魔拳士爆裂
「おやおや、もう逝ってしまったのですか王女様……?」
研究所を囲んだ森の一画で。
左腕から伸びた黒蛇でルシオンを縛り上げたリュトムスが残念そうにため息をついた。
青白い顔をルシオンに寄せてマジマジと彼女をながめるリュトムス。
ルシオンの方は、もう抗う力も尽きてしまったみたいだった。
小さな身体をグッタリさせて、ルビーみたいに深紅のその目も今は虚ろ。
その体は血塗れ。
全身の骨もバラバラ。
もう幽かな息を吐きながら、食屍鬼にされるがままだった。
「もう少し楽しめるかと思ったのに残念です。では約束通り……いただきます……」
墓場の土のような冷たい息をルシオンに吐きかけながら。
リュトムスが小さなルシオンの首筋をかじり取ろうとした、その時だった。
「なんだ……!?」
不意になにかの気配を感じたのか。
ルシオンから顔を離したリュトムスが、険しい顔であたりを見回した。
「ルシオンーー!」
夜空からルシオンを呼ぶ声と同時に。
リュトムスの頭上の樹の枝々がゴオゴオと吹く風にしなった。
枝からまき散らされた木の葉がリュトムスとルシオンの周囲にガサガサと落ちかかると、次の瞬間。
「あなたは……!?」
食屍鬼は夜の空から降り立った影に気づいて驚きの声を上げた。
立っているのは御崎ソーマだった。
体に感じるルシオンの名残りを辿って。
ルシオンの痛みを、苦しみを、助けを呼ぶ気配を辿って。
飛翔魔法でルシオンを追いかけて来たソーマが、いま正にルシオンを食いちぎろうとしていた食屍鬼の前に舞い降りたのだ!
「ルシオンを、放せぇ!!」
「うぅお!?」
ズドン!
ズドン!
ズドン!
ソーマの怒りの叫びと同時に。
リュトムスの周囲で矢継ぎ早に金色の雷撃が炸裂した。
とっさに。
凄まじいスピードで。
その場から跳び退りながらソーマと距離を取るリュトムス。
黒蛇の縛めが解かれて、ルシオンの小さな体が地面に転がった。
「雷撃! 雷撃! 雷撃!」
ズドン!
ズドン!
ズドン!
ソーマの攻撃は止まらない。
行きつく暇もなく次々に炸裂する雷撃だったが、リュトムスの体には当たらない。
ソーマのかざした十字架の照準は正確に食屍鬼を捉えているはずなのに。
リュトムスは間一髪のタイミングで全ての稲妻をかわしてしまうのだ。
「なるほどなるほど。あなたですね? 王女の依代は。そしてプリエル殿を殺したのは……」
「クッ!」
ソーマの正体と目的に気づいたのか。
リュトムスが青白い顔をニタリと歪ませた。
雷撃を撃ち尽くしたソーマは食屍鬼をにらみながらゆっくりと後ずさる。
次の魔法の発動には、あと数秒の集中が必要だった。
「この世界での王女の強さの秘密か。人間の体なのに、その凄まじい力は……確かに面白い。ですが……」
「来るな!」
リュトムスがニヤニヤ笑いながら、ソーマの方に近づいて来た。
ソーマは右手の十字架をかざしてリュトムスに叫ぶ。
だが、食屍鬼にはソーマの魔法を恐れる様子はまるでなかった。
そして……
「火炎……ガァアアアア!」
リュトムスに向かって次の魔法を発動させようとしたソーマの声が悲鳴にかき消された。
目にも止まらぬ速さで懐に飛び込んで来たリュトムスの突きが、ソーマのミゾオチにめりこんでいたのだ。
「舐めるんじゃァないですよ! 私は拳士だ。プリエル殿とは違う!」
突き。
蹴り。
掌底。
肘撃ち。
次々に繰り出されるリュトムスの攻撃がソーマの体を叩きのめしていく!
ボロボロになったソーマの体が、その場からふきとばされて樹の幹に激突した。
「グゥウウウウ……!」
ソーマは呻く。
痛い。
息ができないくらい苦しい。
ソーマの魔法の力ならルシオンを助けられると思っていた。
異界の敵をどうにか出来ると思っていた。
だが甘かった。
戦闘経験がまるでないソーマにもハッキリわかった。
リュトムスは一流の戦士だった。
ソーマの攻撃は、発動する一瞬手前で全てリュトムスに悟られてしまう。
ソーマの魔法がどれだけ強力でも、敵に当たらなければ意味はない。
このままではソーマは勝てない。
魔拳士に一方的になぶられて死ぬだけだ!
