きたない朝餐
夢を見た。
それはぬくいようで淋しく、まばゆいようであまりに物々しい。
綻びる口端から、はらはらと生のかけらを地上に散らしていく。絹のような指先が、皮肉にも温もりの薄い頬を近づけてキスをした。まるで温もりをわけあうかのような、けれどどこか冷涼さを帯びた、かなしい口づけだった。
引きとめる荷をほどくように、差し込む陽の先にはそれが救いであると奥底で惹かれ合い追い求めている。彼女は風なびく黒髪を掻きあげ、醜い額をさらし目を伏せた。
光を貯める宝石のような瞳は、美しい世界も朝焼けも忘れ、私しかうつさない。
高まる鼓動に愛しさがあふれて、まるで普通の恋人のように艶やかな指を絡めて引き寄せる。
もし生まれ変われるのなら、また君の夢を見たいと——。
彼女の喉が震えると同時に、汽笛の音が脳髄に響き渡る。
「
もう、周りの声は聞こえなかった。
繋がれた体温が泡沫のように朝日に散って、黄色い夢が現実へと変わる。
只々、白濁とした雨水がしとしとと彼女の温もりを抱き去った。繋いだ右腕だけが冷え切った彼女の断片を残して、黒い霧に純情を奪われる。
そこに光などなかった。
*
狂酔醒めた部屋には、安価の酒缶と硝子片が散じている。
吸い殻を握りしめた手のひらは、虫がはしったかのように赫く爛れて熱い。苦い酒に喉がひどく焼けた。
カーテンのない真っ向な夕日に、眼球の裏が刺されたようにじくじくと痛んだ。
もうそんな老廃した日常で何周と月日を巡ったのだろう。職もなし、生きる気力も希望もしがなし、ただ手元に残ったのは若い頃、時間と娯しみを浪費して稼いだはした金だけだった。
「痛い、痛い」
硝子の散らばった床を這いつくばって、顔を赤くしたり青くしたりして息を荒げる。ぼたぼたと赤茶色の床が朱く汚れ、それを傍にあった服の裾で拭きのばした。かつて愛用していた白シャツの袖が朱く汚れる。
すっと目の前の扉が開き、濡れた髪をした友人が焼酎の入ったグラス片手にはっと笑った。
「可哀そう」
少し溶けた氷がからんと鳴る。
「水を汲んできてくれないか。氷でもいい、足の裏を深く切った」
「生憎、蛇口が詰まって出ないんだ。この氷でもいいかい」
彼はグラスに口をつけると、酒を一気にいに流し込み息を漏らす。
黄色く染まった氷を舌でぺろりと舐めとり、不器用に削られた半透明のそれを傷口に押しあてる。
足の裏に心臓の鼓動が波打った。
「……汚いだろ」
「確かに煙草の匂いが」
「違う」
「あぁ、俺?」
静かな声で耳打ちする。
喉仏がひくりと上に跳ねた。
彼は私の腰に手をまわすと、酔いのさめない赤い頬を近づけ、しめった口内で舌をつよく吸った。
苦い。
私の嫌いな、煙たい灰皿の匂い。
空いた右手で彼の胸板を殴ると、勢い余って戸棚に後頭部が打ちあたり、上の方からばさばさと書きかけの書類が舞った。
「よせ、穢らわしい。お前は今後に及んで、金もないくせ酒ばかり浴びて」
「は——」
「そんなものが、美味しいのか?」
「……まずいよ」
日の落ちた薄暗い部屋には、伏せた彼の顔の雲行きを覆い隠す。
やがて真っ直ぐに睨む鋭い目つきが外の街灯にぼんやりとうつった。
「確かに俺は穢らわしく醜いさ。お前の次くらいにはな」
彼は打ちつけた頭を乱暴に掻きまわし、落ちた紙切れを踏みとばして玄関を閉めた。
電気を、と洗面の脇へ脚をひきずって向かうと、桶の中の男と目があった。
——醜い。
あぁ、うるさい。黙れ。
夢の中の淡い光が網膜に張り付いて離れない。
すべてを受け入れてくれるような、明るくて眩しくて、どこか淋しくてたまらなくなる。私では到底掴むことのできない、か細く虚しい光。
思い蛇口をまわすと、さらさらとした濁った水が流れた。
ふふ、と笑みがこぼれる。しゃがみこんだ細い脚で水道管を蹴ると、鈍い音がした。
「クソ」
二日酔いで脳髄が揺らいで、冷たい床石に頬をこする。
腹が空いた。
