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英雄達のレクイエム Ⅰ  作者: 城華兄 京矢
第一部 白と黒の魔導師編
3/10

第2話 オーディン=ブライトンとシンプソンセガレイ=

魔導歴九九九年、北セルゲイ大陸神聖ヨハネスブルグ王国首都ヨハネスブルグ、国王は、ブライアント=ヨハネス三世、国名は初代国王の名字から取った物だ。今城下町は、ある祭典で盛り上がっている。十年前この国を滅ぼさんとした暗黒の大魔導師(大魔導戦争)から、この国を護った英雄を称えるための式典だ。

王国のメインストリートは、煌びやかに飾り立てられ、盛大に花火が打ち上げられ、視界が遮られて島ほどの、花吹雪で満たされている。

王国生誕祭に次ぐ規模のパレードと言って良いほどの規模だった。

その湛えられた英雄の名は、オーディン=ブライトン。国王側近の第一級貴族の証を持つエリートの家系に育ち、国民の信頼も熱く、彼の名前を知らない者など、生まれた赤子くらいなモノだった。

誠実で勇敢、身分を決して、鼻にかけない男。それがオーディンに対する万民の印象である。

しかしそんな彼の素顔を知る者はごく一部だった。何故なら彼は、いつも顔面左半分を厳つい鋼鉄製の仮面で覆っていたからである。

皆その理由は知っていた。彼の左半面の顔は、魔導師との死闘により、見るも絶えないほど、焼けただれていることを。

厳めしい仮面とは裏腹に、冷たい仮面の下から覗くその深く青い瞳は、優しさと誠実さで満たされおり、見つめられた女性が虜にされてしまうほど、澄み切っていた。

そして、銀に輝く髪が、それをより一層彼の眉目秀麗ぶりを引き立てたのである。

豪華な馬車の上から、国民に向かい手を振る。表情は右半面しか解らないが彼は微笑んだ。子ども達が馬車に駆け寄ってくると、馬車を止め彼等とふれあい、頭を撫でてやる。

オーディンという男の優しさが、誰にでも理解できる場面でもある。

オーディンに触れられた子ども達は、その彼の手の温かさに喜び、英雄に触れられたことを、誇りに感じた。彼の行動は、そんな子供達の期待を裏切らない。

しかし、そんな彼の瞳にも、周囲には見えない微かな陰りがあった。魔導師との戦いで、彼と後一人を残して、部隊が全滅したのだ。故に彼の英雄ぶりは、更に引き立つ。「地獄から生還した男だ」と。まるで彼の強さを、象徴するかのように……。

パレードが終わる。彼は年に一度、必ずこの式典の主役として街に出た後、王城で、貴族階級からの、鮮烈なる祝福を受ける。王自らも、彼の手を取り、英雄を称えた。

「オーディン=ブライトン、そなたは、わが国の英雄、誇りだ。其方の亡きご両親も、その成長ぶりに感涙しておることだろう」

もう一度、第一級貴族の集まる広い聖堂で、彼の手を握りしめる国王。

「もったいなきお言葉」

オーディンは、国王の言葉に跪く。

盛大な拍手の後、国王は退き一度会場から去る。今日の主役はオーディンなのだ。皆、彼の手を握りに来るのだ。

国王が姿を消してから少しすると同時に彼の周りには、貴族の人だかりができる。国王も今日の主役が彼であり、自分が居ることで、彼らの談話に支障が出ることを気にした事に対する計らいでもあった。

誰もがオーディンとの友人としての権利を得るために、彼に近づく。

内心、彼はうんざりしている。見ず知らずの人間が、我先にと彼の手を求めて来ることにである。彼らの手は子供達のように純粋ではない。全てがそうであるわけではなかったが、彼らの行動には絶えず利権が付きまとっている。しかし、彼等にも面子があるだろうから、決して無碍にする事は出来ない。

この後、更に貴族達のパーティーがある。だが、自分が主役なのだ。ましてや自分のために、皆此処までしてくれている。パーティーの挨拶の後、彼は、もう一度主役として、皆に挨拶に回る。もちろん全員と言うわけには行かないので、失礼ながらも、重要な人間にだけだ。

そして、決まって、最後に一人の男が、彼の挨拶が終わるのを見計らって、やってくるのだ。

「オーディン!漸く捕まえたぞ」

「叔父上……」

彼に言い寄ってきたこの男は、オーディンの唯一の親戚である。人は良いのだが、世話焼きで困る。いつも決まって、同じ話を持ち出すのだ。

「お前、そろそろ幾つになる?」

「三〇……、ですが……」

「そう、三〇歳!もう身を固めても良かろう!いや、遅すぎるくらいだ!実は先方に是非と言われているんだ。身分も申し分ないし……」

オーディンの叔父は、心逸りに見合いの資料を着衣中から探しだそうとしている。

「叔父上……、またその話を……、すみませんがまた後ほど」

オーディンは困った笑いを浮かべながら、叔父から距離を遠ざけて行く。オーディンと彼の仲は、これをやり取りできるほどの、親しい仲だ。別に気まずいことはない。

オーディンは少し疲れを癒すために、会場を出て廊下を渡り、バルコニーに出た。風が涼やかな、心地よい秋の季節、月明かりも見事だ。ため息を付き、夜空を眺める。

「私は、英雄などでは、無い……」

自分を責めるように、困り果て、手摺に肘を立て、頭を抱え込む。背の高い彼は、余計に困り果てて見えた。

「オーディン様……、どうなさったのですか?」

穏やかで落ち着きがあり、穏和で無邪気なその声に、オーディンは我に返り振り返る。

「……、ニーネ……」

驚きながらも、彼は冷静に、女性の側による。

「いや、何でもないんだ。……にしても、美しくなったな」

「ええ、私ももう二十五です。五年ぶりですわね」

声が、隠る。両腕を広げ、オーディンにしっかりとしがみつく。オーディンの胸に、彼女の思いが、熱い涙となって伝わる。

「父上の外務大臣としての仕事は、確か来春までと、聞いていたが……」

か細い彼女を、胸の中で抱きしめ、その髪に頬を押し当てる。愛おしさで一杯だ。彼女とオーディンは、旧知の仲で、幼い頃から一緒だ。父親の仕事の関係で、此処数年会うことも、侭ならなかった。

自分をよく知り、また彼女をよく知る自分にとって、その存在が何より癒しであった。どれだけ後ろめたさに心が苛まれようとも、その心に嘘をつくことは出来ない。

「私だけ、早く此方へ帰して貰ったんです。この日に間に合うように、嗚呼、会いたかった……」

声を絞り出すように、更に彼を、ヒシヒシと抱きしめる。

だが、オーディンは、ふと、感情に任せきりになっている自分に気が付く。彼女の肩を強く引き離した。

「ニーネ、私は、私は……、君を愛せるほど、立派な男じゃない……、私は……」

その声は今にもこの場から飛び降りてしまいそうなほど切羽詰まっている。

「お顔のことを、気になさっているの?名誉の傷ですよ。誰も、貴方を罵る者など……」

ニーネはオーディン以上に彼を庇い、懸命に首を横に振り、自らを否定するオーディンを否定する。

「これはただの卑怯傷だ。だが、私にはお似合いだな。ククク」

オーディンが卑屈に笑う。こんな悲しい彼は、大魔導戦争で出来上がってしまったものだ。彼の英雄の下には、あまりにも悲しい出来事がある。ニーネは、それを知っている。オーディンが、自らの恥を忍んで、打ち明けたのだ。彼女を愛するが故にである。だが、彼女と数人を除いては、その事を知る由もない。

「そんな、笑い方は止して下さい、さぁ、お疲れになったのでしょう?お部屋へ……」

ニーネは強引にオーディンの腕を引っ張り、自分の泊まる寝室へと大胆に連れて行く。距離はあった。しかし芯の強いニーネが、振り向き微笑む度に、オーディンの足は、彼女に誘われるまま、無意識に進んでしまう。

剣の鍛錬に明け暮れたオーディンの逞しい手は、すらりとした上品なニーネの手に触れられているだけだというのに、その手を振り切ることが出来ない。

そしてオーケストラの残響音が鳴り響く廊下を雪、彼女の部屋に入る。

二人っきりだ。

外界から遮断された部屋は、パーティーの続く城内から、隔離された別の世界のようだった。そう、ニーネとの二人きりの世界だ。

「この歳になって、まだ、誰も私を迎えに来てはくれません。私には、心に決めた人がいます。周りの方々は皆、結婚してしまいましたわ」

オーディンの方を向き、ニコリと笑う。そんな風に、ニーネに微笑まれるとオーディンは胸がいっぱいになり、心臓が押しつぶされそうになってしまう。呼吸が出来なくなり言葉が出なくなってしまうのだ。

「責任……取って下さいね」

そう言うと、彼女は、オーディンの顔に、そっと手を触れる。オーディンは、震えた。感情が迸りそうになる。自分を嫌悪する心とは、裏腹に、腕は彼女を抱き始める。ニーネの方は、少しぴくりとする。

「あ!」

だが、覚悟は出来ているようだ。ニーネは、オーディンの仮面を取る。下からは、醜く焦げ色に、焼けただれた、彼の半面が浮かび上がる。瞳だけが青く浮き出ている。

「クス、酷いお顔」

それから、彼のその顔を、撫でる。自分の方に抱き寄せ、頬摺りすらする。オーディンは、触られると酷く心が痛む。

彼自身は、無秩序に凹凸のあるその顔を嫌った。だが、彼女の手が傷を優しく撫でて行く。これは、彼にとって、どれだけ心が安らいだだろうか。自分を知った上で、これほどまで慕ってくれる女性は、そういない。いや、皆無と言っても良いだろう。逃げなかったのは彼女だけだ。彼の素顔を知った女性は、悉く怯え逃げ去った。ニーネは、その事すら知っている。だからこそ余計に、彼女を汚したくなかった。

「止めてくれ!どうして私に構う!いい男なら他にもいる!!」

「あう!」

ニーネをベッドの上に突き倒し、そのまま激しくドアを開け広げ、オーディンは足早に去ってしまう。マントの下から予備の仮面を取り出し、再び顔を覆う。このまま奥歯を砕き折ってしまいたいくらいに、オーディンは自分を嫌悪した。今更自分にどんな権利があるというのだと、何度も心の中で、杭を打ち込むように、自らを言い聞かせる。

誰かが後ろから追ってくる。ニーネではないのは確かだ。

「オーディン!!どうした!」

いったん立ち止まり、最小限に振り返るオーディン。

「セルフィーか……、いや、何でもない」

オーディンの足は止まる。何処へ行けばよいのかも解らず、迷ってしまった子供の足取りのように……。しかしオーディンは、直ぐに歩き出す。そう、歩くしかないのだ。

「ニーネが……、泣いていたぞ、戸を開けたままで。可哀想に……、何故あの優しいお前が、彼女だけに、辛く当たる!!」

セルフィーが、オーディンに歩調を合わせ、横に並び歩く。

「私は、皆を全滅させてしまった張本人だ。英雄などではない!!」

苛立ったオーディンが、苦悩し、それを言葉に滲ませる。

「しっ!大声を立てるな、あれはお前が奴に、魅了の魔法を掛けられたせいだ。それに、あの、嵐のような魔法をお前一人で防げたのか?それこそ驕りだ!」

セルフィーは声を慎みながらも、オーディンの少し前方に回り込むようにして、小さめに両腕を広げ、正気でなさそうなオーディンの、その言葉を否定する。

「そうだ、私が、モタモタしていなければ……」

オーディンは、さらに小急ぎに足を進める。何からも逃げられないのだが、歩く様がまるで過去の事実から逃げるようだった。

「バカを言うな、お前が仕掛ける前に、すでに、皆殺されていたじゃないか」

セルフィーはいつもそういって、オーディンを納得させようとしていたのだ。

「それを見て、腰を抜かし絶望した私と、立ち向かったお前、どちらが英雄に相応しい」

そのまま慌ただしく、誰も居ない客室に、二人ともなだれ込む。セルフィーは鍵を掛けて、部外者を入れないようにした。扉も厚く、会話を、他に聞かれることはまず無い。

「だが、ケリを付けたのはお前だ。あの時、お前が、楯になってくれたからこそ、私は、生きてられた」

「それも、この銘刀、ハート・ザ・ブルーがあればこそだ。あの時比奴が魔力を吸収してくれていなければ……、どうなっていたことか」

「お前は……、そう言う男だ。自分の命に代えても、親友である私を、護ろうとしてくれた」

「そのお前の親友は、その後何をした。剣を捨て、相手に怯え、命と引き替えに、忠誠まで誓おうとした。もしお前があの時、私の肩を掴んでくれていなかったら、このオーディンは……、今頃……。あの時奴の手が、この顔に触れたとき、神の導きに思えた。自分は助かるなどと、思い込んだ。その傷は、今も癒えぬ」

その頃には、二人とも、ソファーに腰を掛け、少し落ちついた様子を見せる。オーディンは、「自分は臆病者だ」と、今でも心にそう叫び続けている。遠征に出掛けて、帰ってきたのはわずか二名、オーディン=ブライトンと、その親友、セルフィー=バスタニアだけだ。互いにもう三〇男だ。セルフィーは、結婚もし、子どもも、五歳の息子と、三歳の娘がいる。彼の妻は、彼が自慢ばかりするほどの、美人で良くできた妻だ。だが、ニーネには劣る。

「良いか、オーディン、お前は間違いなく英雄だ。お前が居たからこそ、皆纏まった。信用のおける男だからこそ、皆若かったお前に全てを託した。お前でなければ、アレは出来なかった。お前の父上ですら、適わぬ敵だったのだぞ。もう少し、自分に優しくなれ!」

セルフィーは、オーディンにとって、実に心強い友だった。時が経っても、二人の関係は変わらない。オーディンと対照に、彼の名前は、無名に近いほどだった。それでも彼は僻むことはない。友人オーディンを、褒め称えた。

「そうだな……、いつもお前はそう言う。堂々めぐりだ。そろそろ、自分を変えよう」

何時までも悔やんでいては、セルフィーに申し訳ないと思ったオーディンは、強制的に自分の心を切り替えようとした。

「そうとも!!」

兎に角強引でもいい、それで彼が前を向けるなら、其れでよいと、セルフィーは思った。セルフィーは極端なほどに大げさで明るい声を出し、オーディンの方を力強く叩く。

一息ついたオーディンは、スクリと立ち上がる。

「何処へ行くのだ?!」と、セルフィー。

「ニーネに、謝ってくる」

照れくさそうに、そそくさと、部屋から、出て行く。

「全く……」

世話が焼けると、言わんばかりに、ため息を付く。やり場のない両手の平を宙に浮かし、参って首を左右に振った。

オーディンは、あまりにも潔癖すぎるのである。悪に対しても、自分に対しても、そして使命感があまりにも強すぎる。偉大な父の影響を受けたのだ。その半面、他人には、心暖かく優しい。特にニーネには、異常なまでだ。故に、彼女を突き放したのだが、気がかりになって、いても立ってもいられなかった。一層自分に幻滅してくれれば、どれだけ救われるだろうか。

だがニーネは決してオーディンの、そんな表面上の感情だけを捉えようとはせず、透き通った静かな湖面に、僅かな波紋を広げつつ、蟠りなくその心に触れてくるのだ。

彼女の部屋にまで来ると、ノックをする。

「ど、どうぞ」

少し慌てた声で、中から彼女の声がする。

オーディンは、気兼ね無くドアを押し開ける。が、そこには、目を赤く染めて、瞳を潤ませたニーネが待っていた。どうやら、戸を引き開けようとしたところだったようだ。一寸吃驚して、二、三歩退く。

それから、オーディンに涙を見せまいとして、懸命に顔を背けた。その涙の様子から、オーディンに突き押されたことが、よほどショックだったらしい事が解る。オーディンは、自分の心ない行為だとして、深く心を痛めた。

「す、済まない。ゴメン……」

だが、なんと言って良いか解らない。取り敢えず戸を閉めて、二人っきりになる事を試みた。だが、何とも気まずい。よって、行動で示すことにした。彼女の肩を、自分の方へと引き寄せ、彼女の顔を、ぐいっと自分の方を向かせ、強くねじ込むように、キスをした。

「うん……」

その瞬間、ニーネは、放心状態となる。あのオーディンが、何の前触れもなく自分を抱きしめ、愛おしく迫ってくるのだ。それから、彼は、何度も頬摺りをしてくる。二人の頬が熱く重なる。オーディンの腕は彼女の腰へと回る。そして、彼女の頬に、しきりにキスで、挨拶をする。

