1-7
ピンポーンという腑抜けたチャイムの音で、途端に私はアルファベットの海から引き上げられた。
「あ、来たみたい。あいつ、最初はちょっと感じ悪いかもしれないけど、きっと阿部さんと仲よくなれると思うから、よろしくね」
桐島君に優しい声でそんなことを言われたら私は、たとえライオンとだって仲良くするだろう。まったく、雅也君は罪な男だ。ホストみたいな名前はだてじゃない。
「遅かったね」
「一回帰って荷物置いてきたんだ。ほれ、菓子」
「お、ありがとう」
そんなやり取りと共に、短髪の少年が現れた。けっこうガタイが良い。ライオンというよりはゴリラっぽかった。
「はじめまして、桐島君のクラスメイトの阿部立花子です」
私はいちおう立ち上がってお辞儀をしたが、彼の方は
「どうも。雅也の友達の布施彰吾っす」
と言って軽く会釈すると、私と入れ違いに素早く席についた。
「さて、じゃあ勉強しよっか」
桐島君はお茶を持ってリビングに戻ってきた。
「えー、いきなりかよ」
布施君はぐっと伸びをしながら答えた。
声がでかい。というか態度がでかい。桐島君の友達なんていうからどんな素敵な人かと思っていたので私は少し残念だった。
「じゃあ休憩する?」
桐島君と目が合い、焦った私は咄嗟に「私はどっちでも」と素っ気なく返事をしてしまった。
そんな乙女のピュアな心など知る由もない布施君は「よし、菓子食おうぜ」と勢いよくポテチの袋を開けた。
布施君はあまりこちらを見ないで、もくもくとポテチとチョコレートを交互に口に運び、桐島君とだけ話をしていた。
人見知りするほうなのかもしれない。もしくは女子が苦手なのだろう。そう思った私は自分から話しかけることにした。
「布施君って部活とかやってる?」
言ってから、しまったと思った。ダブルドリブル並みの痛恨のミスに、私は自分の頬を叩きたくなる。これはさっき桐島君にも使ったネタじゃないか。
布施君はこちらをちらりと見てぼそりと野球部だと言った。
「へぇ、私もバスケ部なんだ。一緒じゃん」
「ちげーだろ」
彼はこっちを見ずに答えた。
「運動部でボールを使うって意味では一緒でしょ」
「そしたら野球部とサッカー部だって一緒になるだろ」
人がせっかく共通点を見つけて話を広げようとしているというのに、彼には協調性というものがないらしい。私は少しイライラし始めていた。
「広い意味では一緒だよ」
「バカじゃねえの。サッカーって手でボール触っちゃいけないんだぜ」
おい、布施ぇ。バカはどっちじゃ。
思わずそんなことを言いそうになる。でも、ぎゅっと口をつぐんで、「そんなの知ってるよ」と笑って見せる。
危ない危ない、桐島君の前で粗相があってはいけない。
「じゃあオフサイドは?」
彼は私を試すように言ったので、謙虚に答えてやることにした。
「敵より後ろにいる味方にパスしちゃいけないやつ」
「まあ大体そんな感じだけど。じゃあワイルドピッチは?」
「キャッチャーが取り損なうやつでしょ」
「だいたい正解」
彼は不満そうだった。してやったりだ。
桐島君はさっきから私たち二人を楽しそうに眺めている。
「ふふふ、私をどこぞのスポーツ好きをステータスと勘違いしてる馬鹿女どもと一緒にしないでほしいわ」
「お、わかってんな。あいつらまじ、男と共通点をつくるためだけにスポーツ好きとか言いやがるからな」
ようやく布施は私の顔をまともに見た。少しは打ち解けられたようでよかったが、私はまた、「てめぇにんなこと言われる筋合いはねーが。あいつらも恋のために必死なんじゃい」なんて言いたくなる。くわばらくわばら。
「やっぱり二人はちょっと似てるよね」
桐島君は私の気持ちなんかお構いなしにニコニコしながらそんなことを言った。
「はあ? 似てねーよ」
「こっちのセリフじゃ」
布施につられて、私はつい口に出してしまった。
「じゃってなんだよ?」と目ざとい布施が言う。まったくうるさい男だ。少しは桐島君を見習うといい。
「知らないの? 最近の女子高生の流行語だよ」
私は無理やりごまかした。桐島君が「嘘じゃろ」と小声で呟いていたのが可笑しくて思わず吹き出しそうになったが、ぐっと堪えた。
「聞いたことねーよ」
「えっ、女子の友達いないの?」
「いねーよ」
「あらら、それじゃあ仕方ないね」
彼はほんの少しだけ悔しそうな顔をした。よくわからないけど私は満足だった。
その後、私たちはそれなりに真面目に勉強をした。布施は私と同じくらい英語ができないらしく、桐島君が出す問題の正答率はいい勝負だった。「お前、けっこうバカだな」「あんたもね」とお互いの健闘を称え合い、今日はお開きになった。
桐島君は送っていくと言ってくれたけど、布施が強く断った。余計なことをしやがって。お前と二人で帰る私の気にもなってほしいものだ。
