第三章 過去からの帰結・伍
昇ったばかりの朝日の下で、山門から見知った顔見知らぬ顔様々な者たちが細い竹林の道を進み去って行った。
雪掻きが満足になされていないその細道で、足を取られた侍女らしき女たちが小さな悲鳴を何度か上げていたが、その声が聞えなくなってどれくらいの時間が過ぎただろうか。
深い緑の木々に積もった雪が、陽の光を浴びその表面をじわりじわりと溶かし始めており、は、と吐き出した白い息もまた冬場にしては水気を多く含んでいた。
ザ、とときおり響くものは、天を衝く竹の上部から溶けた雪が崩れ落ちる音。ふ、と見上げた遠くの空には、鷹だろうか。大きな鳥がスー、と滑るように西の空へと滑る姿があった。
(そろそろ、いいか)
多田頼勝は山門よりすでにその細道に人影がなくなったことを幾度も幾度も確認をしながら、半歩片足を下げ、半身を翻す。ジャリ、と草履の下で濡れた音が小さく響いた。
この寺にいるすべての人員が出ていくのを確認するために、見送りという名目で外に出たため革足袋を履いておらず、雪を踏んだ足元が痛みすら感じるほどに冷えているが、不思議とそれを感じることはない。それよりも、しでかしたこと、これからのことを考えると恐怖にも似た寒気が背筋を這い上がってきた。
(恐れるな……っ! もう、後戻りなど、出来んのだっ!)
気を抜けば、ガチガチと鳴りそうになる奥歯をぐ、と噛み締める。
多田がこの世に生を受けたのは、今から二十五年前のことだ。
物心ついた頃――どころか、この世に生まれ落ちたその時には、遠賀国は高梨海山に奪われており、初めて武家が東国に幕府を開いた頃よりも前よりこの地に暮らし治めていた多田の家は既にその権力の大半を失っていた。
自身の父親が、急速に力をつけ本家追い落としにかかっていた海山側に付き従ったことは、決して誤りだったとは思わない。その証拠に、よそ者の成り上がりであった海山には譜代の家臣というものはおらず、結果的にこうして本家は追放されたがこうして多田の家はいまもなお、遠賀に存在している。
そして――。
――のぅ、其方の嫡男であるが……。
――は、菊寿丸のことで御座いますか……?
――いくつに、相なった?
――ようやく七つを迎えまして御座います。
――七つ、それは祝着じゃ。のぅ、どうであろう。前年、奥に生まれた姫と娶わせる気は御座らんかな?
――それ、は……、また願ってもないご縁かと……。
――まぁ我が姫は生まれて一年の赤子故、まだまだ先の話にはなろうが……。
海山の遠賀国での地位固めのために、その話が出てきたことは想像に難くない。
けれど、父にしたところで今後もこの遠賀で海山の下で生きていくために頭を地面に擦りつけてでも得たい縁だっただろう。
表面上は、没落した家が厚情によりありがたい縁を受けただけに見えるが、その実、両家にとって利があるものだったということは、誰の目から見てもわかることだった。
(だが……ッ!!)
菊寿丸と名付けられた子供が、元服を迎えた直後のこと――。
長年に亘り、鳴海国の水尾家と小競り合いを繰り広げてきた海山が、互いの様々な思惑により和睦の道へと進み始め――そして。
――於綾は、水尾の小倅めへとくれてやることになった。
そう、海山から正式に告げられたのが、今から七、八年前の話だろうか。
未だ綾姫の裳着(成人儀式)が済んでいない婚約という関係だったが、既に海山の婿として身内には認識されており、彼女と実際に会い言葉を交わした回数も一度や二度ではない。
綾姫本人に対しては、別段女としていとおしいと思う気持ちはなかったが、幼子ながら美しい娘だとは思った。彼女の母親・常盤の方の出自である能勢家は美貌の家柄として知られており、また、父親の海山にしても目元涼やかで、かつての主である多田長頼の側室を奪うほどの色男である。
将来が楽しみな主君の女との婚姻を、内心楽しみにしていたという本音は勿論ある。
勿論あったが、海山より婚約破棄を告げられたときに胸に湧き上がったものは、ただただ己の面目を潰された怒りだけだった。
――父上ッ! 姫との婚姻は、我が家のみならず殿とて頼みの綱にしていたものではなかったのか!!