「嬉しい……」

オーディンが、漸く自らの心の壁を一歩乗り越えたことが何より嬉しいニーネだった。

「ゴメンよ。痛かったろう。怪我は無いかい?」

「はい……」

落ち着いた穏やかなニーネの返事が、オーディンの胸中で静かに響いた。

オーディンは、そのまま彼女を、ベッドの上にまで運ぶ。今度は突き飛ばしたりはしない。仮面を取り、そのまま下に捨てた。二人は、そのままもつれ合って行く。

オーディンの急な行動に、躊躇いと恥じらいが隠せないニーネ。しかし二人は、抱き合って行く。

その状態が何時間続いただろうか、気が付けば、乱れた二人が、うっとりとしながら、肩を寄せ合っている。

「結婚、しよう」

「え?」

ニーネは、今までオーディンにその事だけは、拒み続けられてきた。もちろん肉体関係も含めてである。よってこれが彼女にとって、初めて女になった夜でもあった。その幸せで、胸が張り裂けんばかりだと言うのに、今度は、結婚話だ。彼が、彼女を拒んでいた理由も知っている。

しかし、あまりに急すぎる。勿論其れが嫌だというわけではない。たった数分でオーディンに何があったかということである。

「明日?来月?日取りは君が決めると良い。私はいつでも良い。君が、側にいてくれれば」

「オーディン様……、嬉しい」

二人、ヒシヒシと抱き合う。もう心を濁さない、オーディンは、そう決めた。ニーネが居てくれるだけで、自分は変われるしれない。セルフィーの言葉が強く彼を押していた。何時までも親友に心配をかける続けるわけにはいかない。そしてニーネを待たせ続けるわけにもいかない。

二人が互いの感情に酔いしれている。そんな朝だった。すると、いきなりである。外の方で、激しい轟音がする。それと同時に、可成りの揺れが、感じられる。

「きゃあ!」

「何事だ!!」

いきなりの出来事だったので、ニーネが、より強く、オーディンに抱きついた。吊り下がられているシャンデリアが、大きく揺れる。今にも落ちそうだ。取り敢えず彼女に危険があってはいけないので、上に被さり、その身の安全を確保した。

「私……、恐い……」

「大丈夫、私がついている。しかしこの揺れの感じどこかで……」

ただ事ではないことは、オーディンには、すぐ分かった。揺れは断続的に続く。轟音もだ。突然部屋の扉が、激しく叩かれる。それから誰かが叫ぶ声もだ。

「オーディン!!居るのだろう。大変だ。早く装備を調えて街へ!!」

それは、セルフィーの声だ。彼は、二人の行動を、一応にお見通しのようだ。さすがに二人とも赤面したが、今はそれどころではない。オーディンは、仮面を付け、服装を整え、愛刀、ハート・ザ・ブルーを腰に帯刀する。そして、真っ白なマントを纏った。

「お怪我、なさらないでね」

「ああ、帰ってくるよ」

熱いキスを、もう一度交わす。ニーネの方も、外で騒がしいセルフィーの様子で、ただ事でないことを察知した。最後に、勇ましく去る、オーディンの姿が見えた。

戦友二人が、廊下を走る。

「で、セルフィー、何があったのだ?」

「ドラゴンだ」

「ドラゴンだと?!まさか!!」

「いや、間違いない。誰かが召喚したらしい……」

この世界でのドラゴンとは、爬虫類の大型亜種であり、まさに生物の長たる存在だった。大翼で天空を舞うモノもいれば、悠々と地上を歩き回るタイプもいる。ただ、存在している世界が違うのである。それは、超獣界と呼ばれる魔法を含め、超常的な力を持つ生物が蠢く、法も秩序もない、人間は踏み入れたことのない世界だった。

ただ、魔法論理学上、存在の確認だけはされており、ドラゴンの存在も、事実と認められている。

時に時空の捻れに迷い込んで、人間界に現れることがある。

この場合、ドラゴンは、その知能の高さ故、むやみやたらに、破壊活動は行わず塒を形成し、障害をそこで終えるのが常だ。

希に帰界する事もあるが、人間による召喚を受けた場合、ドラゴンは、それをマスターと認め、その者の命令を忠実に実行する。

人間の言葉を理解できるのだ。

希に精神同調によるコントロールも行われるが、この場合は、遠隔操作によるものなのでマスターを見つけることは、極めて難しい。精神同調を行うためには、術者とドラゴンは極めて近い位置にいることが、条件となる。極端に言えば、接点を持っていることがその条件なのである。

だが遠隔操作と言っても、命令を下せる位置に居なければ意味がない。言い換えれば、大抵、術者はドラゴンの近辺にいるという事だ。

ただし、余りにも雑な召喚を行った場合、ドラゴンは、精神異常をきたし、ほぼ100パーセント暴走する。ただし、どのみちドラゴンを呼び出せる者は、かなり魔法に長けた者だということになる。そんな術者は、限られているはずで、殆どが国に仕えている。

そんな術者が秩序を乱すだけでも、十分にやっかいごとである。彼等ドラゴンの種族としては、地(グリーンや茶系)・水(青系統)・火(赤系統)・風(白系統)の四元素に、基づく種族と、この混合種などがある。そのほかに、魔力を持たない、プレーンドラゴンなるものも存在する。プレーンドラゴンは、二足歩行で、ずんぐりとした体型で、前足はあまり大きくなく、発達した両足と、退化した翼を持っており、空を飛ぶことは出来ない。


超獣界について少し語るが、ゴブリンやオーク、高等なる種族は、エルフまでいる。エルフ、ドラゴンに至っては、人間界についての存在は、知られているようだが、下等な文化しか持たぬオークなどまでに、知られているかは、定かではない。

ただ電気によると、人間に対する補色本能が非常に強いことから、数千年前においては、お互いに接点があったことだけは、確かである。


「そうか……、大魔導戦争以来だな……」

二人は王城を飛び出す。とにかく轟音のする方角へ走った。轟音とは、ドラゴンの暴れる音だ。オーディン達がいる位置でも、ドラゴンの頭部が確認できるほど、かなりの大きさのモノだ。きっと成獣だろう。それも一匹や二匹の騒ぎではなかった。確認できるだけで、四匹は、いる。

「なんと言うことだ……、これは悪夢か……」

額から汗が出る。見る限り、彼等の本領を発揮した破壊活動は、していない。

「ヒートドラゴン……二匹、プレーンが、二匹……」

走りながらも、戦略を練るオーディン。セルフィーは、死を覚悟した顔をしている。もはや余裕など無い。それでも、相手の様子を観察している。ヒートドラゴンは、身体が長く、いわゆる翼竜だ。プレーンドラゴンは、体型がずんぐりとしていて、飛ぶには不向きだ。それにヒートドラゴンほど、強くもない。

「見ろ!オーディン!!奴等の目を、焦点がない……、もしかして奴等は……」

「暴走している!なんと言うことを、一刻も早く、始末しなければ」

ドラゴンに更に近づく二人、それでも、可成りの距離がある。だが、可成り近づいた錯覚を起こすほど、彼等は巨大だ。

「行くぞぁぁぁ!!」

オーディンは、剣を抜き、地を一蹴りする。剣は、古代神秘を思わせる細かい装飾と、全身が光を放つ青をしている。彼の跳躍力は、一瞬で十数メートルの高さに身を浮かせるほどのモノだった。ドラゴンの頭上に出る。下には、必死で戦っている戦士団と、騎士団がいる。魔術隊もいる。必死で攻撃しているようだが、歯が立たない様子だ。

「飛天鳳凰剣奥義天翔遊舞!」

オーディンは、体を捻り、ヒートドラゴンの背面を、優雅に飛ぶ。その時に、彼は、剣に魔力を付与した。剣は青白く光り、白い尾を引く。彼は、冷却系の魔力を剣に付与したのだ。オーディンが天を舞い、地に降りる。まるで鳳凰の羽ばたきだ。着地と同時に、ヒートドラゴンは、輪切りになり、一瞬にして崩れさった。ドラゴンをも、凌駕する強さ、それがオーディンの強さだ。

鳳凰というなの由来から、炎を得意とする錯覚を起こさせるが、由来はあくまでもその優美な跳躍から生まれており、特に属性との因果関係はない。オーディンはエンチャンターであり、様々な魔法を剣に付与することで、その技を放つことが出来るのだ。

オーディンが、地に降りると同時に、セルフィーが、駆け寄る。

「オーディン上だ!!」

プレーンドラゴンの一匹が、彼の頭上から、のぞき込んでいる。それに気がついたとき、剛風が、オーディンを襲う。あっと言う間に、その勢いで、壁にたたきつけられる。セルフィーが、ドラゴンが頭を低く屈めているその隙に、ドラゴンの喉へと切りかかる。

オーディンほどの破壊力はないモノの、致命の一撃を与える。彼もまた、剣の達人であった。

だが狙い目が甘く、ドラゴンが、絶叫してもがき苦しみ始める。

「チィ!殺り損なったか!!」

オーディンは、吹き飛ばされたモノの、怪我はないようで、すぐに立ち上がり、セルフィーに声を掛ける。

「いかん!他のドラゴンが、声に反応して、暴れ出すぞ!急がねば!!」

オーディンとセルフィーが、騎士団と共に、ドラゴンと戦っている間、王城では、混乱に満ち溢れていた。そんな中、ニーネは、オーディンのために自分の部屋で、ただただ祈っていた。彼の無事と、二人の未来のために。

彼女が沈黙の中祈っている最中であった。どこかの兵士と思われる装いの男が、扉を無断で開ける。

「誰です!礼儀を弁えなさい!」

彼女は、オーディンのことが心配で、少し苛立ち紛れの声で、その兵士の無礼を、叱りつける。

「す、済みません!ニーネ様は、おられますか!」

彼は、肩で息をしている。よほど急いで此処に来たのだろう。本来なら、十分に頭を下げてから、行うべき行為だが、彼は、それもそこそこに、ニーネを探すしぐさをしている。

「ニーネは、私ですが……、何か?」

「急報!父上が、急病で倒れたため、至急エホバニアにあるヨハネスブルグ大使館にお急ぎを……」

「何ですって?!ああ、どうしましょう」

彼女が、悩んでいるのは、父親が倒れたことではない。今此処を去れば、オーディンに二度と会えない。そんな気がしてならなかった。だが、父の容態が悪いのだ、行かぬ訳には行かない。せめて、メモ書きだけでも残し、此処を一時離れることにした。

「愛しのオーディン様、父の様態が、急変のため、私は、一時エホバニアにある大使館に、戻ります。ご無事を祈っております。ニーネより」と

文章は、簡潔だったが、思いを残して、メモの端に口付けを残した。メモをベッドの上に残し、彼女はそこを立ち去る。

オーディンは、死ねなかった。切り開かれようとしている自分の未来のために、ドラゴンを次々としとめた。暴走したドラゴンは、プレーンドラゴンの断末魔の声により、より一層、狂暴化する。豪風と、ヒートブレスで、辺り一面は火の海となる。

二人は高い建物の屋根に飛び移り、それを凌いだ。初めは四匹だったはずのドラゴンだったが、死骸を数えてみると、六匹、更に活動をしているモノが三匹、計九匹となっていた。何れもヒートドラゴンか、プレーンドラゴンだ。目的は分からないが、故意にその種だけ呼び寄せたのは確かだ。街は二匹の相乗効果により、殆どが、火の海に飲まれている。王城はかろうじて、敷地に張られた水壕のおかげで、火の海に飲まれずに済んでいた。

「セルフィー!もう一度アレをやるぞ!」

「解った!」

「行くぞ!飛天鳳凰剣究極奥義、竜虎裂波」

オーディンは、セルフィーに、火炎系の、魔力を、付与する。それも全身にだ。それと同時に、瞬間的に、著しく筋力が増加する魔力も付与する。その後、自分に雷撃系の魔力を付与する。これもやはり全身にだ。ほぼ全力で、ドラゴンに飛びかかる。二つの光りが、連続的に、一匹のヒートドラゴン、プレーンドラゴンを、貫く。一瞬の出来事だった。いとも簡単に二匹のドラゴンを、しとめてしまう。再び、屋根の上に陣取る。

「問題はアレだな」

「ああ……、だがこれ以上、私の身体は、魔力の付与に絶えられそうもない……、年だな……」

セルフィーは、剣を地面に突き刺し、ガクリと膝を落とす。可成りの無理が掛かったようだ。筋力を強制的に、上昇させたためだろう。

「済まない。セルフィー、大丈夫か」

「ああ、それより早く奴を……、あれはライトドラゴンだ。フォトンブレスを吐くぞ」

ライトドラゴンとは、光化学系の魔力を持つ、ドラゴンでも最上位に位置する恐るべき力の持ち主だ。光子力を伴った息は、破壊力絶大だ。全てのモノを一瞬にして、かき消してしまう。

彼らの欠点としては、一撃を放つまでに、時間が掛かることと、皮膚が、他のドラゴンとは違って、それほど固くないと言うことだ。それでもやはりドラゴンである事実は、揺るぎ無い。種族としては、翼竜だ。

ライトドラゴンの口元に、何かが光り輝いている。

「なんて事だ!フォトンブレスを吐くぞ!!」

セルフィーが、絶望的に叫ぶ。だが、オーディンは、その声とは逆に、ドラゴンに向かい、走り出した。

「オーディン!!何を!!」

「……、止める!!」

「何だと!!」

オーディンは再び、屋根伝いに、走る。セルフィーも、もてる力を振り絞って、剣を鞘に収め、後を追う。

「さあ、来い!!」

ドラゴンの前に、立ちはだかり、猛々しく叫ぶ。ドラゴンの口が、光で満ち溢れ、そしてブレスが放たれる。オーディンは、それに向かい刃を立てる。

オーディンが、その覚悟を決めた刹那だ。セルフィーが、オーディンにタックルし、彼ごと、横っ飛びに飛んだ。フォトンブレスは、二人を掠め、更にその延長方向へと飛んで行く。二人には、怪我はなかった。だが、その先の方で、轟音と共に、建物が崩れる音がする。

「セルフィー!!何故邪魔をした!!」

「バカな!!一撃を防いだ所でどうなる!お前は、それで燃え尽きてしまうではないか!」

「だが、一撃は防げた。奴の装甲なら、今のお前でも十分歯が立つ!!」

「ニーネはどうなる!!」

二人は、立ち上がりながら、この状況で、揉め始めた。ニーネのことが口に出たので、オーディンは、気になって後ろを振り向いた。すると、荒野に変わり果てた町並みが、目に入る。

「ああ……」

オーディンが、ガクリと膝を落とす。余りにも変わり果てた、ヨハネスブルグに。だが、それだけではなかった。権力と平和の象徴である王城の上部が、跡形もなく消え去っているのだ。王城には、ニーネが居た。

「まだだ。負けんぞ……、あの時のようにはならん!!」

再び、オーディンは立ち上がる。

「オーディン、二撃目が来るぞ!!」

「かまわん!!俺が奴の気をひいている間、お前が奴を殺れ!!」

「しかし……」

「言う通りにしないか!!」

「わ、解った」

オーディンは、ドラゴンを見据える。気迫だけでは、負けないつもりでいる。だが、ドラゴンを倒すのに、立て続けに、大技を使っている彼だ。その体力は、もはや限界に近い。屋根から勢いよく跳躍を見せる。高々と宙を舞った。その瞬間に、セルフィーは、地を走り、ドラゴンに、一直線に、走り込む。

「はぁぁぁ!!」

オーディンの猛々しい、気迫の隠った声が轟く。セルフィーの頭上は、真昼のような、眩しさを見せる。一瞬上を見る。光りの中で、オーディンが最後にセルフィーに微笑みかけ、たちまち消えて行く。だがそのあと、彼は、セルフィーではなく、他の何か一点を凝視して見つめていた。セルフィーは、その姿に心を痛めながらも、この期を逃さない。勢い良く飛び上がり、ドラゴンの喉元に剣を立てた。今度は、深々と肉に食い込む。ドラゴンの死は確実だ。

これでドラゴンは、全滅させた。セルフィーの心がゆるむ。だが、彼は、一撃に全てを賭けたため、もはや身体が言うことをきかない。不幸にも、ドラゴンの下敷きになり、その一生を終える。享年三十一歳、彼は、ドラゴンを退治した超人的な英雄として、その名を残す。だが、死した彼は、寂しくなることはない。彼の家族と共に、これからも、永遠の時を過ごせるのだから。



それから時は翌日、場所は、西バルモア大陸の、内陸にある名もない農村に移る。小さな農村には不釣り合いな、大きな孤児院があり、その礼拝堂で、一人の男が、祈りを捧げている。今日一日、無事で過ごせることを、沈黙の礼で、十字架に貼り付けられた、神々しく、凛々しい銅像に向かい、額ずいている。

そこに玄関を無断で開け、子ども達がワラワラと入ってくる。皆、よく行って10歳前後の、幼い子ども達だ。

「シンプソン、ねぇったら、シンプソン!!」

皆立て続けに、彼の袖口を引っ張り、上目遣いで彼を見る。

「何ですか、ジョディ、ハメッド、それにみんな、騒がしいですよ!」

「そんな事言ったって、ヒトが降ってきたんだよ」

子ども達の奇妙な発言に、彼は、目をきょとんとさせ、祈っていた手元の意識がゆるむ。

「ヒト?」

この男の名前は。シンプソン=セガレイ。歳は、二十五歳くらいで、身長は、一七五センチくらいだ。見てくれは、逞しさは感じない。面持ちは長く、少し目が悪いようで、控えめな丸レンズの眼鏡を掛けている。線の細い感じの男だ。髪は、肩口くらいまでの長さで、癖毛っぽく、僅かに青みがかった白髪で、変異と思われる色をしていて、目も覚めるような水色だ。格好は、ジーパンに、Tシャツ、辛うじて、袈裟らしきモノを、肩から下げている。

