1.
「母さん」
けたたましいスマートフォンの着信音を割るように、最愛の息子の大声が成美の寝室に響き渡った。
「電話鳴ってるって」
「んー」
「本堂さんから。仕事の電話だろ。早く出ろよ」
「今何時」
「七時」
「早いなぁ」
一度途切れた部下からの着信は、間髪入れず二度目の機械音を鳴らす。急用であることは明白だったが、頭もからだもあと一時間は寝たいと訴えかけてくる。
「代わりに出て、いっちゃん」
「なんで俺が」
「お願い」
ベッドから出る気にはなれず、布団で顔を覆い隠す。「ったく」とぼやく息子の声がくぐもって聞こえた。
「おはようございます、本堂さん。樹です。……了解です。たたき起こして折り返しかけさせます」
いつもすみません、と申し訳なさそうに言う息子の声を聞いてようやく、成美は重いまぶたを持ち上げた。頭だけを布団から出し、ため息をつきながら成美の白いスマートフォンを操作する息子、樹の不機嫌な顔を拝む。
「本堂、なんだって?」
「殺人事件発生。早急に来い。以上」
成美はベッドから跳ね起きた。殺人。全身が情熱で漲っていく。
「現場は」
「自分で訊けよ」
樹がスマートフォンを投げて寄越す。まだ布団をかぶっている下半身の上にぼふっと着地したそれを手に取り、気だるげに寝室を出ていく樹の背中を見送りながら本堂に電話をかけた。
『おはようございます、主任。ようやくお目覚めですか』
電話の向こうから聞こえてきた若々しい本堂の声は、樹の無愛想な口調とは違い、どこかからかうような軽さがあった。彼の上司になって約半年、朝の弱い成美の尻をたたくのは今や彼の仕事の一つになっていた。
「おはよ。殺人ですって? 場所は」
『渋谷です。住所送るんで直接臨場してください。詳しくは現場で説明しますけど、面倒くさそうな事件だってことだけは先にお伝えしておきます』
「どういうこと? なにが面倒なの」
『それは遺体を見てのお楽しみ。早く来てください』
焦らせば成美の動きが俊敏になることを熟知している本堂の手の上でいいように転がされていると自覚しながら、成美は十分で支度を済ませた。洗面と着替えに五分、簡素なメイクとヘアセットに五分。警察官になってからは髪を伸ばしていないので、軽く濡らしてブローするだけでいい。最近では『ハンサムショート』などと呼ばれるトレンドの髪型らしいが、とすると成美は二十年近く前から昨今の流行を先取りしていることになる。どんなジャンルにおいても流行なんてろくに追いかけたことはないくせに。
ライトグレーのパンツスーツにFURLAの黒いトートバッグを提げれば、警視庁刑事部捜査第一課で班を一つ率いる主任刑事の完成だ。四十歳。バツイチ。成美とそっくりな丸くて大きな目をした十四歳の一人息子は今年高校受験を控える中学三年生。
「ほらよ」
リビングへ入ると、樹がタッパー一つとペットボトルのミネラルウォーターをダイニングテーブルの上に置いた。
「朝飯。車で食えるようにサンドイッチにしたから」
「うわぁ、ありがと」
コップ一杯の麦茶を呷ってから、タッパーのふたを開けて樹の作ってくれた朝食を覗いた。たまごとハムときゅうりの挟まったサンドイッチが整然と詰められている。運転中でも食べやすいように、スライス食パンではなくバターロールを使ってくれていた。我が息子ながら、細かい気づかいには毎度感心させられる。
「いつもありがとうね、いっちゃん」
成美よりもすっかり背が高くなった樹を抱きしめる。樹が抱きしめ返してくれることはなく、代わりに無愛想な声で「その『いっちゃん』って呼び方、いい加減やめろよ」と言った。
「なんでよ」
「恥ずかしいだろ」
「そんなことないでしょ」
「母さんが決めることじゃない」
ムスッとした樹の顔を見てようやく、彼もまた寝起きであることを知った。成美宛ての電話の音に起こされたらしい。黒いスウェットのセットアップは一年前に買ったものだったはずだが、裾から足首が丸見えだった。
