第2話 不安
写真を受け取ったもえは、それをしげしげと眺めた後、乃木に顔を向けた。
「次のお話では、乃木のおじ様も出てくるのでしょ?」
乃木が微笑んで返す。
「もえはカンが鋭いな。次は日露戦争の話じゃ。ワシ自身の話もしなければなるまい。英雄とは真逆の行為をした罪深い人間の話を……」
乃木は生徒たちに一旦休憩を取らせた後、再度食堂に集まったのを見計らって話を続けた。
「次は日露戦争における東郷の活躍だ。だがその前に、陸軍が行った旅順攻囲戦のことも話しておこうと思う」
清国に勝利した日本軍は、次はロシア帝国と衝突することになった。
南下作戦を進めるロシアに対抗するためだ。
もし朝鮮半島が占領されるようなことになったら、次は日本列島が標的になるのは明らかである。
本土に侵略を受けてロシアに敗れれば、日本はロシア語を公用語として植民地に、いや、下手をすればアメリカのインディアンやオーストラリアのアボリジニのように、先住民として家畜のように扱われる存在になるかもしれない。
日本は制海権確保のため、中国東北部の遼東半島にあるロシア領、旅順要塞の攻略に乗り出した。
旅順攻囲戦における陸軍の司令官を任されていたのは乃木希典大将。
彼は鉄壁の要塞と言われた旅順要塞を攻略すべく、先ずはその周囲に点在する防御拠点に攻撃を繰り返していた。
そんなある日、彼は参謀達を集めて会議を開いた。
「総攻撃もこれまで2回行ってきたが未だ戦果を挙げられず、何か良い策はないだろうか?」
参謀達を見回す乃木に一人の男が答えた。
「精鋭を募って奇襲部隊を結成し、夜陰に紛れて突撃をするのはどうでしょうか」
それを聞いた別の参謀が答える。
「正気か!? 陣を築いて待ち構える敵に突撃をするなど、2倍の兵をもってしても難しい。貴様は歴史に何を学んでいる。馬防柵を築いて待ち構える織田信長軍に、突撃を繰り返した武田勝頼軍がどんな末路をたどったのか、知らぬではあるまい!」
「ならば、他にどんな策がある。代案も示さずに否定しかしないような臆病者に用はない!」
多くの参謀はこの突撃案を否定したが、乃木は彼らの反対を押し切って突撃案を決行することにした。
占領までの期日が迫る中、この時代の兵器では他に考えられる戦術が無かったのだ。
数日後。
昼から行われた3回目の総攻撃は夜間にまで及んだ。
すっかり辺りが暗くなると、今度は夜戦に備えて待機していた日本の特別予備隊がロシアの拠点に進行を開始した。
白いタスキを巻いた精鋭部隊3,000名。
彼らは突撃に成功して混戦になることを予測し、敵味方の区別をつけるべく目印として胸にタスキを纏っていた。
満を持して日本軍は突撃を開始したが、待ち構えるロシア軍にとって白タスキは夜陰にも見えやすい格好の的となっていた。
突撃してくる日本兵に狙いを定めて射撃を繰り返すロシア兵。
ライフル銃の音の間隙には機関銃の連射音も混じっている。
数刻が過ぎても音は鳴り続け、その時間は永遠にも続いているような気がしてくる。
地表には絶え間なく銃弾が飛び交っていることが想像できた。
そんな前線の塹壕の中で、銃を構えるロシア兵に指示を出していた部隊の指揮官が、疲れ切った表情で言葉を漏らした。
「いったいどうなっているんだ。殺しても殺しても、倒れた兵士のすぐ後ろからまた白いタスキを掛けた兵士が闇に浮き上がってくる。まるで死んだ兵士が生き返っているかのようだ。いつまでしのぎ切ればいいのだ」
横にいた義之は、突撃を繰り返す日本兵を見つめながら答えた。
「彼らは亡霊ではありません。確実にその数を減らしています。この状態を続けるのならば、いつかは動く兵士の姿が視界から消え去ることでしょう」
「ではなぜ、死ぬと分かっていて突撃をやめないのだ? 日本人は死ぬことが怖くないのか?」
義之は前方で息絶えた兵士を見つめながら答えた。