その時だった。
「う……ぐ……おまえ、ソーマ……」
「ルシオン?」
か細い声でソーマに呼びかける者がいた。
ソーマと同じくボロボロで地面に転がったルシオンだった。
真っ赤な瞳でソーマをにらんで。
傷ついた体を引きずって、ソーマの方に近づいてくる。
「わたしの……わたしの体を使え。もう一度あいつをやっつけるんだ……」
「そんな……いや、でもだめだ……!」
ルシオンの考えていることに気づいたソーマは戸惑い顏で首を振る。
あの日。
初めてルシオンと出会ったあの夜と同じように。
ルシオンはソーマと合体するつもりなのだ。
でも……だめだ……!
ユナと約束した。
これが終わったらユナのもとに帰るって。
異世界の連中とはもう関わらないって。
いま再びルシオンと合体してしまったら、その約束ももう……
「おやおや、まだ生きていたのですか王女様。そっちの人間もカタがついたし。食事を再開しましょうか……」
這いずるルシオンに気がついたリュトムスが、彼女にむかってゆっくり近づいて行く。
長くて真っ赤な舌で口元を舐めまわしながら。
再びルシオンを食いちぎるつもりだ!
「うう……この手でコゼットの仇を取るんだ。剣を取り戻すんだ。コゼット、コゼット……」
「…………!」
そして、パンッ!
ソーマは震える手で自分の両の頬を叩いた。
苦しげに息をしながらコゼットの名前を呼ぶルシオンの姿を見て。
ソーマは心を決めた。
今やるべきことをやらなければ。
ソーマもルシオンも、2人とも殺される!
傷ついた体を奮い立たせて。
ソーマはルシオンは立ち上がった。
ルシオンのもとに駆け寄った。
「ルシオン……」
「ソーマ……」
ボロボロになったルシオンの体を、ソーマは静かに抱き上げた。
こんなになるまで、たった1人で戦ってきたのか……
血と土にまみれた銀色の髪をソーマはフワリと撫でた。
紅玉みたいな真っ赤な瞳が、すがるようにソーマを見つめていた。
小さなルシオンの体を、ソーマは優しく抱きしめていた。
ボオオオオオ……
ルシオンの体が緑の炎を上げた。
炎がソーマを包み込む。
ソーマの内に入って来る。
ソーマの全身に、再びルシオンが沁み込んでくる!
「うおおおおおおッ!」
全身を満たす凄まじい力の感覚にソーマは叫んだ。
ソーマの体が変わっていく。
少年の手足が、細くてしなやかなむきだしの女の子のそれに。
黒かった髪はパチパチと紫色の火花を散らした輝く銀髪に。
背中から広がってゆく、緑色に輝いた大きくて優美な翅。
「やったぞソーマ! 上手くいった!」
鈴を振るような澄んだ声が森に響いた。
ああ、ルシオン!
ルシオンの声にルシオンの内からソーマは答える。
ソーマの体は、今ふたたびルシオンと同化していた。
全身から噴き上がる緑の炎に包まれながら。
すっかり傷の癒えた足で力強く森の土を踏んで。
再び少女の姿を取り戻したルシオンが、真っ赤に燃える目でリュトムスをキッとにらみつけた!
「なるほどなるほど王女様。再び人間を依代にして!」
緑に燃えるルシオンの体を見据えながら。
リュトムスは驚きの声を上げていた。
だが食屍鬼の拳士の青白い顔に浮かんでいるのは、恐れではなく喜びの色だった。
#
「いくぞリュトムス!」
ソーマと合体して少女の姿を取り戻したルシオンが、食屍鬼をキッとにらんだ。
リュトムスを差したルシオンの指先に緑に瞬くホタルたちが集っていく。
ルシオン……
全身に満ちていくルシオンの感覚を、ソーマは複雑な思いで受け入れた。
ユナとの約束をまた破ってしまった。
いや!
ソーマは自分に言い聞かせる。
選択肢はこれしかなかった。
ソーマとルシオンの命を同時に救うためには。
魔法が失われてゆく世界を、元に戻すためには!
「フフフ。感謝しますよ王女の依代! 弱いままの王女を殺して食べても私の心は満たされなかったでしょう。ですが今なら!」
リュトムスはルシオンに拳を構えてニヤリと笑った。
ビュッ!
