十八話、若きウェルテルの悩み。
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復学から初めての土日休み。
アラカはその日、自主的に外出をした。
行く先は公園。
花がそれなりに咲き、ジョギングする人がいる程度には大きな公園だ。
その中でアラカはあるベンチを探していた。
「(……家にあった荷物を捨てられて、部屋が…………………イカ臭い部屋になってから少しの間だけ過ごした公園のベンチ……まだあるかな)」
ベンチに座り、頭を抱えて、身体を丸めた日々を思い出す。
「(あのベンチに座ってる間は……いつも現実逃避をしてたな……)」
現実を見ることがとうとう限界になり、向かった公園のベンチ。
そこで行う現実逃避は、あまりにも間違えていたが同時にとてもマシな時間だった。
「(お世話になったベンチさんに座ると不思議と落ち着く……)」
そして目的のベンチを見つけると、そこには先客がいた。
「コードレス、さん……」
「こんにちは、アラカくん」
相変わらず疲れ切った様子で公園のベンチに座り、本を読んでいた。
「隣、いい、ですか……?」
「別にいいですよ」
ニコリ、とやつれた表情で笑むので隣に座り本を一冊渡される。
「近くの図書館で幾つか借りたので、よければ読んでみてください」
「じゃあ……すこし、だけ」
本のタイトルは『若きウェルテルの悩み』というものだった。
「ご存じでしたか?」
「……はい。以前、軽く目を通しました」
失恋したウェルテルが、その嘆きの果てで自殺するお話だ。
作中での描写があまりにも心を抉り、貫いてくる。
「……」
ぺラリ、ペラリ、とページを捲る。
長い時間、そうして本を読み進めて……ふと、話を始めたのはアラカだった。
「……ウェルテルと、恋敵のアルベルト。
どちらと結ばれた方が……渦中であるロッテは幸せだったのでしょうね」
若きウェルテルの悩みは三角関係のお話だ。
ウェルテルと、美しい娘のロッテと…………その婚約者のアルベルトの三人が主な登場人物だ。もう一人いるけどモブなので知らん。
「……さあ、アルベルトじゃないでしょうか。
完璧で素晴らしい婚約者を前に、ウェルテルは劣ります」
重い口を開き、コードレスは告げた。その声は優しさに満ちている。
「君の考えは違うのかな」
聞き返すような声にアラカはややあってから首を横に振った。
「いいえ、概ね同じ意見ですよ。
失恋に負けて……自殺したウェルテルは弱い。
弱い人間より、強い人間の方がいいに決まってる……当たり前の、悲しい常識」
パタン……と、本を閉じる。
小さな音が、綺麗な公園にはよく聞こえた。
「ですが……よりロッテを愛していたのは、どちらだったのでしょう。
僕はこれを読む度に、それを考えるのですよ」
背もたれに、身体預けて……その時、コードレスへほんの少しだけ身体を寄せた。
「ウェルテルは、失恋の、痛みで自殺をする。
それはつまり……己の命と失恋の、痛みを秤にかけて……失恋の方が強かった、と」
公園の、遠くで子供たちの遊ぶ声が聞こえる。
「命を捨てる————それほどの狂気に迫るほどの、恋だったのではないでしょうか」
そんな思いは、どれほど強かったのだろう。
計り知れないほどの苦痛に耐え兼ねたウェルテルの狂い様は……アラカの脳裏には強く刻まれていた。
「……何が伝えたいのかな」
「強い愛が負けるという結末に、納得ができない。ということです……。
どれほど前に進んでも」
アラカは遠くに見える池の目を向けて
少しだけ、コードレスの裾を……バレないように指で摘んだ。
「……結局、大切な人は消えてしまう。奪われてしまう。
それがこんなにも、心を抉る……」
肩が震える。怯えが止まらないアラカに、コードレスは目を細めた。
そして遠くにある池を見ながら、
「そう……」
とだけ呟き、アラカの頭に自分の上着をそっと被せた。
「コードレスさん、は……何故か、分かりますか……?
知っているなら、……知りたい、です」
黙って上着を受け取り、その袖を静かに掴む。
「……ロッテへの想いだけ、だからじゃないでしょうか」
ポツリと呟くのはアラカの質問への返答だ。
「ウェルテルはロッテを愛していた、それは分かる。
だけどそれだけだ……ロッテ以外の…………自分を愛していない」
「自分、を……?」
その時、だった。
————アラカの脳裏に、強いトラウマがフラッシュバックした。
「……ごめんなさい、上着は返します。
少しだけ、嫌な思い出が……帰ってきました、ので」
「そう……ごめんなさい。二度目は起こしません」
そうしてコードレスは上着を受け取り、自分の膝にかけた。
コートを頭から被るという行為、ただそれだけにさえトラウマが潜んでいたという事実。
「……」
————■■くんのコート、あったかいね……。
————このコートの下見てみて〜、これさ■■■■。
「あ、の……」
いいや、それだけではなかったのだろう。
近くに見知った人間の気配があり、それをアラカが無意識に感じ取り……トラウマを引き起こしたのだ。
「っ」
鼻血がツー、と溢れ出す。拒絶反応だ。
————お金ちょっと使うわね? は? 夜ご飯? 知らないわよそんなの。カップ麺でも食べれば?
