モヤモヤする朝
「あ、起きたか、ユナ……」
「ソーマくん……!」
キッチンからソーマが顔を出した。
ユナは顔を赤らめモジモジしながら、リビングの床に目を伏せる。
「これ、朝だから……メシ……」
「あ、これソーマくんが?」
ソーマはオズオズと、キッチンから運んで来たトレイをダイニングテーブルに置いた。
トレイの上の皿には、ベーコンエッグとトーストがのっかっている。
銀色のポットから漏れだす湯気は、香ばしいコーヒーの香り。
少し焼き過ぎたのだろう。
ベーコンと白身の端が黒くコゲていた。
「ソーマくん。えーと、あの、昨日わたし……」
ソーマから目を泳がせながら、ユナは昨日の記憶を整理していた。
ソファーから転がり落ちたあの後。
ソーマともつれ合って、唇を重ねた……はずだったのが?
「ユナ、ごめん!」
そして、その時だった。
テーブルから離れたソーマが、いきなり両膝を床についてユナに頭を下げた。
「ちょっ……ソーマくん!?」
「俺、ユナに乱暴なコトをして……ユナがソファーから落ちてグッタリした時も、どうしていいかわかんなくて!」
「え、あ、あ???」
ユナは混乱して目をパチパチさせる。
昨日の夜。
ソファーの上で取り乱したソーマ。
床に転げた2人。
ソーマと交わしたキス。
たがいに求め合った2人。
そして気がついたら、ユナを押し倒していた全裸のおかしな女。
……全部ユナが見た、夢だったのだろうか?
「本当はすぐに病院に電話するべきだったんだ! でもユナにあんなことしたわけだし俺、急に怖くなっちゃって……!」
腹の底から絞りだすような声で、ソーマはユナに謝った。
「そ……ソーマくん、もうやめてよ! それにほら、先にあんなコトしたのは、わたしなわけだし……それに……」
ユナは、膝をついたソーマに駆け寄って静かに首を振った。
ユナがソーマを心配して口をついた言葉は、必要以上にソーマを混乱させてしまったようだ。
ソーマの顔をのぞきこんだユナの目が、ソーマの何かを駆り立ててユナに乱暴なことをさせてしまったのだ。
ユナは自分に、そう言い聞かせた。
もう過ぎたことだし……許してあげる。
それにユナは……あの時たしかに、ソーマを受け入れていたのだ。
でも……。
ユナはソーマの肩を抱きながら、幽かな不安にかられる。
ユナの言葉は、いったいなぜソーマを怯えさせてしまったのだろう。
ユナの目は、いったいソーマの中の何を、そこまで掻き乱してしまったのだろう。
ユナには見当もつかなかった。
それでも……。
ユナは理由のわからない不安を振り払うように、ソーマに微笑みかけた。
「ソーマくん。寝ているわたしに何もしなかったでしょう? それともほんとは……」
「あ、あ、あたりまえだろユナ! いくら俺でも、寝てるユナにそんなこと……するわけねーだろっ!」
クス……。
真っ赤になった顔を上げて、必死に言い訳するソーマを見て、ユナは小さく吹き出していた。
「わかってるって。ソーマがわたしにそんな事するはずないって……ソーマがわたしに嘘なんか……つくはずないって……」
「ユナ……?」
そして、コツン。
ユナのおでこが、顔を上げたソーマのおでこに重なった。
ユナの目と鼻と唇が、ソーマのすぐ目の前に来た。
「だらしなくても、ちょっとビビリでも……わたしは……ソーマのこと信じてるから。だからソーマも、ずっと今のままのソーマでいて……!」
「あ、あ、あたりまえだろユナ。俺はずっと、俺のままだ。ユナの知ってるいつもの俺さ……!」
「うん、知ってる……」
ユナの肩に手をかけて。
ソーマはユナから、静かにおでこを離した。
ユナは頬を薔薇色に染めて、コクッとソーマにうなずいた。
「さ、ソーマくん。食べよう朝ごはん。せっかく作ってくれたんだしさ……って!?」
立ち上がったユナがリビングの時計を見て悲鳴を上げた。
朝の9時をとっくに回っている。
「わっ! まずい、学校、遅刻、1時限目……!」
「なに言ってんだよユナ……」
慌ててバタバタ。
トートバッグの中身をまとめ出すユナに、ソーマは呆れ顔で声をかける。
「今日は、創立記念日だろ?」
「あ……そうだった……」
ユナは拍子抜けしたように、ソファーに座り込む。
今日は聖ヶ丘中学校の創立記念日。
学校は休みだった。
昨日からいろいろあり過ぎて、記憶が混乱している。
ユナは頭を振ってソファーから立ち上がった。
ダイニングテーブルでは、ソーマが2つ用意したマグカップにコーヒーを注いでいた。
#
「ごちそうさまでした……」
「んー。初めてにしては、なかなかのものねソーマ。星5つで、味付け3盛り付け3焼き加減2ってとこかな……」
朝食が済んだ。
ソーマのベーコンエッグを食べ終えたユナが、コーヒーを飲みながらソーマにニッコリ。
「な、なんだよユナ。急に先生みたいにさ……」
初めて作った自分の料理を寸評されたソーマが、居心地わるそうに口を尖らせた、その時だった。
ピンポーン……。
玄関のチャイムが鳴った。
「しまった……もうこんな時間か……コウだ、忘れてた!」
親友とかわした休日の約束を思い出して、ソーマは小さく声を上げた。
#
「うう……」
氷室マサムネが目を覚ますと、そこは穏やかな朝日の差し込んだ病院の一室みたいだった。
マサムネは、リネンのベッドからゆっくりと上体を起こした。
「ここは……医務室……僕は……!?」
マサムネは頭を振りながら、自分のおかれた状況を整理する。
簡素なベッド。
体の各所に取り付けられた電極装置。
マサムネの体調をモニタリングして瞬くディスプレイ。
いまマサムネがいるのは『研究所』の医務室のようだった。
あの時、僕は……!
