第三章 過去からの帰結・弐
いま考えてみれば、最初から違和感に気づくだけの理由というものはあったのだろう。
例えば、目覚めた自分へかけられた言葉が、まず身体を心配するものであっただとか。どこか遠慮があり、自分の主張よりもまず先に相手ありきで話を進めるところだとか。
もっというのならば、あの大名家という矜持が打掛をまとっているかのような姫君とは違い、常に自分に対して謙った態度を示していたことだとか。さらに、火を起こす手伝いを自ら買って出てくれるだとか。
(でもそんな明らかな違和感をすっ飛ばして、最終的に気づいた理由が香っていうのも……なんとも私らしいというか……)
軟禁状態で暮らしてきた自分が楽しめる唯一の趣味といっていいものが香道――いわゆる薫物であるが、この特技のお蔭で過去何度か新たな気づきを得ることがあったものの、まさか今回もそうなるとはもはや自身の人生においてこれは重宝した方がいい趣味なのかもしれない。
「何故……、お気づきになられたか、お伺いしてもよろしゅうございますか」
「……と、いわれましても……。あの、特に、隠そうとなさっていたようにも思えないのですが……」
「まぁ、それは……そうですね。わたくしのような者が、姫さまを騙ろうなどもってのほかですので……」
そういいながら、いとは床に置かれた陶器の小物入れへと一瞬視線を落とし「種火を育ててよいか」と持ち上げた睫毛で問いかけてくる。阿久里は打掛を肩へかけ、袖を再度通しながら是と頷いた。
ふわり、再び鼻腔を擽るのは黒方のにおい。
(やっぱり、そうよね……)
目の前では、先を解された紙縒りにあっという間に橙の火が移り、灯心を黒く燃やしていく。それと比例するように、小さな火の欠片はあっという間にその形を大きな雫へと変化させた。
薄墨を幾重にも刷いた室内に、ぽぅ、と暖かな橙色が滲んでいく。
先ほどよりもはっきりと見えるいとの表情は、けれども火のせいで影が生じ、どこか後ろ暗さを感じるものだった。
「いまにして思えば、気が付きそうな点はいくつもあったかと思うのですけれど……、決め手となったのはやはり香が感じられなかったことでしょうか」
「……香、にございますか? でも、いまわたくしが着ているこの小袖などは、殿(高梨海山)より姫さまへと与えられた婚礼祝いのものですし、確か一度、こちらにも香をお焚き染めた気が……」
「えぇ。黒方、ですよね」
阿久里は肌の上へと睫毛の影を落としながら、すぅ、と深く息を吸い込む。埃とカビ臭さを上書きするかのように、先ほど同様、黒方の深いにおいだけが鼻腔を満たした。
「人の鼻というものは、においの変化にはそれなりに感じやすく鋭いように思えますが、慣れてしまえば意外と鈍く働くものなのです」
「慣れ……?」
「えぇ。自分に焚き染められた、香のにおいだとか。そういったものは、自分の傍近くにあるせいで、感覚がひどく鈍くなるんです」
だからこそ、綾姫と対面した折、阿久里は綾姫に焚き染められていた落葉のにおいを強く感じた。自分の身近くにないものだからこそ、敏感に嗅ぎ取ることが出来たのだ。
「けれど、攫われたときにしてもそうでしたが……、あなた様と対面しているときに感じるのは自分の黒方ばかりなのです。よほど気を配っていなければ、意識の隅に流れ落ちてしまうほどの、淡さでしか届かない。落葉を焚き染められていらっしゃる綾姫さまならば、そちらの方に意識が傾くはずですのに」
阿久里は打掛の裾を整えながらふわ、と一度内側に空気を孕ませにおいを立たせる。どうやら空気の揺れは感じたようだが、自身の思ったよりも立ち上ったにおいに違和感を覚えなかったことに気づいたのか、彼女の眉に憂いが帯びた。
「……高貴なご身分の方は、お気づきになられる点までわたくしのような凡人には及ばないことばかりでございますね」
「というか、それ以外に気づくべき点は沢山あったのにも関わらず気づけなかったところを反省すべきなのかもしれませんけれど……」
「いいえ。流石は鳴海国の守護であらせられる御方の、御教養かと……」
確かに幼いころより乳母に一通りのことは学ばされており、さらに守護大名家の生まれなのだと自覚し、そこに矜持を持つようになった十二の頃より様々な書物を求め、勉学に励んできた。
