9-2
雨の降る山の中の吊り橋。人二人がすれ違うのが精いっぱいの横幅だが、とても長い。川をまたぐその橋の中央に、桐島君はいた。
ワイヤーを掴んで川を見下ろす彼の瞳はひどく虚ろだった。
「まさか飛び降りるつもりじゃないよね?」
「驚いたな。どうしてここに?」
そう言いながら、桐島君は少しも驚いた様子がなかった。
「宿の人に聞いたらここだろうって」
「そういう意味じゃないんだけどね」
桐島君はつまらないこと言うなよと言いたげに、冷たく言葉を投げ捨てた。
「わかってるでしょ、桐島君を迎えに来たんだよ。お母さん、心配してたよ」
「だから、どうして迎えに来たのって聞いてるんだけど」
明らかに機嫌が悪かった。そんな彼を見るのは初めてのことだった。
でもそれも当然だ。
私は余裕たっぷりに笑って、「それこそ野暮な質問じゃない?」と答えた。
桐島君はゆっくりと、私の奥にそびえる山の一つを見上げた。私もつられてそちらに目を移す。湯気や煙のようにも見える、山にかかる霧。それが空へと昇って雲と混じっていた。霧と雲が混然一体となって、どこが境界かまるでわからない。
気がつくと、ぽつぽつと小雨が降っていた。どうりで夏なのに肌寒いわけだ。すっかり身体が冷えてしまっている。
桐島君はようやく私と話す気になったらしい。私の目をまっすぐに見つめた。
「阿部さん。俺、フラれちゃったよ。彰吾は、君のことが好きみたいだ」
私はゆっくりと桐島君に近づいた。吊り橋は私の足音をしっかりと伝えたらしい。彼はこっちをきっと睨み付けて、それ以上歩みを進めることを許さなかった。
「帰ってくれないか。理不尽なのはわかってるんだけど、今はちょっと、君の顔を見たくない」
はっきりと拒絶の意志を込めた言葉は、生き物たちの息吹で騒がしい山の中でもしっかりと聞こえた。
「うんわかった。でも一緒に帰ろうよ」
「もう帰る理由がなくなったんだよ。あそこはずっと、苦しかったんだ」
彼の顔は空と同じようにどんどん曇っていって、私はいてもたってもいられなくなった。
風が強くなってきて、無数の雨粒が降りかかる。それでも私は向かい風の中、軋む橋を一歩ずつ進んだ。
「桐島君には布施しか必要なかったってこと? あいつにふられたら全部いらないの? その程度のものだったの?」
私が一歩近づくたびに、桐島君は一歩ずつ遠ざかった。すがるように尋ねる私を、彼は心底嫌がっているようだった。
深い緑の山。何人も受け付けない雰囲気のある大自然。
でも桐島君はそこに溶け込んでいた。きっと、受け入れられたのだ。彼の心が清らかで、凪いでいたから。ここには目がチカチカするようなパステルカラーもなければ、神経を逆なでるような機械の音もしない。
余所者は、私の方だ。異質なものは、部外者なのは、不協和音なのは、私だけだ。
でも、今桐島君を連れ戻さないと、彼がこの自然に飲まれてしまいそうで、私は怖かった。
「私は、桐島君に帰ってきてほしいよ。ねえ、お願い」
駆け寄り、彼の手を取った。が、すぐにその手は振りほどかれた。
「そういうふうに優しくされたら、甘えたくなるんだよ。誰でもいいから傍にいてほしいと思ってしまう」
「でもさ」と桐島君は寂しげな、諦めたような。そんな悲しい笑顔を浮かべた。
「でも、君を傷つけた俺に、そんな資格はないんだよ。寂しいときだけ誰かにすがるなんてそんなことできないんだ。……もう帰ってくれよ」
私はその顔がどうしても耐えられなくて、雨に濡れて震える彼の手を力いっぱい握りしめた。
桐島君はそれを振り払おうともがいたが、私も必死でしがみついた。
「ほっといてくれよっ」
桐島君はもう気づいているみたいだった。なのにそれを頑なに認めようとしないのは、彼の心が繊細過ぎるからだ。
私は一度手を離し、今度は彼を抱きしめた。
「いいよ。そのために来たんだよ」
彼は必死に私を引きはがそうと下。
「だめだよ。俺は君のことを、傷つけた」
ずるいことを言う。だから私も開き直れた。
「たしかに、私は桐島君のことが好きだからここにいるよ」
どこまでもずるくなろう。何よりも、彼のために。
「でもそれは私がしたくてしてることだから、桐島君は私を利用していいんだよ。他の人にいっぱい迷惑かけてもいいから、ほんとに悲しいときは一人でいちゃダメなんだよ」
桐島君が自分を捨てたいと思ったって、みんなが桐島君を捨てたりしない。桐島君がどれだけ嫌だと思っても、世界は簡単には変わらない。
私はずっと、嫌いだった。上辺だけ取り繕った、なんの意味もない言葉を吐いて、相手に取り入ろうとする人たちが。愛想笑いを浮かべて媚びを売って、相手の望む自分を演じる人たちが。そんなの、偽物だって思ってた。
けれど、私はどうしても桐島君に会いたかった。帰ってきてほしかった。傷ついているなら、傍にいたかった。どれもこれも私のエゴだ。
結局は同じなのかもしれない。どんな言葉も、どんな気持ちも、誰かのためのものじゃないのかもしれない。
でも今だけは。私だけは。
彼の望む私になりたかった。
「私も、桐島君を好きでいるのを終わりにする。終わりにするから。……だから、帰ってきて」
一瞬、風がやんだ気がした。
桐島君は私の瞳を覗き込んだ。
澄んだ、綺麗な瞳から大粒の涙がこぼれだした。
桐島君はもがくのをやめ、足の力が抜けたのか、その場に崩れ落ちた。一緒になってしゃがみ込んだ私の耳元に、彼はかすれた声で「ごめん」とささやいた。
分厚い雲が相変わらず私たちの上に重くのしかかってくる。
私は一人、ゆっくりと立ち上がって、川の下流に身体を向けた。
川は泥を削って茶色く濁っている。小雨が顔にあたって邪魔くさい。
紫、赤、オレンジ、緑、青。色とりどりの河原の小石は、ここからだとすべて同じ、くすんだグレーに見えた。
私はマイナスイオンに満ちた空気を深く吸いこんだ。
「桐島君を好きになって、よかったっ」
全身の力を振り絞って、あらん限りの声で叫んだ。
自然の力の前に、私の言葉はかき消された。こりない私はそれでも叫んだ。
桐島君も立ち上がり、私と同じように「ごめん」と叫んだ。
桐島君もこりない。そんな言葉に意味はないともうわかっているはずなのに、彼は嗚咽を漏らしながら叫び続けた。
不思議と私も涙がこぼれてきた。だけどこれが最後の涙だとわかっていたから、気にせず流し続けることにした。
いっそ、私をフるから天罰がくだったんだって。そう思えたらよかったのかもしれない。彼を傷つけるためだけに布施と付き合ったりとか、そんなことができたらよかったのかもしれない。
けれど、私はもう恋をする気持ちを。人を好きになる気持ちを知っていた。
桐島君の顔は雨で濡れてグショグショで、笑っているのか泣いているのかもわからない。でも彼がどんな顔をしていても、もうどうでもよかった。私がどんなみっともない顔をしていたって、どうでもよかった。
草や土の香りが雨に濡れて際立つ。夏の山が二人を優しく包み込んでいた。




