十八話、私の罪
「お嬢、さま」
「アラカちゃん」
「アラカ…」
『…これは』
全員が、視線を向ける。
アラカの抱き上げたそれ、それがなんなのかと————英雄の落日、その正体は、と。
「この子は、ね」
静かな、呟くような声なのに、酷く響く声だった。
「私の、弟で」
それが、滝のような激情を抑え込んだ…静かな声だと、全員が気付いていた。
「甥、なんだ」
ざぁーーーー、ざぁーーー、と無機質な雨が降り注ぐ地獄で…子供の、正体を告げた。
「————ッ、そう、いう」
気付いてしまった。
アラカの親の、最初の、余りにも気色の悪い情念の意味を
「産まれた時、その瞬間から手と、足が三本づつあったんだ————産まれた瞬間、みてたから知ってる」
「っ、お、え…っ」
想像、してしまった。
壊れた、虚無の瞳で覗く悍ましい地獄を。
「この子は、私の希望だった」
覚えている、覚えている。
アラカは全て、覚えている。
「今は、ゴミをかけられて、枯れたけど…庭に、柚子の木があったんだ。幼い頃に、植えたんだ」
柚子の種、どこかで手に入って、植えて、大きくなるのを、毎日夢見て…いづれ忘れられる、そんな夢。
「花を咲かせていた、とても綺麗な花だったんだ…今日みたいな、酷い雨の日でも、それは、何一つ変わらなかった」
覚えている、覚えている。
忘れられない、それはまるで呪いのように貼りついた。
「綺麗な、綺麗な、白い花だった。
雨に濡れて、汚れが落ちた、とても目を惹いたのを覚えてる」
柚子の花が、綺麗で、咲いた一輪の希望…。それが、英雄の忘れたもの。
「柚希…ゆづき、私の希望、穢れから生まれた、穢れのない愛おしい弟」
土を払い、抱きしめる。
「この子は、ね」
頭を、そっとなでる。
「指を、握ってくれたんだ」
覚えている、忘れない。
だからこそ、英雄は破綻した。
「指を、握られる、それだけ、ただそれだけ」
英雄はその存在から狂っている。
ただ一度、何かの偶然で指を握った。
それだけで世界を救ってしまう狂人だからこそ、彼女は英雄だった。
「握ってくれた指を、振り払うことが、できなかったんだよ」
それが何者にも出来ない、禁忌だと、思わずにはいられない。
「きっとその指は、誰にも振り払うことが出来ないんだよ」
赤子を駅の便所に捨て、子を殴り、ケタケタ笑う、そんな物が、溢れる世界で尚…
「この子に、指を、握られた。
その瞬間に、私は壊れていたんだよ」
————英雄は、赤子の指だけで、狂えてしまえる。
「近親相姦で、産まれるとそう言うことがあるらしい」
近親相姦で産まれた奇形児。
それが菊池アラカの、求め続けていた〝あの子〟の真実。
「この子がいる、それだけ。それだけ…今にいて思えば、酷い依存だったんだと、思う」
少し、考えれば分かること。
虐待されて、人から馬鹿にされ、地獄を味わい続けた…〝だけ〟で、菊池アラカは壊れるわけがない。
そう————彼女が〝その程度〟で、壊れるわけがないのだ。
赤子の、冷たい頬をそっと撫でる。
腐敗も始まり、一部は骨すら見えていた。
「…最後の瞬間、この子は…この表情だった…それだけで、充分…」
虐待を受け、奪われ、貶され、この世の地獄としか言いようがない掃き溜めで痛め付けられるという〝程度〟で、彼女が壊れるわけがない…。
「わたし、は…」
ならばこそ、これこそが彼女が壊れた、本当の理由…その根源なのだろう。
「この子を…殺せなかったんだよ」
そして本当にトラウマである故に、自分が壊れた本当の理由より先に、それをフラッシュバックしてしまっていた。
————防衛本能がそうさせた。
「この子が、死んだ日。首が折れて、窒息死した。
その前に、首を絞めれば、簡単に、楽に出来たんだと思う」
————階段から落とされたんだぞ!? 他ならぬ母親にだ、あの子の父はそれを見て笑っていた、笑っていたッ!
「泣いて、泣いて、泣いて、泣いてた。
首の骨が折れてると、思った。
当時は不死なんてなかった、魔力を注いで生きる血ダルマにすることも出来なかった」
————首の骨が、潰れてない。
きっと、骨を握りつぶしたとしてもアラカは壊れていた。
世界を対象とする悪夢が、自分の含めた全てを対象する悪夢になった、それだけの違い。
「私は、その赤ん坊の首を絞めることが出来なかった」
首を絞められず、楽にすることが出来ず、泣いている赤子を、泣いているまま…上から土を被せた。
「ようやく、おもいだしたよ」
今日は、あの日と同じ…酷い雨の日だった。
「泣いている赤ん坊の、その首を絞めることが出来なかったこと————それが、私の罪だったんだよ」
ずっと、この瞬間を描いてあげたかった