第四章 華の行方・肆
ツン、と鼻を刺激する匂いに、阿久里は僅かに眉根を寄せる。次の瞬間、ピリッとした鋭い痛みが首筋に走り、きつく閉じたはずの唇から小さな呻き声が零れ落ちた。
「あー、しみるよねぇ。悪い悪い。でもちゃんとしとかないと、最悪死ぬからねぇ」
全く悪びれた様子が感じられないほどの軽々しい声音で謝罪を口にしつつ、直鷹は阿久里の首筋へと薬を含んだ布を再度押し当ててくる。傷自体はさほど深く大きなものではないが、刀傷というものは見た目以上に痛むもので、首筋ともなれば尚のこと痛みは大きく感じられた。
「というか、さほど傷口は深くないですし……薬を使うほどのことはないのではないですか?」
「っていって死んでったやつを何人も見てきてるけど? 実際合戦がもとで死ぬ人間って、即死よりもそういう傷が原因でってやつの方が多いよ」
「そう、なんですね……」
「なに、そんなに沁みる?」
「だい……っ、じょう、ぶ、です」
阿久里は自然と浮かんできた涙を零さないよう、眉間の皺を深くしながら常よりも低い声で呻くように是と答えると、それを聞いた直鷹が「上等」と、三日月の唇から歯を見せる。
直重が捕らえられ、寒河江城主・秀直が救出されたのは、ほんの一刻ほど前のこと。
その後、部屋で静かに控えていた奥侍女頭である浪乃も捕らえられ、此度の城主監禁事件及び謀叛の企ては完全に落着した――というのが、城内にいる人間の感想なのだが。
「私も先ほどは『あぁ、終わったのだな』と一瞬思ったのですけれど、むしろ本来の目的としては、まだなにも解決してないですよね」
「まぁね。熊の話じゃ、恐らく兄上からの密書を持ったと思われる草(忍び)が夕刻前に城を出たらしいから、今頃水尾本家にそれが届いて、すわ謀叛! ってところじゃないかな」
「取り敢えず水尾景直どのに謀叛を起こしてもらって、そこを叩くのが理想なんですけれど」
「それは直周どのとの相談で、どうとでもなるかな」
「直周どの、ですか?」
阿久里は驚きに軽く睫毛をはためかせる。その反応に、直鷹は「あぁ」と思い出したように先日の水尾本家嫡男とのやり取りの一部始終を語って聞かせてくれた。
自分が牧野家縁者として寒河江城へ奉公に出てからたった十日足らずの間に、随分と綺麗に話が進んだものだ。少女の唇から不意に「はー」という溜息にも似た声が零れ落ちる。
「まぁ俺としても、こんなに早く父上が救い出せるとは正直思ってなかったけどね」
「確かに、私も柿崎の御方さまの不興を買ったときは、正直もうダメだと思いました」
「……何やったのよ」
声に笑いを含ませながら直鷹が半眼になる。阿久里としては彼女が癇癪を起したことについては自身の不備ではなく不可抗力なのだと訴えたいところだが、彼が語った彼の十日足らずの日々と自分のそれを比べたとき、あまりにもお粗末なので「まぁ、色々」と適当にそれを受け流した。
「で、覚悟決めたって?」
それ以上話題を引っ張るつもりはなかったのか唐突に話題を変えた直鷹へ、阿久里は睫毛を向け、一度ゆっくりと羽ばたかせる。思えば彼にそれをはっきりと告げてはいなかったが、先ほどの直重とのやり取りを聞き察したのだろう。
「もともとそんな乗り気でもなかったのに、なんかあった?」
「人が、死ぬのは……見たくないと、思いまして」
「ははっ。そりゃそうだ」
「榊の存在価値は、この国を豊かにすること。その対価として、この身分がある……だから、国を護ることは当たり前なのだと思っていました」
けれど。
「わかっていなかったんですよね……国というのは、そこに住む人のことなんだって、本当の意味ではわかってなかった」
人を、知らなかった。