風を切る音と同時にリュトムスの姿がその場から消えた。
普通の人間には視認できない程のスピードで。
リュトムスの体がルシオンの懐に飛び込んでいく。
だが……
「「見える!」」
ルシオンとソーマは同時に認識した。
研ぎ澄まされたルシオンの目は、耳は。
食屍鬼の動きをハッキリ捉えていたのだ。
「アロー!」
ルシオンの合図と同時に。
彼女が召喚したホタルの発光器官から一斉に光の矢が放たれる。
ザクッ!
斬撃の音と同時にリュトムスの左腕から。
黒いムチの様にルシオンの体に打ちかかろうとしていた大蛇がボトリと地面に落ちた。
ルシオンの矢が食屍鬼の振った『ムルデの黒蛇』を左腕の根元から切断していたのだ!
「甘い甘い!」
だが自分の左腕代わりのヘビを切断されながらも、リュトムスの動きから鋭さは失われていなかった。
突き。
蹴り。
肘打ち。
突き。
矢継ぎ早に繰り出される食屍鬼の攻撃がルシオンの体に突き刺さっていく……
かに見えた、だがその時だった。
「なに!?」
リュトムスが初めて狼狽の声を上げた。
目にも止まらぬ速さの食屍鬼の拳士の攻撃が、ルシオンの体にかすりもしない。
紙一重の差でルシオンにかわされていく!
「わたしを舐めるなリュトムス! 1度見せた攻撃はもう通用しないぞ!」
真っ赤な瞳でリュトムスをにらんで。
ルシオンは食屍鬼に厳しく言い放った。
ルシオンもソーマも冷静だった。
今の2人なら……こいつには負けない!
ルシオンの周囲のホタルが、再び緑の輝きを増していった。
だが……
「クククッ! なるほどなるほど王女様。魔王の眷属の名はダテじゃないということですね。ですが……」
自らの攻撃の全てをかわされながら、リュトムスの顏から不敵な笑みは消えていなかった。
パチンッ!
戦いのさなかで突然、食屍鬼が自分の右手の指を鳴らした、次の瞬間。
「うおあッ!」
ルシオンの悲鳴。
少女の体がその足をもつれさせて地面に転がる。
いつのまにかルシオンの足に絡みついていたのは、さっきリュトムスの左腕から切断された『ムルデの黒蛇』だった!
「まだまだ甘い! そのヘビもまた私の一部。足元がおろそかでしたな王女様!」
ズドンッ!
起き上がって体勢を立て直そうとするルシオンのミゾオチにリュトムスの拳がめりこんだ。
「ぐああッ」
ふっ飛ばされたルシオンの体が木の幹に叩きつけられる。
足に絡まりついた大蛇がズルズルとルシオンの体を這いあがってきた。
少女の全身に巻き付いて、再びルシオンの自由を奪っていく。
「なかなか楽しませてくれましたな王女様。ですがそろそろ……終いにしましょう」
勝ち誇ったリュトムスが、ルシオンに近づいてくる。
縛り上げられたルシオンに顔を寄せて舌なめずりをすると、おもむろに自分の右手でつくった手刀を振り上げた。
ビュッ!
リュトムスの手刀がルシオンの首筋めがけて振り下ろされた。
動けないルシオンの首をはねて、今度こそその屍肉を喰らうつもりだった。
だが……
「甘いのは……お前の方だ!」
「なにっ!?」
リュトムスに首をはねられようとするその瞬間。
動けないはずのルシオンは不敵に笑っていた。
彼の手刀がルシオンの首筋の寸前でボトリと地面に落ちていた。
リュトムスの体から……切断されていた。
「これは……!」
目の前で瞬いた緑の燐光に食屍鬼は戸惑いの声を上げていた。
光源はルシオンを縛り上げた黒蛇だった。
黒い鱗を切り裂いてヘビの体から飛び出した光の矢が、リュトムスの手刀を斬り落としていたのだ!
「そんな。あの戦いの最中に……私の黒蛇に自分のホタルを……!?」
右手を奪ったモノの正体に気づいて、リュトムスはうめいた。
ヘビの内側から放たれた緑の光が黒蛇をバラバラに切り刻んでいく。
縛めを解かれて自由になったルシオンのもとに、緑の光が集っていく。
切断されたヘビの口内に、ルシオンは自分のホタルたちを忍ばせていた。
勝利を確信したリュトムスがルシオンにとどめを刺そうとしたその瞬間。
ホタルたちの力を解き放ったのだ!
