眠れない夜
ジーー…………
ユナの黒い瞳が、まっすぐにソーマを覗き込んでいた。
「ど、どしたよユナ……?」
ソーマはタジタジになって小さな声をもらす。
ショートレイヤーにまとめた綺麗な髪。
薔薇色の頬。
プリッとした唇。
全部がいま、ソーマの目と鼻の先。
近い。顏近いユナ……!
ソーマは慌ててユナにそう言おうとするが……。
「ユナちkフグッ……!」
ソーマの言葉が、封じられた。
ユナが自分の掌を、ソーマの頬に添えたから。
「ソーマくん。なんだか変わったね……」
「か、変わった……?」
「本当に、なんかソーマくんなのに、ソーマくんじゃないみたい」
すべらかな指先でソーマの頬に触れながら、ユナはソーマを見つめていた。
「ユナ……!」
そしてソーマは気づいた。
ユナの瞳の中に潜んだモノに。
ユナの震える唇の理由に。
いまユナの内から湧き出しているのは、強烈な不安だった。
「最近のソーマくん、なんだかずっと何かを隠して……我慢してるみたい……」
我慢してる……?
俺が!?
ユナの言葉にソーマは戸惑う。
2日前に起きたソーマの変化。
ルシオンとの出会い。
彼女との「合体」。
そのことに、ユナは気づいているのだろうか……!
「ハハ……なに言ってるんだよユナ。俺が我慢なんてさ」
……まあたしかに、我慢のし通しだった。
勝手気ままなルシオン。
わがままで、意地っ張りで、それでいて泣き虫の、あの魔王の娘には。
ソーマのストレスが、ユナに気づかれてるのも無理ないかも……。
ソーマは、ユナの言葉を整理する。
ユナの心配に答えられるように、いつもみたいな上手い言い訳を考える。
でも……!
「リンネさんが入院してから、ずっとずっと。ソーマくん、1人で何かを抱え込んでいて……まるでどんどん、ソーマくんじゃなくなっていくみたいで……!」
「…………!?」
ユナの言葉に、ソーマの体がこわばった。
ユナの声が震えていた。
引き裂かれるような切実さがこもっていた。
「ユナ……!」
ソーマはユナを見つめる。
頭の中で、ユナの言葉が木霊みたいにリフレインする。
体の中が、カッカと暑い。
目の前がグラグラする。
それでいて、ソーマを見つめる張り詰めたユナの顏だけがハッキリと見てとれる。
見ないでくれユナ……。
ソーマの喉から、かすれた息が漏れる。
声が、声にならない。
ソーマが1番覗かれたくなかった何かが、ユナの綺麗な瞳にハッキリ覗かれているみたいな。
悲しいような、いたたまれないような、ソーマの胸を突き上げる激しい感情で!
「ねえ、なにか困っていることがあったら言って。わたしで役に立てることがあったら、なんだって言って。だってソーマは……」
ソーマの耳元に顔を寄せて、ユナはそう囁く。
「ソーマはわたしの、大事な人だから……!」
「……ヒグッ!」
ユナの言葉に、ソーマの顏がひきつった。
――ソーマ。
――大事なソーマ。
――わたしだけのソーマ……!
不意にソーマの耳元を、誰かの声がよぎった。
ソーマの鼻孔の奥を、甘い花の香がかすめた。
「うああっ!」
「ソーマくん……!?」
ソーマはパニックに陥る。
震える手でユナを振りほどこうともがいた。
ユナの体の温もりが、ソーマの何かを暴きたてる。
ユナの手触りが、ソーマの内の何かをさらけ出す。
そんな強烈な不安に襲われて。
「ソーマくん! ソーマくん! 大丈夫だから……!」
ユナは、暴れるソーマにすがりついていた。
ソーマを見つめて、たまらなく悲しげなユナの顏。
ガタン。
ソーマとユナの体が、ソファーから転げ落ちた。
2人の身体が、リビングの床でもつれ合った。
「ユナ……」
「ね、大丈夫でしょ? 落ち着いてソーマくん……!」
ソーマは我に返って、ユナの顔を見る。
ユナは両目からポロッと涙をこぼしながら。
それでもニッコリ笑ってソーマの頭をなでた。
ユナ……。
ユナ……!
ソーマは困惑する。
体中にジンワリ広がっていく、暖かな感触。
頭の中が痺れるみたいだった。
ソーマはそのまま、ユナから離れなかった。
ソーマの手が、クシャクシャになったユナのワンピースの上から彼女の胸に添えられていた。
柔らかな手触りを通じて、ユナの体温が、ユナの鼓動が、ユナの息遣いがはっきりソーマに伝わって来る。
「ユナ……?」
「……ウン。いいよ、ソーマくんなら……!」
頬を赤らめながら、ソーマの問いにユナはコクッとうなずいた。
「ユナ! ユナ! ユナ……!」
「ううッ……ハァア……ソーマくん!」
ユナの感触。
ユナの体温。
ユナの匂い。
ユナの汗。
頭の中が、真っ白な光で満たされていくみたいだ。
自分の頭をよぎる何かの記憶を振り払うみたいに!