男児ならば座学のみに費やせるものではなかったのだろうが、女ということと軟禁生活が幸いし、その時間がたっぷりとあったおかげで知識のみでいうのならば少なくとも前当主であった父親には引けを取らないと自負している。
けれど、流石に彼女のいい様は持ち上げすぎにも思えるし、何より――。
「何故、そのようにご自身を卑下されておいでなのですか?」
阿久里は軽く、頬の上で睫毛を一度上下させながら小首を傾げる。
確かに侍女という身分ともなれば、主である姫君を持ち上げる為に謙るということはよくある話であり、自身の乳母子のみわにしても自分のことよりもまず阿久里を優先するような傾向はある。
それが侍女の務めとして当たり前のことなのだから、日頃彼女自身が必要以上に自身を貶めなければ、阿久里もそれを咎めることはない。
(でも、この方の場合……そういうのとはまた違う気がする、のよね……)
彼女が侍女として有能であろうことは、綾姫の侍女の中で筆頭として仕えていることからも明らかであり、こうして接していても凡人としての一面は見えてこない。それどころか、所謂お姫さまとして自儘が許され育てられたと思しき主の綾姫よりも、冷静に話が出来るので阿久里としてはどちらかというと彼女への好意の方が高いほどだ。
(ご容姿にしても、稲荷と称される私など比べ物にならないほど、お美しいのに……)
阿久里自身でいうのならば、嫁入りの可能性があった頃ならばともかくとして、容姿は大名となった自身の評価においては全く必要のない項目なのでもはや気にするだけ時間の無駄、という感想しかないのだが、姫君――引いては武家の奥方となった綾姫に仕える侍女として、またどこぞに縁づき嫁ぐにしても彼女の容色はそれだけで武器になるはずだ。
艶やかな黒髪、華やかな容貌――綾姫そっくりの美貌は、きっとどこへ行っても――。
「それ、は――」
「まぁそんなことより、いまはここがどこなのか確かめなければならないのですけれど」
形の良い唇が重々しく開いたその瞬間、阿久里がパチン、と話題を終わらせるかのように両手のひらを胸の前で重ね合わせながら彼女の声に覆い被せた。事実、その音が引き金となったかのように、いとから感じられていた湿った空気が一気に霧散する。
(あ、ら……?)
これは、またやらかしてしまっただろうか。
阿久里がちら、と睫毛の先をいとへと向けると、憂いを帯びていた眉はすっかり皺を伸ばし、呆けたような面の隣国侍女がそこにいた。
「あ、の……。すみません……なにか、仰いかけていらっしゃいました、よね……?」
「…………いえ……あの、わたくしのことは、その……、お気になさらず……」
「そう、ですか? 私、よく人の話を遮ったり聞いていなかったりするようでして……それを近習によく窘められているのですけれど……あの、本当に大丈夫でしょうか?」
「あ、はい。取るに足らぬことなので……。それよりも、あの、榊さま。ここがどこなのかお確かめになるとのことですが……確かめて、如何なさるおつもりですか?」
再び頬に緊張感を重ねながら訪ねてくるいとへ、阿久里は一度、ゆっくりと睫毛を上下させた。
「如何、といわれましても……。花咲へ、帰るつもりですが」
「……お城へ、戻られるのですか? その、ご自身、で……?」
「えぇ。私の帰りを、待つ者がおりますから」
自分が攫われたことは、きっとみわを通じて直鷹まで伝わるだろう。そうなれば、必ず彼は助け出そうと動いてくれるはずだ。
その時、ただ囚われているだけの自分ではいたくない。
助けを待つだけの、身でありたくはない。
勿論、下手に動くことが危険ならばその場に留まるという選択肢はあるだろう。けれど、それを判断するのはいま自分がどこにいて、どういう状況なのかを調べた後ですべきことで、最初からその思考を放棄する言い訳にはならない。
(って考えると、直鷹の動きを想定するにもいまが何刻くらいなのか知りたいところなのだけれど……)
せめて月の位置でも見えればいいものを、と一瞬思ったが、暦を考えるともしかしたら時間的にもう西の空の端に月が落ちてしまっている可能性も大きい。確か、綾姫を訪った折、空の高い位置に月は輝いていた気がするのだ。