彼は、子ども達に、引っ張られるようにして小川に急ぐ。小川に着くと、乱雑に散らかった洗濯物と、他に数人の子ども達がいる。合計併せて、十六人で、半数が男の子だ。孤児院の広さに比べて、少人数だっだ。

河原には、子ども達が、引き上げたと思われる一人の男が、俯せに転がっていた。身なりは貴族風で、腰元辺りには、青く光る刀身の剣が落ちている。それと、片面だけの仮面も転がっている。

「大変だ!」

子ども達の言っていた状況が飲み込めたシンプソンは、男の側に駆け寄り、すぐさま彼を仰向けに寝かせた。顔面左半分は、酷く焼けただれている。そう、オーディンだ。彼は、あの状況で生きていたのだ。しかも、ヨハネスブルグから、かなり離れた異境の地と思われる土地で、である。

「う……うう……」

オーディンは魘されたように呻き声を上げるのだった。

「まだ息がある。呼吸も確かだ。心臓も動いている。正常だ」

シンプソンは、手慣れた感じで、彼の様態を確かめる。それから、オーディンの左胸に右手を軽く翳し、呪文を唱え始める。

「天なる父よ。この者の傷を、癒し給え……」

暫くその状態を、持続させる。青白かったオーディンの顔に、少し赤みが戻ってくる。

「良かった……、取り敢えず家に帰ろう。皆は、洗濯の続きをして於いて下さい」

と、命令口調でオーディンを、抱き抱えようとしたが、何せ鍛え抜かれた彼の身体だ。か細いシンプソンが抱えたところで、すぐに蹌踉けて腰が砕けてしまう。

「シンプソンは、ホント力が無いなぁ」

少年は、後頭部の後ろで腕を組み、ため息がちにあきれている。

「五月蝿いですよボブ!男の子は、手伝って下さい!!」

シンプソンは、恥ずかしさで、顔を真っ赤にしている。情けない声で、訴え掛ける。

「あははは!!」

彼が力仕事に向いていないのは、皆知っていたので、「相変わらずだ」と大笑いだ。彼は、子ども達の力を借りながらも、漸く空いている部屋に、運び込む。


更にそれから三日後、オーディンは、目覚めぬ中、一つの夢を見ていた。いや、夢と言うより、自分が光りの中に、かき消される瞬間の出来事を、思い出していると言った方が正確だ。

〈さらばだ。セルフィー……、ニーネが待っている〉

彼は、セルフィーに微笑みかける。セルフィーを見たと同時に、一人の黒装束に身を包んだ女が、オーディンの目に飛び込む。距離感がまるでつかめない。遠くにいるのか、近くにいるのか、それとも幻影なのか……。兎に角彼女は、彼を見て、声を殺しながら笑っている。まるで彼をあざ笑うかのように。

〈誰だ!お前は、貴様か?!ドラゴンを召喚したのは……〉

〈そう。お前が邪魔なの……、私達には……〉

〈私が?!……うわぁぁぁ!!〉

その直後、彼を真っ白な光りが包む。その時、また別の声が、聞こえる。

〈まだだ。オーディン、死んではならぬ……〉

今度は男の声だ。声だけだったが、無表情だ。だが、オーディンを欲していたのは確かだった。

〈今度は、誰だ……〉、「誰だ!!」

夢に興奮し、恐れをなして、飛び上がるようにして、ベッドから上半身を起こす。その時に、自分が光りに包まれた直後の再現だったと言う事を理解する。それからだった。自分が今、全く見知らぬ場所にいること、生きていることを確認する。

ベッドの横を見ると、数人の子ども達が、彼のいきなりの行動に驚いた様子で、目をぱちくりとさせている。ジョディ、ハメッド、ボブもいた。オーディンも彼等に気がついた。それと同時に、自分の顔、左半分の景色が、妙に開けていることにも気がつく。彼の醜い左半面の顔がさらけ出されているのだ。今の状況よりも、何よりも、彼は、その事に驚く。その醜い半面を、恥じるように、両手で顔を覆い隠した。

「見るな!頼む!見ないでくれ!!」

目覚めたときよりも、大きな声で、取り乱し、必死に顔を隠す。これこそ、何が起こったのだと、子ども達の方が慌てふためく。どうしたらよいのか解らず、ジョディが、シンプソンを呼びに行く。

「私の仮面は、何処だ!!」

オーディンには純粋な子ども達の目が、自分に突き刺さるように感じた。ただ自分の不甲斐なさを痛感し、恥じている。自分の醜い顔で、その全てを悟られるような気がして、ならないのだ。

オーディンが、顔を伏せていると、間もなくジョディが、シンプソンを連れて、彼の部屋にやってくる。子ども達は、邪魔にならないように、オーディンと、シンプソンの間を空けた。

「どうしたのです?何があったのですか!」

シンプソンは、一瞬声を荒げたものの、これ以上空気を乱さないように、歩調を乱さずにオーディンに近づき、彼の肩を掴み、正気を取り戻すように、懸命に呼びかける。

オーディンは、元々正気だが、その怯えようは、そうは思えないモノだった。

「仮面を……、頼む……」

オーディンが正気だということは、彼が応対を求め、無闇に暴れないことで直ぐに理解するシンプソンだった。それと同時に、彼が何かに怯えていることにも気がつく。

「何をそんなに、怯えているのです」

シンプソンはストレートで正直な物言いで、ベッドの枕元の棚に置いてあった仮面を、落ち着いた様子でオーディンに手渡す。

「済まない……」

オーディンは呼吸の乱れを整えつつも、一応の礼を言い、仮面を取り付ける。ゆっくりと深呼吸をしながら少しずつ落ちつきを取り戻して行くオーディン。仮面一つに、此処まで変わる彼の態度に、シンプソンは、異常さを感じた。

「みんな、食事が出来てますから、先に食べておいてください」

シンプソンは、二回ほど拍手をし、自分に注意を引きつけながら、柔らかくも強い口調で、自分の指示に従うよう、子供達に促すのだった。

「でも……」

ボブが、一瞬、彼に反論しそうになるが、シンプソンの滅多にない恐い顔が、彼の疑問を押さえつけた。聞き分けるべき時は聞き分ける。其れも彼の教育方針の一環だった。皆怒られないうちに、静々と、部屋を後にするのだった。

「ククク……、無礼な人間だ。私は……、助けて貰った礼をするどころか、醜態をさらすとは……」

オーディンは、自分を卑下し、肩を微かに揺らし、卑屈に笑う。そんな彼からは自分に対して十分に愛想を尽かしうんざりとしているのが、シンプソンにも伝わる。

だがまずは、何を置いても礼を言わなくてはならない。自分が無礼者でも、傍若無人な訳ではない。それはオーディンの持って生まれた性分でもある。

「済まない。私は、オーディン=ブライトン。貴方は?」

これ以上自分の命の恩人であるシンプソンに不愉快な思いをさせたくはないと思ったオーディンは、握手を差し伸べながら、自己紹介をする。

「シンプソン、シンソンン=セガレイ、シンプソンで良いですよ、えっと……」

しかし、シンプソンはオーディンの心境など全く心配無用だと言わんばかりに、確りとした握手を返すのだった。躊躇いのない素直な握手なのが、オーディンには解る。

「オーディンで良い。気軽に呼んでくれ」

確かに、礼儀を尽くした互いの挨拶だったが、オーディンの声には張りが無く、心も此処に有らずといった状態だった。誠意有る自分を保ち続けるだけの精神力が、今の彼にはない。

そして再び自分に幻滅する。ドラゴンを倒すどころか、ニーネを守れず。王城は、消え去った。自分は命を張った筈だが、無様に生きている。気がかりなのは、セルフィーだ。

オーディンには、セルフィーが死んだことなど、知る由もなかった。

「良かった。どうやらまともな人みたいですね、ジョディが台所に飛び込んできたとき、危ない人かと思いましたよ」

シンプソンは、緊張の糸が切れたようにホッとした様子で、クスクスと笑い出す。ベッドの上に、腰を掛け、後ろ手に手をつく。

「済まない、子ども達を……、驚かせてしまったな」

オーディンは、俯き、また卑屈に笑う。彼の声には、生きているという喜びなど全く無い。それどころか、助けて貰った事が、迷惑にだといった感じだった。愛を誓い合った(ひと)は、もういないのだ。生きる目的が見いだせない。

〈それなら一層のこと……〉

オーディンは、心の中で、自分の生存に絶望しようと、したときだった。

「ダメですよ。何があったかは、存じませんが、自分を捨ててはいけません。幸い身体には、何処も怪我はありません、まだ誰かが貴方を必要としている証拠ではありませんか?どうです、それを探してみては……」

するとシンプソンが、こう言った。シンプソンは、不思議な男だ。オーディンはそう思った。

彼は恐れず人を励ます人間なのだ。しかもその瞳は明るい未来を信じている。

そして、心がどこかへ行ってしまった自分を、励ましてくれた。その時に、漸く彼の顔が目に入る。丸い眼鏡の後ろから、穏やかな水色の瞳が此方を見る。それから、水色に色付いた髪が、オーディンの気を惹いた。

「変わっているな、そんな髪の色は初めてだな」

思わず考えることなく、こんな事を行ってしまう。それほど、彼の髪の色は、不自然な青さだ。だが、染めて出来る色でもない。白銀の頭髪のようだが青みがかっている。

「そうですね、子共の頃は、この髪のせいで、よくいじめられましたよ。何度この髪が、疎ましく思えたことか、でも今は平気ですよ。自分だけが、こんな色ですから、皆、すぐ覚えてくれますよ。おかげで、村の人も、この孤児院に、よく色々な寄付をしてくれます。あ、一寸欲っぽいですね、この話……」

彼は、挑発を指先にクルクルと絡めながら、慣れた口調で、ニコニコとしながらも、語尾に苦みを残しながら、話す。

オーディンは、ふと自分の左の顔に手を当てる。軽い気持ちで聞いた話だったが、彼は、あっさりと答えてくれた。辛いこともあっただろうに、その事を少しも感じさせないほど、その表情は明るい。

それに引き替え、自分は、皆が認めている傷にも関わらず、それを恥じ、疎ましく感じ、皆の前でひたすら隠し続けようとしてきたのである。彼は、一度付けた仮面を外し、ベッドの上に置く。それから、シンプソンの方を向いた。

「この顔、どう思う?」

「ええ、酷い怪我ですね、気にしてらっしゃるんですか?それでさっき……、でも取り越し苦労ですよ。それとも、子ども達も私も、何か気に障るようなことをしましたか?」

「いや……」

考えてみれば、バカなことだ。この傷の痛みは、彼を英雄視し続ける民衆の重みで、感じていたのだ。それに彼になら、自分の苦痛を打ち明けられそうな気がした。今は無理だが、きっとそのうちに……。

オーディンの名前を出しても、気がつかないのだ。自分の名声が届かないほどの相当な地方であることは、察しがついた。


都合蛾良かったのかもしれない。


自分の何かを見つけるために、此処で暫く頭を冷やすことにした。ただし全く別の大陸だと言うことは、気が付きはしなかった。

「あ、どうです?今から昼食なんですが、ご一緒に」

シンプソンは現実的な時間の経過を思い出す。

「ああ、頂くよ」

オーディンは、ベッドから起きあがる。身体の方は、本当になんとも無いようだ。あれほどの状態に陥っていたのなら、身体が灰になっていても不思議ではない。今度はそちらの方が、気がかりになっていた。

〈死んでは、ならない……か、あの声の主は、誰だろう。それにあの女……、私が邪魔だと言った。解らない事だらけだ……〉

オーディンは、あまりの謎に消化不良になり、再び立ち尽くしたまま、眼前の壁を眺めている。

「どうしたんです?」

シンプソンは、覗き込むようにして、一人思いに耽ってぼうっとしているオーディンが気になって、聞いてみる。

「いや……」

今は自分ですら、何が起こったのか全く理解していないのだ。口にしても仕方がないと思った。


二人は、食堂へと向かう。孤児院の中は、家風でそれらしくない。彼の格好で、何となく彼が神父か、牧師だと言うことは解るが、それ以外は、何だからしくない。それに造りも、そう古そうではない。最近出来たと言っても、言い過ぎではないほどだ。その時の、オーディンは、仮面を付けてはいない。二人が、食堂に着く。

長いテーブルの、両脇には、子ども達がズラリと並んでいる。

先ほど、オーディンを見た者は、一寸吃驚している。いきなり、わめき散らしたのだから、仕方がない。彼等は、食事に手を付けずに、待っていた。向こうの席と、その正面の席だけが空いている。どちらかが神父子孫のの席らしい。

シンプソンが、手前の椅子を引き、オーディンに、座るように促した。

「どうぞ、お掛けになって下さい」

「ああ、有り難う」

それから、奥の席に行き、自分も座る。

「みんな先に食べて良いと言ったのに……、料理が冷めてしまいましたね、さぁ食べましょう」

特に祈りを捧げることもなく。皆、さっさと始めてしまう。格好とは裏腹に、シンプソンの信仰心を疑問に思ってしまうオーディンだが、別にそれは、どうでも良いことだ。

テーブルの上を見てみる。そこには特に、日々の食事に困っていそうな雰囲気はない。パンに、紅茶に焼いたウィンナー、ハムに、生野菜、それに付けるための、ドレッシングだろうか?料理と言うより、用意しただけという感じもあるが、量と種類は、豊富だ。子ども達だけを養っているにしては量がある。お金の工面は、どうなっているのだろう。もしこれが、今日だけのために、用意されたモノだとすると、オーディンは、自分が口を付けるべきではないと、感じた。

「どうしたのです?お口に召しませんか?」

と、シンプソンの細かい気配りが入る。

「そうではないが、私が居ると、食事に難儀はしないか?」

オーディンも、遠慮無しに、質問をぶつける。

「と、言いますと?」

シンプソンは、話に集中するため、フォークとナイフを置く。

「では、率直に聞くが、この食事は、どうやって調達しているのだ?寄付だけでは、これだけのモノは……」

「ローズがいるもん、大丈夫だよ!」

ボブが言う。しかも生き生きした様子でだ。

「はいはい、早く食べないと、余計に冷めてしまいますよ。みんな早く食べてしまって下さい」

だが、シンプソンが、話の腰を折る感じで、子ども達に食を進めるように、少しせわしなく言う。何だか気になることばかりだ。焦点の合わない目で、テーブルを眺めて、食を進めていると、両脇の子ども達が、オーディンの顔を、ちらちらと、見ては、クスクスと笑っている。オーディンはその視線に気がついた。それが気になる。

「私の顔、そんなにヘンかな」

オーディンは、自分の醜い顔を笑われているモノだと思った。少し悲しそうな調子で、一番よく笑っている女の子を見つめる。

シンプソンは、先ほどの話し合いで、それを知っていたので、彼等を理由を聞かず、叱りつけた。

「これ、サム!ヨハン!デイジー!ミカ!!人様の顔を見て笑うなんて、失礼千万ですよ!謝りなさい!」

その声は、潔癖に、人をあざ笑うことを許さない、彼の性格が出たものだった。特に態度は示さないが、彼の声は、子ども達にとっては、絶対だ。すぐさま静まり返ってしまう。しかしミカが言った。

「だって、ソースで、お口が汚れてるんですもの……、赤ちゃんみたい……」

皆一斉に、オーディンの、口元をのぞき込む。

「は……、そ、そうですか……」

シンプソンは、叱りつけた自分の態度を、そそっかしく思い、思わず顔を赤くした。明るい表情のシンプソンだったが、彼は出会って直ぐのオーディンにすら、十分気を払おうとしてくれていたのだ。だから、そんな子供達も気にしていない事に対して、過剰な反応を示してしまった。

「口に……ソース……」

ふと、ナプキンを口にやり、ふき取ってみると、本当にべったりと付いていた。どうやら、あまりにも無心になりすぎていたため、食することに、気が回らなかったようだ。

「これは、恥ずかしい、ははは、ハハハ!」

オーディンが、恥ずかしげに笑うと、皆、次々と笑い出した。それと同時に、シンプソンの早とちりを、横に座っているジョディが、つついて笑った。

「シンプソンて、早とちりね、いつものことだけど……」

「済みませんね、そそっかしくて」

シンプソンは、一人むくれて食を進め始めた。オーディンの笑いは止まらない。卑屈になっていた心が、彼等と出会ったことで、溶かされて行くような気がした。

食事が終わると、子ども達と、互いを紹介しあった。彼等は、シンプソンを除いて、総勢16人、皆10歳前後の子ども達ばかりだ。男の子は、サム、ハメッド、ボブ、ヨハン、ジョン、マック、ラッツに、ロイで、女の子は、ジョディに、ミカ、デイジー、シンディ、リリナ、ジェンナ、リカ、バニーだ。本当は、名字はそれぞれだが、皆、彼の養子と言うことなので、セガレイで、統一されている。

