インゼクトリアの魔王
急げ! 急いでくれルシオン!
「わかっているソーマ。見えたぞ、アソコだ!」
恐怖に駆られたような声でソーマはルシオンの中から彼女にそう呼びかける。
ソーマの声に厳しい顔でそう答えながら。
ルシオンの真っ赤な瞳が、何かをにらみつけていた。
そこは魔法安全基盤研究所の研究棟の一画。
ルシオンの全身を叩きつけるような凄まじい魔素の奔流の中心だった。
間違いない。
剣はあそこだ。
ルシオンの翅が大きくしなって、飛翔した少女の体はその速度を増していく。
ゴゴゴゴゴ……
不気味な地鳴りが辺りに響いた。
空に立ち上る緑の光の勢いに耐えかねたみたいに。
研究棟の屋上に無数のヒビが生じていき、ガラガラと音をたてて崩れ落ち始めた。
#
「貴様! いったい何のつもりだ……何をしに来た……!」
「何って……その剣を返してもらいに来たのさ。あたしたちの剣をね」
研究棟の一室で。
怒りで顔を歪めてメイローゼに詰め寄るカネミツに黒衣の魔女はそう答えた。
地鳴りと激しい揺れと共に、部屋の壁面や天井も崩れようとしていた。
カネミツ以外の職員たちはすでにその場から退去していた。
いま研究室に残っているのは怒りで肩を震わせたカネミツと、嘲笑うメイローゼの2人だけ。
「私たちを……騙したな!」
「フン。今ごろ気づいても手遅れさ。剣の封印はお前たちの手で消滅した。あとは剣がその力を解き放ち、世界の理を変えてゆく様……特等席のこの場所から存分に眺めるといい……」
魔女に掴みかかろうとするカネミツを、影みたいにスルリとかわしながら。
メイローゼは剣に向かって滑るように歩いて行く。
「この世の摂理を乱す外法の剣。ついにあたしの手に。ああ、これでようやくアイツと……」
エメラルドのような緑の瞳をウットリと輝かせながら。
メイローゼが空中に浮かんで輝いた『ルーナマリカの剣』に手を伸ばそうとした、その時だった。
タンッ!
タンッ!
タンッ!
乾いた銃声が研究室に響いた。
メイローゼのまとった黒いローブを何かが貫通していた。
「このバケモノめ……貴様らの言葉を信じたばっかりに……!」
震える右手で構えた銀色の拳銃をメイローゼに向けているのはカネミツだった。
カネミツがスーツの内に隠し持っていた銃が、メイローゼを背中から撃ち抜いていたのだ。
「つくづく愚かなヤツだ。大人しくしていれば死なずに済んだかもしれんのに……」
だがカネミツが放った銃弾は、メイローゼの歩みを止めることさえ出来ないようだった。
震えるカネミツを振り向きもせず、低いがよく通る声でメイローゼはそう呟いていた。
「グッ……!」
狼狽したカネミツが再びメイローゼにむかって引き金をひこうとした、だが次の瞬間。
バキンッ!
空気の軋む音と同時に。
「グウァアアアアア!!!」
カネミツの絶叫が研究室に響き渡った。
カネミツの右手は、とつぜん空中に生じた黒い氷によってズタズタに引き裂かれていた。
それはメイローゼが放った魔氷の業だった。
苦悶のうめきを漏らしながら、研究室の床に膝をつくカネミツ。
「無能な人間の分際で、さんざん威張りちらしやがって。いいだろう、自分の愚かさをその身でもって味わいながら地獄に行け!」
メイローゼが、ゆっくりとカネミツの方を向いた。
魔女の形の良い唇が嗜虐の悦びに歪んでいた。
メイローゼが右手の指先でカネミツをさしてその体を引き裂こうとした……。
その時だった。
「なんだ、この力は……!?」
魔女の指先がピクリと震えた。
「この力は王女! リュトムス、しくじったのか!」
頭上から迫って来る力の気配を察して。
魔女の顏が忌々しげに歪んだ。
「ウオオオオオオオオオオッ!」
そして少女の怒号と同時に。
ズドンッ!
研究室の天井を突き崩して、魔女の目の前に何かが降って来た。
メイローゼの前に現れたのは、研究棟の床材を屋上から貫通してこの場に降り立った銀髪の少女の姿だった。
リュトムスを打ち倒して研究棟まで飛んで来た、インゼクトリアのルシオン・ゼクトだった。
「いざコゼットの仇! 滅びろ逆賊!」
「ぬうううううう!!」
間髪入れず。
ルシオンの放った光の矢が空を切った!
緑の目でルシオンをにらみながらメイローゼの手が空をはらった。
バキンッ!
バキンッ!
バキンッ!
