誰かに見つかって明るみになった場合、化粧室という場所が不自然であろうとも、第三王子殿下がお互いに婚約者のいる身ゆえの秘密の逢引のためであったと主張すれば、腐っても王族、立場が弱い私の悪評となるのだ。そうなれば私は父親と同じ二の舞いを演じることとなる。ましてや貴族の令嬢にとっては不貞も純潔の疑惑も噂だけで命取りであった。
とっさに私は、猫みたいな反射的な動きで化粧台の上の花瓶を手でねじるようにして払いのけた。
ガシャン!
落ちた花瓶が音をたてて粉々になると同時に叫ぶ。
「レオン様っ!!」
「リュシア!」
第三王子殿下が割れた花瓶に注意を向けた瞬間、レオン様が侍女を蹴り倒して化粧室に飛び込んでくる。
カッとレオン様が目を開いた。
レオン様は第三王子殿下を認識するや否や、侍女の腕を掴んで第三王子殿下に投げつけた。第三王子殿下の足元に侍女が倒れる。
「これはこれは……。第三王子殿下におかれましては侍女殿と逢瀬中でございましたか? お邪魔にならぬようにすぐに失礼をいたします」
レオン様が第三王子殿下を睨みながら礼を執る。
「申し訳ございません。驚いてしまいうっかり花瓶を割ってしまいました。お許しくださいませ」
私も謝罪をすると、第三王子殿下が呆気にとられて言葉を発せずにいる間に即座に化粧室から撤退する。
「ま、待てっ!」
ハッと我にかえった第三王子殿下に呼びとめられるが、私とレオン様は聞こえなかったフリをして足早に立ち去ったのだった。
清楚な梅の香りを振り切るように廊下を走り、豪華な夜会会場に入ってホッと息をつく。
「まずいな。第三王子殿下はリュシアとの既成事実を狙った可能性がある。そうなればリュシアは嫌でも殿下と結婚だ。醜聞となってもメラス侯爵家が手に入るならば安いものだ」
嫌悪感をあらわにしてレオン様が吐き捨てる。
「少し煽ってやったら暴走して、よりにもよって最悪な方法を選ぶとは。悪知恵だけは働く殿下らしい手段に反吐が出るよ。やろうとしたことはゲスの極みだったから殿下も侍女だけを協力者にして内密な行動だったのは助かったけど。騎士がいたら厄介だった」
「……煽る?」
「メラス侯爵家が醜聞を貼り付けられたように、殿下を利用して今度は王家に醜聞をべったりと付着させようと思って」
レオン様が、危険な色をたたえた銀色の双眸を月が映した花明かりのように底光りさせる。
「ごめんよ、リュシア。13家に関わることだから内密にしていたんだ。リュシアを傷付けるつもりはなかった……。サハムの野郎、許さない!」
その時、第三王子殿下が近づいてきた。背後には取り巻きの貴族子息たちを連れている。
私とレオン様に逃げられて頭が煮えているらしく、猛烈に腹を立てている顔で目がつり上がっていた。愚かなこと。表情は言語の一種であるのに。高貴な血筋で能力があり要領が良くても、まことに王族としての器のない方である。
いかに王族ゆえの傲慢だとしても加害行為を行おうとしたのに筋違いである。
被害者は私の方で、ゾゾゾ、と背筋に悪寒が走るほどの恐怖であったのに。逆恨みを受けるいわれはない。
さり気なく異父弟のサリオンとレオン様の兄君様、祖父母、イリアジウス公爵様が私の視界範囲内に立っている。記録官の姿もあった。王宮の大夜会なので複数の記録官たちが、広い会場のあちらこちらで記録紙と筆を構えていた。
第三王子殿下の取り巻きたちの中には見知った顔が幾人もいた。おそらくメラス侯爵家、セルリオン侯爵家、イリアジウス公爵家の派閥の子息たちだ。つまりレオン様が第三王子殿下を「煽った」と仰ったのは、何か彼らを使って仕掛けをしたのだろう。
「リュシア・メラス侯爵令嬢、前にきたまえ」
傲然と胸を張り第三王子殿下が私を指差す。目敏い記録官たちがサササッと移動して、第三王子殿下の周辺に立ち筆を動かした。
私は指名を受けて、思わず嫌悪感で無表情になりかけた顔に貴族らしく微笑を貼り付ける。