「私は、オーディン=ブライトン、オーディンで良い」

「オーディンは、いつまで居るの?」

ジョディが、ふいに聞く。

「ん?さあ……、いつまでかな、私にも解らない」

本当に解らないのだ。過不足無くオーディンの本心である。

「ふうん……」

彼女は、少しガッカリした様子だった。会ったばかりの彼に、何かを、気にかけているようだった。

オーディンも、その様子が、気にならないでもなかったが、彼女とは、それ以上の会話は、無かった。

そして、子供達もそれぞれ、各々の部屋の掃除だとか、勉強などがあるため、会話が出来るのはまた夕方になる。その間にシンプソンが、孤児院の広い敷地の庭を案内しながら、ローズのことについて、いろいろと話してくれた。

「ローズさんは、二年前に、此処に現れたんです。一度だけですが、今はそれっきり……、ですが、一月に一度くらいの割合で、いつもお金を送って下さるんです。それも可成りの高額で……、手紙には、マリアと書かれてあるのですが、皆すぐ解りましたよ。彼女しか、そうしてくれる人がいないことに、ね……」

「でも、何故たった一度だけ、出会った女性が、そこまで?」

世知辛い世の中に、偽名を使ってまで……と、奇特な人が居るものだと、心から感心してしまう。

「ええ、彼女が話してくれましたよ。多分それが理由だと思いますが……」

「理由?」

「はい、彼女が此処へ来たのは、とにかく偶然でした。どこからか突き落とされてしまったらしくて、身体中酷く擦りむいて、何日も森を彷徨って、漸く此処へたどり着いたのです。その治療のため、此処に数週間ほど、滞在しただけの人です」

オーディンはそんなシンプソンの話だしを、静かに聞くことにした。二人はゆっくりとあまり大きくない歩幅で、孤児院の庭を一周することから始めた。

「彼女は、余り話したがらなかったのですが、賞金稼ぎをして、世界中をある男を捜して、渡り歩いていると言っていました。それと、彼女も幼いときに両親を亡くして、姉とふたりっきりだったらしいのです。子ども達にひどく共感していました。ですが、その姉もその男に殺されたと、いわゆる敵討ちですか……、よほどの覚悟のようです」

シンプソンは少し表情を曇らせる。子供達や自分を弦築けているときの彼とは違い、思い詰めた表情を見せるのだった。話しの流れからもそうだが、あまり明るい話を聞けそうではないと、オーディンは思った。

「彼女の送ってくれるお金は、きっと血にまみれていることでしょう。ですが、あの明るい子ども達がいるのは、そんな彼女のおかげ……、今ある孤児院もです。信仰だけでは、今の世の中、どうにもなりません、清貧なんて言うモノは、子ども達には無意味なものですしね」

恐らく何かあったときの責めは自分が負うつもりなのだろう。彼の話しぶりからして、ローズという女性が賞金稼ぎであることは、知らないままなのだろうと思った。

ただ一つ理解出来る事は、性人面をして肥え太っている帰属よりも、彼女の行いの方が子供達の笑顔に貢献しているということだった。しかし、出来れば金銭の出所は綺麗な方が望ましい。当然のことだ。

しかし、その金銭を受け取るなと、オーディンには言えなかった。ブライトン家の財産の譲渡もあるが、その財ですら、抑も国民の税金で成り立っている。

「みんなローズに会いたがっています。普段はともあれ、子ども達と居るときの彼女は、明るくて本当にすばらしい女性でした。料理も結構彼女に教わったんですよ」

彼の信仰心が薄いのが、何となく解る気がしたオーディンだった。また彼の発言は、オーディンの考えをひっくりかえすものだった。きっと自分なら、『清貧』を選ぶだろう。だが、それだけでは生きてゆけないのだ。次に苦労の多そうな、この道を選んだ理由が気になる。

「なぜ、孤児院を?」

「ははは、それですか、それは、五年ほど前で、私が社会人としての権利を得たときからです。きっかけは、親戚中を盥回しにされたのが本音ですか……、この髪の色のおかげでね。だから、せめてそう言う子共が一人でも、居なくなればと……、でもなかなか難しいですね」

彼はいとも簡単に自分の過去を笑って語っている。まるでもう傷は癒えたかのように……。

「立派な男だな、君は……」

自分とは対照的な精神力の彼が妙に羨ましい。オーディンがほめると、シンプソンは何とも照れて困った様子で、顔を赤くし、にたにたと笑う。

「そうでもないですよ。子ども達の見本になるどころか、恥ばかり曝してますよ。ははは」

「ははは。そうか……」

二人は孤児院が小さく見えるほど歩いたが、それでも、敷地の半分くらいの距離だそうだ。敷地と言っても、孤児院以外は、だだっ広い野原だ。村が向こうの方に転々と見える。それでローズが、可成りの援助をしていることが解る。

オーディンは、悪に対して潔癖だ。彼から見れば、賞金稼ぎなど賊となんら変わりはない。だが、彼等にとっては、それは悪ではないのだ。生活に不自由の無かったオーディン。いま彼は、本当の意味で、民衆の位置にいるのかも知れない。

そのあと彼は、此処が自分のいた大陸ではないことをシンプソンとの話の中で、気がつく。船で何カ月もかかる旅路を、彼はたった一夜にして終えてしまったのだ。彼の中に声が響く。「死んではならない」と言った男の声。何故かは解らないが、きっとその男が、何らかの力で、此処に運んでくれたに違いない。

暫くたってシンプソンは、村に用事があるので、出掛けてしまった。彼は、神父?の他に、魔法を活用して、ドクターもしている。本人曰く、可成りの腕前だそうだ。謙虚そうな彼がそう言うのだから、きっと相当な腕なのだろう。オーディンは、一人になってしまう。一人草原の中に座り込み、草をむしりながら、暇を持て余している。

〈私は、これから何をすれば、良いのだろう……、この異境の地で……、セルフィーは、どうなったのだろうか……〉

半ば、ホームシック的に、色々な思いを脳裏に駆けめぐらせる。その時だった。彼の顔を、小さく、柔らかな手が、覆う。

「だーれだ!」

オーディンは、遠慮無く覆い被さったその手の上から、自分の手をかぶせてみる。だが、誰かは解らない。

「誰かな?」

その手を握りしめ、後ろを振り返ってみると、そこには、ジョディが居た。

「えっと……」

まだ名前の覚えきっていない彼には、彼女の名前が出てこなかった。それにすかさず、オーディンの顔の横に、自分の顔を突き出して、自分の名前を言う彼女であった。

「ジョディだよ。何してるの?一人で」

それから、一杯一杯に彼の首に腕を廻す。しがみつくと言った表現が、ぴったり来るほどだ。オーディンも、目だけは彼女に向けて、顔を正面に向ける。

何をしていると言われても困る。何もしていない。暇を持て余していただけだ。その暇の持て余し方すら、今の彼には解らない。

「君こそ、シンプソンに言われて勉強していたのではないのか?」

彼女の質問を、はぐらかすようにして、質問を切り返してみた。

「だってぇ、お勉強つまんないもん、もっと沢山遊びたいよ」

本当に勉強するのが、嫌いと言った感じで、口をとがらせて、言う。

「それはダメだな、勉強しないと偉くはなれないぞ。私も昔は、君のようにそう思ったが、やはり勉強はして於いて良かっと今では思っている」

「でもぉ……」

彼女は、やっぱり、不服そうに、口をとがらせる。

「なら、こうしよう。私が勉強を見てやろう。それで、勉強が好きになれなかったら、何か欲しいモノを買ってやろう」

オーディンは、自分の首に回っている彼女の手を解き、自分の膝元へと導く。それから、頭を撫でる。少し自信有り気だ。そして、何かをするには一つの目標があると非常にやり易いことは、経験で分かり切っている。ただ無意味に頑張れと言われることほど、辛いものはない。

「ホント!?」

彼女は、無条件に喜ぶ。目をキラキラさせて、オーディンの顔を見つめる。それから、善は急げと言わんばかりに立ち上がり、オーディンの手を引いた。オーディンは、クスリと笑う。そんな無防備な笑みを見せる彼は、本当に、久しぶりだった。

その頃、シンプソンは、村中を回って、病に掛かった人の治療などにいそしんでいた。この村は小さく、医者が居ないほどだった。今では、彼がその代わりをしている。もはや彼は、村には、欠かせない存在となっていた。

「おばあさん、今日はこんなもんでしょう。また今度何かあったら来ますから」

「ええ、済まないねぇ……」

「それではお大事に」

玄関で見送られ、礼程度の賃金を貰った後、彼は、再び孤児院に、戻ることにした。村から孤児院までは、大体二十分と言ったところか、それほど遠い距離でもない。だが、孤児院に帰る頃には、もう日が傾いていて、夕食をしても、遅くない時間となっていた。そう思った瞬間だ。気のせいだろうか、とたんに、あちこちから良い匂いがしてくる感じがする。

〈もうこんな時間ですか……、これは帰ると、子ども達が、五月蝿そうですね……〉

シンプソンは、いそいそと孤児院に向かう。だが、彼の予想とは裏腹に、孤児院では、食堂で、オーディンが、勉強の質問攻めにあっていた。

「ああボブ、それは、こうして、ああして……、ほら、解けた」

「ホントだ!!」

子ども達は、食事のことなど念頭になく、時間も忘れ、勉強に没頭していた。シンプソンは、呆然としていた。いつもなら、帰ってくるなり、食事の催促をする子ども達が、何も言わず、大嫌いな勉強をしているのだ。

「やあ、帰ったのか?済まない、勝手なことをしたようだが……」

「いえ、それは、構わないのですが……ははは」

食事の後も、オーディンへの質問攻めは、続いた。そして、シンプソンが漸く彼等を寝る時間だと説得して、部屋へと追い返すほどだった。シンプソンは、その労をねぎらって、彼の部屋で、彼の入れたコーヒーをオーディンと共に飲んでいた。

「ご苦労ですね、それにしても、みんな貴方に、なついたようで良かった」

「ああ、私もそう思う。何の縁かはしらんが、此処に来て良かったと思う。まだ起きて一日だと言うのに……」

コーヒーを、一すすりして、やっと落ちついた様子を実感できた。ホッと息をつく一時である。

「それで、いつまで此処に腰を落ち着けられそうなのですか?国に心配している人が居るのでしょが……」

「それが……」

オーディンは、数日前までの自分の身の上を話す。もちろんドラゴンと戦ったことだ。その戦友と、自分の愛した女の話、そして彼女が死んだこと、それにその友人がどうなったか、気がかりになっていることをだ。さらりと話せる内容ではないが、命の恩人に、ふてくされた態度は見せなかった。

「そうですか……、そんなことが……」

オーディンが不思議にこの土地へやってきた理由が分かる。そして彼の故郷が大変なことになっていることも知る。本当ならば今すぐにでも帰るべきだと、シンプソンが口にしようと思った瞬間だった。

「どのみち、帰るには遠すぎる国だ。すぐにともいくまい。なら、せめてもの礼儀として、恩義だけでも返して行かねばなるまい」

「そんな、とんでもない!人として、当然なことをしたまでですよ」

シンプソンは、慌てて、コーヒーカップをテーブルに置き、両手を目の前で、ぶんぶんと振り回した。彼はあくまでも謙虚だった。決して、恩を売ろうとはしない。

「コーヒー、美味かったよ」

オーディンには、その慌てぶりがなんとも新鮮だった。素朴というのだろうか、そんな感じがする。オーディンはコーヒーが空になると、席を立ち背中を向ける。

「ええ、お休み。ではまた明日」

シンプソンは、すぐに取り乱すのをやめる。いつもの穏やかな、彼に戻るのだった。

オーディンは、部屋を出て、自分の部屋へと戻ることにした。ベッドに倒れ込むようにして、仰向けになる。両腕を、頭の後ろで組み、薄暗い天井を見つめる。季節が涼しいせいか、虫の寝が聞こえた。だが、やたらと静かに、感じられる。ふとニーネの笑顔が浮かぶ、何故だろう。死んだと思った筈の彼女の顔が、妙に生々しく側に感じられる。数日前に抱いた彼女の温もりが、汗ばむ掌によみがえってくる。

〈ニーネ、本当に君は、死んだのか?セルフィー……、奴は、何をしているだろう〉

そのうちに、一日の疲れが、彼を包み、眠りへと誘った。

「……ディン、オーディン、朝だよ」

誰かの声がする。身体を揺さぶられているのを感じた。

「う……ん」

スッキリしない感じで、目が覚めた。側で彼を揺すっているのはジョディだ。何故か彼女は、オーディンが気に入ってしまったようだ。彼女の名前と顔は、もう一致した。だが、眠気が取れず、まだ起きたくない心境だ。いつも規則正しい生活をしていた彼だったが、さすがに、起きた直後に動き回ったのが祟ったようだ。疲れがとれていない。

「みんな起きてるよ。ご飯冷めちゃうよ」

「うん、ああ……」

返事はしたものの、それだけで、動く気はない。すると、今度は、シンプソンが入ってくる。

「こら!ジョディ!!彼は疲れてるんですよ。そっとしておいてあげなさい」

「でもぉ……」

ジョディより、怒鳴っているシンプソンの声の方が五月蝿い。眠たいが、もう寝る気がしなくなった。不機嫌な顔をしながら、ムクリとベッドの上から起きる。

「あ、おはよう……ございます」

「ああ……」

シンプソンの挨拶に、ムスッとした顔で、答える。

「おはよ!」

ジョディは、元気いっぱいだ。



食事の後、二人で、村に出掛ける。村中を案内してくれるそうだ。やはりオーディンは、素顔を曝すのを、苦にして、仮面を付ける。子ども達は、この姿の彼は、嫌いなようだ。きっと冷たい感じがするのだろう。

「似てるんですよ」

「え?」

「彼女の父親に、そっくりなんですよ。盗賊に襲われて死んでしまったそうです」

〈なるほど、それで私に……〉

その後、暫く会話が途絶える。特に話す理由もないし、話す内容のある話もない。シンプソンは、何気なく澄ましているが、彼は、今一何を考えているのか理解できない。もちろん悪人ではないようだが、考えが読めない人間は気になる。明るいのか、根暗なのか、それさえも解らない。だが、子ども達と居るときは、少なくとも明るい。それと、そそっかしいことだ。自然なだけなのだろうか?

村に来ると、一つ気が付いたことがある。それは、しけた感じがしないことだ。建物が、十年を越えてそうのモノがあまりない。年代を区切ると難しいが、とにかく古そうなモノはない。人間は、古いのやら、新しいのやら色々居る。畑で作物の手入れをしている人数を見ると、思ったより人間が居そうである。

「どうしました?キョロキョロとして、何かありますか?」

「いや、思ったより、人が居ると思ってな。生活には、不自由は、なさそうだ」

「ええ、でも、世間の情報が入り難いんですよ。今一……、山奥ですから、仕方がありませんがね、あ……、今日は、新聞が来る日ですね、何か面白い話があればよいのですが……」

この時代の新聞は、魔法による通信で、世界中に情報が伝達され、あとは、筆記による記事の手直しと、凸版印刷による大量生産が、一般的だった。そのせいで、大きなニュースは、割合世界に伝わりやすかった。その半面、交通網は、駅馬車や、船が一般的で、その他は、大抵徒歩で、かなり文明的に遅れが生じている。蒸気エンジンはもちろんのこと、エレクトロニクスが無いことは、言うまでもない。ただ、魔法考古学学会により、魔法による飛行が、研究され始めていた。このきっかけになる古代遺跡を発見したのは、マリー=ヴェルヴェットと言う女で、学者の卵だったが、五年前に、不慮の事故で死亡した。それ以来、確信的に古代魔法を発掘する行動的な学者が居なくなってしまった。人が空を飛ぶのは、五〇年先になりそうだという目測があるくらいだ。話は元に戻る。

「おやおや、シンプソンさんじゃないか、往診かい?」

一人の老婆が、親しそうに、彼に話しかけてくる。

「ええ、もう足は良いんですか?」

「あんたのおかげさ、もうすっかり良いよ。所で、そちらの身なりの立派なお方は?」

「ああ、此方は、オーディン=ブライトンさん、えっと……」

オーディンが此処に来た理由を言おうとしたシンプソンだったが、そんなモノはあるはずもない。彼は、何かの力によって、強制転移させられたのだ。

「移住です。静かなところに住みたくてね」

「だ、そうです」

と、取り敢えずその場はそう繕う。こうなると悪いことをしたわけでもないのに、何だか自分が、怪しい人間に思えてくる。などと思っている間に、シンプソンは、歩き出してしまう。村を案内してくれると言ったが、ただブラブラ歩いても仕方がない、きっと他に、どこか行くところでもあるのだろう。

