走れ
その日は何も変わらなかった。
目が眩む程の陽光も、耳が詰まりそうな程の蝉時雨も。
今までと何も、変わらなかったはずだ。
何も前兆なんてなかったはずだ。
自宅待機の命令を無視して屋敷を抜け出すと、俺は魔導小銃を担いで長い長い雑木林を駆けた。
転移装置を使えば早いが、それではすぐに抜け出したことが露見してしまう。アスファルトで整備された一本道を行けば目につく。
だから、目立たぬように人目のない道を選ぶ他ないのだ。
ああクソ。宍戸家が東都結界内に別邸を持っているからって今回は寮を借りなかったのが完全に裏目に出た。まさか厳しい管理下に置かれた学園内の霊域でこんなことが起こるとは・・・!
学園の正面の、締め切られた高い正門の横に回り込んで、勢いをつけて跳び上がった。そして塀の縁を左手で掴むと、そのまま身体を引き上げひょいと中に飛び降りた。
さすがに大人の頃のように塀に飛び乗ることはまだできないが、ここ数年を思えばマシになった方だ。
まだ小学生とはいえ、六学年にもなれば身長も体格もそこそこ大人に近くなってくる。だからこそ、この時期に基礎を鍛えておくことが重要なのだろう。
重村剣士のここ最近の怒涛の基礎固め指導を思い出して、焦る気持ちが少し落ち着いた。
・・・思い出せ。二周目以降からおかしくなった霊域があったはずだ。きっと今回上書きされた霊域はそこだろう。
場所は、確か___
離れたところにある中等部の校舎に視線を移すと、俺は一目散に駆け出した。
「・・・宍戸?」
***
件の霊域は中等部と高等部を取り囲むちょっとした森の中にある。
外観は注連縄のかかった洞窟でしかないが、内部はかなり広く西洋風___おそらくトツクニの文化___の庭園墓地を模した地形に丁級以下の怪異がうぞうぞ彷徨っているだけのものだった。
だからこそ、中等部の討伐実習に使われていたのだが___それがいきなり二つも上の等級の霊域に上書きされてしまったのだ。
乙級の霊域になったのならば、少なくとも乙級以上の怪異が複数体徘徊しているはずだ。
そのうえ、中等部一年の実習中に等級が上がってしまった。
中等部の学生の等級なんて、良くて乙、平均して丙だ。しかも一年生となれば大多数は丁級程度の実力しかない。
いくら一組に対して一人二年生が監督役として同行するといっても、乙級相手に守りながら立ち回れる程の実力はない。
一応、恐怖でパニックを起こして異能を暴発させないために討伐実習の参加は辞退可能ではあるが・・・全員が不参加などということはない。今回だって数組は突入しているはずだ。
木の根でゴツゴツと隆起した足場の悪い、けれど最短距離を走る。
今行けばまだ助けられる人がいるかもしれない。まだ、生きているかもしれない。
今なら、まだ・・・!!!
焦燥に呑まれて乱れそうになる息を抑えて走った。
走って、走って、走って___
やっと辿り着いた霊域前は、悲痛な空気に満ちていた。
取り乱したように蹲る、実習を辞退した一年生と思しき学生。無線機に怒鳴り散らす教員。動揺して過呼吸を起こしたのか、よろめく医務官___。
どうやらまだ、救援も救助活動も始まっていないようだ。ちらりと腕時計に目を向けると、初報から既に二時間経っていた。
マズい。新入生が乙級相手に、ましてや時間の流れが外部と異なる霊域内でこれ以上持ち堪えられるとは到底思えない。
当然風早さんは来るだろうが、その到着を悠長に待ってなどいられない。
いっそ俺一人で行くか?
俺には少なくとも、乙級怪異を単騎討伐できるだけの実力はある。
だが、学生の護衛もしながら上手く立ち回れるかと言ったら・・・恐らく無理だ。
せめてもう一人、もう一人戦える奴がいれば___。
己の実力不足に歯噛みしながら木陰の茂みに身を潜めていると、不意に、背後に人の気配がした。
「!?」
咄嗟に小銃を構えて振り返ると、三メートル程先の、深い森の暗闇に立った人影がひらひらと両手を振った。
「敵じゃないわ。」
そう言ってゆっくりと近付いて来る人影を、木漏れ日がちらちらと照らした。
光の加減によって黄金に輝く長い茶色の髪。頭の左右に結ばれた朱色のリボンが、歩く度に微かに揺れる。
「・・・西、園寺・・・?」
意外な人物の登場に戸惑って、どうしてここに、と問いかけることもできなかった。西園寺はそんな俺の肩に手をかけてにやりと笑った。
「どうやら同じ考えだったみたいね。
___行くんでしょ?霊域。」
「行くんだよな?」とでも言いたげな声色の、確認とも呼べないような確認に俺が頷くと、西園寺はますます嫌な笑顔を浮かべた。
ああ、これがどうか幸の方であってくれ、と。
俺は心の中で願った。




