第二章 降り積もる罠・捌
空の端に顔を出した太陽が、空の高いところを目指しながら東の空をゆっくりと昇っていく。
降り注ぐ陽射しは、ひんやりとした空気に淡く溶けていた。木々の葉に積もっていた雪を透明な雫に変えており、その先端に作られていた玉は、ぽたん、と逆さの世界を映しながら落ちていく。
どこまでも真っ白だった地面は、幾人もの人間の足で踏み叩かれ脇へと追いやられており、すでに枯草を生やす土ばかりが視界に広がっていた。
鼓膜を掠めるのは、言語として認識できないほどのヒソヒソとした囁き声。夜が明けたばかりの静寂さなど夢幻であったかのように、雑多な空気がそこにあった。
「利秀、全員の受け入れは終わったか?」
「はっ。こちらへと向かわれた方々は、全て」
「それ以外は?」
「いまだ、あちらに」
眼下で膝をつき控えている乳兄弟の切れ長の瞳がす、と雪の積もった畑へと流されていく。ネギの頭が伸びているその畑のさらに奥、隣国・遠賀国へと繋がる街道を挟んだ先にあるものは巨大な竹林。
かつての鳴海国当主が建てたという菩提寺は、あの竹藪の中央にあるらしく、彼の視線は巨大な竹の壁によって姿を消すそこに向けられていた。
昨夜、あの榊家の菩提寺である栄福寺に滞在中だった高梨家の息女である綾姫が、突然押し入ったらしい狼藉者に攫われたことで、残された彼女の供の身柄を一時的に保護することとなり、ほど近くのこの惣村へと迎え入れたわけだが、その声に応じない者が数名いたという。
その理由を問えば、もしかしたらその狼藉者が再び寺へと舞い戻ってくる可能性があるから、等というものだった。どこの世に、一度目的を成し遂げた盗人が、警戒を厳しくするだろう場所へ戻ってくるというのか。
どう考えても、水尾の庇護下に入らないという意思が見え見えの行動だ。
「多田――、といったか。嫁の、元許嫁であったという」
「はい。多田頼勝どのは、大殿(水尾秀直)と高梨海山どのの同盟がなされる前に、幼いころに姫君と縁談の約束を交わしておいでだったとか」
「遠賀国の……前の大名である多田家の傍系、か」
「海山どのが当時守護大名であった多田長頼どのを追放された際に、主家を裏切ることで遠賀に留まることを許された家の嫡男です」
「つまり、裏切りは十八番ってことだな」
「……すべからく」
乳兄弟の声が、低く重く雪で濡れた地面に吸われていく。
自分としてはいまだ会ったこともない嫁に対し、情のようなものなど生まれるわけもなく、またきょうび政略の道具としてやり取りされる女が初婚でなくともなんの驚きもないのだが、彼からするとどうやら主を軽んじられているとしか思えないらしい。
(まぁ、許嫁があったこと云々はさて置くとして、実際俺の存在を軽んじているからこその、こういう行動なんだろうけどな)
直家は外気よりも冷たい感情を瞳に宿しながら、竹林から雪の積もる畑、そして惣村の中へと視線を流していく。ぴたり、留めた視界の先には、昨晩自身が乳兄弟たちと共に寝泊まりした仏堂があった。
周辺の茅葺屋根の家々とは違い、しっかりとした木造建築であるこの仏堂はこの惣村で祭事を執り行う際に使われるものであり、またこうして貴人の休息場としても利用されるものだ。
彼は「行くか」と眼下に控える利秀へと一言声をかけ、草履の先を睫毛と同じ方向へと向け歩を進める。雪解けの地面はぬかるんでおり、足裏に不快な感触ばかりが染みていく。人にも羽が生えていれば、こうした不快さとは無縁だっただろうに。
「そういえば、あいつはどうした? 鬼の鷹。先ほどから姿が見えないが」
「あまりに暴れますので面倒くさくなり、一度上空に放ちましたら、そのまま飛び去っていきました」
「……面倒くさくって、お前……あれ、鬼の鷹だぞ?」
「はい。存じ上げております。若の御鷹ではございませんし、俺が責任を持つ筋の話でもないかと思いまして」
流石に驚いて肩越しに振り返ると、そこにはいつも通りの感情が読めない利秀の面。否、主たる自身がまさか振り向くとは思っていなかったようで、常よりもやや眼は丸まっているかもしれない。
あの弟は武芸全般を好むが、中でも鷹狩は一時期狂ったようにハマりこんでいた。身体を鍛えるにいい運動になるので、反対をするつもりもなかったが、どこぞから拾ってきた雛から鷹を育て上げたときは流石に呆れたことを思い出す。
