十四話。恐怖
遅くなた
____意識は、と呪いと共に、底にいた。
始まりから、ずっと、呪われ続けていた。
どうしようもなく、息苦しい。
助けて、苦しい、息が少しずつしかできない。
くらい、怖い、嫌だ、泣きたい、助けて
___光が、見えた。
こわい、光だ、苦しい、痛い、この薄暗い空間から逃げ出したい、光はその道標。
なの、に…だめ、アレはダメだ。
あの光は新しい地獄だと、何故かわかってしまったから…
いやだ、でたくない、さむい!! いやだ!! やだやだやだ!! いやだ!!! これ以上の地獄に■は耐えられない、いや、だ。
「___大丈夫、大丈夫だよ…側にいる、側にいるからね」
___恐怖に怯えた心が、その声でそっと解けた。
ふと、優しい誰かが、触ってくれた。
キレー、な、人。
黒い、髪と、白い髪が混ざりあって。
黒い、瞳と、白い、瞳
嗚呼、きっと、これが母なのだ。
だって、見るだけで、安心する。
見るだけで、心が、和らぐ。
恐怖はあった、不幸はあった、けれど…母を見た時だけは、全てを忘れた。
泣かないで、泣かないで、泣かないで……お願い、泣かないで、手を伸ばす。
少しだけ、驚いて、いた。
変な、顔で、ぽろぽろ、雫を流してる。
ちがう、ちがう。■は、涙、止めたいから、なか、ない、で。
あ、笑って、くれ、た。
とっても、綺麗、で…泣いてる、のに、すごく、きれい、で……
その、日、生まれた、瞬間。母に、恋をした。
◆◆◆
____ピンポーン。
酷い悪夢だ、そう思った。
「……」
____ピンポーン。
酷いトラウマだ、そう思った。
視界が滲み、ドス黒く染まる。
何も出来ない焦燥感。
何も出来ない惨めさ。
何も出来ない怒り、殺意、後悔、絶望。
「…は、はい」
それが、あまりにも胸を敷き詰める。敷き詰めた____だか、それだけだった。
「……」
「……」
酷い、頭痛だと、思った。
過去、これを見るたびに視界がぐちゃぐちゃに染まっていた。
何故なのか、ずっと考えていた。
けれど、妹の〝顔〟をみて、ようやく理解できた。
「(…酷い思考誘導だ)」
あまりにも、滑稽で無様だったから、そんなことを呟いてしまう。
不恰好な詐欺師にも劣る、酷い思考誘導。
〝本当のトラウマ〟を何一つとして認識していなかった。それだけの話だった。
「(自分の本当のトラウマをフラッシュバックさせないために、別のトラウマで、上書きしようなんて)」
酷い、酷い、醜く、悍ましい。
だから、いい加減前を見よう。顔を上げる、血を踏み締める。
込み上げる怒りを拳に込める。
「そんな、顔をしていたんだね」
久しぶりに見た妹は、目の下に隈をつけて、疲労が見えた。
「みんなは、待ってて____鍵、とってくるから」
◆◆◆
家の中は、酷く汚れていた。そこら中にゴミ、蝿のたかる袋、ウジの湧いた白濁液が落ちている。
仄暗い、薄暗い、不安を煽るような湿り気が家全体を包み込んでいた。
瞳に暗く、あまりにもドス黒い衝動を抱えたまま…アラカは目の前にいる生き物を見た。
「他の人は?」
「……分かんない、です」
目の前で、怯えながら正座するアラカの元妹。
ふと、顔を上げるとアラカと目が合い____瞳に映る憎悪に、トラウマを刻まれながらまた俯く。
「……男の方は、お金持って消えちゃった」
震えながら、辿々しい声で告げた。
「女の方は……男の人と、出て行った」
「……母親は?」
「…? え、えと…男の人と」
言葉の意味が分からず、同じことを告げようとした____刹那に。
「ぁ」
アラカの言葉の意味を____理解した。
顔を青くしながら…震えて。
「…2階に、いるから…呼んで、くる、ね」
二階へ急いで向かう元妹に、アラカは歩いて着いていく。
アラカが階段を上がる頃____2階では、すでに口論が始まっていた。
「な、なに…もう放っておいてよ!