自分の耳を掠める誰かの声を聞かないみたいに!
自分の体に刻まれた強烈な感触を消し去るみたいに!
ソーマはただ、目の前のユナの唇を求めた
……ハフッ!
ソーマとユナは、唇を重ねた。
「ソーマくん……ん……うぅ、ソーマくん!」
両目を閉じて髪を振り乱して、整った顔を薔薇色に上気させて、ユナがソーマの名前を呼んだ。
その時だった。
ムニュ……
ソーマの体とユナの体を、柔らかくて丸い何かが隔てて分けた。
ん……ムニュ???
ソーマは急にあらわれたふくらみに首をかしげた。
それはユナの胸ではなかった。
ユナとソーマの体を押し返すおかしな弾力に気づいて、ソーマは両目を開けた。
「これは……!?」
ソーマは、自分の体の変化に気づいた。
ユナを抱き締めたソーマの手。
ユナの柔らかさが伝わってくるその手が……自分のものじゃない。
それは白くてたおやかな、少女の手だった。
ソーマの体をユナから押し返しているのは、ソーマの胸の2つの膨らみ。
ユナを求めて、ユナの口を吸っているのは、ソーマのものとは違う柔らかな唇。
いまユナを押し倒してユナと体を重ねているのは、輝くような銀髪をした美しい少女の体。
ソーマの体が、生まれたままの裸のルシオンの体に戻ってしまっている!
「う……おおおおわあ!」
「ん……ソーマくん?」
ソーマのあげたカン高い悲鳴に、ユナが目を開けた。
ユナの黒い瞳が、目の前で呆然とする少女のいまのソーマの顔を、ハッキリ覗きこんでいた。
「キャアアアアッ! なんなのあなた!?」
「まて、ユナ、これはそのあの……!」
ユナが悲鳴を上げて、ソーマを押し返す。
小柄な少女になったソーマの体が、ユナの手で突き飛ばされる。
「いつのまに……? ソーマくんはどこ? 泥棒? ストーカー? 変質者……!」
ユナがワナワナ震えながら床から立ち上がって、裸の少女をにらんだ。
肩のはだけたワンピースをピシッと直して、用心深くリビングを見回している。
ソーマの姿を探しているのだ。
「たいへんだ……警察、警察よばないと!?」
「まってくれユナ! 違う、これには色々ワケが……!」
ソーマがリビングから消えていることに気づいたユナが、取り乱して自分のトートバッグに飛びついた。
中身を空けてスマホを取り出し、警察に通報しようとしている!
裸のルシオンのままのソーマが、ユナを止めようと彼女に駈け寄ろうとした。
その時だった。
「あて身」
「はうっ……!」
ドスッ!
いつの間にかユナの背中に立っていた誰かの声と同時に、ユナが悲鳴を上げた。
ユナの体がリビングの床に倒れこんだ。
「わーっ!? ユナ!!!」
ソーマは慌ててユナに駈け寄る。
気を失っているのだろうか、目を閉じたまま床から起き上がってこない。
「フー。危ないところでした……」
「コゼット……!?」
ユナの背中に当て身をくらわせた者の姿を見上げて、ソーマは息を飲んだ。
立っているのは、輝くような金髪ロールのメイド姿をした少女。
さっきまで家の中から姿を消していた、ルシオンの侍女コゼットだった。
コゼットの細い腕から放たれた技が、ユナを失神させたのだ。
「コゼット! なんてことするんだ!?」
「ルシオン様の姿を見られましたね……」
ユナを抱き上げてコゼットをにらむソーマ。
コゼットは、気絶したユナの顔を見て困ったように首をかしげた。
「この方を生かしてはおけません。始末して山に埋めましょう……」
「ちょ……!? なに言ってるんだ。ダメダメダメダメ絶対ダメだ!」
コゼットが、笑顔でサラリと恐ろしいことを言う。
ソーマはユナの体を庇いながら、必死でコゼットにそう叫ぶ。
「ユナには俺が……上手く説明するから! ルシオンのこともコゼットのことも誰にも言わないから絶対!」
「……というのは冗談ですよソーマ様。しかし困りましたね……」
ぜんぜん冗談に聞こえない声で、コゼットはソーマに答える。
コバルトブルーのコゼットの瞳が、ルシオンの裸の体を見つめていた。
「魔王の眷属であるルシオン様の転身は、清らかな乙女やケガレを知らぬ少年の口づけを受けると、その場で強制的に解除してしまうのです……」
「変身が解けた? 俺がユナとその……『キス』したから……!?」
コゼットの言葉に、ソーマは呆然としてルシオンになった自分の体を眺めまわす。
ユナとキスをかわしたせいで、変身が解除されてしまったというのだ。
「はい。戦闘服、宮廷服、舞踏服……そしてソーマ様のお姿もまたルシオン様の転身の1形態であることを忘れてはいけません。まったくソーマ様も気をつけていただかないと。わたくしが外出してるスキに、ご学友と……ユナさんとあんなコトをイタしていたとは……」
「い……イタしてとか、そうゆうんじゃねーし!」
少し説教モードのコゼットの声に、ソーマは首を振って言い訳する。
まだ胸がドキドキする。
顔がカッカと熱い。
最初からユナに、あんなことをするつもりは無かった。
ユナがソーマを見透かすようなことを言うから。
混乱してしまった。
そしてユナがソーマを受け入れてくれたから。
自分で自分を、押さえきれなくなった。
「ユナ……ごめんな」
ソーマは気を失っているユナを抱き上げて、ソファーの上に寝かす。
クシャクシャになったユナの黒髪を撫でて、綺麗にまとめる。
ユナは、ソーマのことを心配してくれていたのだ。
目を瞑り眠るユナの額にそっと手を添えて、ソーマはため息をついた。
それにしても……!