――そうだ。そうだ、が……もっと太い、綱が目の前に現れればそちらを選ぶこともまた道理ではないか?
――父上は、水尾如きが我ら多田よりも優れた綱といわれるかっ!!
――お前とて、自らを既に殿が「綱」であると……己がそれを掴む者ではないと、認めておるのだろう? 次郎よ。
自身の仮名(通称)を口にする父の目が語るもの、もうありとあらゆる野心も古くより続いた名族であるという矜持もなく、地べたを舐めてでも生きながらえる道を模索する負け犬のそればかりがあった。
――俺は、俺は違うッ!!
許さない、と思った。
主からの突然の愚弄にも頭を下げるばかりの父も、自身がかつて頼みの綱とした縁組をたった一言で反故にする主も。
けれど、当時まだ元服して間もないころの若造が表立って出来たことなどひとつもなく、ただ密やかに深く昏い不信と遺恨を育てているだけだった。
瞬く間に季節は流れていき、その深さ昏さが夜の闇よりも強くなったころ、気概を失った父親が身罷り、自身が家督を継ぎ――そして。
――父上が……、いや、高梨海山が憎くはないのか?
そう、声をかけてきた者がいた。
多田本家の当主・多田長頼の側室でありながら、海山を選んだ女の産んだ子供。
人の話に、どうやら前夫・長頼の胤ではないかといわれていたその子供は、高梨家の嫡男としてその後育ちながらも、その海山に牙を剥き彼ごと飲み干そうとしているのだから、蟒蛇と仇名される海山さながらの気性である。
彼が物心ついた頃には既に自分と綾姫の婚約はなくなっていたので、きっと人の噂に聞いたのだろう。
――仰られている意味が、わかりません。若殿。
――隠すことはないよ、頼勝。お前の気持ちは、俺もわかる。
既に六十を超える海山と、まだ二十歳ほどの嫡男。
今後どちらに勢いがあるかは、火を見るよりも明らかだった。
多田は海山に追従する姿勢を表向き見せつつ、嫡男と接近し――。
そして、決裂寸前な海山と嫡男の関係が誰の目にも明らかになった頃、長年婚約したままで放置されていた綾姫と水尾の嫡男の婚儀が急に現実味を帯びて人の話に上るようになった。
――ねぇ、水尾なんて嫌よ。わたくし。多田、お前もそう思うでしょう?
海山の婿という立場はもうお役御免になったものの、小さな頃よりそれなりに顔馴染になっていた綾姫とは何かの折には話をする仲のままではあった。色白のうりざねの面に意思の強そうなきり、とした眉。長い睫毛に彩られた瞳は大きく、紅を注さずとも色鮮やかな唇は常にその両端を持ち上げている。
幼いながらに美しい娘だと思った少女は、数年の歳を重ね、国一番の美貌と噂されるほどの美姫に育っていた。
そんな彼女から、水尾への輿入れが決まった後にそう話をされ、愚かにも勘違いをした。
(あの姫は)
俺に嫁ぎたがっていたものを、水尾に嫁がされることを悲しんでいる――と。
そう、勘違いをした。
いまにして思えば、そう勘違いさせるようにあの毒婦たる少女は仕向けたのかもしれない。
女の肌はすでに知ってはいるが、生来男女の駆け引きなど性に合わない気質である。
(だから)
蝉の声が鼓膜を叩くその中で、それでも自身の心臓の音ばかりが体内で踊り出すのを確かに聞いた。
柄にもなく逆上せあがり、このまま嫡男に付き海山を追放すれば、彼女との婚姻を再度願うことは出来るのではないか、と。
そんな愚かな野心を抱いた。
けれど――。
夏の暑さのせいとは思えないほどの熱気の中で、姫に対し口先のみで「この次郎めにお任せあれ」と宥めすかし、そしてその場を去った。しかし、ふ、と彼女の元へ蝙蝠扇を忘れたことに気づき、踵を返し爪先を先ほどまで雑談していた場所まで向けた、その時。
――ねぇ、いと。なんといったかしら。水尾の……。
――水尾の若さまでございますか? 水尾次郎太郎直家さまと仰るとか……。
――ふぅん。また「次郎」なのね……。どうせ「次郎」ならば、「小次郎」兄さまがよかったわ。
その後、忘れた蝙蝠扇をどうしたのか、多田は覚えてはいない。
けれど、茹だるような夏の暑さから、凍える冬に季節が移っても忘れられない想いがある。
(俺の面目を、親子共々丸つぶれにしおって……ッ!!)