「きぃさぁまぁああああああああ!」
両の拳を失ったリュトムスが、凄まじい顔でルシオンに牙を剥いた。
ルシオンの首筋に噛みついて、そのまま食いちぎろうとした……その寸前。
「ルシフェリック・バースト!」
ルシオンの合図の方が一瞬早かった。
ホタルたちの発光器官から放たれた光の矢の束が、リュトムスの上半身に炸裂した!
ボンッ!
光の直撃を受けた食屍鬼の半身が爆音とともに四散した。
制御する頭部を失ったリュトムスの腰から下がゴロンと地面に転がった。
リュトムスの足は数秒カクカクと痙攣していたが、すぐに力を失って完全に停止した。
「や……やった……!」
リュトムスの残骸を見下ろして、ルシオンはホッと安堵の息をついた。
残忍で凶悪な食屍鬼の拳士は、ルシオンの一撃でこんどこそ本当に滅びたのだ。
「おまえ……ソーマ。来て……くれたんだな」
ルシオンはモジモジしながら、自分の中のソーマにそう呼びかけた。
ああルシオン。
でも……おまえのためだけじゃない。
ソーマもた少しどたどしく、ルシオンにそう答えた。
ユナやコウやナナオ……みんなの……この世界のためだ。
それでも……ソーマもまた胸を撫で下ろす。
もう少しで、ルシオンを死なせるところだった。
ソーマが間に合って……本当に良かった。
そんな、理屈を超えた温かい気持ちがソーマの心を満たしていた。
さあ行こうルシオン。
剣を取り戻して、コゼットの仇を取るんだろ?
「ああ。行くぞソーマ!」
自分の中のソーマの声に、ルシオンは力強くそう答えた。
研究所から立ち上る光の柱を、ルシオンはキッと見上げた。
背中から広がった翅がしなった。
ルシオンの体が、再び研究所に向かって飛翔した。
#
「どういうことだ……なぜ魔素を制御できない!?」
研究室で輝きを増してゆく『ルーナマリカの剣』を見上げながら。
氷室カネミツは戸惑いの声を上げていた。
カネミツが異界者を通じて手に入れた強力な触媒は、世界に漂う魔素を全て吸収するはずだった。
この世界から魔法の力を消し去り、異世界に通じる接界点をも消失させるはずだった。
計画は順調なはずだった。
それなのに……
眩く光る刀身を見つめて、カネミツの頬がヒクつく。
膨大な魔素をその刀身に吸収した『ルーナマリカの剣』は、突然その力を反転させたのだ。
剣から噴き上がるすさまじい量の魔素が研究所を……この敷地一帯を覆ってゆく。
これまでとは比較にならないほど濃厚な魔素が……このままでは世界を覆い尽くしてしまう!
その時だった。
「フククク……ご苦労だったな、『ヒムロカネミツ』……」
「貴様は……!?」
研究室に響いた低いがよく通る女の声に、カネミツは呻いた。
いつのまにかカネミツの背後には、黒いローブで全身を覆った影法師みたいな女が立っていた。
それはエメラルドみたいな緑の瞳を妖しく光らせた、魔女メイローゼの姿だった。
#
「感じる、アソコだ! ……ああっ!?」
夜の空を飛翔しながら。
剣の気配の変化に気づいたルシオンが驚きの声を上げる。
「『ルーナマリカの剣』が……凄い量の魔素を噴き上げている……この世界が魔素で満たされていく……!」
強力な魔素……魔法の力……!?
そんな、まさか、だめだ!
ルシオンの言葉の意味に気づいたソーマは、彼女の中で恐怖のうめきを漏らしていた。
今よりも、ずっと強力な魔法……!
姉さん!
#
「ああ、こんなの……ダメ……!」
御珠病院の暗い病室。
夜空に立ち上った緑の光が窓から差し込んで、リネンのシーツに覆われたベッドを不吉の色に照らしている。
そのベッドの上に横たわって。
まるで人形の様な顏をした美しい少女が弱々しい声を漏らした。
「お願いソーマ。早く来て……ソーマ……!」
不規則に上下する自分の胸を白魚のような手でギュッと押さえながら。
真っ赤に濡れた少女の唇から、譫言みたいにソーマの名前が零れた。