「リュシア・メラス。参りました」
第三王子殿下が尊大にかまえて肩をそびやかした。
「うむ。よく聞くがいい」
周囲の人々も何事か、と注目している。だが、扉付近なので気付いている人数はまだ少ない。距離があるので王座の国王陛下もこちらを把握していない。
「近々わたしは婚約者のルチアとの婚約を破棄する予定だ。そこで次の婚約はリュシア嬢と結びたい。もともと15年前にリュシア嬢とわたしは婚約をする予定だったのだ。それが今となるだけだ」
第三王子殿下は問題行動は多々あっても、知力と才気のある方だったはず。レオン様が「煽った」とはこのことかも知れない。取り巻きを使って第三王子殿下に欲望を吹き込み自滅させるつもりなのだ。
「第三王子殿下。私には婚約者がおります」
「愚かな。王族の意向に沿うのが貴族であろう。メラス侯爵家とセルリオン侯爵家との婚約は破棄をして、わたしの新たな婚約者となればいいのだ」
高位貴族の婚約を気軽に破棄などと、とんでもない常識外の言動であった。斜陽のグレイム伯爵家を捨てて富裕なメラス侯爵家に鞍替えするつもりだろうが、取り巻きに唆されて欲を刺激されたとはいえ自分本位すぎる。
罵ってしまいそうな怒りを呑み込み、私はたおやかに言葉を続けた。書記官たちが筆を執っているのである。211年の黒歴史のお仲間にはなりたくない。
「それは王命でございましょうか?」
「わたしが言っているのだ。黙って従うべきであろう。無礼である」
にこり、と私は微笑んだ。私もレオン様を見習って第三王子殿下を煽ってみることにした。
「いいえ。15年前の婚約は王命でございました。ゆえに今も王命でない婚約は承諾することはできません。ましてや第三王子殿下も私も婚約中でございます、それを覆すならば第三王子殿下のお言葉だけではとてもとても……」
婚約破棄を振りかざせる権力はお持ちではないでしょう? と匂わす私の言外の意味を正しく読み取った第三王子は瞬時に激昂した。図星なことを指摘されると激しく憤慨する人がいるが、第三王子殿下はそのタイプだったらしい。
貴族の権力が強い王国において、王命の価値は低い。理不尽な命令は貴族側が拒否できるからだ。それでも15年前は私の父親と国王陛下が親友であったがために、メラス侯爵は王命による婚約を受け入れようとしていた。
その王命すらない第三王子殿下が吠えたところで虚しい空騒ぎである。
「ひかえろ! わたしに対して不敬であるぞ! 王命だと!? では王命だ、セルリオン侯爵家との婚約を破棄してわたしの婚約者となるのだ!」
鞭打つように怒鳴る第三王子殿下の前に、祖父のメラス侯爵が進み出る。
「不敬? はて? 不敬とは敬うべきお方に失礼な言動をすることだが、わしの前には尊きお方はおらぬようだが? 高位貴族の婚約に自分勝手に横槍を入れる常識のない小僧が喚いているだけだが?」
イリアジウス公爵様も卑しむ視線を第三王子殿下に向ける。
「さよう、さよう。賤しい小僧が王命を口にするとは。国王陛下のみが発せられる王命を騙るとは国家反逆罪であるぞ」
祖父のメラス侯爵、イリアジウス公爵様、二人の大貴族に睨まれて第三王子殿下の額に脂汗が滲む。高圧的な態度で私に了承させて、あるいは強引な既成事実で無理押しの婚約を画策したのであろうが、祖父と公爵様が舞台にあがってしまえば第三王子殿下に勝ち目はない。
「こ、小僧だと! 無礼者が! わたしは王族であるぞ!」
喉から声を絞り出すみたいに第三王子殿下が叫ぶ。
「黙れ! 見苦しい!!」
声とともに扉から王太子殿下が若いながらも威厳に満ちた足取りで姿をあらわす。礼を執る私たちに、
「頭をあげよ」
と言うと、祖父とイリアジウス公爵様と視線を交わした王太子殿下が近衛騎士たちに命令をした。
「第三王子を捕縛せよ。王命を詐る大罪人である!」
悲鳴をあげて抵抗したものの第三王子殿下は軽々と縄をかけられてしまった。