「彼らは、死ぬことと同じくらい名誉を失うことを恐れているのです」
倒れた兵士から視線を戻し、再び遠くを睨み付けながら言った。
「ただし、その信じている名誉が正しいとは限らない!」
数時間後、日本の突撃は終わった。
辺りはまだ暗かったが、ロシア防衛線の前には白いタスキを巻いた無数の日本兵の屍が折り重なっていた。
翌朝、義之は手紙を書いた。
それは、バルチック艦隊の旗艦に乗船する、妻キーラに宛てたものである。
『ロシアに亡命してから2年。君のお陰でロシア語も話せるようになったし、すっかりロシア国民になったつもりでいました。けれど、昨日の戦いで日本兵が次々と銃で惨殺されるのを見て、とても辛い気持ちになりました。僕はまだロシア人になりきれていないのでしょう。でも安心してください。僕はもう、二度と日本に帰るつもりはありません。そういえば、新しいロシア語を1つ覚えました。あなたを笑顔にできる魔法の言葉です。手紙に書くようなことではないので、今度会った時に直接伝えます』
手紙を丁寧に折りたたんで鞄にしまい込んだ。
それは、バルト海を抜けて航海中の彼女には、届く術のない物ある。
がしかし、義之とキーラが連絡をとれる唯一の手段は、今はそれしか無かったのである。
――― 同時刻 南大西洋 戦艦クニャージ・スヴォーロフ 艦内
キーラは艦隊司令長官のジノヴィーに呼ばれ艦長室を訪れていた。
彼女は名前とは裏腹に黒い瞳と黒い髪を持った女性である。
白くてきめ細かい肌に凛々しい眉。
片目に眼帯をしていなかったとしたら、その美しさは目を見張るものがあっただろう。
彼女の日本名は「みさと」
日本人の血が混じっているキーラは、その容姿と語学力を見込まれ、ロシアのスパイとして朝鮮半島に送り込まれていたという過去がある。
テーブル越しに敬礼をするキーラに、足を組んだジノヴィーが尋ねた。
「君から見た東郷平八郎とは、いったいどんな人物だね?」
両足の踵をピタリと付けて立ったままのキーラがそれに答える。
「東郷は14歳にしてすでに明治維新という日本の内戦に参加して功を挙げています。その後はイギリスに留学して海戦や操船を学び成績も優秀。日清戦争での活躍は記憶に新しいことと思います。つまり、叩き上げが備える実践能力とエリートが持つ博識、その2つを備える東郷は、機を見て正確な判断が行える古今に例を見ない良将であると思います」
「ふむ、では艦隊司令官としての能力はどうだ? アジアに到着したら、彼とは一戦交えることになると思うが、ワシは彼に勝てるかね?」
目を細めてキーラの軍服を流し見るジノヴィー。
「旅順港で待つ太平洋艦隊と我が艦隊が、協力して敵を挟み撃ちにすることができれば勝利できるでしょう。しかし、もし我が艦隊だけで挑むことになったら勝敗は分かりません」
シノヴィーは机に手をついて立ち上がった。
「戦力が同等ならば、ワシは東郷に勝てないと言うのか!?」
空を見つめていたキーラの隻眼が彼の目に向けられた。
「先ほども申しました。その問いにはお答えできません」
眉をしかめて怒りを現にするシノヴィー。
その様子をキーラは冷静に見つめ続ける。
「まったく愛想の無い女だ。もういい。下がれ」
キーラは自室に戻ってペンを取った。
『義之様、あなたが旅順港の防衛に向かうと聞いたとき、私はとてつもない不安に搔き立てられました。旅順はこの戦いの心臓部です。ロシア軍も陣地をコンクリートで固めて鉄壁の防御線を引いているとは聞きました。でも、どんなに堅牢な城を築こうとも、日本兵は横たわる骸を踏みながらでも攻撃をやめないでしょう。私には、旅順が攻撃に持ちこたえられるとは思えません。でも、もし旅順が占領されることになったとしても、あなただけはその戦いに生き残ってほしい。私の願いは、それだけなのです』