冷蔵庫には、腐った煮物と醤油のあまりが残っていたはずだ。食べられそうなものは、何一つ。
あぁ。
もう、死のうかな。
*
地平線に陽が灯る少し前、午前四時半過ぎ。しとしとと降り続ける雨降りのなか、私は生臭い死骸を見下ろしていた。
影らしいそれは四肢がもげ、人離れした白い毛並みに、醜く腐った苔が隙間なく覆いかぶさっている。
繁華街の地下、人けのない暗がりに吐息をこぼした。
「萌えるかい?」
獣のような悪臭とともに、布の多い黒装束が首に絡み、肩を覆う。手の甲でそれを払うと、剥製の隙間から三日月にゆがんだ瞳が覗いた。
「僕は君を否定なんてしないさ。たとえ君が人の道をあやめようと、自然の理に逆らおう行いをしようとも、ね」
「……これは罰か?」
狼狽える男の頬をやさしくなぞり、水牛を象った重い頭をかたむけ、
「それは君自身への話かい?」
と口を濁した。
黒い狭霧も、かつんかつんと二度踵を鳴らすと、奴を避けるように空中に散る。
「君は本当に無知だなぁ」
おおよそ肉を食べたディナー皿から、ナイフだけを手中におさめ、指の間をくるくると廻す。
「何も憶えていないのかい」
ナイフが紫色に煌めく。
「あぁ」呆れたように重ねた。
「恋だよ」
「恋」
「きみは恋をして、ここに堕ちたんだ」
胸がひどく懐古に縮む。
「アノ子は死んじゃいないよ。顔も姿も変えて、この世のどこかに貴女は居る」
「何を」
そっと俯き足元を見つめる。つぶやいた言霊は、冷たい地面に硝子玉のごとく落ちていった。
「じゃあ、これはなんだ。死体か?」
「心外だねェ。彼らは皆生きているよ」
はじかれた掌の音を合図に、黒い塊が小さな虫のように地を這って四方に立ち消えていく。
「興味はないのかい」
「まぁな」
「私もどき、男に沈んでくれるなよ」
「おせっかいって言うんだよ、この蛇紛いが」
「まァ」
嘲笑うかのような乾いた呟き声に、
「私は可愛い女の子が好きなんだ」とやつれた顔でへらっと笑った。
——————
金木犀が風下に薫る、あれは今から二、三年も前のことになる。
道の端にあるヒグラシの花弁をなぎ倒して、公道を早足で彷徨う。実家のほうの母から、妹が此方の宅に向かってからしばらく帰ってきていないのだと、急ぎの手紙が来た。
母から口を出すのは珍しい。大方私を含め子供に頓着がないだけかと思っていたが、そうでもないらしい。
都会の空気はどうも鼻にくる。隣から漂う古い煙草に、足元の吸い殻を革靴の裏で擦った。じりじりと火の粉が踵にはりつく。
「———あ」
顔のよく似た黒髪の女が、振り返りざまに小さく呟いた。その整った眉間には憎悪がこもっている。
「頼まれたんだ」
「母さんじゃなくって」
その瞳には苛立ちとわずかな寂しさがうかがえた。
彼女は一度大きく息を吸うと、こちらに身体を向けて髪をぐしゃっと掻いた。
「都会っていいよねぇ。誰もアタシを見やしないものね」
「それは皮肉か?」
「違う。嬉しいの」
背中に掛けていた白い傘を地面へとつき刺して、錆びたベンチに腰をかける。
「きめたの」
「何を」
「アタシは普通になるの。取り戻せないものは一つもないんだって、二人目の彼がきばって云ってくれたし、そろそろアタシも幕引きの頃合いかなって」
「それはどうにかなるものなのか?」
きょとんと呆けてみせると、そのうち左腕の刺青をさすって腹を抱えた。背中の黒い包みが金属に触れて鈍い音がする。
「背に腹はかえられないからねぇ。さよならだ、兄さん」
呆然と彼女を見つめると、ぬるい南風に絹のような髪がなびいて、純黒の魚のように濁った瞳が髪の隙間にのぞかせる。
逆光に輝く夕日に、恍惚と灰色の排煙をふかせた。
「私の妹なんだなぁ」
「え?」
「処々私にそっくりだ」
「あは、吐きそう」
彼女は腰をあげて服を叩くと、こつこつと踵を鳴らして黄土色のタイルをなぞる。
少し進んだところで、あわてたようにあっと声を上げ、私のもとに小走りで立ち戻った。
