表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4人の医師  作者: 青瓢箪
6/6

その後

 紀元前300年〜

 アグノディス医師の事例後、アテナイでは女性が医術を学ぶことが法で認められ、多くの女医が誕生した。


 対して1522年ドイツでは、女装して分娩の場に紛れ込んだヴェルト医師は火刑となる。



 1748年ロンドン スコットランド出身のウィリアム・スメリー医師は出産時に妊産婦を安心させるため、こんもりした股間を隠すよう若い男性医師に女装を勧める。産婆のエリザベス・ニヒルは、このスメリー医師を女装医師として罵倒し、産婆の地位を守るため、医師と妊産婦を取り合う。

しかし、惜しくも産婆はこの戦いに敗れる。


 それ以降母親と赤子の出産の場は自宅の部屋から病原菌のウヨウヨする病院の病室へと移動し、多くの悲劇を生んだ。

 

 1848年、ウィーンの総合病院のセンメルヴェイス・イグナーツ医師は出産直後に産褥熱で死亡する患者の割合が産婆よりも医師が担当する病棟の方がはるかに高いことに衝撃を受け、医師がなんらかの理由で患者を殺していると考える。

 理由は分からないなりにも、検死解剖室から分娩室へと直行していた医師が原因と考えたイグナーツは、医師たちに次亜塩素酸カルシウムで手を洗ってから分娩室に入るようルールを課す。すると、患者の死亡率は産婆の病棟と同等になった。

 しかし、医師が感染をひろめているという考えは医師たちには到底受け入れられず、イグナーツ医師は侮蔑と嘲笑にさらされ、ウィーンを去ることとなった。

 本来なら、世紀の発見をしたであろう彼は精神を病み、晩年は精神科病棟で一生を終える。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