阿久里は天井近くの小窓から見える外の景色へと再び視線をやったが、やはりそこには切り取られた闇がぽっかり浮かんでいるだけだった。
(となれば、やっぱりいま出来得る最善のことをした方が良さそうね。幸いにも、あの場でみわが攫われなかったから、いずれ――)
なにかしらの動きがあるはずだ、と続くはずだった思考は、いったんそこで途切れる。
(待って)
あの場で狙われていた人物を考えると、彼らの会話からしても所謂「高貴な身分の女」であることは間違いないだろう。そしてあの時寺にいた該当する人物といえば、自分と綾姫であり、そして攫われたのはその言の通り阿久里と綾姫だった。
(でも、その綾姫は、いとどので……)
では、あの時残された、高梨の侍女は――。
「……あの、ひとつ、お訊きしたい儀がございます」
「……はい」
「綾姫さまと、いと殿が、入れ替わっておられたということは……つまり、最初からこのことを知っておられたということですか?」
一瞬、いとの瞳がなにかを探そうと泳いだ。
けれど、迷いが浮かんだのは一瞬のことで、一度震えた睫毛を彼女は再び阿久里へと向けてきた。
交わった先の瞳には、その目元の印象に違わぬ強い光。
「はい。榊の御屋形さまには幾重にも申し訳ないことですが……、此度の誘拐は、姫さまの狂言が元のものにございます」
「……元、の?」
「はい。当初の予定では、姫さまご本人が真、攫われる予定で御座いました」
何故。
そう問いかけた阿久里の脳裏に、昨晩の綾姫の言の葉が蘇る。
――鳴海へ、来たくなどなかった……! 水尾に、嫁ぎたくなどない……っ。
好いた殿御がいるのだと、そういって、輿入れを拒絶した綾姫。
若い娘が好みそうな華やかで艶やかな打掛に、落葉の落ち着いた香を纏わせるほどに、輿入れをすることを拒んでいた。
「……そう、でしたか……」
一国を背負う身として正直な本音を零すならば、「愚か」の一言であるとは思うが、逆にいえばそこまで想うほどの――想い詰めるほどの激しいものが、あの姫君の胸の内にあるということなのだろう。
(まぁ、だからってその行動が理解できるかと訊かれたら……出来ないのだけれど……)
想いの強さとは、いい変えれば、思い込みの強さである。
いままでの人生、父親の身勝手な思い込みによって少なからず悪い影響を受けてきた自分にとっては、視野の狭い思考は正直あまり好ましいとは思えないものだ。
「まぁ……、もう起こってしまった誘拐は仕方ないですし……ここは、共に攫われたのがいとどので良かったと前向きに考えることに致しましょうか」
「……は?」
阿久里の手のひらが再びパチリ、と重なり合い、三日月を唇が描くと、いとの眉が訝しげに顰められた。少女はそれに構うことなく、床に置いた蝋燭の光を頼りに周囲へと視線を這わせる。とりあえず手あたり次第、目を通していけばなにかしらの情報は得られるだろう。
それでも乱雑に床に積み重ねられたものよりも、棚に収納されている方が重要な書物だろうか。阿久里は打掛の裾を捌きながら立ち上がろうと腰を僅かに浮かした。
「って、あ、の……? 榊さま、なにを……」
「え? ですから、先ほど申し上げたようにちょうど書庫のようですし、調べてみようかと……」
「い、いえ……、そうではなく……。といいますか、あの、わたくしで、良かった、とは……」
「あぁ……」
よいしょ、と立ち上がると阿久里は近くにあった棚の、目線の高さにある書物へと睫毛を向ける。帖装・冊子装されたものが大半だが、中には巻子装(巻物)も積み重ねられた段がある。
「綾姫さまですと傅かれお育ちになられた方ですし、脱出する際にあれこれ文句も出てきそうですし、正直一緒に逃げ出すことそのものが面倒くさいという気持ちになりそうではありませんか?」
「いえ、あの……わたくしからは、なんとも……」
「あ……、申し訳ありません。いとどのがお仕えしている姫君ですのに、思ったことがそのまま正直に……」
「あ、いえ……。姫さまは不自由なくお育ちになられましたので、そういった……あの、ご苦労を厭うようなご気性ではありますので……」