「彼、知ってるかしら」
「彼?」
「そう。兄さんのこと探して駅前を彷徨っていたみたいなの。私は急いでるから、もう失礼するわね」
遠ざかる柑橘の薫りに、気づいたときには、こつこつとした靴の音も、つかめる小さな背中も人垣に薄れてしまっていた。
感じた視線に顔を上げると、長身の男が朱い花束を握りしめてうつむいている。
整えていない金色の髪は処々はねていて、目元は泣き腫らしたように赫く爛れている。
「……は、っあ」
男は吐息をはくと同時に口元を手で覆う。左手の指の隙間からうっすらと赤黒い血液が滲んだ。
「お、おい。鼻血か?」
「——っえ……と」
男は言葉を返さず、地面をぼたぼたと朱く汚す。その弱々しい声音に腹の奥からじんじんと苛立ちが募った。
「——か、じらい……くン」
「はあ?」
「お、俺——」
泣きそうな顔で私の名前を哮る。
赤黒く汚れた血の跡はいやしげで、ひどく歪んでいた。気立てのよさを逆撫でしたような私を誘う様に、男はそれを分かってか卑しく笑った。
返り血のはねた手のひらを握ると、どくんどくんと心臓が高鳴る。
「俺が、解るかい」
嫌いな、葉巻の匂い。
あぁ。
男は、奇麗なまつ毛を一度伏せ、ゆっくりとまばたきをする。
「——」
これがすべての悪夢の始まりである。
後から聞いた話、妹はその日から姿をくらませたらしい。
そんなことはどうでもよかった。
*
朝日がのぼる前の肌寒い海辺を、はだしで二人歩いていた。
よごれた足先をなぞるように、ぬるい海水が砂をさらっていく。朝方急に家に戻って「海に行きたい」だなんてほざいて引きずって来られたものだから、履物をかえるのをすっかり忘れてしまって、海水でびっしょりと靴が濡れ重くなっている。
穏やかな波とは裏腹に、彼の表情は暗くしめっていて、やがて歩みを止めると窶れた顔で私を見た。
肌寒さなんて忘れてしまうほど波は静かで、世界中でたった私たちしか居ないかのような実感に襲われる。
「どうして戻ってきたんだ」
彼は応えない。
ざわざわと心臓のあたりが騒いだ。いつもなら酔いに任せてうやむやにしてしまうのに、「何故」
そう受け流す顔は強張って、口の端をかたく結び目を細める。
「俺な、恋人ができたんだ」
目の前から色彩が急に消え去る。
「——は?」
「だからもうお前とは居られないんだ。今日は荷をまとめに少しだけーー今までありがとうな」
自分のまわりだけ空気が薄くなったように肺が苦しくなる。
嫌いでたまらない。
もし彼が私のことを好いていたのだとしても、いないのだとしても、私は彼の想いに応えてあげることはきっと、出来ない。応えるつもりも現にない。
だって、私は。
遠ざかる背中を追おうと脚を突き出すと、しめった水の重さで足がもつれ、泥に額を打ちつける。
「————あ」
瞬間、視界が空へと廻った。
痛くはない。打ちつけたところも泥が衝撃を吸ってしまったかのように。
気がつくと彼が頭上に立っていて、泥で茶濁に染まったうしろ髪を引っ張る。
「い、痛ぇっ」
「——」
彼の目には半透明の光が灯って、懇願するように弱々しく頬を緩める。口元をひきつらせて、顎からぽろぽろと重いを溢していった。
——恋だよ。
あぁ、思い出させるな。
ずっと、閉まっておきたかった。誰にも言わずに、この生涯を終えてしまおうとしていたのに。
だって、思い返すだけでこんなにも苦しい。
あの光の中で見た、額に傷のある醜い少女のお話。その片方のみじめな少女は———。
「——由棊」
彼女が振り向く。美しい黒髪が風になびいて、地平線から昇る朝陽に鮮やかな朱色を強める。
——きっとその少女は、この世界で独り泣いているんだって。
「——行くなよお……」
声がかすれた。情けない、汚れてしまった手では彼の裾をつかむことすら叶わない。
彼は困惑した表情を浮かべ、眉間にしわをよせて、髪と腹を撫でると途端にしゃがみこんで肩を震わせた。