「また少し背が伸びたんじゃない」
キッチンに戻っていった樹の背中に声をかける。去年学校で受けた発育測定では一七〇センチだと言っていたから、今は一七五センチ以上あるということか。いったいどこまで大きくなるのだろう。別れた夫も背の高い人だったし、女子と違い男子は高校生になってもぐんぐん背が伸びると聞く。
樹はケトルに水を入れながら「うん」と素っ気なく言った。今ごろ気づいたのかよ、というニュアンスが込められた「うん」。
「新しい服買わなきゃね」
「そのうちな」
「制服は? まだ着られそう?」
「なんとかね。制服も私服も、きつくなったら自分で買いに行くから母さんは気にしなくていいよ。領収書、ちゃんともらってくるから」
自分の分の朝食を作りながらこたえる樹の口調は淡々としている。中学生が自分の服を自分で買いに行くのはよくあることだが、彼の場合は小学五年生、十歳の頃からの習慣だ。成美の母、すなわち樹の祖母が他界した時から家計の管理も彼にまかせきりになっている。赤字になったことは一度もない。誰に似たのか、利口な子だ。成美と同じで単に物欲がないだけかもしれない。中学生にしては妙に冷めているのは間違いなく成美に似たせいだ。成美も冷めた子どもだった。亡くなった母にはよく心配された。
「今日は土曜でしょう。もう少し寝ていたら」
「起こしたヤツが言うセリフかよ、それ」
まったくだ。「ごめん」と謝ると、うんざりした顔でため息をつかれた。
「早く行けば。本堂さんに怒られるぞ」
「うん。いってきます」
「いってらっしゃい」
年々かわいらしさを失っていく樹だけれど、挨拶だけはしっかりとできる子に育ってくれた。成美がそうなるように育てたのではなく、樹が勝手に育った。来年は高校生になる。時が経つのは早い。駆け抜けるように毎日が過ぎていく。息子の背がさらに伸びたことにも気づかないほどに。
玄関を出て、駐車場へとまっすぐ向かう。アパートの南側に停められた愛車――十年選手の白いプリウス――のドアに手をかけながら、レースカーテンのかかった二階の一室を見上げ、もう一度「いってきます」とつぶやく。次に樹の顔を見られるのは日付が変わる直前になるかもしれない。
信号で止まるたび、樹の手作りサンドイッチを食べた。クラッシュしたゆで卵にマヨネーズを和えたサラダは成美のお気に入りで、樹は常に冷蔵庫にストックを用意してくれていた。パンに挟んでも十分に甘みを感じられておいしい。優しい味のするサンドイッチだった。
本当なら休日で、久しぶりに樹とゆっくり過ごすつもりだった。休日を母親と二人で過ごしたがる中学生なんていないかもしれないが、ただ家にいるだけで、一つ屋根の下で同じ空気を吸っていられるだけで成美にとっては幸せだった。あるいは新しい服を買いに行く時間だって持てたかもしれない。殺人事件と聞いて気合いが入った反面、樹との休日を奪われたのは許しがたいことだった。
二人きりの家族なのに、成美が樹と過ごせる時間は少ない。成美のせいだ。永遠の憧れである亡き父と同じように、死ぬまで刑事として生きていく。絶対に譲れないこの使命を守り続けている限り、樹との時間が増えることはない。
一人にしてしまっていること、さみしい思いをさせてしまっていることについて、樹に謝ることはしない。その代わり、たくさんの「ありがとう」を伝えるように意識している。刑事の息子に生まれたことを彼が恨まないように。少しでも前向きな気持ちでいられるように。成美なりの、母親としての愛情表現のつもりだった。
サンドイッチがすべて成美の腹に収まった頃、プリウスは事件現場に到着した。頭のスイッチを母親モードから刑事モードに切り替える。
さぁ、行こう。
事件が私を呼んでいる。