空中に次々生じた黒い氷が、ルシオンの矢からメイローゼを遮っていく。
だが……
「絶対に許さない! コゼット、コゼット、コゼット!」
ルシオンの力は凄まじかった。
空中を舞うホタルから次々発射される光の矢が、メイローゼの魔氷を瞬く間に消滅させていく。
矢の数が……氷の量を凌いでいく!
そして、ついに。
「ルシフェリック・バースト!」
ビュウウウウ……
ルシオンの元に集ったホタルたちから、一斉に光の矢の束が放たれた。
氷が尽きてその場から動けないメイローゼの腹をルシオンのバーストが貫いた。
「ウグウウウッ!」
「これで、終わりだァ!」
苦悶の叫びをメイローゼの姿をにらみつけて。
ルシオンは怒号を上げた。
ルシオンの合図と同時に、バーストの光の奔流がメイローゼの体を横薙ぎに払った。
ズバッ!
魔女の体は2つになって床に転がっていた。
緑の瞳を驚愕で見開いたまま。
腰から上を切断されたメイローゼの目は崩れた天井からさしこむ月の光を虚しくにらんでいた。
「ついにやった……終わったぞ……コゼット……!」
足元に転がった魔女の亡骸を見下ろしながら。
ルシオンの頬を伝っていくのは幾筋もの涙だった。
その時だった。
「うう……お前はあの時の異界者か……」
あれは……マサムネの……父さん!
苦しそうな息を吐きながら、ルシオンを見上げる者の姿に気づいてソーマは驚きの声を上げた。
メイローゼに右腕をズタズタにされたマサムネの父カネミツは、もうその場から動くこともできないようだった。
医者ではないソーマにも傷の深さは一目でわかった。
早く手当をしなければ、あの傷は……助からない。
助けないと、ルシオン……!
「待て、まずは剣を収めるのが先だ……」
ソーマの呼びかけに、ルシオンは厳しい声でそう答えた。
目の前の剣。
盗賊グリザルドに奪われたインゼクトリアの至宝。
『ルーナマリカの剣』。
今、ようやくルシオンの手に戻ろうとしていた。
「鎮まれルーナマリカの剣よ。わたしの元に来い。さあ、一緒にインゼクトリアに帰ろう……」
まるで生きた人間い話すように剣に向かってそう呼びかけながら。
ルシオンは空中に浮かんだ剣の柄に手を伸ばした。
だがルシオンの手が緑に輝く柄を取ろうとしたその瞬間。
バチンッ!
「「うあああっ!」」
ルシオンとソーマは同時に悲鳴を上げていた。
剣が、ルシオンの手を弾き飛ばしていた。
刀身から放たれるすさまじい力がルシオンの接触を拒んでいた。
剣から流れ出す魔素の奔流が、ますますその勢いを強めていく!
「そんな馬鹿な……剣が言うことを聞かない……!?」
紅玉のような真っ赤な瞳を驚きに見開いて。
ルシオンは呆然とした表情で剣を眺めるしかない、その時だった。
「アハハハハッ! 無駄な事だ。ひとたび剣の封印が解かれたら、もうお前の力でもソイツは止められない。例え魔王の眷属であろうと、誰であろうと!」
低いがよく通る女の声が、嘲笑うようにルシオンの背中から響いて来た。
「……お前……その姿は……!?」
声の方を振り向いたルシオンの顏が、みるみる恐怖に歪んでいった。
ルシオンの体がすくむ。
彼女の中のソーマも、思わず驚きの声を上げていた。
それほどその女の姿は異様だった。
声の主は、ルシオンのバーストで引き裂かれたはずのメイローゼだった。
いや、引き裂いたと思っていたメイローゼの体は……
どこにも無かった。
光の矢で引き裂かれた黒いローブの中から露わになった魔女の姿。
メイローゼの胸から下には、本来あるはずの腹も、腰も、足もなかった。
代わりに女の胸から伸び上がり、まるで何百匹のヘビみたいにその体を支えているのは
ズルズルともつれ蠢き、絡まり合った幾筋もの……緑の棘もつ薔薇の蔓だった!