父などは諱に「鷹」の字をつけたからだろうか、などと笑っていたが、彼がそれほどまでに鷹に入れ込んでいることは大勢が知るところであり、それを「自分の主君のものではないから」とあっさりと手放せるのは、流石に家中多しといえども彼くらいなものかもしれない。
「如何、なさいましたか」
「………………まぁいいか。俺の鷹じゃなし」
「はい」
いなくなったものは、いまさら仕方ないしな。と、あの鷹の持ち主が聞いたら立場を忘れて食って掛かってきそうな会話を交わしながら、再び歩を足元へと刻んだ。
「どっちへ飛んでいった?」
「花咲の方角です」
直鷹の屋敷がある御幡城か、もしくは元来た栄福寺へ戻っていくのかと思っていたら、そのどちらでもなく、榊家の居城の方角へと迷うことなく羽ばたいていったらしい。
鷹は目がいい。
恐らく、高梨家の面々が寺を出てここへと向かうその前に、直鷹は榊の当主である阿久里姫が攫われたことを報告しに花咲城へと戻ったのだろう。それを、あの鷹は上空から見ており、主を追いかけていったというわけだ。
「まぁここで繋がれているよりも、鬼の許に戻った方がなにかの役に立つだろ」
ふ、と視線を戻せば、仏堂が目の前に迫っていた。
直家は堂の戸の前に控えていた利佳へと目配せすると、彼の頭が一度軽く下げられ、その後手慣れた仕草で背にあった戸を横へと引いた。掠れた音と共に、中から暖かな空気が流れて出してくる。
同時にふわ、と鼻腔を擽るのは香――恐らく、落葉だろうか。
さほど強く香ったわけでもないが、どうやら炭櫃で暖められたことにより、小袖や髪に焚き染められていたものが、薫物のように宙に溶け出したらしい。
昨晩ここに泊まった際には、炭櫃などはなかったはずだが、彼らがここへ来てから用意でもさせたのだろうか。
(大凡、庇護を求めた側の態度とも思えんな)
嘲笑を鼻先で弾きながら室内へと足を踏み入れると、そこには疲労か心労か。顔色をやや悪くした数人の姿があった。
炭櫃の一番近くにいるのは、小花の描かれた海老色の小袖を着た女で、薄紅色の蔽膝(前掛け)をしているものの、一国の姫君だといわれても頷いてしまいそうなほどの美貌の持ち主だった。
(なるほどな……。これが、嫁によく似た女とやらか)
生憎嫁本人の顔貌は知らないが、瓜二つというからには彼女が美しいという噂は本当なのだろう。
直家が室内へと入ったことに気づいたのか、面々は一斉に佇まいを正すと、その面を板間へと向けた。
「ん?」
ふ、と視線を落とせば、入った戸のすぐ側に控え頭を下ろしている女――まだ少女といってもいいほどの年齢の娘の姿。こちらも小袖に蔽膝という出で立ちで、恐らく侍女なのだろうが、片や堂々と炭櫃の傍を陣取る女。片やこうして畏まって小さくなっている少女。
あまりの対応の違いに思わず直家が足を止めると、その視線に気づいたのか板間へと置かれた少女の手が小さく震え出した。
「どうした?」
「お、恐れながら……、み、水尾の……若さま……、直家さまで、いらっしゃいますか……っ?」
「あぁ、いかにも。水尾次郎太郎直家だ。で、それを問うお前は、何者だ?」
直家の是という声と共に、びく、と少女の肩が一層強張り、元より下げられていた頭がさらに低くなる。面を上げよ、と命じてやれば、額を床に擦り付けんばかりに小さく縮こまっていた少女がゆっくりと睫毛の先を自身へと向けてきた。
持ち上がったその面は、やはり女というよりも幼さの方が勝るものだったが、心労のためか憔悴しきっており、瞼は窪み疲れ切った表情をしていた。
けれど、自身へと縫い止められた瞳には、その幼さや怯えの感情を抑え込もうとするほどの強い意思が宿っている。
「お、お初にお目にかかります。わたくしは、榊家にお仕えしております、みわと申します」
「……なるほど。榊さまの女房(侍女)どのか」
人数が人数だけに、嫁入りしてきた高梨家の者ばかりに気を取られていたが、思えばあの寺には榊家当主である姫君がいたのだから、当然彼女の世話係くらいいるだろう。
どうやら堂内にいる榊の縁者は彼女だけらしく、少女が炭櫃付近に陣取っている高梨家中の連中から離れている理由に、ようやく得心がいった。