「その犯罪人を牢屋に放り込め」
縄で縛られた第三王子殿下はイモムシのようにクネクネと逆らったが容易く引きずられていく。
王太子殿下が歩き出すと剣をおびた近衛騎士たちが続き、続々と夜会会場から高位貴族が集まってくる。メラス侯爵、イリアジウス公爵、セルリオン侯爵、マリシム侯爵……王国で極めて権勢を誇る上位13家の当主または当主代理が悠然とした態度で追随する。
レオン様が口元を緩める。どうやら13家の貴族家は事前に手を組み、王太子殿下を支持する根回しが完璧になされているらしい。
人波が左右に割れて道がつくられ、王太子殿下が進む。ようやく国王陛下がこちらに気付いた。
王太子殿下は、国王陛下が座る王座の前に立つと片手を高く上げた。
一瞬で近衛騎士たちが抜刀して国王陛下を取り囲む。シャンデリアに反射して、国王陛下の胸元に突きつけられた剣先がギラリと反射して光った。しかし隣の王妃様は、王太子殿下の生母ゆえか平然として怯える様子もない。
「は、反乱か……っ」
国王陛下が喉を引き攣らせる。
「いいえ、父上。平和的に退位をお願いするために来ただけです。退位、なさいますね?」
おだやかに王太子殿下が言った。
刹那の出来事に夜会会場の人々は固唾を呑んで微動だにしない。喚き散らす者もいない。13家の当主が動いたのだ、下手な行動は明日の我が身の没落につながるからだ。雑音のない静かな空間に、沈着冷静な記録官たちがカリカリと筆を動かす音が小さいのに大きく反響する。
「退位!? 馬鹿なことを! わしはっ!!」
「では毒杯を希望ですか? すでに父上は13家の全てから見限られておりますが、この意味をご存じでしょう? 我が王国では13家からの支持なき者は王座に座れないことを」
やわらかな口調であるが王太子殿下の双眸は氷のように冷たい。
「さきほど第三王子を捕らえました。わたしは第三王子を幾度も罰するように進言をしましたのに、父上は放置をなさいました。結果、たかが第三王子の身分であるのに王命を発したのです。わかりますか? 父上が第三王子を驕り高ぶらせたのです」
「王命だと!?」
「第三王子サハムの不始末。最近の父上の振る舞い。その他諸々の王家の挙動に13家は忍耐の糸が切れたと申しております。―――退位をなさいますね?」
狼狽えた国王陛下はブルブルと慄く。
国王陛下が、王太子殿下の後ろに並ぶ13家の当主および当主代理に血走った目を走らせた。しかし13家の視線は冷ややかであった。冷然たる視線で国王陛下を見返す。
もう遅い。
時に敵となり時に味方となる、国王の選定権を所有する13家は利害を一致させて王太子殿下を新たな王として認めているのだ。王家と1貴族家だけならば王家の方が優勢であるが、王家と13貴族家とでは王家の圧倒的不利である。
13の冷徹な眼差しに射竦められて、きつく両手を握った国王陛下は耐えきれず目を逸らした。そのまま俯く。
「……おまえに譲位する……」
弱々しい声が夜会会場に響いた。
この夜、王国に新王の誕生が決定したのだった。
もちろん全てを記録官たちは筆録して【魔窟】に保管した。第三王子殿下の愚かすぎる言動もイモムシのような姿も。211年の歴史に華々しく追加されたのであった。
王国歴211年、冬解けの月。
「第三王子、いえ、サハムが国家反逆罪で処刑されたのですね」
王籍が剥奪されて、地下牢で一ヶ月をすごした第三王子は平民のサハムとして処刑された。王太子殿下はサハムを新しい治世における不要の汚点と判断したのだ。この一ヶ月間。サハムの悪質な遊戯の被害者となった本人や家族たちが、ひっそりと地下牢に訪れていたことは知る人ぞ知る秘密である。
母親の妾妃は王宮から出されて実家のカイザ男爵家に戻ったが居場所はなく、肩身の狭い思いをしているそうだ。
ルチア様は女子神殿に入った。