「残念だったな王女。あたしの体を貫いて、引き裂き滅ぼしたつもりだったんだろうが、元よりあたしには滅ぼせるだけの身体なんて無いのさ」
破れたローブを振り払ってルシオンを指差しながら、メイローゼはニタリと笑った。
胸から伸びた蔓をのたくらせながら、ゆっくりと剣の方に近づいてくる。
「お前は……いったい何者なんだ。何が目的だ。なぜ剣を盗んで……こんなことをする!?」
自分でも気づかない内に魔女から後ずさりながら。
ルシオンは震える声でメイローゼにそう訊いた。
名前も知らない、自分の半身すら持たない。
緑の蔓に繋がれたまま生き続ける魔氷使いの女。
この魔女はいったい何者で、何が目的なのだろう。
「何故こんなことをする……だって? ふざけるな!」
メイローゼの緑の瞳がたまりかねたようにギラリと光った。
ルシオンをにらむその目に湛えられているのは、激しい憎しみだった。
「20年前のあの戦争。あの時あたしたちは命がけで戦った。国を超えて、深幻想界全ての民を守るために。世界の『狭間』から復活した『邪神イリス』を封じるために。どんな犠牲もかえりみずに! だが戦いの後、お前たちはどうした?」
「20年前って……あの邪神戦争の……!」
メイローゼがルシオンを指さして、逆にそう訊き返してきた。
ルシオンの真っ赤な瞳が驚きで見開かれた。
「そうだ。死力を尽くして再び邪神を『狭間』に封じるその瞬間。イリスの爪はあたしの半身を奪っていった。引き裂かれたあたしの片割れは、邪神と共に『狭間』に飲み込まれて消えた。永遠にな……それなのにお前たちは、その後どうした!?」
ルシオンを問い詰めるメイローゼの声。
それはまるで憎しみに駆られて回転を止められない錆びた歯車の軋みだった。
「理由も分らない邪神復活の責を全てあたしたちになすりつけた。あたしを追い、あたしたちの国を奪って、残った魔王たちの手で好き放題に分断した! だからだ!」
「魔王……? 国……? じゃあ、お前がまさか……邪神戦争の大罪人。吹雪国の『双子王』……!」
メイローゼの言葉で、何かに気づいたのか。
ルシオンの体が震えている。
「フン、今ごろ気づいたか。甲蟲帝国の小娘が……」
メイローゼが鼻を鳴らした。
おいルシオン、あいつは何を言ってるんだ?
『邪神戦争』っていったい何だよ!?
ルシオンの中のソーマは、わけがわからなかった。
メイローゼの言葉を聞いた時から。
ルシオンは呆然として、その体は固まったまま。
このままでは、魔女の思惑通り。
世界はより強力な魔法の力で……
「邪神戦争……。20年前に深幻想界を覆った暗黒の元凶だ。深幻想界支配の野心に駆られた吹雪国の魔王が呼んだ災厄。すべての国と魔王たちを巻き込んだ凄まじい戦いだった……そう聞いている……」
絞り出すような声でルシオンはソーマに答えた。
20年前……大暗黒!
ソーマもまた息を飲む。
人々が魔法を使えるようになった理由。
この世界に流れ込んだ魔素。
世界に生じたホコロビ。
そんな大異変の根幹に、目の前の魔女もまた深く関わっていたというのだ。
「ハッ! 魔王たちがでっち上げた嘘を疑いもせずに信じていたのか小娘? まあいい。他の魔王たちが、そしてお前たちの一族がそうしたように。あたしも好きにすることにした。お前たちの一族が機巧都市のツァーンラートと小競り合いをしている間に『ルーナマリカの剣』を盗みだしてね……」
メイローゼはクスクス笑いながら輝く剣を見上げる。
「もうすぐだ。じきに世界は1つになる。そうなれば……『狭間』の彼方に消えてしまったあたしの片割れと……あいつと再び1つになれたなら!」
エメラルドみたいな緑の瞳をウットリとうるませながら。
メイローゼが、ルシオンの傍らを通り過ぎるその耳元で。
「あとはもう知ったことか。邪神イリスがこの世に復活しようが。魔王たちと人間が戦争を始めようが。こんな世界、もうどうなってもいい……」
ゾッとするほど冷たく酷薄な声で。
メイローゼはルシオンにそう囁きかけた。
「う……あ……あ……」
ルシオン?
おいどうした!
戦ってくれルシオン!
引きつった声を漏らすルシオンに、ソーマは必死で呼びかける。
でももう無駄みたいだった。
メイローゼの言葉から何かを感じ取ったのか。
今のルシオンは恐怖で固まったまま、その体も言うことを聞かないようだった。
その時だった。
――諦めるんじゃあない。ルシオン!
唐突に。
ルシオンの耳元で誰かの声がした。
「「あ……!」」
ルシオンとソーマが同時に驚きの声。
声は、ルシオンの頭の中に響いているみたいだった。
――お前はよく戦った。だれよりも頑張っている。
――コゼットの助けも借りずにココまで辿り着いたじゃないか。
――あとひと踏ん張り、こんなところで諦めるのか!
それは野太く力強い、男の声だった。
この声は……?