お気になさらずに、と申し訳なさそうに視線を逸らすいとへ、阿久里は肩越しに振り返りながら、唇に曖昧に歪めた。身近な者たちからは遠慮なく図々しいと評される自分の本領発揮ともいえる「我儘なお姫さまの方ではなく、気が利くあなたが一緒で良かった」というある意味多方面に喧嘩を売るような発言に、ここまで恐縮されるとかえって身の置き場がないというのが本音である。
もっとも、それによって発言に遠慮が生まれるというわけではないところが、自分の自分たる由縁なのだが。
「まぁ……そのようなわけでして、いとどの。こちらがどこか、ご存知ありませんか?」
「え、あの、手筈は全て、姫さまがされていたようで、私はこのままほとぼりが冷めるのを待てと仰せつかっていただけで……」
「まぁ、そうですよね……。当初の予定は姫君が攫われる手筈ということは、ご自分で脱出されるような計画になっているわけもないですしね……」
「あの、榊さま。先ほどもお訊ね致しましたが、本当に、ご自身でお逃げになるおつもりですか?」
阿久里が立っているのに侍女風情が座ったままでは、と思ったのか、いとが阿久里の思惑に眉を顰めながらも腰を僅かに持ち上げてくる。しゅるり、衣擦れの音と共に黒方が淡く空気を揺らした。
「あの……わたくしからこう申し上げるのもおかしな話ですが、此度の騒動は綾姫さまがお考えになられた狂言に御座います。恐らく、その内多田どの――姫さまの狂言に協力された者が、お迎えに来るかと……」
「まぁ、普通はそうなのでしょうね。ただ、そのことを私の家臣たちは知らないのです」
目の前で主が攫われた乳母子の少女は、どれほど心配しているだろう。
自身の城ともいうべき寺で、主とその客人が誘拐されたことを知ったあの温厚な上人(高僧)は、どれほど心を痛めているだろう。
(そして)
周囲を探りに出たその隙に、阿久里を攫われる事態となってしまったことに気づいた、あの少年は――。
(どれほど、自分に怒りを向けているだろう)
阿久里はとりあえず目の前にある冊子を数冊を腕に抱えると、そのまま背後まで近づいてきたいとへと「お願いします」と手渡した。訝しげな瞳を寄越したままに、それでも彼女の唇はそれでも是と声を落とす。
「このまま待っていても、いとどのの仰るようにその内解放されるのかもしれない。けれど、そうじゃないかもしれない。きっと、彼らからすれば私を攫ったことは計画の範囲外だったはずでしょう? ならば、今後の計画はきっと白紙も同然だと思うのです」
「だから……ご自分で、お逃げになられる……と?」
「そう、ですね……」
阿久里は一度唇を湿らせると、ゆっくりと睫毛を羽ばたかせた。
「私を、待つ者がおりますから」
先ほど紡いだ言の葉を、再び唇は同じようになぞる。
そして、阿久里は先ほど冊子を取った場所とは別の段から、巻子装をいくつか手に取るとそのまま視線でいとを促し、再び先ほど倒れていた位置まで戻った。床に置いた灯りがぼんやりと冊子の表紙を橙色に染めている。
こうして暗く、さらに灯のせいではっきりとした装丁の色はわからないが、表紙の左上には題箋が貼られ、「京道中記」と外題が記されている。どうやら題名から察するに都への旅行記のようだが、ここがどこであるかの手懸りになるにはやや確率が低い。
阿久里はそれを横へと退けると、その下の冊子へと手を伸ばした。
「……人の話に、榊さまが家督を継がれたのは、半年前のことであるとか……」
「そう、ですね。もうそのくらいになりますか」
「お訊ねしてもよろしゅうございますか?」
「お答え出来ることでしたら、なんなりと」
阿久里は「宇佐国史略記」と外題に書かれた書物の表紙をパラリ、と捲っていた手を止め、落としていた視線を目の前の美貌の侍女へと向けた。ちら、と一瞬いとの睫毛が阿久里の指先へと這い、そして再び持ち上がり少女の瞳と真っすぐに重なり合う。
「宇佐国……、榊家が治められている北方の国でしたか……」
「そうですね。数十年前の京の大戦のどさくさで、家臣に国を奪われまして、あちらの守護職は既に廃されておりますけれど……」
幕府より拝命した榊家が守護職を務める国は、鳴海国、宇佐国、波津国の三ヵ国。その内、既に鳴海国以外は他家にその職を奪われており、さらにこの鳴海国でさえもそうなりつつあるのが現状なのだが。