「そうかい、おっと用事があったんだわさ……」

老婆は自分なりに急いだ様子で、通り過ぎて行く。


暫く徒歩が続く。


今度は、シンプソンが畑の方を眺め、キョロキョロとし始める。

「あ、居ましたね、長老!」

「やあ、シンプソン君、どうしたんだね」

シンプソンが、村の長老に向かって挨拶をすると、彼の方に長老がやってきた。シンプソンが、彼に直接会いに行くときは、決まって何か用事があるときだった。長老と言っても、自給自足は、この村には欠かせないことなので、偉そうにはしていない。自ら手に汗して働いているのだ。

「一寸、入り組んだ話がありまして、その……、その、この人は……」

「オーディン=ブライトンです。宜しく」

オーディンが、名を名乗り、握手のために手を差し出した。その時に。オーディンの名前に聞き覚えがあるらしく、少し驚いた顔をしている。

「オーディン=ブライトン、ヨハネスブルグの英雄として、名高いあの男が……、取り敢えずわが家へ行こう」

どうやら彼は、オーディンの名前をしているようだ。シンプソンは、何のことなのか解らず、キョトンとしている。兎に角畑を突っ切って、彼の家に行くことにする。その時に、オーディンの容姿の良さに、村娘達が、彼をじろじろ見回した。

間もなく、彼の家に着く。さすがに長老と言うだけあって、それなりの住まいだ。部屋数も少々多めに見える。外見の装飾などは、他とは変わり無い。家に入ると、彼の奥さんらしき人が出迎えてくれ、そのまま応接間へと導いてくれた。紅茶も入り一息着いたところから、再び話が始まる。オーディンは、自分が此処に来てしまった経緯などを話す。そしてドラゴンの出現も、全ての話が漠然としていた。全てが理解できないままに、崩壊してしまったのだ。そして自分は、生きている。

「なるほどな、お主の話は解った。ドラゴンか……、超獣界……、黒装束の女、お主の言う女は、風貌からして、おそらく伝説にある黒の教団をまねたモノだな」

どうやら、この長老は世界に精通しているらしい。なるほど、シンプソンが彼を頼ってきた理由が何となく分かるオーディンだった。

「黒……の教団?」

なんとも、如何にも妖しげな集団の名前に、眉唾だと、オーディンは眉をひそめる。

「ああ、太古の昔に、人間の心を邪悪に惑わせた。恐るべき悪魔の教団……、しかし何が目的なのか、儂も伝え話程度にしか知らぬが、おそらくそれに間違いは無かろうて……」

「あの済みません、英雄というのは?」

シンプソンは、オーディンがドラゴンと戦った挙げ句に、此方に飛ばされた話は聞いたが、彼がヨハネスブルグの英雄だと言うことは、全く聞かされていない。

長老は、話しを迅速に進めるために、シンプソン対して、自分の知る限りのオーディン英雄伝を、彼に話す。

「そんな凄い方だとは……」

「止めてくれ!私は、決して英雄などではない……決して……」


其れは、今より十年も前の昔話。


オーディンが英雄と呼ばれる理由。それは、オーディンが二十歳の頃。大魔導戦争という、ヨハネスブルグ王国全域を、脅かす苛烈な戦争があった頃の話だ。戦争だが相手は人間ではなく、魔導師の呼び出したデミヒューマン、ドラゴン、スペクターがその対象だった。どれも人間とは比較にならない強さの持ち主だ。だが、その地に一人の英雄有り、マックスティン=ブライトン、オーディンの父だった。一騎当千と唄われ、彼一人で、ヨハネスブルグを護っていたと言っても、過言ではなかった。だがその父も、魔導師との対決に破れ死去。オーディンは、その意志を継ぎ、父をも凌ぐ強さで、魔導師に奪われた領土を、次々と奪回。そして大魔導遠征、百人の精鋭を揃え、討伐に出掛ける。

「みんな、魔導師の居る砦まで、後もう少しだ!!平和を取り戻すぞ!!」

「おお!」

オーディンが剣を天に突き刺し雄叫びをあげると、皆が活気づいた。そうして、魔導師を最後の砦まで追いつめろる。

「諦めるんだな……、貴様の最後だ。魔導師よ」

オーディンが、魔導師の前に立ちはだかり、矛先を突きつける。横には、セルフィーが居る。

「バカめが!お前等如き、私の相手ではない!サウザンド=レイ!」

「何!」

一瞬だった。怒涛のような赤い光りが走り、その場にいた殆どが、光りに貫かれ惨死してしまう。オーディンは、とっさに自分とセルフィーの身を、無意識のうちに護っていた。目の前には、血の海に埋もれた同胞が肉片になって転がっていた。

「ああ……」

オーディンは、苦楽を共にした仲間の死に跪き、放心状態になった。そして思った。父の勝てなかった相手に、自分が勝てるはずがない、と。その愕然としているオーディンの左頬を、冷たく青白い手がしなやかに妖艶に魔導師が触れた。

魔導師が見つめる。男性、女性どちらとも取れる中性的な美しい顔が、オーディンの側に近づき、彼の瞳を捉えた。その鮮やかに黒い瞳に吸い込まれ、何も考えられなくなってしまう。

「すばらしき男よ。お前は殺すには惜しい……、どうだ?私と共に、世界を統べようではないか……」

「あ……あ……」

もはや彼は、恐怖を越え、怒りを越え、魔導師のなすがままになりつつある。剣の柄を握っている手が、戦意を失い、ゆるみ始める。

「ダメだ!オーディン!!諦めるな、ニーネはどうなる!!」

セルフィーは、震えながらも声を出し、オーディンに触れている魔導師の腕に剣を振り落とし、魔導師の腕を叩き斬った。

「ぎゃあ!」

魔導師が苦痛に叫ぶ。

オーディンは、セルフィーの言葉に我を取り戻し。剣を振り上げ、魔導師の胴体をまっぷたつに切り裂く。

「うあああ!!」

半狂乱になったオーディンは、大声を上げ、何度も魔導師の死体に剣を切りつける。気が付いたときには、滅多切りになった魔導師の死体が転がっていた。そして、魔導師の触れていたオーディンの左頬には、彼が悪に心を許してしまったばかりに、一生消えぬ醜い焼け跡が残る。そう、オーディンは一瞬たりでも、悪に心を売ろうとした自分を恥じているのだ。


オーディンは、二人に事実を打ち明ける。しばし沈黙の時が流れる。オーディンと共に戦ったセルフィーなら、彼をなぐさめることもできる。だが、話だけを聞いた二人が、彼に声を掛けたところで、同情にすらならない。

「うむ……、お前さんの話は解った。その傷は何れ癒せ、今は、君を襲ったという、その黒装束……、気になる。出来る限り、力になろう」

彼は、漠然とした史実は知っているようだが、それ以上のことは解らないらしい。話が纏まらないまま、皆が一旦、息を付いたところだった。彼の奥さんが、ノックと同時に入ってくる。無論、挨拶をした上でだ。

しかし、其れだけの事実を受け止められる人間であるという事実。この長老はやはりただ者ではない。シンプソンはその事を知っているのか?いや、其処までは知らないらしい。ただ、シンプソンのような存在が受け入れられているのも、彼のような長老が存在するからだろう。

「あなた、新聞が来ましたよ」

「おお!そうか、儂はこの週に一度の新聞が楽しみでな、隣町から三日かけて、漸くじゃ」

長老は、嬉しそうに新聞をテーブルの上に広げる。奥さんは、用が済むととっとと出ていってしまう。皆でそれを覗き込む。新聞の第一面には、なんと、ヨハネスブルグの情報が載ってあった。

「これは!!」

オーディンが、食い入るように見たその記事は、ヨハネスブルグの壊滅的打撃と、解る範囲での死亡記事が、載ってあった。オーディンは、それを知ると、ガクリと肩を落とす。

「どうしたのですか?」

シンプソンが心配げに、オーディンの顔を下からのぞき込む。

「セルフィー……」

彼はこの時、初めて親友が命を落としていることを知った。もはや、愛する人だけでなく、友までも失ってしまった。もうヨハネスブルグに、帰る理由はない。だが、自分の知人がどうなったかを知るため、記事に目を通す。残念ながら、セルフィー以外、自分の知人に関する情報は、皆無だった。

それから、二面目を読み始める。やはりヨハネスブルグでの出来事が、再三に渡って、書かれている。今度は別の題字が飛び込む。「英雄よ。永久に……」、まるで映画のタイトルのようで、腹立たしかったが、記事は、セルフィーと、オーディンを称えた記事だった。記事中には、オーディンは、行方不明者として扱われていた。

きっと生き残った騎士団か誰かが遺体の見つからないオーディンの事を、可能性をコメそう伝えたものだろう。オーディンにとって、長老の家にいることは、もはや無意味となっていた。黒装束は気になったが、この異境の地に来ることはないだろう。ヨハネスブルグに帰る理由が無くなった今、全てにおいての関心が消え失せた。その長老の家からの帰り道だ。

「オーディン……、気を落とさずに」

「有り難う。シンプソン」

その言葉とは裏腹に、孤児院に着く頃になっても、オーディンは、彷徨うような足どりで、一歩一歩足を進める。孤児院に着くと、新聞を持ったジョディと、みんながうわっと、押し寄せるようにして二人を囲んだ。

「ねぇねぇ、オーディンって、もう、お家に帰っちゃうの?」

ミカが言う。

「うそよ!オーディン、もう少し居るって言ったもん!!」

ジョディが、すぐさま反論して、首を横に振って、ムキになって言う。そのうちに、子ども達は、帰る帰らないで、おおもめに、なり始めた。

「そうだよ!オーディンが居なくなったら、勉強教えてくれる奴が、居なくなっちゃうんだぞ!!」

今度は、ボブが、拳をぶん回して、ジョディに同調する。

「オーディンも、家族が居るから、帰っちゃうよ。多分」

「マック!五月蝿いぞ」

ボブが、マックを威嚇する。

「五月蝿い!!何ですかみんな、静かにしなさい!!」

シンプソンが、つま先立ちになって、怒鳴って見せたが、彼等の騒がしい様子は、一向に止もうとはしない。それどころか、ますます騒がしくなる一方だ。

「ねぇ!オーディンていつまで居るの?」

最初に言い出したのは、やはりジョディだが、皆、彼の服やら何やらをひっ掴んで、口々にこう言い出した。彼等の態度は、明らかにオーディンを必要としていた。昨日の出来事だけだったが、それをきっかけとして、彼を、必要と感じているのである。

「ねぇったら……」

ジョディが、オーディンのズボンを引っ張りながら、彼の答えるのを急かしている。オーディンは、重いながらも、口を開く。

「みんな……、いつまで……、居て欲しい?」

腰を落とし、彼等の視線で訊ね返した。それぞれと目が合う。そこまでの答は、考えていなかったようで、とたんに、静けさを取り戻す。互いに目で合図しあいながら、答を探している。だが、彼等はそれを言えないでいる。答の不一致が恐いのか、本当はどうか解らないのか、遠慮をしているのか、あるいは、誰かが言い出すのかを待っているのか、兎に角なかなか、言い出そうとはしなかった。

「それでは、私は、答が出るまで、皆と一緒に考えよう。良いかな?」

オーディンはそう言った。恐らく自分がいま、そうしたかたからだ。どんな小さな事でも、自分を必要としてくれる存在が居ることが、寂しさの中にも落ち着きを取り戻させてくれた。

「うん!」

ジョディは、満足だったようだ。他の子ども達も、それぞれに答が出たようだ。納得をして、不安気な表情が彼等から消える。

「さあ、取り敢えず。昨日の続きだ!」

昨日の続きとは、彼等の嫌いな勉強だ。だがオーディンがこう言うと、イヤな顔をする者など一人もいない。わあっと、大人二人を囲むようにして、孤児院へと歩き出す。

〈これで良い……、少なくとも、この笑顔には救われる。それに彼等は、私を必要としてくれているではないか……〉

オーディンは、まだ心に迷いがあるものの、此処にとどまることを決心した。ヨハネスブルグの英雄、オーディン=ブライトンは、もう死んだのだ。そして、新しい生活が始まるのだ。


全ての謎を、宙吊りにしたまま、彼は子ども達の中に溶け込んで行く。



時は少し流れ、二週間ぐらい経った日のことだ。



その頃になると、彼も貴族風の衣装を纏わなくなっていた。極普通の、服装になっていた。

だがしかし、オーディンの心の傷は、未だ癒えることはない。子ども達の前ではいざ知らず、孤児院から出るときは、未だに仮面を付けたままだった。

オーディンは、暇を見つけては、孤児院の庭の広い、美しい景色に目をやり、心の空洞を見つめ直していた。涼しい風が、素顔のままの左半分に、自棄に寂しく感じた。

〈本当に、これで良いのだろうか……〉

そうしていると、大抵ジョディが、オーディンを見つけだしては、彼の膝の上を求めてくるのだ。この日もそうだった。

「オーディン、何してるの?」

「ああ……、いや、別に、勉強は、どうした?」

「オーディンが居ないと、つまんないよ」

「そうか……」

こうして、いつも皆の元へと引き戻される。二人が、いつも通り孤児院に戻ろうとしたときだった。空中に、いきなり人間が現れ、ドスンと落ちてきた。

「イタタタ!」

その人は老人で、白い顎髭を立派に蓄えている。さすがにいきなり現れたので、掛ける言葉がない。それほど高い位置から落ちたわけではないので、怪我は打ち身程度のようだ。老人は、ムクリと起きあがり、辺りを見回す。

「ここは……、どこかのう」

「大……丈夫……ですか?」

一寸吃驚気に、オーディンは訊ねてみる。それと同時に自分が空から降ってきたときも、こんな感じだったに違いないと、想像してしまう。ジョディは、怯えて、オーディンの足にしがみついている。

「ああ、なんとかのう、所で此処は?」

向こうも此方に気が付いたようで、返答をしてきた。どうやら本当に、大丈夫のようだ。

「えっと……」

此処と言われても、困ってしまう。何せ、この村には、名前がない。取り敢えず位置で、説明することにした。

「西バルモア大陸にある、内陸のサンドレア地方の名もない農村ですが……、あなたは?」

「うむ、そうか、それでは実験は成功かな?儂はバハムート、此処から南のブラキア大陸からやってきたんじゃが……、おっと、此処に、サムステンという名の男はおるかな?」

「ええ、居ますよ」

サムステンとは、長老の事だ、どうやら、彼の客人のようだ。

バハムートは、知る人ぞしる考古学学会での長たる人だ。今までに残した功績は、数しれない。今は引退をして、静かな山奥で暮らしている。俗に言う、偏屈なのかも知れない。オーディンは、博学だが暫くこの名前を思い出すことが出来なかった。

「良ければ、ご案内いたしましょうか?」

「ああ、頼むよ」

この時に、オーディンのひどい傷が目に入ったのか、しばしば彼の左半面に、バハムートの視線が集中する。オーディンも、それを少し意識していた。

「ジョディ、済まないが、部屋から、仮面を取ってきてくれないか、風が冷たい」

「うん」

彼女は、そそくさと走り出す。オーディンの頼み事を断るわけがなかった。彼女も父親が帰ってきた錯覚に、つかの間の幸せを感じていたのだろう。その間も、バハムートの視線が、自分の顔に突き刺さるように感じる。少し感に触り始めたので、冷たく低い口調で、こう言った。

「何か……」

「あ……、いや、失礼」

と、即座にバハムートの方も詫びを入れる。先ほどのオーディンとは違い、妙にイライラした感じで優しさの欠片も見られない。ただ、早くジョディが、仮面を持ってくるのを待つだけだ。そんな落ちつきのない彼を見ていると、見ている方も早くそんな状況を、打開したくなる。暫くすると、漸くジョディが仮面を持ってくる。

「はい、持ってきたよ!」

「ああ、有り難う」

オーディンの手が、ジョディの頭に伸び、クシャリと一撫でする。彼は、子どもの視線を忘れない。必ずしゃがみ、彼女の目の高さから話しかける。ジョディが、ニコリと微笑む。オーディンも吊られて、目を細める。

「少し、出掛けてくる。いい子にしてるんだぞ」

「いつも、いい子だよ」

「そうだな……」

互いに、見合わせたように、微笑みをもう一度交わしあう。この頃には、普段のオーディンに戻っていた。

「さぁ、行きましょうか」

「うむ」

オーディンは、バハムートの名前が気になっていたが、なかなか思い出せない。考えもって歩いていると、村娘などが、声を掛けてくる。

「あ……、オーディンさん、お出かけですか?」

「ええ、長老に、尋ね人が来たもので、これから少し、ね」

少々の会話を交わすだけだが、彼女達が意識をしてオーディンに声をかけているのは、歴然と解ってしまうほどだった。皆、何故彼が、仮面をしているのか解らなかったが、大抵の者は、その瞳の深き青に魅了されてしまう。もっとも、オーディンにその気など全く無い。いつも心の中に、ニーネが居るのだ。

「オーディン、はて……何処かで聞いた名じゃが……、此処にはサムステン以外、知り合いもおらんし……」

オーディンは、特に何も答えない。昔の事などもはやどうでも良いことだ。気が付くまで、放っておくことにした。

バハムートは、何やらぶつぶつと言っている。オーディンのことが、かなり気になっているらしい。オーディンも、彼のことが気になる。互いに、互いのことを気にして歩いていると、やがて、長老の家に着く。

