最終話 戦いの終わり
――― 同時刻 戦艦クニャージ・スヴォーロフ
転回を終えた日本の連合艦隊が、バルチック艦隊に向かって砲撃を開始した。
弧を描いて飛来する砲弾。
戦後の調査では、主砲の命中率はロシア艦隊の2%前後に対し、日本艦隊は4%前後であったと報告がされている。
次々と直撃を受ける戦艦クニャージ。
各所で火災も発生し、総司令官のジノヴィー・ロジェストヴェンスキーは、早々にケガを負って指揮権をネボガドフに譲った。
鉄の城のような外観を持つバルチック艦隊の旗艦は、艦橋を含む上部構造の機能の多くを失い、漂うように戦列を離れていく。
やがて速度の落ちた旗艦に魚雷が追い打ちをかけると、浸水の始まる船の中で主要な高官たちが退避行動を始めた。
キーラは高官の1人に嘆願する。
「私もボートに乗せてください」
足元で両膝をつくキーラを見下ろす高官。
「お願いします! どうか、見捨てないでください!」
その間も、炎は容赦なく艦橋内に燃え広がっている。
キーラは無様に何度も頭を下げたが、高官は表情を変えずに、
「あなたのために用意された席はありません。申し訳ないですが……」
そう言って、その場を去っていった。
その後、爆発に巻き込まれたキーラは炎に追われるようにして自室に戻った。
扉を閉めて熱煙を防いだが、すでに部屋の中にも火の手がまわっていた。
床に目を落とすと、彼女の荷物がまだ焼かれずに残っていた。
徐々に傾く船内で、キーラは床に広がっていた手紙を這って拾い集めると、それを抱くように軍服の内側にしまい込んだ。
(義之様、もう旅順を立ってウラジオストックで私をお待ちでしょうか。すみません、私はまだ戦いの中にいます。この意味のない戦いの中に……。私は黒い瞳に生まれたせいで、思い出すのは戦いの思い出ばかり。終わっても終わっても、また次の戦いが始まるのです。でも、それももう終わり。義之様、最後くらいは、私の好きにしてもいいですよね……)
彼女はゆっくりと木箱に近づいてそれをテーブル代わりにすると、ポケットから取り出した紙と鉛筆をそっと優しく置いた。
その間も、各所で弾薬庫は爆発を繰り返し、炎はますますその勢いを増して燃え広がっていく。
だが、覚悟を決めた今の彼女にとって、それはもう騒がしく動き回る景色の1つとしか映っていない。
正座をした彼女は机に向かって両手を合わせると、深く丁寧にお辞儀をした。
目を閉じると、業火の灼熱も轟音も、それはまるで山中で遠くに聞く出来事のように感じられた。
『義之様。ようやくあなたとお話をする時間ができました。あなたと離れてからの半年間、私の心が自由になれるのは、この手紙を書く時間だけ。でも、もう少ししたら、二度と書くことが出来なくなってしまいます。だから、限られたこの時間が終わるまで、私は大好きなあなたに手紙を書いて過ごしたいと思います…………』
やがて炎は彼女の体全体を覆い尽くしたが、彼女が筆を離すことはなかった。
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――― 1912年(日本海海戦の7年後) 日本国 学習院 学生寮
「その後も連合艦隊はバルチック艦隊を圧倒した。ロシア軍は30隻を超える艦を撃沈または鹵獲されたのに対し、日本軍の被害は小型艦3隻のみ。東郷率いる連合艦隊は、大勝利で海戦を終えたのじゃ」
乃木は愁いた表情で話を終えると、手帳の間から写真を取り出した。
そこには義之とキーラが2人寄り添い、幸せそうな笑顔を向けている姿が写っていた。
彼はその表情につられるように口元を歪ませると、写真をしまって、食堂の厨房を振り返った。
「例の物を頼む」
「はーい」
返事を確認し、再び生徒達に向き直った。
「さて、長い話を聞いて腹が減ったじゃろう。今日はお前たちにみたらし団子を食わせてやる。今度は冗談ではなく本当じゃ」
「やったー!」と歓声をあげながら厨房に押し寄せる生徒達。
乃木自身も「はっはっはっ、慌てるとケガをするぞ」と、笑いながらその輪に加わった。
しかし、その様子を少し離れて見ていた吉岡もえは、彼の笑顔がいつもと違うことを感じていた…………。
数日後、明治天皇の大喪の礼が行われたその日、乃木は自宅の居室に妻静子を呼んだ。
目の前に置かれたのは、天皇の御真影と日本軍刀。
乃木は静かに呼吸を整えた。
「この戦争、私は多くの人間を死なせてしまった。本来なら骨となって帰国したかったが、それも叶わず。英雄などと祀り立てられれば逆に胸が苦しくなる。すぐにでもこの苦しみから逃れたかったが、陛下との御約束を守るため、耐えて今日まで生きて来た。しかし、どうやらその約束も、今をもって果たせたようだ。これでようやく皆に詫びることができる。静子よ、分かってくれ。私は幸せになってはいかん人間なのだ」
1912年9月13日、乃木の生涯は幕を閉じた。
日露の戦いに漂う黒い花 終わり