元はといえば、高梨などどこの馬の骨とも知れない一族ではないか。
京都の僧だとも油商人だともいわれる彼は、たった一代で戦国大名と呼ばれる権力者に上り詰めたが、家柄だけでいうのならば多田家の方が明らかに上である。
水尾にしたところで、鳴海国の守護大名である榊家に仕える家柄――しかも綾姫の嫁ぎ先はさらにその分家筋の男である。
(どいつもこいつも、成り上がり者のくせに……ッ!!)
取り返しのつかない一歩を踏み出してしまったことへの恐怖は、やがてそれを打ち消すための恨みの感情で塗り潰されていく。感情のままに拳へと力をこめると、多田の手の甲に大きな岩の如き骨が隆起した。
「殿」
何代も前より付き従っている家の者が、山門を背に今後どう動くかを話し合うために庫裡へと帰ろうとする多田へ声をかけてきた。綾姫を攫うための実行部隊に選んだ人物である。彼は太い眉を器用に片方持ち上げると、なにかあったのかと視線だけで彼に訊ねた。
「ここの住職らしき坊主が出ていくのを拒否したので、とりあえずその場での問答も面倒ということもあり、捕らえ閉じ込めておきましたが宜しかったでしょうか」
「あぁ、あの住職か。まぁ……構わん。如何にこの寺の持ち主とはいえ、坊主ひとり如きがどうにか出来るとも思えんしな」
「承知致しました。……ところで、あの、姫と共に捉えたもうひとりの御方は如何致しましょうか」
「もうひとり? なんだ、それは? 姫の侍女どのか?」
否。
綾姫によく似た――噂によると、常盤の方が産んだ双子の姫らしいが――は、先ほど能勢たちと山門を下り、この先に待つという水尾の許へと行ったはずだ。
「あ、いえ……。実は、姫を攫う際にもうひとり、高貴そうな女がいたそうで……。どちらがご本人か、我らにはわかりかねたので、両者攫い閉じ込めてあるのですが……」
「な……っ!?」
初めて聞く情報に、多田の元より大きな目が一層見開かれた。
この寺にいる高貴な女など、綾姫か、この寺の主である榊家の当主以外いないではないか。
同時に思い起こすのは、夜が明ける前に住職一家の暮らす庫裡にて女房衆を庇護した折のことだ。あの場には、榊の姫の侍女と、御伽衆(相談役)を務めるという水尾の縁者とやらがいたはずだ。
確か、名を――水尾直高といったか。
まだ十代と思しき幼さの残る面と、完全に出来上がっていない成長過程の身体に真っ白な浄衣を身に着けていた、少年。
(主が攫われた状況に、あやつらが気づいていないとは思えん)
つまり、あのとき、意図的に高梨側へとそれを隠していたということか。
否。
攫われたときにその一部始終を見ていた綾姫の侍女がいる。
隠し通せるものではないし、何より隠すだけの意味もない――はずだ。
――野伏せり(野盗)に、かどわかされていたのならば。
(しかし……これはまずいのではないか……)
元はといえば、此度の誘拐騒動は自身の面目を潰した高梨海山父娘への報復のつもりで、偶然持ち掛けられた綾姫からの話に乗っただけのことだ。そしてその後、狂言は狂言ではなくなり無理やりに綾姫を妻とし、海山へと反旗を翻すつもりだった。
手塩にかけた女を自身が約定を違えたことにより輿入れの直前で手駒と侮っていた男に奪われ、頼みの綱にしていた水尾との縁組も叶わず――武家の男として恥を掻き、その権力すら、よその男の胤である嫡男に奪われればいいと。
あくまでも、遠賀国内での抗争のつもりでいた。
けれど。
(榊の姫……、いや、当主か。いやどちらでもいいが、そこに手を出したとあっては……)
最悪、綾姫の嫁ぐ予定だった水尾は、海山と個人的に手を組んでいることもあり、加勢する可能性はあっただろうが、榊は違う。水尾とも不仲であると聞いていたからこそ、少なくとも自分たちに敵対することはないと思っていたが。