けれど長年――それこそ、いまの幕府が起こるよりも前より榊家は宇佐国で守護を得ており、そんな国の史略記ともなればなにか手懸りがあるのでは、と捲ってみただけなのだが、なにか気になることでもあったのだろうか。
「御屋形さまは前のご当主さまのただひとりの姫君であったとか」
「腹違いの姉は五名、おりますが……みな、他家に嫁いでしまっているので、現在榊家に残った女は私ひとりですね」
「……噂に、ご当主であられたお父君へと詰め寄られ、家督を譲るよう迫られたというお話を、耳に致しました」
「あら」
阿久里の眉が苦笑に尻を下げ、唇が薄く弧を食んだ。
「お隣とはいえ、他国まで知れ渡っていたのですね」
「殿が――遠賀のお殿さまが、それは愉快そうに天晴であると仰せになったとのことでした」
「まぁ。海山どのが……」
一般的な概念として、子が親を敬わないというものは儒教の教えからも眉を顰められる話である。また、基本的に家を継ぐ者は男のみであり、女は跡目にはなれない――というのが、世の倣いである以上、女の分際で、という価値観もあるだろう。
けれど、どうやら一代にして遠賀の名族・多田氏を追放した梟雄の目には好ましく映ったらしい。もっとも、そんな彼もいま我が子と一触即発の関係だというから果たして親へと家督を迫る行為が天晴かどうかは微妙なところだ。
「お父君と、不仲であった――と伺いました」
「まぁ、この見場ですから」
この異質な外見の女が父親に家督を寄越せと迫った、というだけで、恐らく親子関係を察するには十分だろう。阿久里本人としては、結果としてこうして当主の座を手にし、自分の為したかったこと、為すべきことを自由に出来る現状に不満は欠片も存在しない。それ故に、正直過去、自分がどういう扱いをされてきたかなどという問題は些末なこととして、気にしていないというのが本音なのだが、どうやら目の前の美貌の侍女には痛ましいものとして判断されたらしい。
いとの眉根に、悲哀が浮かぶ。
「父君から疎まれ、不自由なお暮しをされていて……それなのに、どうしてそうお強くいられるのでしょうか……」
「強い?」
「……逃げ出したい、と……そう、お思いになられたことは、ないのでしょうか」
問う口調だというのに、彼女の言の葉は阿久里へと向けられているというよりも、彼女自身に落ちていくように聞こえた。痛ましげに影を落とす美しい面は、やはり昨日対面した綾姫によく似ているが、けれども決して彼女がしないような深いなにかが宿っている。
「……生まれ持った『自分』というものは、どうやっても変えることは出来ないと思うから……で、しょうか……」
常日頃より、自分だけの速度で人生を生き過ぎだといわれる原因のひとつであるゆったりとした喋り方に輪をかけて、そこにある答えを自分自身もう一度食むかのようにゆっくりと阿久里は声を紡いでいく。
「生まれ持った、自分……で御座いますか……?」
「えぇ。私でいうのなら、鳴海国の守護大名の女であることだとか、この髪の色、目の色であるとか」
薄暗い部屋の中、ゆらぁり、と床の上で揺れる灯りが照らす橙。
阿久里の髪といとのそれは、その色に染められていながらもやはり違う色味に映る。少女には確認することは叶わないが、恐らく瞳も常人のそれとは違う色に光っているのだろう。
「この色を異様なものとして見る方が、世には多いかと思いますが……これは、私の母譲りのものなのだそうです」
「母、君さま……」
「えぇ。思えば、この話は直た……、近習にもしたことない気がします」
もっとも、訊かれれば特に隠すような話でもなく答えていたはずなので、単純に彼の興味が自身の髪や瞳の色になかったということなのだろうが。
阿久里の母は、京都の公家の出自だ。朝廷で左右の大臣を務めるほどに力があるわけではないが、家としては相当長く続いており紀伝道(主に中国史、漢文)を家業に持つ一族だった。
前の大戦の折に、当時の当主が榊家へと庇護を求めたことが縁の始まりだったようで、父・鷹郷の公家贔屓もあって彼の四番目の正妻として鳴海国に輿入れしてきたのはいまから二十年ほど前の話らしい。