「此処ですよ」

「おお、そうか」

オーディンが、早速ノックしてみる。一寸間をおいて、すっかり顔見知りになった、彼の奥さんが、迎え出てくれる。

「まあ、オーディンさん、どうしたのです?」

「ええ、長老に、会いたいとかで、此方の方が……」

と、バハムートを彼女に紹介する。すると、互いに顔見知りであるようで、抱き合って久しぶりの友の再会に、歓喜の声を上げた。

「まあ!お久しぶりですこと!」

「マリエッタ!元気そうじゃのう。サムステンはいるか?!」

「ええ、さ、お二人とも入って、あなた!あなた!」

彼女は、いそいそと家の中に彼等を導き、興奮気味に旦那を呼ぶ。向こうも何事だと、バタバタと走ってくる。

「何事だね!騒がしいぞ」

「それが、バハムートが」

オーディンと、バハムートが、玄関から彼女を挟むようにして、長老の前に立っていた。長老にもバハムートの姿が目に入る。

「おお!こんなに早く!それにしても、老けたなぁ!」

「何々、それはお互い様じゃ!!わはは」

友が再会する姿は、本当によいものだ。二人の老人が、何だか若々しく見える。肩を組み合って、笑いあっている。どうやら三人は、旧知の仲のようだ。オーディンとセルフィー、ニーネと、同じ様な関係なのだろうか、オーディンは、少し羨ましく思う。彼には喜びも悲しみも分かち合った友がもう居ない。彼等の邪魔にならないように、そっと立ち去ろうとしたときだった。マリエッタが引き留める。

「あらまぁ、ゆっくりなさって行けば良いじゃありませんか、シンプソンさんも、いらっしゃってますよ」

「え?シンプソンが……」

「おっと、そうだった。君にも話があるのだよ、オーディン君」

長老が、再会の喜びも一入に、皆を引き連れて、居間に入って行く。そこには、シンプソンも待っていた。長老はそこで、互いの紹介の仲介をしてくれた。その時に、漸く互いの正体が分かる。互いに、有名人にあったことを、素人っぽく驚いてみせる。行く道こそは違うが、互いに尊敬すべき相手だ。

バハムートを呼んだのは長老だった。最もこれほど早く来るとは、予想もしていなかったという事だ。

「どうやって此処に?手紙が着くのでさえ、時間が掛かる筈なのに」

「なあに、実験中の魔法でな。少し場所がずれたみたいじゃが、まあ、問題無しじゃ」

「相変わらずだなぁ、まだ古代魔法の、研究をやっているのか」

「うむ、お前さんは、冒険家を、引退てから、久しいのう」

「歳には、勝てぬさ」

また笑いあう。暫くそう言う思い出話がつきなかったが、ややもすると、長老の雰囲気が少し変わる。これを皮切りに、バハムートもシンプソンも、急に重苦しそうに、その雰囲気に飲み込まれる。長老が言う。

「実は、お主に、会わせたい男は、この男なのだ」

「なに、オーディン殿を?」

「済まぬがオーディン君、酷であろうが、もう一度君が此処へ来た経緯を、彼に話してやってくれぬか?」

どうしても、痛みを忘れることは許されないのだろうか、それは彼に一生つきまとうものなのかもしれない。「ええ」

彼のために集まったのだ、話さぬ訳には行かない。あの熾烈な場面が、再びオーディンの脳裏に、克明に、蘇ってきた。友の死、ドラゴンの群、謎の女、黒装束、そして不思議な声による導き、全てをバハムートに話す。

「黒装束の女……、もしやその黒装束の女とは、黒の教団の事では?」

「知っているのですか?」

「うむ、ちと(一寸)な」

此処でバハムートが、自分が此処に来る前に、直接名前は出さなかったが、一組の賞金稼ぎに出会ったことを話す。彼等が、すでに黒の教団と出会っていることだ。その事から、黒の教団は一地方にだけに存在しているのではなく、世界的に散らばっていると、考えた方がよい。だが、取り敢えずその事は、おいておくことにした。

長老が、気にかけたことは、的を絞って二点あった。一つは、何故オーディンが襲われたのか、もう一つは、ドラゴンを大量に呼びだしたその女のことだ。何故なら、ドラゴン一匹で、十分に世界を混乱に陥れることが出来るからである。それを、オーディン一人のために複数呼び寄せたのだ。そこで、魔法考古学、異世界に詳しい、バハムートを呼んだのだ。昔の冒険野郎の血が騒ぐのだろう。まるで、秘宝の秘密を、探求するかのように、目を深く輝かせている。

「済みません、私のために、何だか大げさな、事になってしまったようで……」

彼にとっては、もはやどうでも良いことだった。いや、無理に心の奥底にやったものだが、それでも捨ててしまったことに、自分以外の者が、そこに懸命に携わろうとしている。申し訳なく感じてしまった。

バハムートが言う。

「いや、かまわんよ。興味がなければ、遠路遥々こんな所には、来やせん」

「そうとも、何だか、三人で冒険した頃を、思い出すよ」

長老も、これに同意する。

三人とは、彼とバハムート、それにマリエッタのことだ。冒険……。戦争以外、遠征をしたことのないオーディンには、何がよいのかは、解らないが、彼等は目を輝かせている。だが巫山戯半分ではない。バハムートが、話を続ける。

「よいか、『怒れるドラゴンの出現は、世界の崩壊の前兆にあり』、これは、ドラゴンの持つ超常能力所以に、生まれた言葉じゃが、満更それだけではない。それは、ドラゴンを呼び出せるほどの術者が、悪に力を貸しておるからじゃ。その者は、何れ何処かで私欲に満ちた悪行を働く。もしその術者が黒の教団の者なら、狙うは世界!」

「世界?!」

オーディンがその大げさなバハムートの発言に、声を裏返しそうになってしまう。

「そう、世界じゃ、つまりお主はとんでもない事に巻き込まれた訳じゃ、だが、何故お主がそれに巻き込まれたか……じゃが、心当たりはないのか?」

「いえ……」

ただ、首を横に振るしかない。だが、彼が狙われた事実は、ひっくり返りそうにはない。オーディンは、急な話の広がりに、沈黙してしまう。

〈世界、何のことだ。私にどうしろと……〉

オーディンが沈黙していると、バハムートが彼の肩をポンと叩く。

「己が行くべき道を行けばよい。時が来れば自ずと道が開かれ、成すべき事が自ずと解る。今は休め」

バハムートの言葉には、不思議な説得力があった。長きに亘る彼の人生経験だろうか、それとも古を追求する男だからだろうか、不思議とその言葉に、安心を覚える。

何処からか、時計がボーン、ボーンと鈍い音を響かせる。隣の部屋かららしい、それは五回なる。

「あ、シンプソン、そろそろ家に帰らないと子ども達が……」

「そうですね、早く帰らないと五月蝿いですからね。帰りますか」

と、席を立つ二人。そう、オーディンが今すべき必要な事は、子ども達とやすらぎの一時を過ごすことだ。

バハムートは、暫くこの地に留まるらしい。旧友と暫し、思い出話に花を咲かすのだそうだ。だが、彼がいざ帰ろうとすると、魔法が悉く不発に終わり、帰るに帰れなくなってしまった。仕方がないので、呪文の修正をしながら、此処に留まることにする。それから、シンプソンに頼まれて、子ども達に魔法考古学を教えることになる。何れ独り立ちする子ども達のことを、思ってのことだろう。

それから何日か経ったある日のことだ。珍しいことに、シンプソンから皆へ、外で遊ぼうと言い出した。運動神経の鈍そうな、彼がこんな事を言うのは、本当に珍しいことだ。

だが外へ出ても、シンプソンは、余り激しい運動はしない。遠くの方から、子ども達を見守るだけだ。オーディンも、暫し戯れた後、休憩を入れるためにシンプソンの横に座る。孤児院にいるときのオーディンは、仮面など付けない。素顔を曝したままだ。

「私も歳かな?疲れたよ」

「そうですか……」

シンプソンの返事は、素気なかった。目は絶えず彼等を見ている。おだやかな表情だ。それから彼の方から、オーディンに話しかける。

「見て下さい。彼等の顔……、あんなに、楽しそうに……」

「ああ……」

「彼等は、周りの環境に敏感です。生かすも殺すも大人次第、私、自信をもてるんです。あれほど明るい彼等を見ていると、今していることが間違ってはいない……ということ……」

彼は、自分の生き甲斐に目を輝かせ、納得のいった男の顔をしている。シンプソンは、時々この顔を見せる。それから、また話しかけてくる。

「どうですか、心の傷は……、癒えましたか?」

「いや、残念ながら、外へ出るときはまだ仮面に頼ってしまう。だがそれもあの子達と居れば何れ……」

「そうですか……、その日が早く来ると、良いですね」

「ああ……」

冬の兆しの見える森達、涼しすぎる風の駆け抜ける野原で、オーディンの心の中だけは、徐々に氷が溶け始めていた。ボブが側に駆け寄ってくる。

「シンプソンもしようよ。鬼ごっこ」

「そうですね、一寸、行って来ます」

「ああ」

シンプソンは、ボブに手を引かれ、蹌踉けながら走って行く。もう少し運動をした方が良さそうだ。向こうの方で、ジャンケンで、鬼を決めているようだ。シンプソンが負けたらしく、空で、数を数えている。どうやら、ある程度の広さを、決めているようで、皆、一定距離以上中心点から、離れない。シンプソンが走る。思ったよりは、足が速い。だが、すぐに息を切らせてしまう。やはり、運動不足のようだ。

「なんじゃぁ、今日は勉強は無しか?儂は結構楽しみにしておったんじゃが……」

いつの間にかバハムートが、オーディンの後ろに立っている。普段なら、人の気配には敏感だが、どうやら子供達を見ていることに、熱中していたらしい。

「御老体……」

不意を突かれたような腑抜けたオーディンの対応。

「その言い方は、止してもらえんかのう。ま、今の儂にはぴったりじゃ……、が、獅子は老いたりとも獅子じゃ、たぎる探求心は、衰えぬわ。心は今もあの子ども達と同じじゃ」

と、言って、向こうの彼等を眺める。彼等は、実に元気良くはしゃいでいた。シンプソンは、息を切らせながらも今度は逃げ回っている。子ども相手だと言うのに、手加減の余裕はなさそうだ。バハムートは、思ったより子ども好きのようだ。当てが外れてガッカリした様子で、オーディンの横に座り込む。出会ったと瞬間のバハムートは、オーディンにとって、自分の内心をのぞき込むような目をした、最もイヤなタイプの男と思われたが、今は全くそんな顔はしない。どうやら、彼の一寸した探求心が、そう言う行動をさせたようだ。

「所で、御老体は、何時お国へ帰られるおつもりですか?」

オーディンが、からかい半分で、聞いてみる。

「痛いことを、言うのう。じゃが、どうしても転移の魔法が、上手くいかんのじゃ。理論上はなんら問題も無いはずなのじゃが……」

バハムートは、しっくり行かない様子で、長く伸びた顎髭に手をやり、首を捻りながら、自分の脳裏に浮かぶ公式を、見つめ直している。

「なら、こうお考えになっては?神がもう少し此処に居られるよう、あなたの帰郷を阻んでいる……と」

「そうかのう……、意外と、そうかも知れんの」

神などと言うと、まるで宗教に染まった人間に思えるが、オーディンには、更々そんな気はない。そういえば、シンプソンは、形こそ何処かの宗派感じさせるが、食事時にお祈りとか、厳粛な信仰心など本当に見られない。なら何故孤児院なのか、だんだん不思議が募るばかりだ。きっかけは彼の生い立ちにあるのは知っているが、孤児院である意味が、やはり解らない。単に養父ではだめなのか?という、部分に突き当たる。

少し立って、丁度良いときに、シンプソンが、バテ気味になりながら、二人の側へよろよろとやってくる。

「御老人、来ていたのですか?」

「二人して、年寄り扱いか……」

バハムートは、一寸むくれる。その間に、シンプソンに何故孤児院なのか、聞いてみる。何故養父ではないのか?と、言うことだ。

「あ、それですか、簡単ですよ。養父だと、世間の援助を受け難いですが、孤児院ですと、その辺が結構ですね……、あ、欲っぽいですか?」

「あ、いや……」

何だか、はぐらかされている感じもしないではない。だが、嘘でもないようだ。などと言っていると、今度は、長老がやってきた。彼が孤児院に来ることは滅多にない。皆無に近い。が、シンプソンが何かあると、長老に会いに行くように、村に何かあると、シンプソンに会いに来る。なかなかやっかいそうな、顔をしている。

「どうしたんですか?長老……」

「ああ、実は一寸な、中で話を……」

彼は可成りの焦りを見せている。それと同時に、不安な雰囲気が風に乗って周りを包む。子ども達は、まだ気が付いていない。シンプソンが彼等を気遣い、日が沈み始めるくらいまで、自由にしてよいと言い渡し、大人達だけで、中に戻る。そして、食堂に集まる。

「で、どうしたのですか?長老」

紅茶の支度をしながら、シンプソンが話を切りだした。長老は少し困った顔をしている。先ほどからそうなのだが、より深刻さを増しているのが解る。

「はっきり言って、オーディン君やバハムートの話を聞くまでなら、放っておいても、良かろうとおもったのだが……、木こりのジョーンズの話なのだが、森の中で怪しげな建築物を見たそうだ。こういう不安な噂は、すぐ広まる。それで、君達に少し、探ってもらいたいのだ」

「そうですか、建築物……で、どの辺りですか?」

シンプソンは、平然と答を返す。この時、オーディン、バハムートは、二人の言う「探る」と、言う言葉の意味を、全く捉え違えをしていた。現場に踏み込むというイメージだった。

「探るなら、私が行こう。少しは皆のために、お役に立ちたい」

オーディンが、身支度を整えるために、すくりと立ち上がる。だがシンプソンが、これを制止した。

「いえいえ、そんなことをしなくても良いんです。皆さん、一寸此処で待ってて下さい」

と、言うと、シンプソンは席を立つ。それから、物置のあると思われる方角へ行く。それから、何やらがさがさと、ものを漁る音がする。音が止むと、今度は足音が近づいてくる。部屋に入ってきたのは、やはりシンプソンだが、少し埃を被って、右手に、杖を持っている。杖の長さは、70センチくらいで、頭には、大きく真っ青な宝玉が埋め込まれている。装飾は、古代をモチーフしたものだ。杖の先端まで、綺麗な細やかな装飾が成されている。だが、何処かで見た事がある。そうだ、確か、ハート・ザ・ブルーも、似たような装飾が、成されている。だが今は、その事は横に置いておこう。これからシンプソンが、何をするかだ。

「お待たせしましたね、済みませんが今度は、暫く静かにしていただけませんか?」

皆無言に頷く。それからシンプソンは、椅子に腰を掛け、宝玉に額を付ける。どうやら、探るとは超能力的な方法で行われるらしい。シンプソンの呼吸が、次第に深く、ゆっくりになる。

〈何か、見えますね……、可成り古代文明を意識した建物ですが……、黒装束……、そうですか、これが……え?〉

その時シンプソンの身体が、ピクリと動く。

〈誰です。誰かが私と、同じように、此方を……、!!〉

その時、シンプソンと、その気配の持ち主との目が合う。それは、明らかに女性のものだ。向こうは、此方の気配に気が付くと、さっとその気配を消してしまう。それから明らかに解ることは、向こうも何らかの形で、此方を探っているという事だった。

「シンプソン、どうしたのだ。何を見た?」

オーディンが、彼の肩を軽く揺さぶる。心配なのは、その時の彼の顔が、ひどく青ざめていることだ。

「ええ、向こうと意識の波長が、同調してしまいました。大丈夫です」

だが、そこにはあまり「慣れ」と言うものは見られない、彼自身、こういうのは初めての経験のようだ。だが、ややもすると落ちつきを取り戻した様で、今自分の見た様子の概要を話す。「黒装束」という言葉は、オーディンをひどく怒りにふるわせた。歯ぎしりの音が聞こえそうなほど、彼の顔は、酷くゆがんでいる。

オーディンは再び席を立つ。

「待つんじゃ!今からでは、夜になってしまうぞ、明日の朝にせい。大体の位置は判っておるのだから」

「そうですよ。オーディン、明日にしましょう。今は、準備が何もできていません」

一人熱くなるオーディンを、バハムートとシンプソンが、彼の肩を撫でるようにして落ちつかせる。

オーディンは利口な男だ。彼等の言い分に、利があることを感じると、怒れる自分を押さえ込み、それを沈めるようにして、もう一度席に座り、紅茶を飲んだ。取り敢えずその場は、皆収まり着いたように見せる。だが、夜になっても、オーディンの心のイライラは収まらず、誰とも話そうとはしなかった。返事をしたとしても、気のない返事を返す程度だ。