外は日が暮れた直後でまだ薄らと明るかった。部活がない日にこんな時間に外にいるというのはなんだか不思議な感覚だ。しかも初対面の、他校の男子と一緒にだなんて。
マンションを出て、数歩もしないうちに彼の低く野太い声がした。
「あいつ、最近よくお前の話するんだ」
「へ?」
「隣の席に変な奴がいるって。毎日遅刻ギリギリを狙って学校に来て、授業中は魂が抜けてるのに、放課後になると急にスイッチが入ったみたいに部活に行くとか。思ってることなんでも口に出てるのが面白いとか」
「へえ、そうなんだぁ」
思わず顔がにやけてしまう。どうやら桐島君の学校生活にとって、私は中心的な存在にあるらしい。
「あいつ、あんまりクラスの話とかしないんだけどな」
布施はどこか不服そうに言ったが、これはもう私の完全勝利と言って差し支えないだろう。
私はその場で飛び跳ねたくなるのを堪え、「ねえ、布施」と切り出した。
いきなり呼び捨てにされたからか、彼は少し驚いた様子だった。
「桐島君と彼女ってどんな感じ?」
「彼女?」と布施は戸惑った顔をした。
「え、あ、ごめん。何でもない」
私はすぐに取り繕った。しまった。布施は知らなかったのか。
「あいつ、彼女いるって言ってたのか?」
彼は横を歩く私の顔を覗き込んだ。しらばっくれるのは無理みたいだった。
「毎日彼女の手作りのお弁当持ってきてるんだけど。そっか、隠してたのかな。ゴメン、聞かなかったフリしてくれる?」
布施はコクリと頷いたが、心ここにあらずといった感じだった。まあそれも仕方ない。友人に恋人の存在を隠されていたらショックだろう。私だって陽子に内緒にされていたらちょっとへこむ。まあ陽子は告白された五分後には私に連絡してくるようなやつだからその心配はないけれど。
ともかく、彼に落ち込んでもらっている場合ではないのだ。桐島君に送ってもらうというチャンスを棒に振った分の元をどうにかとりたい私は、少し強引に行くことにした。
「ねえ。連絡先教えてくれない?」
「は?」
ゴリラの顔がさらにゴリラっぽくなった。
「勘違いしないでよ。私、桐島君のことが好きなんだ」
「はあ?」と私のほうを見るゴリラの顔がさらに歪む。そういう態度はガラが悪いからやめるべきだ。桐島君みたいに紳士的じゃないとモテないぞ、まったく。
「だから桐島君のこと、教えてくれない? 彼女がどんな感じなのかとか、どんな子がタイプとか」
「なんでお前に協力しなきゃいけないんだよ。第一、あいつ彼女いるんだろ?」
「関係ないよ。自分を好きになってくれる人としか恋愛しちゃいけないなんてルールはないし。そんなことになったら私はお父さんとしか結婚できなくなっちゃうでしょうが」
ようやく彼はゴリラ顔をやめたかと思ったら、くくっと押し殺すように笑った。
「お前、やっぱ変わってんな」
「はいはい、何とでも言いなさい」
「桐島のことがねぇ。だからお前さっき猫かぶってたのか」
「そうよ。女の子は基本的に豹だからね、ネコ科だから」
「女豹って意味かよ。くだらねー」
布施はそう言って今度はげらげらと笑った。その笑顔だけは、毒気がなくて、少しだけ好感が持てた。もちろん、桐島君の天使の微笑みと比べたら月とすっぽんだが。
「で、連絡先、教えてよ。女の子の友達いないんでしょ。チャンスじゃん、友達に自慢して良いよ」
「ったく、失礼なやつだな、お前」
彼はそう言いながらもようやくポケットから携帯を取り出した。
将を射んと欲すればまず馬を射よ、というやつだ。桐島君の連絡先を手に入れる前に布施の連絡先を手に入れる。なんと計画的な犯行だろう。
布施と別れ家につくと、私はお風呂に入りながら彼への質問の内容を考えた。
夕飯を食べ、布施にメールを送る。
『阿部っす。今日はどーも。まず、桐島くんの好きな食べ物と誕生日を教えてください』
『好きなのは、ばあちゃんとかが作りそうな料理っつってたかな。煮物とか、みそ汁とか。誕生日は十一月三日』
『煮物か。意外だけどそのギャップが素敵。今どきイタ飯が好きな男なんてごまんといるもの。桐島君はさそり座の男なのね。祝日が誕生日なんて……素晴らしいね』
『イタ飯ってなんだかわかんなくて調べたわ。お前、これバブルの言葉らしいぞ。じじーみてーだな。あと、誕生日一つでそこまで話を広げられるのがすげぇ』
『博識と言ってくださいな。ぐっどないと』
私はアラームの設定をしてから携帯を枕の下にしまった。
電気を消し、目を瞑る。
やけに詳しいな、あいつ。男同士って誕生日とか、そういう話あんまりしなさそうだけど。彼女いるのは知らなかったくせに。いまいちよくわからんな。
ぼんやりとそんなことを考えていたら、私はいつの間にか眠りに落ちていた。