「私が物心つく頃には既にお父さまに離縁されておりましたので、人に聞いた話となりますが……。髪の色は私ほどではなかったそうですが、それでも人よりも大分明るいものだったとか。父に嫁ぐ際、髪を黒く染めて外見を誤魔化したようですが、生まれた赤子の私は狐が如き髪の色、さらには目の色までこのような色で……」
髪は日々、伸びていく。
産後、床上げもままならない状態では髪を頻繁に染めることなど叶わなかっただろう。生まれた娘は栗色の髪を持ち、さらに自身の根元からも明るい髪が次々と顔を出してくる。あっという間に父にそのことがバレ、その後、離縁となり京へと送り返されたらしい。
「まぁ、それでも私が生まれるまで数年、おふたりの時間があったはずなのですけれど……よくお母さまは隠し通したな、という感想を持ってしまいますけれどね」
ふふ、と笑みを口内で転がしながら、阿久里はペラ、と冊子を捲る。視線の先にはたびたび母の実家の姓が記されていた。
榊家とは相当懇ろだったようだが、阿久里の出産以降その関係は冷え切っている。
「生まれ持ったものは、変えられない。いくら変えようとしても、やがていつかは露見して、騙していただけ、離れていく距離も大きくなる」
当初、父は阿久里をどうにかして真っ当な姿にしようとしていたらしい。
けれど、髪の色を染めても瞳の色ばかりはどうにもならない。
今度こそ嫡男を、と願った想いが大きいほどに、落胆の気持ちは比例していく。
気づけば、軟禁される六の姫という構図が出来上がっていた。
「でも、結局……結果は同じ……なのではないですか……?」
「同じかもしれない。でも、だったら、せめて自分でそれを選んだといいたいではないですか。逃げた末に受け入れるのではなく、最初から自分はそれを選んでいたのだと、自分で選び取った未来なのだと、そういいたいではないですか」
――出口なんて、作るモンなんだよ。
脳裏に思い浮かぶのは、あの日自分の道を示した言の葉。
「自分で、選ぶ……」
「……まぁ、これ、人からの受け売りなのですけれど」
あまり大きな顔して語るのもどうかと、阿久里が三日月から歯を零しながら悪戯めいた表情を浮かべると、一度大きく睫毛を上下させたいとの双眸がふわりと柔らかく、けれどどこか寂しそうに溶ける。
「ご立派ですわ……榊さまは」
「そう、でしょうか……そうあろうと、思ってはいるのですが」
「わたくしは、そう思いますわ。わたくしは、逃げてばかりでしたから……」
微笑んだ瞳が陰り、さら、と癖のない黒髪が一束肩を滑り落ちた。
「ご自身を必要以上に卑下なさるのは、逃げておいでだからですか?」
「そう、ですね……。必要以上に卑下しているのか、わかりませんが……わたくしは、自分を抑圧した状況下に常に置き続け、わたくしという人間として生きることから、逃げ出しておりました」
「何故、そんな……」
こればかりは自分の生まれ持った性格が図太かったから、という以外はないのだが、あれほど父に疎まれ生まれてからこの方ずっと軟禁という状態を強いられていたにも関わらず、阿久里は一度として「こんな自分で生まれてこなければ」と考えたことはない。
幸いにも乳母や乳母子には恵まれていたし、自己否定の感情が育つよりも前に父親が大名家の人間として暗愚であることを知ってしまったために、卑下するといった経験が記憶にある限り皆無だ。
故に、これほどまでに恵まれた容姿と穏やかそうな人柄、物分かりもよい人がここまで自身を蔑むのかがわからない。
けれど。
「わたくしの父は、高梨海山さまです」
「……!」
突如として彼女の唇が零した事実に、阿久里の目が軽く見開かれた。
しかし、驚きに目を見張りながらも、やはり、という冷静な声がどこからともなく聞こえる気がする。
(まぁ、他人の空似っていう話もあるけれど)
これほどまでに瓜二つの面を持つ人が、血縁関係がないというのは流石に偶然が行き過ぎているともいえる。
「そう、でしたか……。では、綾姫さまとは……」
同じ年の頃に思えたが、年子なのだろうか。
「わたくしの母は……、海山さまのご正室でいらっしゃる常盤の御方さま。よって、綾姫さまは真実、同い年のわたくしの姉で御座います」
阿久里の軽い疑問へと、いとの静かな声がただ波紋を描き破壊した。