————子供のお金は親のだから少しぐらいは恩返ししなさい!!
————うるさいわね!! 少しは私の気持ちを考えなさいよ!! 会話して欲しいとか我儘言うんじゃない!!
「……この子に何か」
バッ、とコードレスが睨むことでどうにか近付いた主を黙らせることに成功する。
「あ、いえ、そ、その…………その、この、家族、で」
「家族?」
「……ごめん、なさい……元、家族、…。で、す」
「(普通に聞いただけなのですが)」
見れば何処かやつれて、髪がまとまっていないの中年ほどの女性と、アラカより背が高い女子高生が一人いた。
「(確か片方がアラカの義妹……じゃあこっちは母親、でしょうか)」
はあ、と溜息を吐くとそれだけで顔を曇らせる。
「その……アラカと、お話がしたくて」
「ほう……壊れた玩具にまだ働けというのですか」
その言葉にコードレスは敵意を滲ませて告げる。
隣に酷く怯えているアラカを強引に抱き寄せた。
「折角話しかけてきてくれたのです、要件を聞きましょう。
きっと、この子をこんなに怯えさせる以上の価値がある話なのでしょう?」
コードレスは対面の形でアラカを強く抱き締めて、敵意を向ける。
ニマリ、と笑うが瞳だけは微塵も笑っていなかった。
「そ、れは…・あ、あの……家に帰って、こない、か…。t」
「あ?」
そのあり得ない言葉に、思わず聞き返すコードレス。
「、……ごめん、なさい」
その上で、女は曇りきった顔で……そう呟いた。
「少しだけ、会話をしてくれれば、それで」
その上で更に求めてきた。
コードレスはアラカを強く抱き締めたまま、瞳を閉じて怒りを抑えて呟く。
「会話を出来る様に、見えますか」
「………………見え、ません……」
多くの間を開けて、そんなことにすら気付いていなかったのか女は消えるような声で呟いた。
「この人達はどうも君の家族みたいです。
会話をしたい、と言っていますが……どうしますか?」
そこで初めて、コードレスはアラカに耳打ちをした。
「君の好きになさい」
「……」
コードレスのその言葉を聞いてから、アラカはポツリとコードレスにだけ聞こえるように囁いた。
「……この子の口座から引き出したお金の分を返してくれたら会話するかもしれないそうだよ」
「え…………」
伝言様式でコードレスは口を開く。
お金を使った分返せ、という要求。とんでもなく優しい提案にも関わらず女は絶望したような顔を浮かべた。
「幾らかは分からないけれど、借りたものは返さないとね。
借りたまま更に貸せだなんて、あまりにも不公平だろう?」
「っ」
言葉に詰まる女に、要領えないままコードレスは言葉を続けた。
「これは私の推察でしか無いけれど、これは相当譲歩してる条件ではないかな。
有体に言って優しすぎる」
ゆえに、この程度の条件で何故お前らは戸惑っている。と敵意混じりの瞳を向ける。
「(……この子は少し有り得ないほどに善人だ。
あの方が言ったように……)」
「ぁ、そ、その……」
ややあって吃りながら、女は声を出した。
「…………わかり、ました」
それは了承の意思。一筋の希望だというのにその顔は絶望のどん底だ。
「三兆円を……いつ、返せるか分かりませんが……失礼します」
「三兆!?」
そう、忘れてはいないだろうか。
アラカは一人で世界を支えており、世界で唯一の魔力生成能力者なのだ。
つまりアラカとは〝全人類に魔力が行き届くほどに魔力を生成していた〟。
「(魔力を各国に販売したのなら……辻褄も合う)」
そしてそんな〝唯一の武器〟を無償で提供などすれば各方面で問題が起きるだろうと政府は判断して金銭取引を行なっていたのだ。
その結果、アラカの口座は相当おかしなことになっていた。
「私も私でクズであるとは自負しているが……凄いな、私以上の屑にここ数日で何人もお目にかかっている……」
「っ」
コードレスはあまりのぶっ飛びように思わず笑ってしまう。
「ふふ、あはは。凄いな君ら。人の金を、それも三兆とは、どんな使い道だね。
常識から大きく外れた状況を人は可笑しいと笑うらしいが、なるほどこれがそうか。あはははは」
顔を曇らせる女に、笑いが止まらないコードレス。
「……ああ、ごめんなさい。ええと、じゃあ三兆円……頑張ってください」
「…………」(ぺこり)
頭を下げて、トボトボと背を向ける姿にコードレスは確信した。
「(あれ、これ二度と会話できないな……)」
言った後でようやく二度と会話できないことになったのを自覚した。
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読み直して、会話=我儘とか言う理屈を前に「どう言うことなの……」と虚無を覚えました。