一方シンプソンの方も、あれから顔色が優れない。どういう訳か、可成り精神的ダメージが強いのだ。二人とも、それぞれの理由で口を利くことは無かった。


互いに、就寝となる時間になる。


オーディンは、ベッドの上に仰向けになり。何とか冷静に物事を考えようとした。例えば、相手の兵力は幾らだとか、立地条件などとか、である。相手のことが解らない状態で、考えるだけ無駄なのは解っていたが。それでも懸命に考えた。その頃シンプソンは、疲れた状態でありながらも、目が冴えて、寝ることは出来なかった。すると、外の方から、声が聞こえる。

「済みません、夜分遅く……」

どうやら、来客のようだ。やたらと通る声だ。まるで家中何処にいても聞こえるように、気を払っている感じすらする。

「はい!」〈今時分、何の用件だろう……〉

彼は、不審に思いながらも、客を放って置くわけにも行かないので、玄関へ行き、戸を開ける。すると、そこに立っていたのは、黒装束に身を包んだ男四、五名だ。

「黒装束!!どうして此処に……」

「ご存じですか……、ご一緒に来ていただけます……ね」

彼等は、言葉を明確に話しているが、視線がない、眼の色もない。まるで催眠術にでもかかったかのように、淡々と、一本調子で語る。言葉と同時に、シンプソンの両腕を固め、口を塞ぎ、彼を連れ去ってしまう。

シンプソンが連れ去られて、小一時間と言った頃だろうか、オーディンは、一旦眠りについたものの、やはり心のイライラが収まらず、目が覚めてしまう。だが、正直言って、イライラしすぎて気が滅入っている。気分を変えるために、食堂で、コーヒーでも、飲むことにした。

食堂に入ると、ランプの明かりが灯っている。ロウソクも火がついている。テーブルの上には、読みかけのバイブルと、すっかり冷めてしまったコーヒーがある。だが、それを読んでいる筈の人間の姿がない、シンプソンも、子ども達も、この様な中途半端なことはしない。ふと、気になる。

「シンプソン……シンプソン!いるか!」

だが、誰の声も帰っては来ない。慌てたオーディンは食堂から出る。そしてその入り口に立ち、左右を見回す。だが、はやり誰の気配も感じられない。だが、ふと肌寒さを感じる。何処からか、風が入り込んでいることに気が付いた。その方向は、明らかに玄関だ。オーディンは、ランプを持って、玄関に行く。

「大変だ!!」

彼の目に飛び込んだのは、開け広げになった玄関と、落ちていた彼の眼鏡であった。その事から、彼が誰かと、もめあったのは確かだ。眼鏡が落ちていることから、トラブルに巻き込まれているのは、間違いがないようだ。すると、すぐにシンプソンの話していた女の視線のことが、頭に浮かぶ。

部屋に戻り、二度と着ることもないと思っていた、貴族オーディン=ブライトンの衣装を纏い、剣を腰に差し、マントを羽織る。そして仮面を付ける。

そして、孤児院の外まで、ゆっくりとした足どりで歩く。玄関を出て戸を閉めると、一変して彼は疾風のように地を走る。そしてまずは、長老の家に向かう。此処へ行かないと、その怪しい建築物も何も、判ったものではない。

「長老!長老!!」

彼の家の前に着くと、激い声を立て、戸が壊れそうなほど強く叩く。暫くすると、明かりを持った、マリエッタが、出迎えてくれる。

「まぁ、どうしたのです。こんな夜分遅くに……、さあ、寒かろうに、お入りなさい」

彼女は怒る様子もなく、オーディンを中へと入れてくれる。

中へ迎え入れられると同時に、オーディンは至急の用事故、すぐに長老とバハムートを起こしてくれと言う。彼の切羽詰まった声で、疑問を持つ余地がないことが解った彼女は、早速二人を起こしてくれる。二人が起きると、彼等がまだ目を擦っている間に、自分の予想できる範囲での推測で、話を進める。

「なに!シンプソン君が!」

「だが、何故に……」

さすがに、眠そうだった二人も、これで目を覚ましたようだ。

「解りません、ですが、多分間違ってはいないでしょう。ですから……」

「建築物の位置だな」

「ええ……」

オーディンは、すっと腰を上げる。だが二人は重そうに腰を上げた。今動いても、何も手だてはない、だが、オーディンは、動かずにはいられないのだ。

建築物の位置は、此処から孤児院の位置の、延長線上にあると言うことだ。つまりはほぼ真逆の位置にある。子ども達のことは、バハムートに頼むことにして、オーディンは、また疾風のように走り出す。

オーディンが、漸く建築物に向かって、走り出した頃、シンプソンは、その建築物の奥の部屋にまで、連れ込まれようとしていた。

「放せ!放さないか!」

シンプソンは踠いてみせるが、全く無駄と言っていいほど、彼等に押さえ込まれていた。

「ノアー様、お連れいたしました」

黒装束の一人が、重そうな扉の前で、シンプソンを捕まえながら、中に居ると思われる人間に向かって、使命完了を伝える。

「宜しい、中へ……」

その言葉の少し後に扉が開き、シンプソンは、乱暴に連れ込まれる。

やはり羽交い締めにされたままだ。

声の主は、すばらしく靡くような黒髪で、やはり黒い衣装を着ている。少しデザインがドレス風だ。暗めな石造りの部屋に置かれている、小さな円卓の上の水晶に手を翳しながら、此方に背を向けている。向こうの方には、透き通るような薄手のカーテンの着いた豪華なベッドがある。まだ此方を向く気配はまだ無い。間違いなく女性だ。

「下がって宜しい」

淡々とした口調で、彼等に次の指示を与える。彼等も刃向かうことなく、その指示に従う。絶対的なようだが、黒装束達には、感情は感じられない。部屋には、二人っきりになってしまう。部屋の明かりが、なんとなく、より薄暗さを感じさせる。

「何の……、真似ですか?」

会話は、シンプソンのその言葉から、始まる。

「冷たいんですね」

彼女が振り向く。吸い込まれるほど、黒い瞳をしている。

「君は……、いやその眼は……」

そう、彼女こそ、シンプソンが探索していたときに、その心に飛び込んだ人だった。互いに互いをさぐり合っていたが、彼女の方が、より明確に、彼の存在を把握していたようだ。

「どうですか?紅茶でも……」

と、何処からともなく、お茶の用意がなされ、円卓の上に置かれる。彼女が何をしたいのかは解らない、だがその目は、シンプソンに何か特別なものを持って見ている。シンプソンも、少し自分の立場を把握するため、彼女の対面に座り、紅茶のカップに手を掛ける。

「私を、知っているようですが?」

強引な招待にも関わらず、特に危害を加える様子がないことから、整理をかねて彼女との距離を縮めてみることにした。

「ええ、かなり前からね、此方へ来て下さる?」

「え?」

シンプソンの手を握った彼女の手は、とても華奢だ。そして引きつけられるように、彼女の思うがままに、身体が動いてしまう。次ぎに気が付いたときには、ベッドに二人して腰を掛けている。

「出来れば、あなたを殺したくはない、他の者みたいに……」

とたんに、彼女の目は潤み出す。シンプソンの胸に、そっともたれかかる。女性とあまりこういう接触のないシンプソンは、沸騰したように、顔を真っ赤にする。思わず自分が置かれている立場を忘れてしまう。

だが、一つだけ解ることがある。

彼女は、牙を剥き出すほどの敵意をシンプソンには持っていない。それどころか、好意すら感じられる。いや、もう一つ、その口調から、彼女は人を殺すという行為には、あまり抵抗を持っていないと言うことだ。

「私を?殺す、どうして……」

「ある者の血を、引いているから、他にも何人か……、その血が覚醒する前に、殺しておかねば……、それ以上は言えない。でもあなたは、殺したくない」

シンプソンは、放心状態になりながらも、次の質問をする。

「どうして、あなたは、私を殺さないのですか?」

「真の平和と、平等を……知っている人だから……、私の望んだ人……私の理想の人だから、こうしていると、あなたの本当の温もりが、伝わってくる……」

どうやら彼女は、殺戮の目的で覗いていたその水晶に写ったシンプソンに、皮肉にも心を奪われてしまったのだろう。

二人は、それ以上、進みも戻りもしない。

最もシンプソンは、したくても、照れてしまって何もできない。しかしこの状況を、どう打開したらよいのかも解らない。女慣れしていない、彼らしいところであった。

しかし、善悪の見分けは付く。彼はその方面から、冷静に考えることにした。そう、彼女は黒の教団で、此処の司令塔だ。黒の教団は、オーディンの全てを奪ってしまった許すことの出来ない、悪の集団だ。でも、彼女は、とてもそう思えない。自分の胸に、しっとりと寄り添っているせいか、憎むことは出来ない。

呼吸を一つ入れた瞬間に、ふわりとした香りが、顔を撫でる。それに、シンプソンの苦手なことの一つに「女性を傷つけること」がある。むやみやたらに、彼女を突き放すことが、出来なかった。

「君は、私を知っていたようですが、遠視が、出来るんですか?」

ここは一つ、自分たちに、共通の話題を持ち出すことにした。意味はない、だが、少なくとも、相手を知ることが出来るのは、確かだ。

「出来るわ、でも、私の遠視は、それほど明確なわけではないわ、知りたい人物以外のモノは、殆ど影と線でしか見えないの。それと、その人の位置と……、個人的な事は答えてあげる。でも教団のことはダメ」

彼女は、シンプソンの胸から離れない。他の質問を、してみることにする。

「あなたの言う、平和と平等とは、何ですか?」

「全ての生は、平等に太陽の光りを、受けなければならないわ。そしてあなたは、あなたの守っている者達にとって、光……貴方は平等な人だわ……」

シンプソンのことは、さておいて、言い分には間違いはない。だが、何か行動が奇怪だ。夜中に人を連れ去ることは、権利の侵害ではないのだろうか?とても平等を、唱える者のする事とは、思えない。

「あの、もう一つ良いですか……、え?」

シンプソンが、その事について、質問をしようと、したときだった。彼女の顔が、するすると、彼の太股辺りに落ちてきた。一瞬、何が起こるのかと、どぎまぎしたが、何のことはない、どうやら睡魔に襲われて、そのまま眠りに就いてしまったようだ。そんな彼女は、信じられないほど無邪気な顔をしている。

その時だった、怒涛のように、何かが破壊される音と共に、誰かが此方に驀進してくるのが判る。彼女がその音に、目を覚ますと同時に、部屋の扉が粉みじんになって吹き飛び、そこには、鬼気迫る表情のオーディンが、立っていた。

「シンプソン!無事か!!ハアハア……」

可成り息を切らせている。

「え、ええ……」

あまりの勢いに、一瞬心臓が止まりそうになるシンプソン、一方拍子抜けしたのは、オーディンだ。

「逢い……引き?」

シンプソンの膝元に頬を当てている彼女が、妙にいかがわしい。一瞬下劣な発想をするオーディンだった。

「違います!!」

見れば、誤解になるのが当然な状態だ。ベッドの上で、男女が、身を寄せているのだ。だが、オーディンは、彼女の顔を見ると、すぐに、そんな甘い感情は消えてしまう。それと同時に、怒りが逆流してくる。

「女……、お前は!!」

「そんな……、何故お前が、生きているの?」

そう、彼女こそ、オーディンに龍をけしかけ、彼の全てを奪ってしまった女である。シンプソンに、甘えていた状態から、とてもそうは思えないが、顔は確かにそうだった。彼女もシンプソンから離れ、とたんに険しい顔をする。

「出でよ!魔法の王者!咆哮せよ!生きとし生ける者の長!サモンドラゴン!!」

彼女は一瞬にして身構え、ペンタグラムを相手に向かって、右回りに、目の前で描く、光りの線が、それを築く。ペンタグラムが、地に張り付き、そして更に光る。その外周の円の縁が目映く輝き立ち上る光の柱が上空に突き上げ、ドラゴンが召喚される。タイプは、翼竜で、コールドドラゴンだった。

召還に伴い、遮蔽物ととなり得る可能性のあるもの部屋は、一気に破壊される。彼女は、シンプソンをかばうようにして、それをかいくぐる。そして同時にドラゴンが、二人を助けている。

オーディンは、造作もなく避ける。見る限り、ドラゴンは正気を失っていない。

彼等は、瓦礫となった、建物の上に出る。と、とたんにドラゴンが、有無もなくオーディンに、コールドブレスを、叩き付ける。オーディンは、素早くその息を剣に吸収する。だが、コールドドラゴンに、冷気をぶつけても、ダメージはないので、攻撃には、転じようとはしない。

ブレスの次は、強力な爪で仕掛けてくる。だがそんな攻撃でやられるほど、オーディンは、ヤワではない。すかさず後ろに身を引き、間合いを作る。

「待って下さい!!二人とも待って!!」

シンプソンが、戦闘中の二人の間に割って入り、それを止めるよう大声で戦闘停止を促す。

オーディンはもちろんの事、ノアーの方も、ドラゴンの動きを止める。二人ともシンプソンの声に耳を傾ける余裕はあるらしい。

ドラゴンの目が、彼女がシンプソンを見るときのように、切なさと優しさを見せた瞬間のことだった。。

「ご免なさい……」

彼女は、事前の謝罪をいシンプソンに入れる。

「うわ!」

彼女の言葉と同時に、ドラゴンは、シンプソンをその腕で弾き飛ばす。それはあくまでも、彼を傷つけない程度の力だった。しかし、やはりドラゴンの力だ。シンプソンは、瓦礫の上に飛ばされると、そのショックで気を失ってしまう。

「シンプソン!!」

「あなたには、死んで貰うわ……、オーディン=ブライトン」

「黙れ!飛天鳳凰剣!地裂炎殺剣!!」

オーディンは、大地に踏ん張り、剣に火炎系の魔力を蓄え、それを下から上へ捲りあげるように振り上げた。そこから炎が、大地を裂きながら吹き上がり、ドラゴンの方へ一直線に進む。だが、ドラゴンは、その巨翼で天空へ逃れ、技をかわす。

「バカじゃなくて?!飛竜に、大地系の技を使うなんて……、それに、あなたに勝ち目はないわ!!」

彼女は、オーディンの、ほぼ正面にいる。ドラゴンを召喚したことで、優位に立っているのだろう。

事実そうなのだが、オーディンは直ぐに、彼女が口ほどに、戦闘に慣れていない事をしる。

その理由には、魔導師である彼女にとって、オーディンとの接近戦に対する手だてが、何一つ無いからだ。

それにも関わらず、オーディンとの距離は、さほど離れていない。一方オーディンは、彼の優しさが、彼女への直接攻撃をさせないでいた。腸は煮えくり返っているが、それでも女を斬ることは、彼の本意ではない。暫くドラゴンの一方的な攻撃が続く。

だが動もすると、戦略性のない攻撃を見抜いたオーディンが、その隙をうかがい、攻撃に転じる。

「奥義鳳凰遊舞!!」

オーディンが、大地を蹴る。そして華麗に天を待った。彼の全身は、闘気の炎に包まれ、その闘気が、空飛ぶ鳳凰を思わせた。


だが、彼は過ちを犯した。


跳躍があまりにも長すぎたのである。

知能を失ったドラゴンなら、いざ知らず。今は完全に人間の制御を受けている。標的を忠実に補足し、攻撃を仕掛けることが出来る。ドラゴンの頭上に出た瞬間、彼は、コールドブレスの直撃を受けた。ドラゴンは忠実に人間の命令を聞くだけではなく、自らの意志でも動いており、その能力は損なわれていない。

主従関係としては、完全従属よりも、調和に等しいようだ。其れは同時に彼女の力を大きさも示すに十分な材料でもあった。

オーディンは失速し、地に落ちる。普段の彼なら、きっとこんな落ち度はなかっただろう。だが、今の彼には冷静さがない。そのために起こったミスだった。

「不覚!此処までか……」

彼は、闘気に身を包んでいたため、辛うじて凍死は避けることが出来た。だが、凍り付いてしまった身体は、もはや思うようには動かない。

「これで終わり……ね」

オーディンを捉えた。彼女は慢心無く、慎重にオーディンに狙いを定める。


だがノアーが、勝ち誇った瞬間、それは起こったのだ。


「サウザンド=レイ!!」

何処からともなく、女性の声が聞こえた。それと同時に、天空を飛ぶドラゴンを多数の赤い光りが貫き、次々、地面に直撃し、爆発音をたてる。ドラゴンのほぼ真下にいたノアーも、間接的にそのダメージを受ける。

「うう、これは……古代魔術……何者!」

その時、ドラゴンがノアーのギリギリの位置に落ちる。何とか召喚した主だけは避けた感じだ。その時一組の男女が現れる。

「ウヒャー!でけえトカゲ!!」

「なに言ってんだか、ドラゴンよ!ド・ラ・ゴ・ン!」

男の方、名はドライ=サヴァラスティア、その世界では売れ筋の、世界を股に掛ける賞金稼ぎだ。女の名は、ローズ=ヴェルヴェット、彼女も訳あって、賞金稼ぎをしている。二人の目的は一つ、彼の恋人だった女であり、彼女の姉であった女性(ひと)を殺した人間を探しだし、殺すことだ。今は、その女性の解こうとしていた遺跡の謎を解明しようと、この大陸に戻り、この地を通りすがった所だった。