(まぁ、鬼があそこにいたのも榊の姫君の護衛だろうしな)
直家は上座へと向かおうとする身体の向きを彼女へと変え、続きを促す。
「この度は、当家の不始末にて、高梨家の姫君はじめ皆々さまへとご迷惑をおかけすこととなり、主に代わりましてお詫びすると共に、」
「あぁ、いい、いい。そんな長ったらしい無意味な口上は不要だ。みわとやら、まずは要件を話せ」
「お待ちになって……っ!」
みわと名乗る榊家の侍女が口を開こうとしたその瞬間、部屋の奥から空気を切り裂くかのように声がかかった。室内の視線が一斉にそちらへと注がれる中、直家の双眸は声の主を振り向くより先に何か痛みを抱えるかのように顔を歪ませるひとりの男を捉える。
急に声を荒げた女――恐らく、嫁のすぐ傍に控える彼の年の頃は、恐らく自身と変わらない二十をいくつか出たほど。
色白で切れ長の目元は涼やかである。瓜実の面は荒々しい国人の武者というよりも京の公家に近い。けれど決して柔な印象を相手に与えない程度の存在感はある――といった風貌の男だった。
直家は一瞬留めた視線を何事もなかったかのようにス、と隣で腰をやや持ち上げ前屈みになる女へと向ける。
「此度のことは榊の寺で起きたこと。偽証や誤魔化しをそこの侍女がしないとも限らないわ。なれば、まずはわたくしたちの話から聞くのが筋というものではない?」
「俺はお前に発言を許した覚えはないが?」
「――っ!」
女の口上を断ち切るかのように、直家の唇は外にいまだ積もる雪よりも冷たい言の葉を吐き出した。刹那、その声に凍り付いたかのように、堂内にいる人間の面から感情の温度が消え去る。
直家は女から順々に高梨家中の者と思しき面々へと視線を流していき、再び出入り口付近に控えるみわへと双眸を留めた。
「さぁ、榊さまの女房どの。続けようか」
殊更優しげな声音を落としてやれば、視界の外の空気がますます冷える。けれど直家は一度もそちらへと睫毛を向けることなく、眼下の少女へと言葉を促した。
「は、はい……。かようなことを、水尾さまへお願いするのも筋違いかと存じますが……、ひ、――御屋形さまを、お助け願えないでしょうか……っ!」
日頃は恐らく「姫さま」と呼んでいるのだろう彼女は、けれど「御屋形さま」と訂正した。ただの榊家の女ではなく、当主なのだと強調してくる辺り、榊家の威信を背後ににおわせながらの交渉をするつもりらしい。
直家は、薄く唇に弧を描く。
「既にお聞き及びかとは存じますが、当家の当主は高梨の姫君と共に寺に押し入ったならず者にわたし……、わたくし、の、目の前で攫われました。この雪深さでは、ふたりの女を連れて逃げ回るのは骨が折れるというもの。きっと、まだこの付近にいるはずです……っ。後生でございます。何卒、何卒……お力を、お貸し下さいませ……っ」
みわは顔をくしゃりと歪めながらも、それでも泣くまいというように眉根を寄せた。そして最後の声を絞り出すと、勢いよくその頭を下げる。
常ならば自身の仕える姫の髪を梳るその指はカタカタと震え、彼女自身の背で結われた髪も乱れていた。ふ、と見れば蔽膝にも泥汚れが染みこんでおり、やつれた印象はなにも表情だけのものではないということがよくわかる。
(目の前で攫われた、といってたな……)
この様子ならば、榊の姫君を攫おうとする狼藉者へ抵抗でもしたか、もしくはその跡を追おうとしたのかもしれない。
直家はみわへと面を向けたまま、瞳だけちらりと堂内奥へと動かすと、先ほどの叱責のせいか不機嫌を隠そうともしない嫁そっくりの容貌を持つらしい女。さらりと艶やかな黒髪は一部の乱れもなく背を流れており、どこにでもあるような小袖も、袖を通したばかりなのか汚れどころか着古した様子さえ見当たらない。
そんな彼女を宥めるように、傍らに座る男が気遣わし気な視線を彼女へと向けていた。
「話ならば、水尾直高どのから聞き及んでいる。我が領内に受け入れたからには、榊、高梨両ご家中の身の安全と合わせ、攫われた姫君方の捜索は約束しよう」
「……っ、ありがたく……、真に、ありがたく……御屋形さまのこと、お頼み申し上げます」
最大限の感謝を示しつつも自身の主張は決して曲げない少女の肝の据わり方に、直家は薄く笑みを食む唇の角度を持ち上げた。