(武力こそ、水尾秀直に及ばないと聞いているが、それでも腐っても一国の大名家だ……一度戦となれば、きっと動員できる人数は……)
田植え時期でもないことを考え、弾き出した数字に多田の顔から血の気がスゥ、と引いていく。先ほど恨みの感情で上書きしたはずの恐怖が、再び足元からじわりじわりと浸食を始めるかのような錯覚を感じてしまう。
(でも……待てよ……)
いま、この寺には既に榊の家の者はいない――はずだ。
先ほど山門から馬で飛び出していく水尾直高の姿は確かに見かけた。それ以外の榊の者たちも皆、去ったはずだ。
住職がまだひとり、留まっているといえども、たかが坊主ひとりどうにでもなるだろう。
「これは、逆に好機なのではないか……」
「殿?」
思わず口に出してしまった声に、家臣が語尾を持ち上げ眉を顰める姿が視界の端に映る。けれど、それに答えるためにはまだ考えがまとまりきっていない。
(だが……これは、もしかすると、もしかするのではないか?)
榊の手の者はおらず、手中にあるのは当主であるという姫ひとり。
高梨海山が自身への報復に動こうにも、きっとそれは彼の嫡男が阻むだろう。自身にまでは、その刃は届かない。
輿入れしてくる姫を奪われた水尾が兵を向けようにも、ここは榊家の菩提寺。きっと攻め入るだけの大義名分としては薄いだろう。
(そして、手中にあるのは榊の姫……)
もしかすると――。
(海山に一泡どころか、これに乗じてこの国を)
奪えるのでは、ないだろうか。
海山が、かつて多田にしたように。
ぶる、と震えが全身に走る。
それはきっと、恐怖のためでも、雪に濡れた足先が冷えたことが理由でもなく――。
多田の唇の両端が、凶悪な角度に持ち上がった。
「とりあえず、攫った女が真に榊家の当主であるか、確認せねばならん」
「えっ、あ……あの、もう片方は榊家の当主でありましたか!?」
「ん? ……まぁ、確認せねばならんが、十中八九間違いないだろう」
「あ……あぁ、それは……申し訳ございませんっ」
姫君たちを閉じ込めているという北の棟へと共に向かっていた家臣が、突如その歩みを止め、雪の中で膝をつき、額を地面へと口吻ける。多田は突然背へとかけられた詫びの声に、肩越しに振り返ると訝しげに太い眉を顰めた。
「おい、どうした……」
「まさか榊家当主とは思わず……先ほど捕らえた住職を、同じ部屋へと投げ込んでおりまして……っ!」
「な……ッ!?」
「申し訳、御座いませぬっ!!」
低頭する家臣に目を剥きながらかけた言の葉は、二音目がそのまま宙へと溶けていく。
多田はぐ、と歯を噛み締めると再び踵を返し、綾姫を閉じ込めているという北の棟へと駆け出した。積もった雪の中に草履がそのまま入り込んでは、雪を蹴り上げ一歩、また一歩その場へと足跡を残していく。
「あ……った!」
喉の奥から血の味が滲むのは寒さ故か、それとも焦りのためか。
ようやく辿り着いたのは、寺の北西外れにある一角。なるほど日ごろ使わない書物をしまう倉庫のような書庫だったらしく、攫った者を隠すには適した場所といえる。
けれど。
多田は廊下へと駆けのぼり、室内へと入る唯一の引き戸へと悴む指をかけ一気に引く。ガラ、と乾いた音と同時に天井近くの小窓より光が差した室内が一瞬で眼前に現れた。
部屋の中にはぎっしりと屹立する棚と、そこに乱雑に並べられた冊子などの書物。いくら目を凝らそうと、そこにあるものはただ墨が踊る紙の山ばかり。
人の姿ひとつないその場所で、ただ、女たちの残り香と思しき薫物のにおいばかりがふわ、と鼻腔を擽った。