というか私配信してるって言ったよね!? なんで勝手にノックするの!?」
「て、でも、その、来てて」
「勝手にノックするなって言ったじゃん!! ねえ話聞こ!? 分かんない!? ねえ!!」
ドアを挟んで口論する二人。
アラカは元妹の肩をポンと叩き____手刀で扉を切断する。
「…久しぶりですね、姉」
「っ!!」
髪はボサボサで、何日も着替えていないのか汚れたピンクのパジャマ。
下に至っては下着だ。
「…」
アラカは部屋へ入る。
カップラーメンのゴミ、中には腐ったラーメンの汁と、ぐちゃぐちゃに伸び切った麺。
足元にはネット通販のロゴの入った箱、梱包材がそこら中に落ちていた。
「アルバムは、何処にある」
そんなことには気にも留めず、アラカは問いかけた。
この場所に置いてあるはずのものを、その所在を。
「え」
「あ、るば、む…、?」
アルバム、その単語に困惑して…ふと、思い出したように元妹が声を漏らす。
「あの、アレだよ…ずっと大切にしてた、あの黒い…」
「あ、あの捨てても戻ってきた…ひっ」
アルバムを捨てた。その単語を口にした瞬間、近くにあったコップがひとりでに割れる。
アラカの怒りが、そのまま伝播したようなものだった。
「どこ、にあるか…わからな、いです」
「でも、その…捨てて、ないとおもい、ます…」
「そうですか」
アラカそれだけ言うと拳を握り締め___思い切り妹と姉の顔面へ振りかぶった。
ドゴォッ!!
「ふべッ゛!?」「ひぎゃっ!?」
数メートル吹っ飛ぶ。頬の骨も幾らか折れたのだろう。床に一筋の血飛沫が飛ぶ。
本気で振りかぶれば、脳味噌を撒き散らす。菊池アラカの持つ膂力であればその程度は容易く引き起こす____だからこれは、手加減をした結果だった。
アラカは玄関へ向かう。
「……」
アラカは玄関の靴入れを開いて、中から半透明のビニール袋を取り出す。
普段から扱っていたからこそ分かる、迷いのない手だった。
二階へ戻り、二枚の袋をそれぞれに手渡す。
「これ、持ってください」
妹と姉を無理矢理起こし、袋を持たせる。
そして近くにひざをつき、転がっている布切れを拾い上げる。
「これ、何ですか」
「あ、えと…服、です」
「まだ使う?」
ぼろぼろに破けて、ヌメヌメした液が付いているそれは余りにも汚い。
それを指してまだ使うか、と問われると…。
「…いえ」
「じゃあその袋、いれてください」
言われるがままに、妹は袋へゴミを入れた。
「これは」
「これは何ですか」
「これは」
そうして分別していく中で、ようやく彼女が何をしたいのか…周囲は悟った。
____アルバムは、何処にある。
そのためだ、その〝アルバム〟を彼女は探そうとしている。
「捨てる新聞紙はどこですか」
「ホウキの後に掃除機をかけてください」
「ここのティッシュは全て捨ててください」
掃除をしながら指示を出していく。
鼻にティッシュを詰めながら震えて掃除をする姉、ぶん殴られたのがトラウマになりかけていた。
「その先」
「え」
掃除を進めていく中で、ふと、アラカが静止させることもあった。
「その先、進まないでください。
異界化してます、消えますよ」
「っ!?」「っ!??」
アラカの指示の通りに動く姉妹。
もし動かなければ、死ぬという確信にも近い予感を覚えていたからだろう。
「このゴミは燃えるゴミだから水曜日の朝八時までに捨てること。眠くても朝起きて、しっかり捨てに行ってください」
「はい…」「うん…」
ゴミ袋が幾つも出来上がり、あとは簡単な説明だけになった。
「これはペットボトルのゴミだから金曜日に捨てること。しっかり中身の確認できる半透明のゴミ袋を使用してください」
「はい…」「…はい」
「それと」
妹の腕を強引に引き寄せ、アラカは腕を伝い、魔力を流し込む。
「身体を売るとしても、場所は選びなさい。
次は治しません」
「っっ!?!?」
レヴィアの加護共有能力は、菊池家全員に行き渡っている。
レヴィアが起こせる治癒魔法の一端なのだろう。即座に完治という奇跡を引き起こす。
「あ、あの」
そこで、ふと、静止の声がかかる。
今まで疑問挟まなかったが、それでも、と。