「さて……」
直家がみわへと落としていた睫毛を持ち上げ、再び堂内へとそれを巡らせていく。彼の双眸が身体をすり抜けていく中、その視線に触れた者はみな肩を小さく揺らし固まった。どうやら先ほどの言の葉が、未だ効いているらしい。
直家は上座へと足を向ける。ギ、ギ、と古びた板間が、足を運ぶほどに甲高い音で鳴いた。
「水尾次郎太郎直家さまでございます」
利秀が用意した円座に座した後、傍近くに控えた彼がそう告げる。すると、一斉に下座の面々が拳を板間へとつき、頭を下ろした。
順々に彼らが名乗った後に面を上げるよう促すと、特に躊躇いも見せず鋭い視線が上座へと向けられる。この堂に足を踏み入れた当初こそ、先取といわんばかりに一喝したため怯えが見えていたが、基本的に水尾と高梨は対等の同盟国である。
自国の威信にかけて、また自分の仕える高梨海山のためにも、怯えなど見せるのは恥なのだろう。
「前後したが――、先ほど榊さまの女房どのに告げたように、各々方の御身は確かにこの直家が保証しよう」
「恐れながら……、身の保証、とは、この惣村に留まれということにございましょうか?」
「不服か? 乙名(村長)には方々に不自由はさせぬように指示しているが? 警護の者も、直に俺の城から参る手筈になっている」
「不服に決まっているではないの……!」
あの公家のような顔立ちの――確か、先ほど能勢小次郎と名乗っていたか――、彼からの問いに答えると、海老色の小袖の侍女が不貞腐れた表情のまま会話へと加わってきた。女というものは往々にしてお喋りが過ぎる傾向にあるイキモノであり、それは例えいつ如何なる時にも発揮されるということは自身の母親で嫌というほどわかっているが、それでもこういった場で我の強さを示してくる女も珍しい。
まるで、自身こそがこの堂内における一等の主であるかのような態度である。
「……ッ、お控えなされよ……ッ」
慌てて能勢が窘めるが、彼女はまるで女童が年配の兄弟へ甘えるように、くい、とその白く細い指で彼の直垂の袖を引っ張った。艶美なその面に、幼さにも似た色がふわりと浮かぶ。
「だって……小次郎兄さまだって、仰ったではないの。お……殿に、ご指示を仰ぐためにも、遠賀に一刻も早く帰らなければって」
「ッ、左様でございますが……、ですが、それは貴女から水尾さまにお申し出をされる筋のお話ではございません……ッ」
「あら、だって先ほど榊どのが侍女も水尾どのに僭越ともいえるようなお願いごとをされていたではないの。彼女がよくて、わたくしが駄目であるなんて、道理が通らないわよ」
「そういった筋の話でも……ッ」
どうにかして彼女を黙らせたいらしい能勢は、それでもただの侍女であるはずの彼女を咎めることが出来ないらしい。直家の瞳がすぅ、と細まり、唇は三日月を描く。
「ふむ……遠賀へ帰る、か……」
「それは、あの……」
「いや、わかるさ。見知らぬ国で、姫君が攫われたとあっては、まず主君への詫びと共に指示を仰ぐっていうのは間違えじゃあない」
「ほ、ほら……小次郎兄さま……!」
女の声が明るく弾んだ。
握りしめたままの直垂の袖を幾度か引っ張った彼女の身体が、僅かに傾ぐ。同時に長く艶やかな黒髪が、さらりと背で揺れた。
ふわり、炭櫃に暖められた空気が落葉の香を孕む。
「水尾、さま……、では我らの帰国をお許し――」
「攫われたのが、本当に綾姫であったのなら、の話だがな」
「――――っ」
声なき悲鳴が、女と能勢から聞こえるようだ。
流石は輿入れの供に許されただけのことはあるらしい。確かに青ざめていた顔色が、次の瞬間には元に戻され、涼しげな眼差しを真っすぐに直家に寄越してきていた。
その他の高梨家中の者はどうやらそれを知らなかったのか、言葉を失った後に驚きの眼差しを女へと向ける。
「……水尾さま、それは一体どういう、ことでしょうか」
「既に種明かしてしまった内容をグダグダと説明する趣味はないな」
「嘘よ。わたくしは、いとよ。綾姫さまの乳母子の、いとよ。攫われたのが、綾姫さまだわ」
「常盤の方、といったか……。能勢家出身の、海山どのがご正室は」
自身へと嫁ぐ予定となっていた綾姫の生母――つまるところ、直家にとっては姑に当たる女性の名を呟くと、「は?」と眉根を寄せる女の近くで、サ、と顔色を変える能勢の姿があった。