「——ぅ、うぅぁ」
「ごめんな、ごめんな」
小さな肩をなでると、眼球の奥が熱く滲む。
それが本当の彼の姿なのか、私の思いが見せたまぼろしなのかはおぼつかない。
唯、夢を見た。
それはあまりにも物々しくて、淋しくて、そして一度張りついたら離れないほどに汚れている。
「ずっと、わからなかったんだ」
彼を一目したときの高揚を。
わからなかったはずだ。彼は私と居ると、いつも寂しそうな顔をしていたから。
「……だって、君はずっとかわいい女の子だったのになぁ」
「——」
彼は私の頬をつめたい手でやさしく包むと、もっともらしい顔で眺入る。
「——き、きもちわるく、ない?」
「あぁ」
「知らない君と、乱暴に一緒になろうとした、み、醜くて、汚れて、なのに」
瞳が灯りをともしたようにまたたく。
彼に顔を近づけ口を塞ぐと、温かくぬるいようなあじがした。口づけにしては軽く、誰よりも奥ふかい心身の淫楽。
「私、やっぱりお前がいいよ……」
俯き、喉の奥から吐き出す声は、震えていた。
*
真っ暗に静まり返った暗闇にわずかな革靴がけずれる音が響く。かつんと踵を鳴らす音はだんだんと遠ざかっていき、途切れた先には薄暗く灯る豆電球が処々散りばめられている。
上品に敷かれた純白のクロスをたどると、嘲弄するような笑い声が聞こえた。
「からかうのはよしてくれ」
「——いや、君が満ちた顔をするとはねぇ」
しなやかに椅子に腰掛け、汚れた皿を前に、鈍色のフォークで喉元を撫でつけていた。か細く青白い剥出しの鎖骨がぴくりとはねる。
その不気味な光景には、どこか羊水にひたったかのような安心感を憶えた。
「君は、まだ死にたいと思うかい?」
「あぁ、気持ちは変わらないさ。それが少しばかり遅くなっただけでね」
奴は首を傾けると、隙間からうつるよく尖った犬歯を擦り合わせて微笑んだ。
「暁天のその姿を、見たのだね」
「——いいや、あまりに景色が美しすぎて、目をそむけてしまったよ」
膨らんだ胸が白色のクロスとこすれて、褪せたナフキンでその肌を覆い隠す。
黄電球の一つが狂ったようにばちばちと火の粉をあげた。
「堪らないさ」
手元にのこった紫色の片辺を手のひらで包んで噛み砕く。
踵を鳴らす音が三度響くと、瞬きをした暗がりで装束姿の剥製が赤黒いワインを注いだ。もう一度目を瞑ると、奴は鼻にのこる鉄臭い匂いだけ残して姿を眩ませ、タップを踏むかのごとくかろやかに遠くの椅子に腰を掛けた。
「ふふ」
甲高い貴婦人のように。
「嬉しそうだな」
「あぁ、そうだ。ようやく手に入ったんだ。君と同じ絹のような髪をした、少し荒っぽい女でねぇ」
奴はすこぶる機嫌の良い子供のように嬉々として、溢れ出す言葉をこぼしてゆく。
「ふふ、もう食っちまうほどに愛しいのさ」
組んだ手の甲に顎をのせると、皿に乗った漆黒のソースが光りにあてられて鮮やかに照り返す。
「君も、ようやく報われたのだねぇ」
「近いうちに理想を貫こうなんて、傲慢なことはしないさ」
「そう」
「少なくとも、私は」
味気なく褪せた感情を、生産性のない悲しみと共に吐き出す。
「決別さえした過去に幸せはないんだ。残酷だと思うかい?」
「いいや」
声が出た。
粛然とした頭を過ぎったのは、哮るように呼び続ける彼のか細い声ばかりだった。
「君、と呼ぶのも失礼かな。
———侍来、チャン?」
「あぁ、やめてくれ」
「ふふふ」
艶々とした笑い声が響き渡ると同時に、私たちを取り囲むように縛りつけられた銀色の鈴が、一斉に音を立てて鳴り響く。
奴はそれを待っていたかのように、驚きもせず赤々と血色の通った唇を吊り上げる。
「——おっと、次の客が来たようだ。僕はこのへんでお暇するよ」
蒼白とした手のひらで水牛を撫でつけると、風格のある手つきでくすんだ褐色の椅子を引き、左胸に掌をあてて頭を垂れた。
「いずれ来たる幸福な死を」