ソーマは戸惑いの声を上げる。
友達とも周りにいる大人たちとは明らかに違う声。
でも確かに、ハッキリ聞き覚えのある声だった。
「その声は……そんな、まさか!」
ルシオンの声に昂ぶりの色。
少女の体から恐怖の震えが消えた。
その全身が自由を取り戻して、力に満ちていくのをソーマも感じた。
#
「ここまで来て……諦めない!」
「ムッ……!」
背後から響いたルシオンの力強い声に、メイローゼの頬がピクリと引きつった、その時だった。
ビュンッ!
ビュンッ!
ビュンッ!
メイローゼの上半身を掠めて。
背後から矢継ぎ早に。
ルシオンのホタルたちの放った光の矢が次々放たれていく。
矢の狙いはメイローゼではなかった。
空中で輝く剣に、ホタルたちの集中砲火が止まらない。
「災いは私が防ぐ! 剣を止められないなら、壊すまでだァ!」
真っ赤な瞳で『ルーナマリカの剣』をにらんで、ルシオンの声に迷いの色はなかった。
「ええい、鬱陶しい……!」
メイローゼが再びルシオンの方を向いた。
「小娘が。もうお前のことなどどうでもいいが……これはやりかけた仕事でもある……」
メイローゼの指先がピタリとルシオンをさした。
ヒィイイインンンン……
掠れた音と同時に辺りの気温が急激に下がっていく。
空中に生じたルシオンの何倍もある氷の塊がいくつもいくつも。
少女の体を取り囲んだ。
だがルシオンは乱れない。
「諦めない。諦めない。諦めない……!」
剣の刀身に狙いを定めて、光の矢を放ち続ける。
そして、ピシン。
ルシオンの矢を受けて『ルーナマリカの剣』の刀身が生じたと同時に。
「死ね!」
メイローゼの声とともに、氷が膨れ上がって少女の体を押しつぶそうとした、だがその時だった!
バキンッ!
ルシオンを潰そうとしていた氷が、一瞬で砕けて微塵になった。
「なんだっ!?」
メイローゼの緑の目が驚きで見開かれる。
ホタルを指揮するルシオンの指先に、見たことのない光が宿っていた。
あ……アレは……!?
ルシオンの右手の指先で実体化していくモノを見て、ソーマは息を飲む。
ソレは緑色に輝いた大粒の宝石がちりばめられた、銀色の指輪だった。
あの時。
御珠中央公園の森の中で。
ユナの命を助けてくれた奇妙な男がソーマに手渡したあの指輪だった。
ソーマのポケットに中にしまわれたまま。
合体してルシオンの体に取り込まれていた輝く指輪が、今ルシオンの指先で実体化したのだろうか。
「ソーマ、これを何処で?」
「何処でって、その、お前がいない時に変なオッサンから……」
「でもこれは……インゼクトリアの至宝。『ヴィントライゼの指輪』!」
自分の手に生じた指輪に気づいたルシオンもまた、感嘆の声を上げた。
その時だった。
「よく頑張ったな、ルシオン!」
さっき頭の中で聞こえた野太い男の声が、今度はハッキリ研究室全体に響き渡った。
ギュウウウウンン……
指輪から放たれる銀色の光が、その強さを増していった。
そして。
「ウウウ……!」
メイローゼもルシオンも眩しさに指輪から目をそらした次の瞬間。
ドンッ!
叩きつけるような音と同時に。
ルシオンの目の前に、大きな人影が立っていた。
「立派だったぞルシオン。ここまでよく戦った!」
「ああ、やっぱり!」
弱まってゆく指輪の光の中。
突然現れた人影を見上げて。
ルシオンの声に宿っているのは感嘆と安堵だった。
あれは……あの人は……!
目の前にそびえるその男の姿に、ソーマもまた戸惑いの声を上げていた。
そいつは今日の夕方。
公園の森で出会ってソーマに指輪を渡したあの男だった。
2メートルは超えていそうな長身。隆々とした筋骨。
崩れ落ちた天井から流れ込む夜風に靡いた、銀色の蓬髪。
そして男は、公園であった時よりも遥かに力強い姿をしていた。
いま男の右肩に担がれているは、自分の身長と同じくらいもある巨大な戦斧。
いま男の体を覆っているのはロングコートではなかった。
黒銀色に光り輝くまるで甲虫のような板金鎧。
そして銀色の蓬髪の輝く男の頭上に頂かれているもの。
それはカブトムシのツノみたいな角飾りをあしらった、これまた黒銀色の雄々しい兜だった。
「父上! 来てくれたのですね父上!」
ルシオンが、歓喜の叫びをあげる。
「なぜ貴様が此処にいる……! 甲蟲帝国の魔王。ヴィトル・ゼクト!」
そして緑の瞳で男の姿をにらんで。
男の名を呼んだメイローゼの声は、憎しみに軋んでいた。