ソーマはルシオンのたおやかな少女の手を、うらめしい目で見つめる。
キスをすると、ルシオンの体に戻ってしまうなんて!
じゃあもう、この先もユナとは絶対……?
「コゼット……」
「はい? ソーマ様」
ソーマは、かたわらに立つコゼットに声をかける。
「俺たちの体、もう元に戻らないのかな。俺とルシオンは、この先もずっと……?」
「うーん、それは何とも……?」
ソーマの質問に、コゼットは困り顔でそう答えた。
「ソーマ様の元の体はルシオン様に吸収された……ハズでした。でもそうではなかった。理由はわかりませんがソーマ様の存在はソーマ様として、ルシオン様の中で生き続けています。そうですね、ひょっとしたら……」
「ひょっとしたら?」
コゼットの言葉にすがるように、そう訊き返す。
「ソーマ様の溢れる魔素を糧にして、ルシオン様の肉体が完全に回復したならば、ソーマ様とルシオン様の存在を再び『切り離す』ことも出来るかもしれません」
「『切り離す』! 俺とルシオンを……!?」
コゼットの言葉に、ソーマの声が明るくなる。
「はい。ですがまあ『こちら側』の世界では無理でしょう。術者も設備もまるで無いのですから。深幻想界に戻って、インゼクトリアのドクター・ネイル級の名医に処置してもらわないことには……」
「そうか……どっちにしてもスグには無理ってことか……」
コゼットの返答に、ソーマはカクッと肩を落とした。
にしても、ルシオンとコゼットの故郷か……。
ソーマはコゼットの顔を見る。
彼女たちの生まれた国に、思いを馳せる。
深幻想界のインゼクトリア。
いったいどんな場所で、どんな住人たちが住んでいるのだろう。
「ところでさコゼット……」
ふと、ソーマはあることが気になってコゼットに尋ねた。
「さっきからずっと家に居なかったみたいだけど、何処に行ってたんだよ?」
眠り続ける主のルシオンを放っておいて。
コゼットはルシオンとソーマのそばから姿を消していたのだ。
「はいソーマ様。わたくしはわたくしで、あのあと調べ事をしていたのです。ソーマ様。明日、向かっていただきたい場所があります……!」
「調べ事……?」
妙に力強いコゼットの口調に、ソーマは首をかしげた。
#
「ああ、この腕はダメだ。もうくっつかない……」
人気のない夜の河川敷だった。
夜の闇を、冷たい前照灯や車窓から漏れ出るあかりがゴウゴウと切り裂きながら列車の行きかう高架橋。
その橋の下の砂利道に腰を下ろして、恨めしげな声を上げる1人の男がいた。
その長身にまとった真っ黒な燕尾服。
目深にかぶった山高帽。
骨ばった青白い顔。
男は食屍鬼のリュトムスだった。
リュトムスは千切れた左の腕を、自分の右手でどうにか自分の身体に接合しようとしていた。
だがその努力も無駄に終りそうだった。
ルシオンにもぎ取られた右腕はどうにかくっついたが、左腕の方はズタズタになり過ぎて腕の形をとどめていないのだ。
「仕方ない。新しい腕を探すとしますか……」
リュトムスはため息をついてそう呟き、河原から立ちあがった。
その時だった。
「リュトムス! プリエル! きさまら一体、どういうつもりだ!」
低いがよく通る女の声が、河川敷に響いた。
女の声が怒りで震えていた。
「これはこれはメイローゼ殿。先ほどはどうも……」
リュトムスは声の主を向いて、慇懃にお辞儀をした。
闇の向こうに立っていたのは、緑色の瞳を怒りでギラギラさせた黒衣のメイローゼだった。