第二章 降り積もる罠・漆
山の端から、日の出の強い光が顔を見せていた。
つい先ほどまで藍色を濃く広げていたはずの空は、すでにその色を朝焼けに溶かしており、黄や橙をただ淡く滲ませている。
は、と吐き出した息は、宙へと白い靄を生んだ後、ふわりと消えた。
ざり、と草履の下で音を立てるのは、昨日降り積もった雪が解け地面の土と混ざり合ったそれ。夜が明けたということもあり、各家々の中では人の起き始めた気配を感じるものの、それでもいまだ集落としては朝を迎えておらず、自身の起こす音ばかりが耳朶に染み付いた。
直家は、空へと向けていた睫毛の先を眼下へと流していく。
そこにはたったいま、あの空を羽ばたいてきた一本の鷹。他の個体と比べ、腹面の色が鮮やかで飼い主より「やまぶき」の名を貰っている鷹狩用の猛禽を、中腰で座している自身の乳兄弟である後藤利秀が腕へと留まらせている。
そしてそのさらに後ろに、彼の弟・利佳――共に、直家の馬廻りを務める近習だが――が膝をつき、控えていた。
主の腕ではないせいか、やや興奮気味の鷹はしきりに首を動かしながら時折羽を広げるような仕草を見せている。それを御する乳兄弟は、雪の中、膝をついているせいで袴の色を濃く変えていた。じわりと痛みにも似た冷たさが膝へと染みていることだろう。
直家の瞳に、温度のない色がすぅ、と宿る。
(多分)
あの弟ならば、そのことに気づいたら自身の乳兄弟をそのままの状態にはしておかないに違いない。
きっと、仏堂の階段へと腰かけながら「そこだと話が遠い」だとか言いくるめ、立ち上がらせるのだろう。そして再び膝をつかせる前に、話を切り出しその辺りの状態をうやむやにして本題へと走り出していこうとする姿が容易に想像ついた。
それは、恐らく「人間」として間違ってはいない。
誰しもの心にあるという善の心というものだろうし、そういった感情が直家にもないわけではない。ましてやそこに控えているのは、兄とも弟とも呼べるほど近しい距離で共に育った乳兄弟たちである。
けれど。
(俺は、「次郎太郎直家」という人間である前に、「水尾」なんだよな)
自分だけではない。
父・秀直も、そういった感覚は持っているだろう。
水尾の出自は、元々この鳴海国から遥かに北方に位置する荘であり、そこで神職を営む一族だった。そこで、その国の守護に任ぜられていた当時の榊家当主に才能を見いだされ、同じく彼が守護を兼任する鳴海国の守護代(政務代行人)となったのが、今から何代か前の話である。
それ以降、この地に定住するようになり、時世の変化と共に着々と力をつけてきたわけだが、元より昔からこの地に縁ある家柄というわけではない。
恐らくこの地での歴史だけでいうのならば、そこに控える後藤兄弟の家の方がよほど古いだろう。
(だからこそ、同じ目線には立てない)
出自からいえば、この国において榊家こそが至高であり、その他の家はドングリの何とやらである。否、歴史だけでいうのならば、水尾は他家よりも分が悪い。
故に、常に支配者層であり続けなければならない。
その立場を、演じ続けなければならないのだ。
――その覇業を突き進む限りは。
(鬼は、その辺ワザとしらばっくれてる節があるけどな)
すぐ下の弟の幼名から取った字を胸中で思い浮かべながら、直家は軽くため息を吐いた。
直鷹は、同じ正室腹だからこそ、自分や父との間にはっきりとした線を引いて、臣下であることを事あるごとに主張する。本来、気安い態度で接しても問題のない同腹の兄である自分へと、常に一線引いた態度で接してきていた。
例えばその一番いい例が「鬼」という字だ。
長兄である直重は、脇腹であるどころかその血統を正式には認められていなかった庶子であり、直鷹は元服してから後は決して彼にその名を呼ばせることを許さなかった。
あの皮肉屋の兄はそれでも彼を「鬼千代」と何度も呼んでいたようだが、その都度、直鷹は慇懃無礼という形容が相応しい口調で、訂正を繰り返してきた。
そんな彼が、幼名由来の字である「鬼」という名を許すただひとりの人物が、彼が主だと公言する自分である。それは勿論、家中の乱れを防ぐ意味合いもあってのことだろうが、そこまで臣下として謙るのは、「水尾」の人間としてはあまりよろしくない態度である。
