恋せない
「・・・っはぁー・・・」
数ヶ月後。
六歳を目前に控えた、初夏の日。
重村剣士の指導の元、走り込みやら素振りやらを。
現当主である伯父からは後継教育と称して歴史、算術、文学に芸術と多岐に渡る学問を。
日夜詰め込まれている、のだが。
「さすがにつかれた・・・」
張り切りまくった大人二人に、休みなく詰め込まれるのは幼児の体にはこたえる。
だから、いけないと分かってはいても、起こしに来る前に部屋を抜け出してきてしまった。
宍戸邸の隅の、植え込みの陰で膝を抱えていると、ふと、誰かの足音が聞こえた。
音の軽さからしてあの二人ではなさそうだが、安心はできない。
命じられて探しにきた女中とかだったら面倒だ。
どうにかしてやり過ごせないかと息を潜めていたが、その甲斐虚しく足音はどんどん近くなっていく。
・・・一か八か・・・!
逃げるべく植え込みの陰から飛び出すと、すぐ目の前にいた人物とぶつかりそうになった。
「きゃっ・・・」
「!」
咄嗟に腕を掴んで引き寄せると、ふわっと長い黒髪が宙に広がった。
青空のように爽やかな、次縹色の大きいリボン。目を惹く黒鳶色の瞳。
「くるみさん・・・」
まだ幼い、出会う前の彼女がそこにいた。
***
「・・・まさか先に会っているとは思わなんだ・・・」
そう言ってこめかみを押さえる伯父に、少しだけ申し訳なさを覚えた。
まさか婚約者候補との顔合わせの日に限って脱走するとは思わなかったのだろう。
俺も分かってたらしなかった。
さすがに相手方に失礼だし、なにより宍戸として俺を紹介した伯父の面子を潰してしまうのだから。
「ごめんなさい。」
深々と頭を下げると伯父は深呼吸をして、ぎこちなく俺の頭を撫でた。
「君が謝ることは無い。君がしっかりしているからと大人扱いしていた私にも責任があるのだから。
それよりも・・・」
伯父がちらりと向けた視線を辿ると、その先には記憶よりも幾分か若い来海家の当主とその娘___つまりは来海さんの姿があった。
来海家当主は渋い顔をしている___当たり前だ。
顔合わせの日に脱走し、おまけに娘に怪我させかけたのだ。
破談になってもおかしくはない。
・・・俺としては破談になってくれれば、と思うが。
一度目は未亡人にして。二度目は成人しても婚姻せずに婚約止まりのまま勝手に死んで。三度目に至っては一方的に破棄を申し出て勝手にいなくなって。
今回だって、きっとロクなことにならない。
だったら、婚約相手が来海さんでない方がいい。打算で近付いてくる相手の方がずっといい。これ以上傷付けずに済む。
なのになんで。
彼女から向けられる、やたら熱の篭った視線。宝物を見るかのようにきらきらと無邪気に輝く瞳。薔薇色に上気した頬。
視線を返すと、来海さんは驚いたように目を丸くして、小さくはにかんだ。
・・・ああ、これは無理だ。
来海家当主は娘に甘い。
この婚約は、きっと今回も結ばれてしまうのだろう。
いつもそうだ。俺がどれだけ落ちぶれていようが、荒れていようが、傷付けて拒絶しようが関係ない。
どうしてあなたはいつも俺を好きになるんだ。
もっと素晴らしい人がいるのに。
もっと大事にしてくれる人がいるはずなのに。
それに___来海さんのことを好きになってくれる人がいるはずなのに。
いつだってそうだ。俺から返せない愛情をいつだって彼女は俺に与え続ける。
きっと、ここで俺がこの婚約を白紙にしたとしても、彼女は変わらない。
一度目のいつだったか、俺の『扱い』を知ってしまったときですら嫌悪もせずに寄り添ってくれたのだから。
・・・だったらせめて、同じ地獄にいよう。来海さんが一人にならないように。
別の人を好きになってくれたら楽なのに、と心の内で呟くと、俺は微笑み返した。
来海さんは嬉しそうに笑ったが、彼女の様子とは裏腹に俺はズキリと胸が痛んだ。