マサムネはクロスガーデンの異界者との戦いを思い出す。
標的をおびき出すまき餌を次々に始末しながら。
もう少しで標的を仕留めることができた。
だが……! マサムネは歯がみして、忌々しげに顔を歪めた。
とつぜん姿を現した、別種の異界者たち。
紅色の髪をなびかせた少女の放ったおぞましいヘビの群れが、部隊を混乱に陥れた。
そして銀色の戦槌を振り上げた金髪の少女の放った眩い輝き。
行動不能に陥った部隊の中からどうにか立ち上がって。
標的を目前にして……そこでマサムネの記憶は途絶えていた。
「くそっ!」
ドンッ!
マサムネはベッドの脇のサイドテーブルに、自分の拳を思い切り叩きつけた。
一般市民にあれだけの犠牲者を出した標的を、マサムネたちは取り逃したのだ。
あれだけの兵士を投入して。
あれだけの装備を用意して。
結局マサムネたちは、異界者の虐殺を止めることが出来なかった。
怪物災害を食い止めることが出来なかったのだ。
これではまるで、あの時と一緒じゃないか。
マサムネは目を閉じて唇を噛みしめる。
8年前のあの日。マサムネが最も大事な人を失ったあの時と……!
いや、問題はそれだけではなかった。
マサムネは罪の意識に苛まれる。
自分たちが招いた結果の恐ろしさに肩を震わす。
マサムネたちの標的。
あの銀髪の異界者をおびき出すためにまき餌を使うことを決めたのは、この計画の責任者だった。
マサムネの父親、氷室カネミツ本人なのだ!
「危険は無い。奴らの操るデコイは統制が取れている。市民に死者が出ることはない。被害も最小限で済む。この計画の完成には、どうしても必要なことなのだマサムネ……」
作戦の全貌を知らされた時。
戸惑うマサムネに、彼の父カネミツは落ち着き払った声でそう言った。
父親の『計画』……彼の悲願。
『魔法消滅システム』の完成。
その計画を阻む異界者を見つけ出して殲滅する、有効かつ唯一の手段。
それが今回の作戦だ……カネミツはマサムネにそう説明した。
だがマサムネは知っていた。
父親自身もその言葉を信じていないことを。
声は冷静でも、目がマサムネの顔をまっすぐ見ていないことを……!
「父さん……!」
マサムネはベッドのシーツを握りしめて、かすれた声を上げた。
カネミツはいったいどうしてしまったのだろう。
『計画』の完成を目前にして、ひどく焦っているように見える。
異界者の駆逐、怪物災害の消滅。
魔法の暴走による災害が絶対に起き得ない世界。
父親の願いは、マサムネも十分わかっているつもりだった。
8年前のあの日以来。
父親もマサムネも、思いは同じはずだった。
でも、それなのに……!
「あいつら……」
マサムネは呻く。
彼は知っていた。
もう3年以上前から、父親と通じている者たちの存在を。
カネミツは『むこう側』の世界の連中と、取引をしていたのだ。
カネミツとマサムネが、最も憎んでいる存在……異界者たちとの取引を!
あいつら……あいつ!
父親に近づき、銀髪の標的の抹殺を進言してきたのもあいつだった。
あの女……緑の目のメイローゼ!
人間の姿をしていても、いまのマサムネの目には、ハッキリと見て取れた。
父親に取り入るあの女の、黒衣の下に隠された異様な姿が。
美しい顔に妖しい笑みを浮かべて父親をそそのかす、あの女の本当の姿が!
夕刻のクロスガーデンに、突然姿を現した撒き餌……。
ガーゴイルやゴーレムたちも、あの女の手によるものなのだ。
クロスガーデンの虐殺は、彼の父が……マサムネたちが招いたようなものだった。
その時だった。
「マサムネ! 目を覚ましたかマサムネ……!」
ガランッ!
医務室の扉を勢いよく開けて、声を震わせながらマサムネに歩み寄る人影があった。
「父さん……!」
マサムネは声を詰まらせる。
やってきたのは、彼の父。
氷室カネミツだった。
そして……!
「マサムネ様。ご無事で何よりでした……」
医務室の戸口の陰から、低いがよく通る女の声がした。
ユラリ……。
まるで黒い影法師みたいに。
カネミツのすぐ背中から、1人の女が部屋に入って来た。