(まぁもっとも、あいつも曲がりなりにも水尾の人間なんだ。一応、立場は考えるんだろうけどな)
だからこそ、こうしていざというその時には、自分への連絡を怠らない。
直家はちらりと眼下の乳兄弟を一瞥した後、ふい、とその視線を、彼の腕で落ち着きなく動く鷹へと流した。
「で? この鷹が、あいつの文書を運んできたって?」
「はい。脚に、紙縒りが括りつけてありました」
細く折られた後に、鷹の脚に括りつけたせいで乳兄弟の差し出してきた紙は皺まみれになっていた。流石に乾かさずに折りたたむような真似はしなかったらしく、広げた紙に綴られる文字は潰れて見えないという状態ではなかったが――。
「日頃、自分は兄上の家来だの何だのとほざいているその口で、よくもまぁこんな状態の文書を寄越したもんだ」
「それほど火急ということではございませんか」
「まぁそうなんだろうけどな」
破らないように力を加減しながら、皺だらけの文書を伸ばしていくと、「一筆啓上」から始まる弟の手蹟が現れた。見事な、とはお世辞にもいえないが、あの気性にしては筆運びは丁寧な印象のある文字が、いまは別人かと思うほどに暴れている。
(無理もないか)
皺くちゃになった紙には、まず自分に嫁するはずだった高梨家の姫が何者かに攫われたということが書かれていた。そしてそれはどうやら狂言の可能性が高いということ、これから寺に残された高梨家の者を一度引き取ってほしいということが淡々と墨で刻まれている。
そして――。
(あいつにとっての問題は、ここからだ)
高梨の姫が攫われるときに、偶然居合わせたらしい榊の当主である阿久里姫もそれに巻き込まれたらしい。
「直鷹さまは、なんと……?」
「嫁が、攫われたらしい」
直家の目が、書状の最後まで流れたところで、眼下に控える利秀より声がかけられた。それに対し、まるで今日の天気の様子でも語るような軽い口調で彼が返事をすると、流石に驚いたのか兄弟ふたりの目が丸く開かれる。
日頃、顔貌はあまり似ていると感じない兄弟だが、こんな一瞬の仕草や表情に強い血の繋がりが感じられて、直家は唇で弧を弾いた。自分と弟の顔貌もさほど似てはいないが、それでも客観的に見たときに似ているところがあるのだろうか。
「嫁……といわれますと、若の、ですか?」
「あの、高梨……の?」
「残念ながら、それ以外の嫁は今のところ予定にないし、そうみたいだな」
利佳へと視線を向けると、彼は雪の中へとついていた膝を立て、中腰のまま兄の傍らへとやってくる。彼が再び膝をつくのと同時に直家が皺だらけの書状を渡すと、両手で受け取りそして半歩ほどにじり下がった。
「拝見仕ります」
そのまま兄へと渡され広げられた書状へと、兄弟ふたりの視線が落とされ文字を追って流れていく。流石自分の乳兄弟というべきか、利秀の表情は既にいつもの鉄面皮が貼り付けられており特別大きな変化はなかったが、弟の表情は文字を追えば追うほどに険しいものへと変わっていった。
「攫われたという姫君のことはさて置くとして……、高梨家の面々の受け入れはどうなさいますか?」
「鬼が受け入れろっていってきてるってことは、つまりは逃がすなってことだ。残った面々に高梨の御寮人(お嬢さま)ほどの価値はないが……、今後どう転ぶかわからんし、人質代わりとして役立ってもらおうじゃないか」
「受け入れは、この惣村でよろしいですか?」
「そうだな。御幡城で預かるのが一番面倒はないんだろうが、輿入れ行列で雪の悪路となればどれだけ時間がかかるかわからんしな。利佳、乙名(村長)の屋敷までいって、手筈を整えるよう伝えて来い」
「承知」
雪の中に拳が衝かれたと同時に、彼の頭が下げられる。そして勢いよく駆け出していく背中を見つめながら、すぅ、と瞳を細く尖らせた。
「さて……。どうしたもんかな」
「高梨の姫君の件ですか?」
「んー。それもまぁ……そうだけど。でも多分、鬼が狂言だっていうならそれで正解なんだろうし、そっちはまぁ後回しでもいいよ」