「……」
菊池アラカは、アルバムを探している。そういう前提で動いているはずだった。
「どうして……ここまで」
だからこそ、どうしても思ってしまう。
————何故、ここまでしてくれるのか、と。
理由が無いのだ、ここまでする。
殴られる理由ならば星の数ほど存在する。
「殴られるのも、当然だと、思います」
アルバムを探すために片付けるのも理解できる。
「片付けも、理由は分かります」
だが、掃除や指示まで、本当に必要なのかと言われたら、分からなくなるのだ。
「けど、ここまでは」
される理由が無い。と、思わずにはいられない。
かつてなら、何も気にしていなかっただろう。胡座をかき、便利な道具だと舐めてかかっていただろう。だが今なら分かる、世の中そんな上手くいくわけがない、と。
「…あの子に、誇れるようにするためだよ。
張ることの出来ない背中を、見せたくはない」
〝あの子〟という単語を聞いた瞬間、二人がビクッと反応する。
あの子、それが誰を指しているか…二人は知っていたから。
「君たちは、クズだ。
今すぐその喉を引き裂いて、ぶち殺したいと思ってる気持ちに嘘はない」
アラカには、事実その力がある。
存在ごと抹消してしまえる最強の力がある。
それでもしなかった、その理由があるとするならば。
「けれど、君たちを殺せばあの子にどんな顔をしてあげれはいいか、分からなくなる」
そこで、アラカは思い出したように…乾いた自嘲を漏らす。
「あの子だ、あの子なんだよ。
あの子だけが、全てだったんだよ」
自嘲しながら、アラカの目尻には熱い涙が溢れ出した。
「晴れの日もあの子だ、雨の日もあの子だ、血の日もあの子だ、雲の日もあの子だ。あの夜だってあの子で、眠る時もあの子で、僕の生きてる理由もあの子で、世界の存在理由もあの子」
自嘲する、自分がくだらないと。
自嘲する、この場所はクソだと。
自嘲する____あの子のために。
「全て、全て全て」
頬を伝う、決壊した悟りの涙。
「____全て、あの子のものなんだ」
菊池アラカは病んでいる。
どうしようもなく壊れている。
最初から、何も変わらない。治ったのは表面ばかり、内面の病巣は何も治っていない。
「私は、あの子に会いに行かないといけない。
君たちを殺すことは容易いけれど、それをしたらあの子の家族を奪うことになる」
あの子の家族、それは目の前にいる女どもだと、アラカは言っていた。認めたくなくて、不快で気色悪い真実だとしてもだ。
「あの子は…私たちを家族だなんて」
「思っていなくても、だよ」
アラカは微かに歯軋りをする、それは、彼女自身にも言えることだからこその真実だ。
「思っていなくても、事実は現実にある。
どうしようもなく認めたくなくても、家族という事実は確かにあるものだよ」
それは、誰を対象としていっているのだろうか。
「家族と認めたくなくても、それは家族…。
そうだね、本当に嫌だけれど、ああ」
胸の奥に、込み上げる悪意。
心の底からの悪意を込めて、告げた。
「僕は…家族の君たちが幸せであって欲しいと、思っていたんだよ」
確かに、思っていた…その事実は、過去だっとしても確かなものだから…それだけは認めなくちゃいけない。
「あの子が君たちを嫌悪していたように、僕も君たちが気持ち悪い化け物に見えて仕方ない」
「どうして何の理由もなくアレが出来るのか、どうしてあの子を傷付ける事ができるのか…幼い頃に虐待を受けたなら分かる、何かどうしようもない事件で歪んだのなら分かる。
けれどそんな理由なく、君たちはアレを出来た」
だからこそ、今から彼女がいう言葉は、呪いでなくてはならない。
「本当に…怖いよ。
同じ人間とは、思えない」
自分が心の底から溜め込んだ不快な気持ち。それを、ただ一言。
「あなたたちの人生が、
____多くの苦難と、多くの不幸に溢れてくれますように」
背を向けて___呪いを口にした。
____バタンっ。
言葉と同時に、落ちてくる黒い本。
まるでそれは、全てを予知していたかのような不気味なタイミングで。
「ああ…ここにあったんだ」
菊池アラカの探していた、アルバムは、そこに現れた。