そこに住まう人々の、命の熱を感じたことがなかった。
城をお忍び程度で出ているだけでは、人とは「人間」ではなかった。
その形をしているだけの、ものだった。
頭でしか、わかっていなかったのだ。
「今回出会った人全ては、生きていて……嬉しいことも楽しいことも悲しみも寂しさも、みんな持っていて」
守りたい、と思った。
人の形をしたモノが作り出す漠然とした「国」というものではなく。
人に誇れるような半生を歩むことなく、貴人の意思ひとつで山に散らされる生きたいと願った命であるとか。
娘の命を奪った憎い仇に長年仕えるうちに、忠節の心が芽生えるようになった老女だとか。
自分の手が小さくて護れないのならば、大きな手が欲しい。
そこに住まう人々を護ることの出来る大きな手が欲しい。
「ほかの誰でもない榊に出来ることがそれならば」
覚悟を決めよう。
お忍びだとか、そういう言い訳はもうやめにして、全てを背負おう。
そう、思った。
少年からの視線を真っ直ぐに受けながら阿久里が答えると、直鷹の唇の端が持ち上がっていく。
「ま、俺から言い出したことだし、榊さま説得するならひと芝居打ってやるさ」
直鷹の骨ばった人差し指がちょいちょいと動き、阿久里を側近くへと呼んだ。少女は軽く腰を浮かし膝で板間を滑りながら、ふと気付く。
(あれ……そういえば)
未だかつてないほどの生命の危機だったせいか、軽く流していたが。
「さっき何で私の諱を?」
浮かした腰をそのままに膝の歩みを止め、阿久里は訊ねる。突然心のままに呟かれたそれに、直鷹が軽く目を見張った。そして少しの沈黙のあと、口を割って出たのは疑問符の代名詞ともいえる音。
「………………………………は?」
「いえ、先ほど私の名を、阿久里って呼んだ気がしたんですが」
「いや呼んだけど」
「私のことは『榊』と呼んでいたじゃないですか」
「いやそれわざわざ後から訊くようなことじゃないよね。ってかそれをいうならあんただって今まで俺の諱呼んだことなかったのに、呼んだよね」
直鷹は何故か頬を赤らめながら早口に捲し立て阿久里を睨んできた。何故かわからないが、自分はどうやら少年にとって触れられたくないところを啄いたらしい。
「えっと、あの場で『水尾さま』って呼んだら、貴方も兄上さまもお父上さまもみんな『水尾さま』ですし自分のことだと思って勘違いされるかな、と」
「思うわけないよねどう考えて、も……っ」
その様子を想像したらしくツッコミの語尾で直鷹が思わず吹き出す。そしてそれが皮切りとなったのかその後少年は顔を伏せ、「あははははは」と大声で笑い始めた。
「あー、ヤベ。ないと思ったけど、あの状況で俺たち三人が返事してたらどうなってたかな」
「……私が困ることになったでしょうね」
「だろうな。あークッソ。勢いって本当怖いなー」
「……勢い?」
小首を傾げ語尾を持ち上げながら訊ねれば、先ほどまで楽しげだったかに見えた彼は急に苦虫を噛み締めたかのような険しい表情となる。そして、何故か悔しそうに上目遣いに睨んできて、グシャ、と前髪へと指を入れガシガシと勢い任せに掻き毟った。
「あ、の?」
「あー、ハイハイ。じゃ俺も、あの場には立場的にいちゃいけないあんたに、気遣いしたってことにするか」
「あ、確かに」
もっとも、直重は勿論のこととして秀直にも既に己が何者であるかはバレていたような気はするが、それでもこちらからわざわざ正体をバラす必要もない。なるほど、と頷く阿久里に、少年の視線がぷい、と横へと流されていく。
「いや素直に納得されても微妙」
少年の頬に差された赤みについて、燭台の上で揺れた灯りのせいなのだと断言するのは、何かが違うような、そんな気がした。