二人が、ボケと突っ込みをやっているその時だった。ノアーがドライの顔を見て、焦りと驚きの表情を見せる。

「赤い眼……、ドライ……サヴァラスティア……、そんな、生きているはずが……」

ドライがこの言葉に不快感を覚える。それもその筈である。ドライはノアーのことなど、髪の毛ほども知らない。だが、ノアーの方は、ドライのことを、かなり的確に知っているようである。

「あん?何だよ女!俺のこと知ってんのか?」

一歩、二歩と、ノアーににじり寄るドライ。彼女も、爆撃の痛みに耐えながら、構えを見せる。そして突然、目の前で、指先に魔力を込め、何やらの文を書き、呪文を唱える。

「アトミック=ボルト!!」

一瞬である。空気が膨張し、裂ける音が聞こえた直後、辺りが目を開けられないほどに激しく光り、雷がドライに直撃する。だがドライは、彼女の怪しげな指の動きを読み、あらかじめ、それに対処できるように身構えていた。

「おぉぉりゃぁぁ!!」

愛刀ブラッドシャウトの側面を、魔力の落下方向に翳し、それを凌ぐ。魔力はブラッドシャウトに弾かれ、明後日の方向に、跳ね返る。

「テメエ……。まさか……」

ドライは、少し蹌踉けながらも、もう一度彼女を見据える。その眼は、先ほどのようにゆとりのある顔ではない。明らかに、過去にあった何かを思い出した顔をしていた。

「だったら、どうなの?」

ノアーは、ドライとは正反対に、至って冷静だった。

「殺す!!」

ドライの殺気が、殺意へと変わり、ノアーに対して一気に切り込もうとした瞬間だった。急に彼の膝が、砕けたように、地に落ちる。

「な……!!」

そして身体が、痙攣に近い震え方をする。彼にも何故かは解らないようだ。

「どうしたの?」

ローズが、急変したドライの様子に、彼の側に駆け寄る。オーディンは、いきなり割り込んできた二人に驚いたが、身体が氷付けになっているので、動くことが出来ない。ただ見守るしかなかった。

「あの稲妻は、ただの稲妻じゃない、直撃をしなくても、体内の組織破壊を余儀なくされるわ、諦めるのね」

ただ淡々と、ドライに起ころうとしている事象を語る。今度は余裕や勝ち誇るなどと言う様子は、一切見せない。

「ち!なんてこった。落ちが悪すぎるぜ」

それでもなお、ドライは立ち上がろうとする。それと同時に、ローズに話すべき事を話す。

「良いかローズ、彼奴がマリーを殺った張本人だ。あの稲妻は、忘れるはずがねえ……、だが女だとはな……」

「何ですって!」

ローズが、振り向きざまにノアーの存在を確認する。ローズの恨み辛みの隠った眼が、一瞬ノアーに不快感を与えた。この時、オーディンは、彼等も自分と同じように、大切な者を奪われたのだと言うことを、理解する。「解ったわ、ドライは休んでて、後は、私がケリを付ける」

ドライの肩を押さえ、焦点をノアーにあわせ、歩き出す。

「おい、待ちやがれ!其奴は俺が殺る!待てよ!」

ドライは、力の抜けた身体の力を必死に振り絞り、ローズを掴もうと、手を伸ばしながら、剣を地面に突き刺す。身体を振るわせながら立とうとするが、それも虚しく、また膝を地に付ける。

「だめ、あんたに女は殺せない。でも私は違う。女はこういう時って、残酷になれるものよ」

彼女は、ドライの言うことなど聞く様子もなく。歩を進める。その時に、オーディンが漸く叫ぶ。

「赤い髪の女!後ろだ!かわせ!!」

「え?」

ローズが、振り返ると、血みどろになったドラゴンが、重そうに首を持ち上げながら、ローズを狙っていた。それに気が付いた瞬間、コールドブレスが、彼女を襲う。一瞬ローズが、コールドブレスに、包まれた感じになるが、その直後のコールドブレスは、空へ跳ね返された。どうやら、オーディンのとっさの助言が、彼女を助けようだ。冷え冷えとした空気の渦の中から、焦りを隠せない顔をして、立て膝で身を縮めながら、咄嗟に剣で身を守っていたローズが、現れる。

「なによ、まだ死んでなかったわけ?」

それから、気を取り直した様子で、立ち上がる。

「さて、覚悟は良い?今度は此方の番ね」

ローズがいう。

さながら、女の戦いと言った感じで、面と向い、睨み合う二人だっが、それに水を差すように、一人の男の声が聞こえた。

「待って下さい!!二人とも!」

それはシンプソンだった。頭から血を流しているものの、身体の方は大丈夫のようだ。ヨロヨロとしながらも、確かな足取りで、二人の間に入る。ローズとしては、久しぶりの再会だったのだが、声を掛けるゆとりなど無い。それはシンプソンも同じだ。

「こう言うことですか?」

ノアーに向かって、失望した口調で、シンプソンが言った。

「あなたの言う、平和と、平等とは、こう言うことですか!!」

その声は、なんと悲しく響いたことだろう。だが、彼女の答は、こうだった。

「そうよ!目的を達成する為には、犠牲が要るのよ!それがどんなに大きくても……」

彼女の声色で、シンプソンに自分の思想を伝えようと懸命になっていることが解る。狂酔するように、両手を広げて目を輝かせている。彼女は自分の世界に酔っている。その時は、誰の教えかは解らないが、とにかく彼女は、その思想に酔っている。自分のしている罪悪には、まったく気が付いていない。と言うより、触れようとはしない。だが、シンプソンは、それに真っ向から対立した。

「それは違います。見て下さい、彼等を……」

それから。オーディン、ドライ、ローズを、身体全体で指すようにして、彼女の目に入れさせる。

「あなたの言う平和は、自分に有害な者を、排除することでしょう。その結果、彼等は愛する者を奪われた。あの悲しい眼が解りませんか?今彼等にあるのは、あなたに対しての激しい怒り!!憎しみだけですよ!!」

それに対して、彼女は、逃避するようにして、耳を塞ぎ、首を左右に振る。

「違うわ!本当の平和と、平等は、純粋な力でのみ、得られるのよ!!」

彼女は意気込む。しかし、その直後、急に力無く座り込む。それに何だか顔色も冴えない。暗がりで、本当なら、顔色など解るはずもないが、シンプソンは、遠視を応用し、誰よりも鮮明な画像を得ていたため、その顔色の変化が解る。

こう言う時のシンプソンは、人が良すぎるくらいに、誰彼無しに平等な男だ。彼女の様態が、変化するのが解ると、すぐに駆け寄る。

「どうしたんですか?!」

何がどうなったのかは、解らない。とにかく彼女の身体を丹念に調べることにした。膝を立て、支えにして、彼女の身体を、探り始める。するとその膝に、何か暖かいものを感じる。気になってそこに手を触れ、何かを確かめてみる。すると手に付いたのは、真っ赤な鮮血だった。

「これは……」

先ほど、ローズの放った魔法により、彼女は間接的な打撃を受けたのである。魔法により巻き上がった、石か何かが、彼女の身体に、直撃したのだろう。

「話は後にして、取り敢えず治療をしましょう」

「ダメ……、内蔵まで焼けてるわ、きっと……」

「それでも大丈夫です。治せますよ」

ノアーは気を失ってしまう。シンプソンは、意識を集中して、治療に専念しようとした。しかしローズが、そうはさせなかった。シンプソンの肩をきつく掴み、恨み辛みをぶちまける。

「そんな女放っておけばいいわ!!ドライと私の気持ちになってみてよ!!その女のせいで、私たちがどんな思いをしたか!!」

シンプソンは、一度ローズの方に振り向く、それからもう一度ノアーの方を向き、治療に専念しなおす。ノアーの治療をしながら、ローズに語りかける。

「解ってますよ。ですが私には、そんな惨いことは出来ませんよ。人間は弱いです。一度は人に知られたくない後ろめたいこともします。何かに縋りたくなってみたいですよ。皆そうですよ。ショックが強ければ、自分の生すら縮めようとします。あなたとて、敵を討つために今日までそうやって生きてきたんでしょう。人は誰でも生きる権利があるんですよ。その権利を彼女から奪ってしまったら、あなたも結局彼女となんら変わりありませんよ。今は、あなたにとって、もっと大事な人が居るんじゃないですか?」

何とも悲しい声だった。まるで自分にも、犯してはいけない過ちがあるかのように。彼の顔は、相変わらずノアーの方を向いていた。ローズは途端に、何も言えなくなった。振り返り、ドライの方に近づく。ドライは精神力で、何とかしゃがみ込む姿勢を保っているが、徐々に生命力を奪われているのが解る。ローズも、ドライの治療に当たる。治癒の呪文を掛けている間は、彼の身体も持ち直すのだが、それを止めたとたん、彼の身体もすぐに萎えてしまう。ローズは焦りを隠せなくなった。

「シンプソン!!お願い、ドライの身体が、持ち直さないの!!」

シンプソンは、ノアーの治療を終えると、今度はドライの治療を始めようとする。が、しかし。

「これは、治癒の魔法では無理です。他の魔法がかかっています。残念ですが、私の手には……、済みません……」

「そんな!!」

「冴えねぇなぁ、こんな死に方……、へへへ」

ドライは苦笑いをすると、横に倒れる。ローズは治癒し続けるが、何時までもこんな事は、していられない。何れは限界が来る。

「いやぁ……死なないでぇ!いま貴方が死んだら、私……私!生きて行けない……」

倒れ込んだドライの胸に、縋るローズ、彼の胸で、ボロボロと涙を流し始めた。

「おいおい、マジかよ。また泣き虫が始まりやがったぜ……」

女に泣かれるのは、うんざりとばかりに、溜息混じりの声を出す。だが、声は掠れ、蚊の鳴く程度の声しか出なくなっていた。それでも、自分の胸に沈んだ彼女の頭を、その固く大きな掌で包む。ローズとは対象に、ドライは至って冷静だ。少しも喚かない。

「シンプソン……」

オーディンが、身体を引きずりながら、三人の側による。シンプソンは、目を合わせると、首を横に振る。オーディンは、自分でそれを確かめるために、ドライの手首を握る。ドライの脈が、徐々にではあるが、弱まってゆくのがわかる。その時、シンプソンの後ろの方から声がした。

「何か、魔法を抽出が出来るものがあれば、その男は助かるわ」

その声に三人が、振り向くと、ノアーが立っていた。どうやら気が付いたようだ。オーディンと、ローズは、彼女に対する憎悪から、一体何を言っているのか解らなかったが、シンプソンはすぐに頭が回転した。

「そうだ!オーディン!!貴方の剣ですよ。それでどの様にすれば?!その剣はエンチャント能力ですよね!?」

何度もオーディンとノアーの顔を往復して眺めるシンプソン。

「多分……、身体に接触させれば……」

ノアーはヒントを与える。

「オーディン!!」

シンプソンの表情は直ぐに希望の光に対して、歓喜の表情を見せるのであった。

「あ……ああ」

オーディンは、ローズの肩を抱き、彼女の身体を起こし、シンプソンに預ける。ローズは、されるがままに、肩をシンプソンに寄せた。ドライの生に絶望して、気力が全く感じられない。それからオーディンは、ハート・ザ・ブルーを、ドライの身体にあてる。すると、ハート・ザ・ブルーが何かの魔力を吸い取っているようで、鈍く光り出す。その間のドライは、眼を閉じていて、実に静かなものだった。しかし、彼の顔色が、少し良くなっていたことで、彼がもう安泰だと言うことが解る。ローズが、すすり泣きをしながら、シンプソンに振り返りながら聞く。

「ホントにドライは大丈夫なの?」

「ええ、多分…………」

確証はなかったが、オーディンの手応えのある表情からも、危機は脱したのだと悟る。

「ですがどうして今、殺そうとした人間を助けたのですか?」

今度は、シンプソンが、ノアーの方を向いて怪訝そうに訊ねてみる。だが、顔は明らかに喜んでいた。静かではあるが、彼は以外と喜怒哀楽がハッキリしていることが解る。彼女はこの質問に対して、何も言わない。ただ、彼に近づいて、彼の口にその代わりのキスをする。

ノアーのキスで、今度はシンプソン一人がパニックになる。そのまま硬直して、後ろにぶっ倒れてしまう。だが、それも一寸のことで、すぐに正気を取り戻す。その時にノアーが、言葉にして言う。

「解らない、でもその人が……、その人の声が、あまりにも悲痛だったから」

「……」

彼女は、自分のしたことに対して、戸惑いを覚えているようだった。シンプソンを視線からそらし、自分の両肩を抱き、少し斜め下に俯く。それから卑屈な感じで、笑い出す。

「ふふふ、私って何なんだろう……、あの方の意志を、遂行しているつもりだったのに……」

「あの方?」

と、二人がそこまで会話をしていた所だった。ドライが急に飛び上がり、立ち上がる。周りは、びくりとする。ノアーは、一瞬自分が切りつけられると思い身を引いたが、どうやら違うようだ。顔をしかめ、周囲を警戒した様子で、眼だけでそれらを見回している。ローズが彼の無事とその直後の不可解な行動に、中途半端な声を出す。

「ドライ!?」

「しっ!何かいやがる。人間の気じゃねぇ……みてえだ……」

木陰の方で、がさがさと言う音がした直後、何者かがノアーの方に、飛びかかってきた。ドライは、反射的に、彼女とその物体の間に割り込み、それを足蹴にする。

「何なんだ比奴!!」

ドライに蹴られたそれは、人間でもない、獣でもない。この世界にいてはならないライカンスロープだった。種族としては、ワーウルフだ。一瞬どきりとさせられたが、ドライとしては、それだけだ。疑問の余地もなく、身構える。それから、ワーウルフを警戒しながら、ブラッドシャウトを抜く。すると、ブラッドシャウトは、銀色に輝き出す。元々古代に創造された剣なので、何が起こってもなんら不思議ではない。剣を手にしている本人以外は、驚いたようだが、もっと驚き、怯えたのは、ワーウルフだった。先ほどの威勢はなく。腰を抜かした感じで、キャインキャインと、犬のように鳴き、逃げ出そうとした。

「させるか!!」

ドライは地を這うように駆け、すばやく走るワーウルフに追いつき、あっと言う間に、剣で殴り殺す。ワーウルフは、頭からバッサリと、真っ二つになる。ブラッドシャウトは、役目を果たすと、もとの血色の赤い色に戻る。彼はその死骸を掴むと、皆のもとに戻り、それを地面の上に投げ出す。

「私を……、助けてくれた?」

ノアーは、ドライの方を警戒しながら、そう訊ねる。

「ふん、ついだよ!つい」

どらいは、ぷいっとそっぽを向いて、冷たく返事を返す。

「だが、これは……?」

オーディンは、この奇妙な生物にかなり興味を持っていた。剣でつつきながら、皆に注目をそこに集めた。

「ノアー、解りますか?」

シンプソンが、ノアーの眼の奥を覗きながら、彼女から真実を聞き出そうとした。

「ええ、きっと、私がこの男を助けたから、大司教が怒ったのだわ、いわば死刑執行人……、もちろん超獣界から、いえ、彼は魔界からね、召喚されたのは確かだけど……」

「それじゃ、貴方もお尋ね者ね……」

ローズの声は、複雑に感情が混じりあったものだった。だが、もし彼女がこうなることを知っていて、ドライを助けたのなら、満更悪人でもない、そう思えた。マリー殺害の真相は、落ちついてから、聞くことにした。もちろん返答次第では、殺すつもりでいる。

「取り敢えず。此処では話になりません。一度家に帰りましょう。私にも、満更関係ない話でも無いようですし……、ノアー、全て話してくれますね」

「はい……」

シンプソンは、らしくなく一寸色気気味に、彼女の頬に手を宛がい、じっと彼女の漆黒の瞳の奥をのぞき込む。ノアーはもうそれしか答を出せないでいた。闇でも光りそうな、シンプソンの瞳が、彼女の心を捉えた。だが、本人も少し照れ気味だ。彼なりに考えての行動らしい。しかし、不思議にその場はそれで収まってしまう。誰も、ノーと、言うものはいなかった。

その時、ドライが今一度、膝を崩し、地に膝を突く。

「ふぅ、やっぱ足にきてんなぁ」

「大丈夫?肩を貸してあげる」

「私も肩を貸そう」

「すまねぇ」

ドライは、オーディンとローズの肩を借り、歩き始める。

「一寸待って下さい」

行きかけた三人は、何事かと思った。シンプソンが、ドラゴンに近づき、治癒の呪文をかけている。

「自分の世界にお帰り」

治療が終わると、役目を終えたドラゴンは、すぅっと姿を消す。敗北を認め役目を終えたことを悟ったのだろう。何より、それで、ノアーにはもう戦意がないことを、皆に悟らせたのだ。全てが片づき、皆で、孤児院へと向かうことにする。

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