遠賀国大名・高梨海山には、世の倣い通りに複数の女が傍近くに侍っているが、正室はいまから二十数年前に娶った能勢家の女だ。彼の主城である常盤城の名を冠する、ただひとりの正室である。
彼女の能勢へ対する甘えにも似た振る舞いや、先ほどからの「小次郎兄さま」という呼称からもわかるように、彼らが兄妹のように育ったことは間違いないだろう。そして、海山正室の出自である能勢家の者と、兄妹のように親しい間柄の女となれば――。
「黙っていようかとも思ったが……。直高どのより、此度の誘拐事件は綾姫の狂言である可能性が高い、という報告を受けていてな」
「なんと……っ!」
「それは真にございますか、水尾どのっ!!」
「いや、もしそれが誤りである可能性もありましょう!」
「水尾どの、しかと説明して頂きたいっ!」
事情を知らなかった高梨の者たちが、互いに顔を見合わせながら茹った思考のままに疑問を投げかけてくる中、ただひとり、能勢は「水尾、どのが……」と呟いた。
「ねぇ、待って。みんな……わたくしは、いとよ。綾姫さまが、攫われたのよ」
「その、小袖」
直家は尚も否定しようとする女へとス、と指を差し向ける。一斉に一同の視線が、彼の指が示すその先にある女の海老色の小袖へと流された。
「榊家の女房どのの小袖は着古したものと一目でわかり、かつ、蔽膝に泥水で汚れた跡があった。恐らく、目の前で榊さまを誘拐された折、追いかけでもしたのだろう」
直家の言に、堂の片隅で小さく控えていたみわが、驚いたように自身の蔽膝の汚れへと視線を落とし、そして是と頷く。どうやらその汚れにすら気づいていなかったのか、落とそうとした少女の手が、幾度か蔽膝を叩いた。
「見たところ、十五、六ほどの女だが、顔は完全に憔悴しきって眼の下にはクマがはっきりと見える。攫われたのが夜半という話だから、恐らく寝てもいないのだろうな」
「……っ」
自身の綺麗な小袖と、透明感のある白い頬に気づいた女は、眉の間に皺を寄せると、憎々しげにその視線を横へと走らせる。厳しい表情には屈辱ゆえか朱が走っており、元よりハッキリとしたその顔立ちに一層凄みが増した。
「仕える主が、どこの馬の骨とも知れない者に攫われたという条件は同じだというのに、片や憔悴しきったその姿で、敵に等しい立場の俺に対し主の品位を損ねないまま助けてほしいと懇願する、片や真新しい小袖に質のよさそうな香を纏い、国許へ一刻も早く帰りたいと願う――狂言の可能性と、その侍女の違いを見れば、自ずと答えは出るだろう?」
「………………参り、ました。水尾さまの、仰る通りです……」
尚も食い下がるためか唇を開こうとした女を制し、傍らの能勢が深々と頭を下げる。
「まぁ狂言ににしろ真実にしろ俺としてはどうでもいいんだがな……、だが、榊さまの身が危ないとなれば、話は別だ」
父・秀直が力をつけ、この国を切り取り始めて数十年。鳴海国守護大名である榊家との仲は年々険悪の一途を辿っており、その他国人衆からの求心を得られなくなって久しい。けれど、それでもこの国の主は誰だと聞かれれば、誰しもが榊家だと答えるし、直家自身そう答えるだろう。
不仲は不仲であるものの、いまだあの家はこの国の主として君臨しており、この半年の間に代替わりした当主が、女の身でありながら立て直しを図ろうと奮闘している。
「知っての通り、榊家と水尾は近年不仲ではあるが、だからといっていま今日の日に榊さまに滅んでもらいたいというわけでもない。水尾に嫁に来るはずだった女が、榊さまを亡き者にしたとあっては、いらぬ榊からの恨みを買うことになる」
なにより、可愛い弟からの直々のオネダリだ。
榊をいま見殺しにするわけにはいかない。
「というわけで、こちらとしてもそれなりに焦っているんだ」
直家は、円座の上から立ち上がると一歩、二歩、と下座にいる綾姫へと歩を進めた。そして彼女に自身の影が被さるほどの位置までいくと、不貞腐れたまま視線を合わせようとしない女の頤を指で捉える。
「……ッ!?」
そうして、キ、と睫毛の先を向ける女へと、三日月の唇で睦言でも紡ぐかのような声でそっと告げた。
「手短に、洗いざらい話してもらおうか。――我が、花嫁どの?」