榊の所有する寺で、高梨の姫が攫われた――というものは、なるほど水尾と長年見えない火花を散らせている榊の計略かとも疑う状況ではある。それを庇うために、直鷹が狂言だと偽証している可能性は、全くないわけではない。
何故なら、この世に「あり得ない」ということは、決してあり得ないからだ。
かつて、京の貴族の番犬として生きていた武家が東国に自分たちの政権を生み出してから早数百年。そもそも武家の独自政権が成ったことそのものが、それまでの歴史を考えれば「あり得ない」ことであり、その後も幾度も「あり得ない」ことはこの国に起こった。
京の将軍から任命された守護大名が、地元豪族に追放される下剋上の世も「あり得ない」ことのひとつだ。
けれど、現実に公家の世から武家の世となって久しく、さらに群雄割拠の時代となり、守護大名家の威信はまさに地に落ちかけている。
(だからこそ、「あり得ない」で思考停止するやつは莫迦を見る)
けれど、だからといって直鷹がそこで虚偽の報告を自分にするかというと恐らくそれは否である。彼は、それほど愚かではない。その証拠に――。
「ですが……、高梨の姫君を攫ったものが狂言ならば、直鷹さまの仰る、人身売買をする商人を出来る限り抑えてほしい、というものは少々おかしいのでは?」
利秀は書状の追伸として書かれている内容を示しながら、語尾を持ち上げた。本文と本文の間に書かれる文章は、本来ならばあくまでも「ついで」のような扱いに過ぎないが、その内容はどう考えても彼にとっての本命ど真ん中のものである。
「察しがいいね、利秀。でも、まぁ万が一に、狂言でなく人攫いだったら、最近は目立った戦も起きてないから乱取り(戦時における掠奪行為)もないだろ? 買いたいやつなら巨万といるし、そういう懸念も勿論あるんだろうな」
「念には念を、ということですか」
「まぁそっちは方便だろうけどな」
「……と、いわれますと?」
「狂言なら狂言で、高梨の姫はそれでいいんだろうが、うっかり攫ってしまった榊の姫君は邪魔になる。適当な武家の女や、大名家でも妾の子供ならそのまま高梨家の侍女にでもすればいいんだろうけど、相手は守護大名職を継いだお姫さまだ。処分に困った連中がやることは――って考えると、鬼が人身売買の人間を抑えたいといってる理由が見えてくるだろ」
「なるほど……。となると、直鷹さまがこの文書を寄越されたのは、そちらが本命の理由ですか」
「どうやら思った以上に、鬼は惚れ込んでいるらしい」
それが、男としてのものなのか、家臣としてのものなのかは知らないが――。
――俺は、あなたの家来です。いままでも、そしてこれからも。
昨日、この場で彼が誓った言の葉が、耳朶で響く。
彼が自分の廃嫡を願ったことが一度でもあるなんて、思っていない。
彼がどれほどまでに心を砕き、一線引いた向こう側に居続けているのか。
その覚悟を知っているからこそ、弟を疑うことは一度としてない。
だから。
直家は踵を返すと、昨夜自身が泊まった仏堂の中へと足を踏み入れた。そして文机へと向かい、白い紙へと筆を躍らせていく。弟の寄越した文書とは違い、筆には少しの迷いもなく乱れもない。海にほど近い川の水の流れのように、けれど山奥の滝川のように力強い文字が、墨色に刻まれていく。
恐々謹言で〆られたその書状の宛先は、自身の傅役である家老の名。墨が乾いたことを確認すると、折り畳み、そして再び仏堂の外へと足を向ける。
雪景色の中、そこには先ほどと姿勢を変えない乳兄弟の姿。そして利佳に連れてこられたらしい惣村の重役と思しき数人の老人の姿が背後に並んでいた。
「……ご家老さまへ、人身売買を止めるよう頼まれるのですか?」
宛名を目にした利秀が、一度瞼を上下させる。
どう考えても家老自らが動くような案件ではないのだろうが、それ故に有能な人間が動いた方が事は早く片付く。彼も暇ではないのだろうが、そこは自身の傅役となった定めとして諦めてほしい。
「可愛い弟の達ての願いだ。叶えてやらないわけにはいかないだろう?」
直家の唇が、夜の空に転がる三日月によく似た形を刻み、笑う。
上ったばかりの太陽が、降り積もった雪へと降り注ぎその表面へと光を弾く。
直家の言の葉に応えるように、相変わらず居心地悪そうにしていた鷹が一声甲高い声で鳴いた。




