2-1.
「アイドル?」
日の出から一時間以上が経っても、光の届かない高架下は薄暗かった。アスファルトに転がる血まみれの遺体の前に跪き、成美は本堂の童顔を睨むように見上げた。成美と同じ『捜一』と金糸で刺繍されたえんじ色の腕章を左腕に巻き、若さをアピールするためかサイドをオシャレに刈り上げた髪をしている本堂は、驚きと呆れを同時に表すように目を丸くした。
「主任、本当に知らないんですか」
「知らない。だいたい、事件の被害者なんて九分九厘がはじめましての相手でしょ」
「そうですけど、今回はその稀有な一厘の例ですよ。主任以外の捜査員はみんな知ってるんじゃないですか、このご遺体が誰なのか」
成美の足もとで作業をしていた熟練の鑑識課員がクスクスと笑い声を立て、「紅白とか興味なさそうだもんなぁ、相野ちゃんは」と小ばかにしたような口調で会話に割り込んできた。本堂が「あー、わかる」と相づちを打ち、ほかの捜査員も巻き込んでささやかな笑いが起きた。
別にムキになったわけではないが、いちおう、思い当たる節を尋ねてみる。紅白と言えば、あれだ。
「紅白歌合戦? 大晦日の?」
「えぇ」本堂が答えた。
「去年の紅白に出てたんですよ、この被害者。聞いたことないですか、『Billion』っていうボーイズアイドル。『夢幻アクアリウム』って曲、めちゃくちゃ流行ったんですけどね」
Billion。聞いたことがあるような、ないような。
成美が曖昧に首を捻ると、本堂は苦笑し、被害者について教えてくれた。
「蝉川玲央。十九歳。二年前にメジャーデビューした七人組ボーイズグループ『Billion』のメンバーで、年代を問わず主に女性から多くの支持を集める注目株です。テレビのオーディション番組から誕生したグループなので、認知度もまぁまぁ高いと思うんですが……本当に知らないんですか、主任」
「知らない」
即答した。グループ名を聞いたことがあるような気がしたが、説明を受けてもさっぱりピンと来ない。オーディション番組を見たこともない。見たいとも思わない。
本堂は粘り強く解説を続ける。
「去年の夏に発表した『夢幻アクアリウム』という楽曲が恋愛ドラマの主題歌に抜擢され、ドラマともども大ヒット。紅白出演はもちろん、十万人ほどだったファンクラブの会員数が瞬く間に五十万人を突破したとか。あぁ、そうだ。蝉川玲央のことは知らなくても、三栗谷悠斗ならどうです?」
「三栗谷?」
「例の恋愛ドラマに準主役で出演して、若手俳優のホープとして注目を集めたメンバーです。Billionではダントツで人気なんですけど、聞き覚えは?」
「ない」
即答。知らないものは知らない。本堂はようやくあきらめたようで、「すいません、主任に期待した僕がバカでした」と言った。なにを期待していたのだろう。成美は無視してもう一度遺体に目を向けようとしたが、別の声に妨げられた。
「いいんじゃないですか、相野警部補らしくて」
その人は笑顔で成美を擁護するような意見を述べた。この地域を管轄する渋谷南警察署の八杉という刑事課強行班係のベテラン係長で、彼と顔を合わせるのは十月に起きた強盗殺人事案以来だ。
「脇目も振らず、我が道を行く。これぞ我らが警視庁の誇る美人刑事、相野成美! ってね」
声も体型もずっしりと重く太い八杉が嬉しそうに言う。本堂は笑うが、当の成美はつまらなそうに八杉を見上げるだけだ。
鑑識作業用のライトに照らされる遺体に今度こそ目を向ける。胸もとにナイフが垂直に突き立てられていた。出血の様子から、おそらく刺し傷は一か所ではない。被害者が身に着けている白いフーディーの裾をめくると、やはり腹にも刺された痕があった。鉄っぽいにおいと独特の生臭さが鼻腔を容赦なく刺激する。
「事件の概要は」
本堂に言ったつもりが、こたえてくれたのは八杉だった。
「遺体が発見されたのは今朝、四月三十日土曜日の午前六時頃。第一発見者はジョギング中だった三十代の男性で、はじめは酔っ払いが眠りこけているのかと思い無視しようとしたようですが、仰向けに転がる男の胸にナイフが突き立てられていることに気づき、警察に通報。ご覧のとおり、被害者は苦悶の表情を浮かべていますが、Billionの蝉川玲央であることはすぐにわかったそうです」
なるほど、彼が著名であったことの証左というわけだ。第一発見者も年末の紅白歌合戦を見ていただろうか。ちなみに蝉川玲央というのは本名で、所持していた運転免許証から身元が確認できたという。自宅はここから近いようだ。
八杉は淡々と説明を続ける。
「検視官の話によりますと、死亡推定時刻は昨夜午後十一時から、日付を跨いで今日の午前一時の間。ナイフで心臓を突かれていますが、その他にも胸部に一か所、腹部に一か所、計三か所の刺し傷が認められました。詳しいことは司法解剖待ちですが、状況から察するに、腹、胸、胸の順で刺され、胸への一撃目が致命傷になったようです」
「でしょうね」
成美は短く言い、白い手袋をした右手の人差し指で被害者の胸を示した。
「第二撃は、これを遺体に残すためだったはずだから」
遺体の胸に残されたナイフは、心臓以外にもう一つ貫いているものがあった。
葉書大の赤い紙片だった。被害者の血で赤く染め上げられているのではなく、もともと赤い色をしている紙だ。画用紙だろうか。コピー用紙のようにペラペラなものとは違い、そのまま切手を貼って出せそうな、まさに葉書くらいの厚みがある。紙というより、カードと表現したほうが的確だろう。
ナイフは横長に置いたカードの上部を貫き、被害者の胸に留められている。刃のすぐ下、カードの中央には、白抜きの文字でメッセージが印字されていた。