グレイム伯爵夫妻は領地に隠居することになり、親族のマリシム侯爵家の次男が伯爵位を継承した。誠実な人柄と評判の新伯爵は、マリシム侯爵家の援助のもとグレイム伯爵家を再起させて、再び無毒のグレイム伯爵家を復興させることを期待されていた。
メラス侯爵家の醜聞も消えることだろう。
もう王家の介入はなくなったし、13家の中で敵対している家々とも今回のことで一時的に和睦した。
そして来月には、王国の新王の戴冠式がおこなわれる。
王都は戴冠式に向けての景気が上昇して、経済活動が活発となり人々の賑わいで溢れていた。
「ルチア様は…………」
もしかしたら私がルチア様の立場になっていたかも知れないのだ。15年前の父親の醜聞がなければ。
レオン様が首を振る。
「サハムの尻拭いのためとはいえ、グレイム伯爵家はごり押しの手段をとりすぎた。恨んでいる者も多い。神殿にいるリュシアの異母兄君のように女子神殿にいる方が安全だよ」
「……そうですね、レオン様の仰る通りです……」
「リュシア……」
項垂れる私をいたわるようにレオン様が抱きしめてくれる。
「レオン様……」
レオン様が私の指先に触れた。
「もうじきお見合いをして1年だね。実は、僕は以前からリュシアのことを知っていたんだ」
「私は醜聞のせいでパーティーでは悪目立ちしていましたから……」
「うん、パーティーでリュシアは悪意に晒されても萎れることなく真っ直ぐに立っていた。いつも頭を上げていた。その姿がね、セルリオンの屋敷に咲く冬薔薇みたいで。だからリュシアとお見合いをしたんだよ」
「冬薔薇?」
「屋敷の冬薔薇の一本が病気になってしまって。庭師は除去しようとしたんだけど、緑の葉がボロボロになって冬の凍てつく風に虐められても花びらの先から根元まで揺るぎなく立って咲く冬薔薇が健気で。僕はその冬薔薇をもらって枯れるまで見守ったんだ」
レオン様の指と私の指が絡み、手のひらが重なり、貝殻のようにひとつとなる。
「私が冬薔薇……。もしかしてレオン様の4番目の理由?」
「そう、4番目の理由。リュシアは僕の冬薔薇なんだよ。逆境にも立ち向かい凜として立ちひたむきで綺麗だ」
レオン様の眼差しが優しい。とろけるような愛に満ちていた。
「レオン様。私は15年間、不運なことも多々ありましたけれども決して不幸ではありませんでした。祖父母に愛されて、こうしてレオン様とも出会うことができました。とても、とても幸せです」
来月の春立ち月は、私とレオン様の結婚式である。
きっと種々の春の花がたくさん咲き溢れることだろう。
小鳥の声、雪融けの水の音、露が光る新芽の蕾。若葉が萌えて色とりどりの花々が競うように咲く春だ。
朝も昼も夕方も夜も、枯れ葉の下から緑の花茎が上がり、木々が鮮やかに色づき、花々が開花して花吹雪が舞う春となるのだ。
川にはやや温かくなった水が流れ、水草が伸び越冬していた魚が索餌に泳ぎ、川面を花びらが小舟のようにくだっていく。
玲瓏とした月ではなく、輪郭が滲んだような柔らかな風情の朧な月が輝く春の季節がくるのだ。
私はぎゅっとレオン様の手を握り返した。
「春が待ち遠しいです」
「本当に待ち遠しい。リュシア、花嫁の花は僕が育てた白薔薇を9本贈ってもいいかい?」
私は幸福の中で微笑んで頷いたのだった。
春立ち月 春花の月 春蝶の月
夏告げ月 夏水鞠の月 夏翡翠の月
秋便り月 秋実り月 秋葉の月
冬降り月 冬雪の月 冬解け月
の十二ヶ月となります。
ちなみに王国の新年は「春立ち月」からなので、この物語は王国歴211年の1年間です。
読んでいただきありがとうございました。
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「悪役令嬢からの離脱前24時間」
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出版社はブシロードワークス様
作画は北野りりお先生です。
どうぞよろしくお願いいたします。